注連縄が幾重にも巻き付けられた巨大な鳥居。その境界を一歩踏み越えた瞬間、鼓膜を震わせていた吹雪の咆哮が、まるで魔法にかけられたかのように止んだ。
そこは、外界の理から完全に隔絶された、神域と呼ぶに相応しい空間であった。大正の冬、本来であれば氷土に覆われ、生命の気配すら凍りつくはずの山頂付近。しかし、目の前に広がる光景は、人知を超えた美しさに満ちていた。
足元には、雪の下から芽吹いたばかりのような、瑞々しい若草が絨毯のように広がっている。空気は凛として冷たいが、そこには人を拒絶する刺々しさはなく、むしろ肺の奥まで清められるような澄んだ透明感があった。
幾千もの歳月を生き抜いてきたであろう巨木たちが、空を覆うように枝を広げ、その隙間から零れ落ちる陽光が、地面に幻想的な斑模様を描き出している。
「……暖かい。ここは、本当に冬の山なのですか……?」
詩乃の唇から、驚嘆の吐息が白く溢れ出した。
風に乗って運ばれてくるのは、どこか懐かしく、そして魂を震わせるような睡蓮の香り。帝都を覆う石炭の煤煙や、自分を「呪われた異能者」と呼ぶ人々の冷酷な視線、それらすべてがこの場所には届かない。ここは、彼女の母・咲良がかつて語り、託した「源流」そのものだった。
しかし、その安堵の瞬間、詩乃の隣で彼女の細い肩を抱きかかえていた大きな体が、唐突に重みを増した。
「……朔也様!?」
詩乃は悲鳴に近い声を上げ、崩れ落ちそうになる朔也の体を、自らの小さな体ですべて受け止めようとした。
朔也は膝をつき、肩を激しく上下させながら、荒い呼吸を繰り返している。彼の黒いマントは、吹雪の中で詩乃を守り抜くために、凍てついた雪と自身の鮮血が混じり合い、無惨に引き裂かれていた。その顔色は、かつての不遜なまでの美しさを失い、幽鬼のように青ざめている。
「案ずる……な。ただ、少し……気が緩んだだけだ」
朔也は途切れ途切れにそう告げ、力なく微笑もうとした。
だが、その視線はすでに焦点を結ぶことすら危うい。彼は帝都を脱出したあの日から、一瞬たりとも詩乃から目を離さず、自らの睡眠や食事を削り、体力を文字通り削り取ってでも彼女を最良の環境で護り続けてきた。黒峰家の当主としての強靭な意志と、詩乃への狂おしいほどの溺愛。その2つだけが、彼の限界をとうに超えた肉体を突き動かしていたのだ。
「そんな……。私のために、こんなになるまで。……ずっと、ずっと無理をさせていたのですね」
詩乃は涙を溢れさせ、ボロボロになった朔也の背中に腕を回し、必死に彼を抱きしめた。
彼の体は驚くほど冷え切っており、一方で心臓だけが、壊れかけた機械のように激しく動いている。詩乃は、彼のような強い人が、自分のためにこれほどまでにボロボロになるまで守ってくれていたことに胸が張り裂けるような思いだった。
「朔也様。今度は、私があなたを守ります。……だから、もう大丈夫です。ここは安全です」
詩乃は、朔也の頬を両手で包み込み、そっと自らの額を彼の額に合わせた。
その瞬間、詩乃の胸の奥で、母・咲良から受け継いだ「睡蓮」の力が、これまでになく優しく、しかし抗いようのない力強さで脈打った。
詩乃の体から、淡い白金色の光が溢れ出す。それは、敵を凍らせる暴力的な力でも、周囲を拒絶する拒絶の波動でもない。ただ、愛する人の痛みを分かち合い、その傷を包み込むような、純粋な「浄化と癒やし」の光であった。
朔也の傷ついた肺に、冷え切った四肢に、そして張り詰めすぎていた神経の末端に、詩乃の愛が染み渡っていく。
「……詩乃……お前の、光……」
朔也の瞳に、わずかながらの生気が戻り始める。彼は詩乃の腕の中で、初めて深い、深い安堵の溜息を吐いた。
神域の最奥、そこには水晶のように透き通った「源流の泉」が、静かに水を湛えていた。
詩乃に支えられ、ようやく歩みを進めた朔也は、その泉のほとりで詩乃と共に腰を下ろした。
周囲の岩肌からは、絶えることなく清らかな水が湧き出し、泉の表面を微かに揺らしている。泉の底には、光を放つ不思議な小石たちが沈み、まるで水底に星空が閉じ込められているかのようだった。
「……美しいな。まるでお前そのもののようだ、詩乃」
朔也は詩乃の手を引き、自分の膝の上に彼女を座らせた。
体力がわずかに回復したことで、いつもの気高く、しかし詩乃に対してだけは狂おしいほどの甘さを孕んだ眼差しが戻っている。彼は詩乃の細い腰を抱きしめ、彼女の首筋に深く、深く顔を埋めた。
「朔也様、まだお体が……。無理に動いては、また……」
「いいんだ。こうしてお前の香りを吸い込んでいる時が、俺にとっては何よりも強い薬になる。……お前が生きている。お前が俺の腕の中にいる。それだけで、俺の魂は満たされるんだ」
朔也の低い声が、詩乃の耳元で心地よく響く。
彼は詩乃の長い髪を指に絡め、愛おしげに口づけを落とした。その手つきは、まるでこの世で最も脆く、そして最も尊い宝物に触れるかのように慎重で、情熱的だった。
「詩乃。維信は捕らえられたが、外の世界はまだ、お前を『強大な異能』として、あるいは『支配すべき対象』として狙っている。……だが、俺は改めてここで誓おう。この源流の地で、お前が自分自身の力を完全に掌握し、誰にも脅かされない強さを手にするまで、俺が世界をこの地から遠ざけてやる。……お前は、誰の所有物でもない。お前はお前自身であり、そして、俺の生涯唯一の伴侶だ」
詩乃は、朔也の逞しい胸に顔を埋め、彼の心音を聴いた。
「はい。……私も、もっと強くなります。朔也様の隣に、胸を張って並べる女性になりたい。……あなたを支え、あなたと共に歩む、本当の黒峰の妻に」
二人は、黎明の光が差し込む泉のほとりで、幾度も、幾度も唇を重ねた。
大正という激動の時代。家柄、権力、そして異能という歪な力に翻弄されてきた二人が、初めて自らの意志で選んだのは、地位でも名誉でもなくただ一人の人間として愛し合うという「自由」であった。
一方、その頃。
静寂と慈愛に包まれた源流の地とは対照的に、帝都は出口のない暗澹たる渦中にあった。
帝都監獄、石造りの冷たい壁が連なる独房。
そこには、かつて異能者たちの頂点に立ち、数多の人間の運命を弄んできた花守維信が、影のように座していた。
逮捕という屈辱を味わいながらも、その顔には微塵の衰えもなく、むしろ、何らかの巨大な「答え」に辿り着いた者のような不気味なまでの静謐さが漂っていた。
カツン、カツンと、硬い軍靴の音が廊下に響き、鉄格子の前で止まる。
「……ほう、わざわざこのような場所に足を運んでくるとはな、遠藤大佐。……いや、今は参謀本部の重鎮、とお呼びすべきか」
維信は、独房の隅から冷徹な眼差しを向けた。
現れたのは、冷酷な軍服を纏った遠藤大佐であった。彼は革手袋をはめた手で鉄格子を握り、中の維信を見下ろした。
「維信殿。貴公が逮捕されたことで、帝都の異能の均衡は完全に崩壊した。……黒峰の当主は家を捨てて逃亡し、花守詩乃の身柄も行方不明。……だが、軍としては、あの娘を放置しておくわけにはいかないのだ」
大佐は、低い声で続けた。
「あの娘の中に眠る『睡蓮』は、我が帝国の軍事力を根底から変え、列強諸国に対して絶対的な優位に立つための至宝。あれは、一人の男が溺愛して隠し持つような、小さな愛玩的価値にとどまるものではない。国が、軍が管理し、真の『力の象徴』として完成させるべきものだ。……維信殿、貴公が長年蓄積してきた実験データ、そのすべてを我らに供出してもらいたい」
維信は、暗闇の中で、歪な口角を吊り上げた。
「……兵器だと? 貴様のような凡夫には、あの力の真価は到底理解できまい。……あれは所有するものを選ぶ力。そして、所有する者を狂わせる力だ。精々、追いかけてみるといい。黒峰の狂犬が、そう簡単に愛玩物を手放すとは思えんがな」
同じ夜。帝都の社交界の裏で、着実にその勢力を拡大させている場所があった。
霧ヶ原家の本邸。咲良の実家であり、維信の逮捕によって空席となった「異能の権威」の椅子を虎視眈々と狙う、血族たちの拠点である。
「……軍の大佐が、詩乃を『軍事資源』として求めているようですが」
透士が、冷ややかな瞳で、父であり当主の宗久に問いかけた。
「……愚かなことだ。あんなにも美しい『霧ヶ原の最高傑作』を、無機質な弾丸や毒薬と同列に扱おうなどと。……軍部は力を『数』で管理しようとするが、我ら血族は、それを『血の純度』で管理する」
宗久は、高価なブランデーのグラスを揺らし、その香りを愉しんだ。
「詩乃は、維信の狂気によって汚されたとはいえ、紛れもなく霧ヶ原の血を引く者。……彼女を黒峰の腕から連れ戻し、我ら霧ヶ原の正当な『財産』として、再び檻に入れる。……そして、透士、お前と彼女を婚姻という名の契約で縛り上げる。それこそが、霧ヶ原家が帝都の頂点に返り咲くための、唯一にして絶対の道だ」
透士は、父の言葉に満足げな微笑みを浮かべ、闇を見つめた。
「花守詩乃に会うのが楽しみになりました。……お任せください、父上。彼女を、霧ヶ原の庭で最も美しく咲かせてみせますよ」
軍部、そして血族。
それぞれの身勝手な欲望と、詩乃を『所有し管理する』という歪んだ論理が、静かに、しかし確実に牙を剥き始めていた。
夜が明け、源流の地には、一点の曇りもない青空が広がっていた。
朔也と詩乃は、泉のほとりに立ち、昇る朝日を全身に浴びていた。
「行こう、詩乃。……ここからが、俺たちの本当の戦いだ」
朔也が差し出した手を、詩乃は一瞬の躊躇もなく、力強く握り返した。
自分たちを狙う軍部の影がこの禁足地の平穏をいつか破りに来ることは、二人とも覚悟していた。
しかし霧ヶ原家という、血族たちもまた詩乃を管理しようとしてるのを二人はまだ知らない。
母の無償の愛を知り、己の運命を自らの手で選び取った詩乃。
そして、地位や名誉といったすべての虚飾を捨て去り、ただ一人の女性を守り抜く決意を固めた朔也。
この二人の生き方と霧ヶ原家の思想とそして軍の歪んだ正義との3つ巴の戦いが始まろうとしていた。
「はい、朔也様。……どこまでも、あなたと共に。……私が、私として咲くために」
黎明の光が、二人の行く先を白金に染め上げていく。
それは、詩乃の力が完成しこの国の異能の在り方を……そして時代そのものを根本から覆すまでの長く険しい、けれど希望に満ちた物語の静かなる胎動。

