朝の雑務を終える頃には、
花守邸の庭には太陽の光が差しはじめ、
夜露がゆっくりと蒸気になって消えていった。
詩乃は洗い場の前で、濡れた手をそっと袖で拭った。
華澄の着物に付いた泥を落とす作業は、
もう何度目か分からない。
(……外に出られる時間、少しだけでも欲しいな)
そう思うのは、わがままなのだろうか。
食堂で立たされる毎日よりも、
外の雑用に駆り出される方が、
詩乃にとってはまだ息がしやすかった。
使用人の妙(たえ)が、気遣わしげに声をかけてくる。
「詩乃様……お加減、悪くはありませんか?」
「大丈夫です。
いつものことですから」
「……“いつものこと”で済ませてはいけないんですけれどね」
妙はそう呟きながら、
詩乃の手の甲についた細かな傷を指先で示した。
華澄が機嫌を損ねると、
物に当たり散らし、その片付けを詩乃にやらせる。
結果、詩乃の手にはいつも細い傷が増えていた。
「……慣れていますので」
詩乃は笑おうとしたが、妙は目を細めて首を振る。
「慣れていいことなんて、この家にはありません」
その一言が胸に刺さる。
(……本当は、誰よりも分かっているのに)
花守家に生まれたのに、
“家の力の源”となる花弁が宿らなかった娘。
その烙印は、詩乃の肩にずっと重くのしかかっていた。
昼過ぎ、用件で外の街へ向かうよう父に言い渡された。
華澄のための品物を取りに行くついでに、
書類を役所に届けるという用事だった。
使用人の同行は許されない。
(……一人で外に出るのは久しぶり)
門をくぐり、表通りに足を踏み出した瞬間、
詩乃の胸の奥がふっと軽くなった。
家の中では常に押しつぶされそうな空気だったのに、
街の喧騒はなぜか心地よい。
行き交う人々のざわめき、
商人たちの呼び声、
遠くから聞こえる電車の音。
そのどれもが、自分が“存在してもいい”と
許されているように感じた。
(……あたたかい)
そんな感覚を覚えたのは、いつ以来だろう。
だが、束の間の安らぎは突然終わる。
帰り道、狭い路地に入った瞬間。
空気が、ひりつくように冷えた。
背筋がぞわりとする。
胸の奥が、なぜか痛む。
(……なに、これ……?)
見上げると、
路地奥の影が揺れていた。
まるで生き物のように、ゆらり、ゆらりと。
──禍神(まがつかみ)の気配。
詩乃には見えるはずのない“黒い泡のような影”が、
濁った呼気のように溢れている。
(わたし……こんなものを、感じたことなんて……)
恐怖が足元から這い上がる。
足が震えて動かない。
その時――胸の奥が熱を帯びた。
(え……?)
胸骨の裏、心臓のあたりに、
小さな光が、ふっと灯ったような感覚。
ほんの一瞬。
だけど、確かに感じた。
路地の影がわずかに後退するような揺らぎを見せ、
次の瞬間、風が吹き抜けるようにスッと消えた。
(……今のは……何?)
息を荒くして壁にもたれかかった詩乃は、
胸に手を当てた。
そこはまだ、じんわりと温かかった。
(体がおかしくなったのかもしれない……)
そう思いながらも、
詩乃は気づかない。
その瞬間だけ、
詩乃の胸の奥で“花灯”が微かに光を漏らしていたことに。
その光は、まだ花弁の形にもならない、
ごく小さな“気配”にすぎなかったが。
彼女が初めて感じた、異能の胎動だった。
夕方、家に戻ると、
華澄と美鶴の声が廊下まで響いてきた。
「遅かったわね、詩乃。
華澄の髪飾り、ちゃんと受け取ってきたでしょうね?」
「……はい。こちらに」
「本当に、使えない子ね。
華澄ならもっと早く戻っているわ」
美鶴の嘲りに、詩乃は黙って頷いた。
けれど心の奥には、
先ほど胸に灯った“微光の感覚”が残っていた。
あれは、いったいなんだったのだろう。
胸の痛みも、あの影の気配も。
そして自分の中に残った、
不思議な温もり。
(……どうして、こんな気配を感じたのだろう)
詩乃は答えの出ない疑問を抱いたまま、
夕日の差す廊下を静かに歩いた。
その横顔は、
誰にも気づかれない小さな変化を秘めていた。
そして、この“微光”こそが──
彼女の運命を変える最初の兆しとなる。
まだ詩乃自身は、何ひとつ知らないまま。
花守邸の庭には太陽の光が差しはじめ、
夜露がゆっくりと蒸気になって消えていった。
詩乃は洗い場の前で、濡れた手をそっと袖で拭った。
華澄の着物に付いた泥を落とす作業は、
もう何度目か分からない。
(……外に出られる時間、少しだけでも欲しいな)
そう思うのは、わがままなのだろうか。
食堂で立たされる毎日よりも、
外の雑用に駆り出される方が、
詩乃にとってはまだ息がしやすかった。
使用人の妙(たえ)が、気遣わしげに声をかけてくる。
「詩乃様……お加減、悪くはありませんか?」
「大丈夫です。
いつものことですから」
「……“いつものこと”で済ませてはいけないんですけれどね」
妙はそう呟きながら、
詩乃の手の甲についた細かな傷を指先で示した。
華澄が機嫌を損ねると、
物に当たり散らし、その片付けを詩乃にやらせる。
結果、詩乃の手にはいつも細い傷が増えていた。
「……慣れていますので」
詩乃は笑おうとしたが、妙は目を細めて首を振る。
「慣れていいことなんて、この家にはありません」
その一言が胸に刺さる。
(……本当は、誰よりも分かっているのに)
花守家に生まれたのに、
“家の力の源”となる花弁が宿らなかった娘。
その烙印は、詩乃の肩にずっと重くのしかかっていた。
昼過ぎ、用件で外の街へ向かうよう父に言い渡された。
華澄のための品物を取りに行くついでに、
書類を役所に届けるという用事だった。
使用人の同行は許されない。
(……一人で外に出るのは久しぶり)
門をくぐり、表通りに足を踏み出した瞬間、
詩乃の胸の奥がふっと軽くなった。
家の中では常に押しつぶされそうな空気だったのに、
街の喧騒はなぜか心地よい。
行き交う人々のざわめき、
商人たちの呼び声、
遠くから聞こえる電車の音。
そのどれもが、自分が“存在してもいい”と
許されているように感じた。
(……あたたかい)
そんな感覚を覚えたのは、いつ以来だろう。
だが、束の間の安らぎは突然終わる。
帰り道、狭い路地に入った瞬間。
空気が、ひりつくように冷えた。
背筋がぞわりとする。
胸の奥が、なぜか痛む。
(……なに、これ……?)
見上げると、
路地奥の影が揺れていた。
まるで生き物のように、ゆらり、ゆらりと。
──禍神(まがつかみ)の気配。
詩乃には見えるはずのない“黒い泡のような影”が、
濁った呼気のように溢れている。
(わたし……こんなものを、感じたことなんて……)
恐怖が足元から這い上がる。
足が震えて動かない。
その時――胸の奥が熱を帯びた。
(え……?)
胸骨の裏、心臓のあたりに、
小さな光が、ふっと灯ったような感覚。
ほんの一瞬。
だけど、確かに感じた。
路地の影がわずかに後退するような揺らぎを見せ、
次の瞬間、風が吹き抜けるようにスッと消えた。
(……今のは……何?)
息を荒くして壁にもたれかかった詩乃は、
胸に手を当てた。
そこはまだ、じんわりと温かかった。
(体がおかしくなったのかもしれない……)
そう思いながらも、
詩乃は気づかない。
その瞬間だけ、
詩乃の胸の奥で“花灯”が微かに光を漏らしていたことに。
その光は、まだ花弁の形にもならない、
ごく小さな“気配”にすぎなかったが。
彼女が初めて感じた、異能の胎動だった。
夕方、家に戻ると、
華澄と美鶴の声が廊下まで響いてきた。
「遅かったわね、詩乃。
華澄の髪飾り、ちゃんと受け取ってきたでしょうね?」
「……はい。こちらに」
「本当に、使えない子ね。
華澄ならもっと早く戻っているわ」
美鶴の嘲りに、詩乃は黙って頷いた。
けれど心の奥には、
先ほど胸に灯った“微光の感覚”が残っていた。
あれは、いったいなんだったのだろう。
胸の痛みも、あの影の気配も。
そして自分の中に残った、
不思議な温もり。
(……どうして、こんな気配を感じたのだろう)
詩乃は答えの出ない疑問を抱いたまま、
夕日の差す廊下を静かに歩いた。
その横顔は、
誰にも気づかれない小さな変化を秘めていた。
そして、この“微光”こそが──
彼女の運命を変える最初の兆しとなる。
まだ詩乃自身は、何ひとつ知らないまま。
