帝都を遠く離れ、北の連峰へと足を踏み入れた二人の前に立ちはだかったのは、文明の光を一切拒絶する「白銀の迷宮」であった。
大正の冬、標高を増すごとに空気は剃刀のような鋭さを帯び、吸い込むたびに肺の奥を氷の刃で削られるような痛みが走る。視覚を奪うほどの猛吹雪。時折、雪の合間から覗く月は、凍てついた大地を冷酷に照らし、二人の影を雪原に長く、不気味に引き伸ばしていた。
「……詩乃、俺に掴まっていろ。決して手を離すな」
朔也の声は、絶え間なく鳴り響く吹雪の咆哮に掻き消されそうになっていた。
彼の軍服は、連日の逃亡と険しい登攀によって随所が裂け、本来の凛々しさは失われていたが、その眼差しだけは獲物を守り抜く猛禽のように鋭く詩乃を護るという一念だけに燃えていた。
朔也は、詩乃の細い腰を力強く引き寄せ、自らの体温を分け与えるように抱きかかえた。
詩乃の足取りは、とうに限界を超えている。高熱こそ引いたものの、慣れない山道と、先日発動した異能の反動による倦怠感は、彼女の小さな体から容赦なく体力を奪っていた。
一歩踏み出すごとに、膝まで埋まる雪が重く、冷たく、彼女の自由を奪っていく。
「……朔也様、申し訳ありません……。私のせいで、あなたがこんなに……お怪我だって、まだ癒えていないのに」
詩乃の唇は寒さで青ざめ、吐息は白く、そして短く震えている。
そんな彼女を見て、朔也は自身の疲労など微塵も感じさせない、情熱的で独占欲に満ちた眼差しを向けた。
「謝るなと言ったはずだ。お前を連れ出したのは俺だ。お前の足が動かないなら、俺が抱えて行く。お前が凍えるなら、俺のこの血すら薪にしてお前を温めてやる。……俺から、離れることだけは考えるな」
朔也は、詩乃の凍えた頬に自らの熱い掌を当てた。
かつて冷酷無比な黒峰家の当主として、他人の痛みなど一顧だにしなかった男が、今や一人の女性の微かな震えに、魂を揺さぶられている。詩乃を抱きしめる腕の力強さは、彼女を誰にも、そして死にさえも渡さないという、執着に近い愛の証であった。
「詩乃、お前はただ、俺のことだけを考えていればいい。他の何も、お前を傷つけることは許さない。……俺が、この命に代えても道を作る」
朔也は自身の足に力を込め、膝まで埋まる雪を掻き分けて前へと進む。一歩、また一歩。その足跡は、絶望的な白銀の世界に刻まれる、二人の揺るぎない絆の軌跡だった。
吹雪が彼の頬を切り裂き、裂傷から流れる血がすぐに凍りつく。それでも、彼の腕の中にある詩乃の体温だけが、朔也を動かす唯一の燃料であった。
(この命が尽きるその瞬間まで、俺はお前を、一輪の花として守り抜く)
その頃、吹雪に閉ざされた山中とは対照的な、重苦しい静寂が支配する場所があった。
帝都の喧騒から隔絶された、古色蒼然とした和洋折衷の建築が建ち並ぶ、霧ヶ原家の本邸である。
花守維信が「霧ヶ原咲良への執着」から咲良を軍に引き渡し異能の実験を繰り返していた頃、霧ヶ原家は維信との関わりを断たされていた。
だが、維信が非道徳な実験の件で逮捕され、花守家が当主不在の混沌に陥った今、眠っていた「血の論理」が目を覚ましていた。
「……ようやく、あの執念深い維信の手から、霧ヶ原の力が解放されたというわけか」
邸内の一室、沈香の香りが重く漂う薄暗い奥座敷で、一人の男が低く笑った。
霧ヶ原家の現当主、霧ヶ原宗久。咲良の弟であり、詩乃にとっては実の叔父にあたる男だ。その眼差しは、血縁への愛情など微塵もなく、ただ損得勘定を弾く冷徹な政治家のそれであった。
「父上、黒峰朔也は詩乃を連れて禁足地の山深くへ逃げ込んだ模様です。軍の追撃を振り切ったようですが、あの雪では生きて戻るなど到底……」
宗久の傍らで、鋭い美貌に歪な冷笑を浮かべて立っているのは、その息子・霧ヶ原透士。
詩乃の従兄にあたる彼は、幼い頃から「霧ヶ原の血こそが、帝都を統べるべき至高の異能」と教え込まれてきた。
彼にとって、一度も会ったことのない従妹・詩乃は、血の繋がった親族ではなく、一族の栄光を取り戻すための「失われた部品」に過ぎなかった。
「案ずるな、透士。黒峰のような荒事を得意とする家系が、簡単に死ぬはずがない。だが、維信が失脚した今、あの娘を花守に置いておく理由はない。……そもそも、霧ヶ原の異能は、我ら一族の中でこそ管理されるべき力なのだ。維信のような外様に弄ばれるべきものではなかった」
宗久は、畳の上に広げた古い家系図を、扇子で強く叩いた。
「透士、お前と詩乃の婚約を整える。霧ヶ原家は古来より、異能の純度を保つために親族間での婚姻を重ねてきた。これは正当な一族の権利だ。黒峰から詩乃を奪還し、お前がその力を支配しろ。彼を排除し、彼女を霧ヶ原の名で縛り直すのだ」
透士は、手にした金時計の蓋をパチンと閉めた。
「……花守詩乃。一度も会ったことはありませんが、黒峰が地位も名誉も捨ててまで狂うほどの女だ。さぞかし、飼い甲斐のある『睡蓮』なのでしょうね。……お任せください、父上。黒峰の腕から、彼女を霧ヶ原の檻へと連れ戻してみせますよ。彼女が咲くべき場所は、黒峰の腕ではなく、我ら霧ヶ原の庭なのですから」
維信の逮捕という激震に乗じ、軍部や国の機関とはまた異なる、血族という名の「身勝手な論理」が、詩乃を包囲しようとしていた。それは、彼女を一人の人間としてではなく、一族の財産として見なす、冷酷な支配の予兆であった。
「……見えたぞ、詩乃。あれが、源流の地だ」
朔也の声に、朦朧としていた詩乃がゆっくりと顔を上げた。
視界を塞いでいた猛吹雪が、山頂付近で奇跡的に凪いでいた。
そこには、峻厳な岩壁に囲まれ、まるで外界から隔絶された箱庭のような、神秘的な空間が広がっていた。
入り口には、樹齢千年を超えるであろう巨大な神木が二本、門のように立ちはだかっている。その間には、幾重にも巻かれた太い注連縄が張られ、人の立ち入りを拒むような、圧倒的な威厳を放っていた。
「源流……。あそこに、お母様が仰っていた、私の力の秘密が……」
詩乃の目から、一粒の涙が溢れ、雪の上に落ちて凍りついた。
帝都を離れ、命を狙われ、極寒の地を彷徨い歩いた。その過酷な旅路を支えてくれたのは、いつだって目の前にいる朔也の温もりだった。
朔也は膝をつき、詩乃を優しく雪の上に降ろした。
彼の肩や背中は、詩乃を守るために受けた風雪で白く凍りつき、軍服はボロボロに裂けている。それでも彼は、安堵の溜息を1つ吐くと、詩乃の手を両手で握り締めた。
「詩乃、俺を信じてここまで来てくれてありがとう。……ここから先は、俺たちだけの場所だ。誰にも邪魔はさせない」
朔也は詩乃を抱き上げ、注連縄の張られた境界線を越えた。
その瞬間、背後で再び吹雪が激しさを増し下界へと続く道は完全に閉ざされた。
それは、山そのものが二人を招き入れ、外敵から隠匿したかのような、不思議な感覚であった。
だが、二人はまだ知らない。
維信の逮捕によって空いた「支配者」の椅子を巡り、霧ヶ原の親子が、すでに詩乃という「最高級の獲物」に狙いを定めていることを。
大正という時代が、二人の愛を試すかのように、次なる苛烈な試練を用意していることを。
黎明の光が、雪山の頂を白金に染め上げていた。

