雪深い山道を越え、朔也と詩乃が辿り着いたのは、地図にも辛うじて記されている程度の古びた宿場町であった。
帝都の華やかなネオンや、銀座を闊歩するモボ・モガたちの喧騒が、まるで別世界の出来事のように感じられる。ここにあるのは、ひび割れた石畳を白く染める雪と、軒先から下がる氷柱そして家々の隙間から立ち上る、どこか懐かしい薪を焼く匂いだけだった。
「詩乃、あそこだ。今夜はあそこに宿を取る」
朔也は、詩乃の細い肩を抱き寄せ、冷たい風から遮るようにして歩いた。
目指したのは、町外れに建つ「千歳屋」という名の古い旅籠である。かつては参勤交代の折に高貴な身分の者が立ち寄ったという、この界隈では最も格式高い宿だ。
「……朔也様、あんなに立派な宿に、私たちが……」
「案ずるな。お前をあんな炭焼き小屋にこれ以上いさせるわけにはいかない」
朔也の声には、黒峰家の当主としての有無を言わさぬ威厳と、それ以上に詩乃への執着に近い慈しみが込められていた。彼は懐から、軍部や警察すらも一瞥して黙り込む「黒峰家当主の隠し紋」が刻まれた印籠を取り出し、宿の主を静かに圧倒した。
「最高級の離れを。……そして、誰にも、何があっても邪魔をさせるな」
宿の主は、朔也から放たれる圧倒的な覇気と、その隣に佇む詩乃の、泥に汚れても隠しきれない気品に気圧され深々と頭を下げた。
通された離れは、樹齢数百年の檜を贅沢に使った、静謐な空間だった。
部屋の中央には、赤々と火の熾った囲炉裏があり、冷え切った二人の体を優しく温める。
「詩乃、まずは湯だ。体の芯まで冷えている」
朔也は、詩乃の着物の帯を自らの手で解き始めた。
「朔也様……自分でお支度を……」
戸惑い、頬を染める詩乃を、朔也は逃がさないように強く抱き寄せた。
「お前は先ほどまで、あんな高熱にうなされていたんだ。……俺がすべてやる。お前はただ、俺の腕の中にいろ」
朔也の瞳は、熱烈な独占欲に燃えていた。
帝都にいた頃の彼は、これほどまでに感情を露わにすることはなかった。だが、あの吹雪の夜、死の間際まで追い詰められた詩乃を目の当たりにしてから、彼の愛は制御を失っていた。
彼女の髪1本、指先1つに至るまで、他人の手には触れさせたくない。自分だけが彼女を慈しみ、守り抜くのだという狂おしいほどの情熱。
浴室へ運ばれた詩乃を、朔也は手甲や脚絆から1つ1つ解放していく。
湯気に包まれた詩乃の柔らかな肌が露わになっても、朔也の眼差しには卑猥な色はなく、ただ「愛おしいものを慈しむ」という、神聖な祈りにも似た感情だけが宿っていた。
「……朔也様、髪を……」
「ああ、俺が洗おう」
朔也は、詩乃の長く美しい黒髪を、指の腹で優しく解きほぐしていく。
炭焼き小屋の煤や、雪に混じった泥が、温かな湯と共に流れ落ちていく。
詩乃は、朔也の逞しく、しかし驚くほど繊細な手の動きに、心まで解き放たれるような心地がした。
「……私、幸せです。朔也様が、こうしてそばにいてくださるだけで……」
「……二度と、あんな思いはさせない」
朔也は、詩乃の背中に顔を埋めた。
「お前が母の名を呼んで苦しんでいたとき、俺は自分の無力さに発狂しそうだった。……お前を失うくらいなら、俺はこの国を、いや、この世界を灰にしたって構わない」
朔也の腕に力がこもる。
詩乃は、彼の胸の高鳴りを感じながら、自分がどれほどまでに深く愛されているかを、肌で魂で感じていた。
湯浴みを終え、温かい寝間着に身を包んだ詩乃の前に運ばれてきたのは、地方の山海の幸を尽くした、大正の美食の数々だった。
鴨肉の治部煮、雪の下から掘り出したばかりの瑞々しい根菜、そして香り高い地酒。
「さあ、食べろ。体力を戻さなければ、これからの旅は越えられない」
朔也は、自ら箸を取り、詩乃の口元に鴨肉を運んだ。
「あーん」を促すような、その甘すぎる振る舞いに、詩乃は赤面しながらも、素直に口を開けた。
「……美味しい……」
「そうか。……なら、もっと食べろ。お前が美味しそうに食べる姿を見るのが、今の俺の、唯一の救いだ」
朔也は、詩乃が食事をするのを、まるで美しい芸術品を眺めるかのような慈愛に満ちた目で見つめていた。
詩乃は、夢で見た母・咲良のことを語り始めた。母が自分の中に遺してくれた、浄化の力の真実。維信の狂気を超えて、母が未へと繋いだ希望の物語。
朔也はその話を、一言も聞き漏らさぬように聞き入り、時折彼女の手を握りしめた。
「……咲良様は、お前を愛していた。そして、俺にお前を託したのだと、俺は信じている。……詩乃、お前はもう一人ではない。母上の想いも、俺の命も、すべてお前と共にある」
囲炉裏の火が爆ぜ、二人の影を畳の上に優雅に映し出していた。
その頃、雪深い宿場町から遥か南、闇に包まれた帝都の奥深く。
霞が関の官庁街の一角にある、窓のない堅牢な石造りの建物。「帝国臨時遺伝学研究所」の最深部では、数人の男たちが冷徹な眼差しで、壁に投影された「データ」を見つめていた。
白衣を纏った若き研究員、九条が、重々しく口を開いた。
「……閣下。遠藤大佐の試みている『既存の異能の書き換え』……あれは、もはや旧時代の遺物です。異能者の肉体に劇薬を投与し、無理やり変質させる手法には限界があります」
対面に座るのは、軍部ではなく「国」そのものを動かす内閣直属の重鎮たちであった。
「九条、君の言う『新時代の管理』とは何だ?」
九条は、不気味な笑みを浮かべ、一枚の図面を広げた。
そこには、顕微鏡でしか見ることのできない、生命の設計図……「遺伝子」という概念を用いた、未知の研究計画が記されていた。
「異能とは、本来不安定な突然変異です。しかし、花守詩乃の『睡蓮』のデータを分析した結果、ある可能性が浮上しました。異能を、産まれる前から設計する……すなわち、遺伝子レベルでの完全な管理です」
重鎮たちが息を呑む。九条の言葉は、神の領域への挑戦であった。
「能力の種類、力の強さ、そして何より『国に対する忠誠心』まで。すべてを遺伝子に刻み込み、設計通りの異能者を産ませる。さらに、現在は異能を持たない一般国民へも、この設計図を組み込むことで、全国民を『制御可能な異能兵士』へと変えることが可能です。……これこそが、我が帝国を永遠に不滅とする、真の『管理社会』の姿です」
九条の瞳には、かつての維信や遠藤大佐のような個人的な野望ではなく、国という巨大な歯車の一部として人間を定義しようとする、冷酷な狂気が宿っていた。
「花守詩乃の『浄化』の力は、その設計図を完成させるための、最後の欠落した環です。彼女を捕らえ、その細胞のすべてを解体すれば……我々は、神をも超える力を手にするでしょう」
帝都の闇で、二人を狙う影は、もはや一軍人の野望を超え、「国」という名の怪物へと変貌しようとしていた。
夕食を終え、部屋に用意された布団の中で、朔也と詩乃は肩を寄せ合っていた。
1つの布団。大正時代の厳しい寒さを凌ぐため、という名目ではあったが、朔也が彼女を片時も離したくないという想いの方が強かったのは言うまでもない。
「……朔也様、外はあんなに雪が降っているのに。ここは、とても温かいですね」
詩乃は、朔也の逞しい腕の中に身を沈め、その胸の鼓動を聴いていた。
「ああ。……もう二度と、あんな寒い場所に、お前を一人で行かせはしない。……たとえ、この国のすべてが敵になろうと、俺がお前の居場所になる」
朔也は、詩乃の額に優しく口づけをした。
「詩乃、お前を愛している。……愛している、という言葉では足りないほどにお前が愛おしい」
朔也の熱い吐息が、詩乃の耳元をくすぐる。
詩乃もまた、朔也の背中に手を回し、彼を強く抱きしめ返した。
「私も……朔也様なしでは、生きていけません。……どこまでも、ついて参ります」
二人は、迫りくる「国」という名の巨大な影に気づかぬまま、束の間の平穏の中で深く愛を確かめ合っていた。
窓の外では、雪が静かに降り積もり、すべてを覆い隠していく。
だが、その白銀の世界の裏側では、血筋さえも設計図として弄ぼうとする、新たな時代の悪意が牙を剥き始めていた。

