上野を発った貨物列車を飛び降りてから、どれほどの時間が経過しただろうか。
鉄路を離れた二人の前に立ちはだかったのは、大正の厳しい冬が剥き出しにした、峻厳なる北の連峰だった。帝都の宵を彩るガス灯の華やぎも、カフェーから流れる蓄音機の調べも、ここには届かない。あるのは、鼓膜を震わせる吹雪の咆哮と、膝までを飲み込む白銀の泥濘だけだった。
「……詩乃、しっかりしろ。目を開けるんだ」
朔也の声は、絶え間なく吹き付ける雪礫に掻き消されそうになっていた。
背中に背負った詩乃の体は、先ほどまでの氷のような冷たさが嘘のように、恐ろしいほどの熱を放っている。軍服越しに伝わるその熱量は、彼女の細い命が、自身の内側から燃え尽きようとしているかのようだった。
「……お母様……たすけ……て…」
途切れ途切れに漏れる詩乃の弱々しい声が、朔也の心臓を鋭い針で刺す。
彼女がこれまでの人生で一度も呼ぶことを許されなかった、母という存在。維信によって「狂気の実験材料」として差し出されていた母親の真実を知ったばかりだが死の淵で本能的に求めている。その事実が、朔也の胸を激しい憤りと、そしてやり場のない悲しみで満たした。
(俺が、俺がついていながら……!)
朔也は自身の右肩から流れる血が、極寒の中で黒く凍りついていることにも気づかなかった。
斜面に張り付くように建つ、半ば崩れかけた炭焼き小屋を見つけたのは、視界が白濁し、意識が遠のきかけた瞬間だった。
板戸を蹴破り、中に転がり込む。土間の冷気は外よりはマシという程度だったが、風を凌げるだけで十分だった。
朔也は、埃の積もった床に自身の黒いマントを幾重にも広げ、詩乃を横たえた。
「詩乃!」
その顔を覗き込み、朔也は息を呑んだ。
彼女の頬は、雪のような白さを失い、禍々しいほどの熱を帯びて赤く染まっている。その細い指先は、何かに縋るように空を掻き、朔也の手を掴んだ。
「行かないで……朔也様……置いて、いかないで……」
「どこへも行かない。俺はここにいる。お前の隣に、一生いると誓っただろう」
朔也は、自身の軍服の袖を乱暴に引きちぎった。
外に飛び出し、積もった雪を布で包む。冷え切った自らの指先が裂け、血が滲むのも構わず、それを詩乃の額に当てた。
高熱で詩乃が苦痛に顔を歪めるたび、朔也は自分の魂が削り取られるような錯覚に陥った。
(もし、ここでこの手を離してしまったら)
その恐怖は、戦場での死よりも遥かに恐ろしかった。
帝都で冷酷無比な当主として、幾多の異能者を切り捨て、政争に明け暮れてきた朔也にとって、詩乃は初めて触れた「光」だった。花守家という檻の中で、羽をもがれ、ボロボロの中でも清らかな光を放っていた彼女。
そんな彼女が、自分と出会い、初めて見せてくれた戸惑うような微笑み。夜の書庫で、古書の匂いに包まれながら交わした、あどけない言葉。
そのすべてが、朔也の凍てついていた心に、初めて『人間としての熱』を与えたのだ。
「お前を死なせはしない。……神がお前を連れ去ろうとするなら、俺はこの異能のすべてを賭けて、神からお前を奪い返す」
朔也は詩乃の手を、自身の頬に押し当てた。
彼女がいない世界に、戻るわけにはいかない。
もし彼女を失うのなら、この国がどうなろうと、異能の理がどうなろうと、朔也にはどうでもよかった。彼は詩乃を抱き寄せ、その細い体を自分の体温で温め続けた。
一分、一秒が、永遠のように長く感じられる夜。
朔也は一睡もせず、彼女の呼吸の乱れを自身の鼓動で計るようにして、暗闇の中で祈り続けた。
詩乃の意識は、底知れぬ深い闇の底を漂っていた。
熱の苦しさはいつしか遠のき、気がつくと彼女は、一面に真っ白な睡蓮が咲き誇る、見渡す限りの美しい池の真ん中に立っていた。空は、大正の夕暮れ時のような、淡い桜色と群青が混ざり合う幻想的な色彩に染まっている。
どこからか、懐かしい線香のような、それでいて清らかな花の香りが漂ってくる。
『……詩乃』
聞き覚えのない、しかし魂が激しく揺さぶられるような、澄んだ声が響いた。
詩乃が振り返ると、池のほとりに、一人の女性が佇んでいた。
藤色の着物に、雪のような白い羽織。その顔立ちは、驚くほど詩乃に似ていた。いや、詩乃が数十年後に辿り着くであろう、完成された美しさを具現化したような姿だった。
「……お母様……?」
会ったことはない。写真一枚すら、維信によって焼き捨てられていた。けれど、詩乃にはわかった。自分の中に流れる「睡蓮」の力が、目の前の女性が持つ「桜」の香気と、激しく、愛おしげに共鳴していたからだ。
霧ヶ原咲良。
彼女は優しく微笑み、水面を滑るようにして詩乃のそばへと近づいてきた。
その歩みに合わせて、真っ白な睡蓮が次々と花開き、辺りを清浄な光で満たしていく。
『大きくなりましたね、詩乃。……私の、たった一人の大切な、愛しき娘』
咲良の手が、詩乃の頬に触れた。
その掌は驚くほど温かく、夢の中とは思えないほどの実感があった。
詩乃の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「お母様……どうして……。私は、あなたが軍の実験に屈して、私を遺して逝ってしまったのだと……維信様は……あの人があなたは私を呪っていたのだとそう仰っていました……っ」
咲良は悲しげに瞳を伏せ、詩乃を強く抱きしめた。
その温もりは、朔也が自分を抱きしめてくれる時の、あの深い慈しみと重なった。
『いいえ、詩乃。それは違います。……維信殿は異能という力に魅せられ、心を失ってしまった。けれど、私はあなたの魂が私の中に宿ったとき、心に誓ったのです。この子は、決して彼らの道具にはさせない。この子は、人を愛し、愛されるために生まれてくるのだと』
咲良は、指先を空に走らせた。
そこには、大正時代の軍の秘密研究施設、薬品の匂いが立ち込める冷たい地下室の光景が、走馬灯のように浮かび上がった。
拘束され、劇薬を投与される咲良。しかし、彼女の瞳には絶望の色はなかった。彼女は、自らの内に眠る「桜」の異能を限界まで活性化させ、注入される毒を、胎内の詩乃に届く前にすべて「浄化の力」へと書き換えていたのだ。
『あなたが今、手にしている「睡蓮」は、私の命そのものです。……維信殿や軍部が望んだのは破壊の兵器。けれど、私があなたに遺したのは、あらゆる混沌を鎮め、愛する人を守るための究極の浄化。……詩乃、自分を呪ってはいけません。あなたは、私の戦いの勝利の証。私の、誇りなのです』
詩乃は、母の胸の中で声を上げて泣いた。
自分は、忌まわしい実験の失敗作などではなかった。
母が、命を、魂を、その存在のすべてを賭けて未来へと繋いだ「希望の結晶」だったのだ。
『詩乃。源流の地へ向かいなさい。……そこには、あなたがこの力を完全に制御し、自分自身の命として咲かせるための秘密が眠っています。……そして、今、あなたのためにその身を削って祈っている、あの方を信じなさい』
咲良の姿が、次第に眩しい朝焼けの光に溶けていく。
『彼の愛は、私の「桜」と同じ、あなたを守るための強き盾です。……幸せになりなさい、詩乃。……愛しています。永遠に』
夢の終わり、咲良が詩乃の頬に口づけをした。
その瞬間、詩乃の全身を温かな光が突き抜け、冷え切っていた四肢に力が戻っていくのを感じた。
「……ん……」
詩乃がゆっくりと瞼を持ち上げた。
最初に見えたのは、煤けた廃屋の天井。隙間から差し込む、黎明の冷たくも清らかな光。
そして、自分を覗き込む、幽鬼のように疲れ切り、しかし必死に自分の名を呼び続ける、朔也の顔だった。
「詩乃! 気がついたか!? ……わかるか、俺だ。朔也だ!」
朔也の声は掠れ、その瞳には、血が滲むほどの安堵が宿っていた。
詩乃は弱々しく手を伸ばし、朔也の頬に触れた。
「……朔也様……。私、……お母様に、会えました。……お母様は、私を愛してくださっていました……」
その言葉に、朔也は言葉を失い、詩乃を壊れ物を扱うように、しかし情熱的に抱きしめた。
彼の体は、看病のために芯まで冷え切っていたが、その抱擁は何よりも温かかった。
「ああ。……そうだ。お前は愛されている。……俺も、お前を愛している。死ぬまで、離さない」
朔也の肩が、微かに震えていた。
詩乃は、この冷酷と呼ばれた男が、自分のためにどれほど心を砕き、一晩中自分の死を恐れて泣きそうな顔をしていたのかを、その温もりから悟った。
「朔也様。……行きましょう。源流の地へ。母様が託してくれた、この力の本当の意味を……知るために、そしてこの力を本当の意味で覚醒させるために」
朝日が雪山の頂を黄金色に染め上げた。
炭焼き小屋の周囲には、吹雪の中でも散らない、幻想的な睡蓮の香りが漂っていた。
大正という激動の時代。一輪の蕾が、母の愛と男の執念を糧に、今、真の覚醒を始めていた。

