駅から北へと向かう東北本線の貨物列車は、巨大な鉄の獣のように、夜の闇を切り裂いて進んでいた。
無蓋車《むがいしゃ》に積まれた巨大な建築用木材の隙間。朔也と詩乃が身を潜めているのは、影の盟友たちが事前に細工を施した、大人二人がようやく肩を並べて座れるほどの隠し空間だった。
「詩乃、寒くはないか」
朔也が低い声で問いかけ、自身の厚手のマントを詩乃の肩にさらに深く掛け直した。
走行する列車の隙間風は、剃刀のように鋭く冷たい。詩乃は小さく首を振り、朔也の腕にそっと寄り添った。
「大丈夫です……。朔也様の温もりがありますから」
詩乃の吐息が、白く淡く消えていく。
彼女が纏うのは、かつての花守家の令嬢としての華美な友禅ではない。活動しやすい、紺色の厚手の袴と、旅慣れた者が使う手甲《てこう》だ。その姿は、大正という時代の波に翻弄されながらも、自らの意志で荒野へ踏み出そうとする一人の女性の強さを物語っていた。
ガタン、ガタンと刻まれる鉄輪の音。
機関車が吐き出す石炭の煤《すす》が、隙間から入り込み、二人の衣服を黒く汚していく。帝都の黒峰本邸での贅を尽くした暮らしとは、天と地ほどの差があった。
だが、二人の心にあるのは、喪失感ではなく、得体の知れない追手から逃げ切るための張り詰めた緊張感だった。
列車が宇都宮を越えたあたりで、朔也は懐から一本の小型の円筒を取り出した。
それは、黒峰家が秘匿してきた、特殊な異能磁場に反応する『通信信管』だ。電信が軍部に掌握されている今、異能者同士の連絡は、こうした物理的な媒体を介した、極めて原始的かつ確実な手段に限られていた。
「……やはりか」
円筒の先端が、微かに鈍い赤色に明滅した。
それは『敵の潜入』を知らせる、盟友からの緊急警告だった。
(大佐の息がかかった暗殺者もこの列車に乗り込んでいる。……いや、おそらく最初から、この貨物列車そのものが監視下に置かれていたのか)
朔也の瞳が、冬の月光を映して冷たく研ぎ澄まされる。
大佐の権力は、鉄道省の末端にまで及んでいる。貨物列車の運行表を操作し、検問を強化することは容易だ。
だが、わざわざ走行中の列車に『見えざる追跡者』を送り込んできたということは、生け捕りにするよりも、混乱の中で詩乃の身柄をあるいはその命を確実に仕留めようという算段だろう。
「詩乃、俺から離れるな。……鼠が入り込んだようだ」
朔也は腰の軍刀に手をかけた。鞘《さや》の中で、刀身がわずかに鳴る。
詩乃は言葉を飲み込み、朔也の服の裾を強く握りしめた。彼女の睡蓮の異能が、周囲の殺気を感じ取り、胸の奥で微かに波立った。その時だった。
列車の屋根の上を、風の音とは異なる『不自然な重み』が移動する音がした。
カツン、カツン。
それは、鉄の鋲《びょう》を打った軍靴の音だった。
木材の隙間から空を仰げば、火の粉を散らして走る機関車の煙の向こうに、人影が立っているのが見えた。
「見つかったか」
朔也は瞬時に判断し、詩乃を庇いながら、隠し空間の覆いを跳ね除けた。
吹き付ける極寒の暴風。時速五十キロ以上で疾走する貨物列車の屋根の上、月光を背に受けて立っていたのは、二人。
一人は、大正の軍服を崩して着こなした、痩身の男。
もう一人は、顔の半分を包帯で覆った、異様な気配を放つ大男だった。
「黒峰朔也殿。……いや、今はもう『逆賊』の朔也か」
痩身の男が、歪な笑みを浮かべた。その手には、当時の憲兵が携帯する南部式の拳銃ではなく、不気味な光を帯びた脇差《わきざし》が握られていた。
「大佐からの伝言だ。『君の誇り高い血筋を汚すのは忍びないが、その花守の娘だけは、軍の財産として返却してもらわねばならない』……とな」
「軍の財産だと?詩乃は一人の人間だ。貴様らのような、魂を売った犬に渡すものか」
朔也が刀を抜いた。白刃が闇の中で閃光を放つ。
大正の夜を駆ける鉄路の上で、異能と剣気が衝突した。
「詩乃、伏せていろ!」
朔也の叫びと同時に、包帯の男が唸り声を上げた。その肉体が、異能によって異常な膨張を見せ、貨物列車の床板を粉砕せんばかりの勢いで突進してくる。
朔也の剣が、男の拳と激突し、火花が散った。
「ほう、流石は黒峰の当主。この『土蜘蛛』の硬質化した肉体を真っ向から受けるか」
痩身の男は、自身は動かず、詩乃に冷酷な視線を向けた。
「お嬢さん。君の母上、咲良様も同じだった。最後まで無駄な抵抗を続けてね。……だが、軍の地下室で眠る彼女の姿は、実に美しかったよ」
「母様のことを、知っているのですか……!」
詩乃の声が震える。恐怖ではなく、底知れぬ怒りが彼女の芯を貫いた。
母を『実験材料』として、そして『死体』として弄んできた者たちが、今また自分を同じ目で見ている。
詩乃の手のひらから、睡蓮の花弁のような淡い光が溢れ出した。
だが、その光はいつもの優しさを失い、凍てつく冬の夜気のように鋭利な冷たさを帯びている。
「おや、不完全な異能が暴走を始めたか?それもまた、いいデータになる」
痩身の男が脇差を振り上げ、詩乃へと飛びかかった。
「させん!」
朔也が土蜘蛛の巨体を斬りつけ、その隙間を縫って詩乃の前へと割って入る。
だが、走行する列車という不安定な足場、そして吹き荒れる強風が、朔也の動きをわずかに鈍らせた。
脇差の先が、朔也の肩を浅く切り裂く。鮮血が闇に舞い、詩乃の頬に一滴、熱い感触を残した。
「朔也様!」
「案ずるな……、掠り傷だ」
朔也は血を拭うこともせず、剣を正眼に構え直した。
だが、敵は二人。さらに、列車の前方からは、次の検問所である「西那須野」の灯りが見え始めていた。
駅に停車すれば、待機している憲兵隊の包囲網に沈むことになる。
(ここで仕留め、駅の手前で列車を飛び降りるしかない……!)
朔也の覚悟が、冷たく燃え上がる。
一方、詩乃は傷ついた朔也の背中を見つめ、自身の無力さに歯噛みしていた。
帝都を離れれば、自由になれると思っていた。だが、どこまで行っても、軍部という巨大な影が、蛇のように自分たちを追い詰めてくる。
(私が……私が、この人たちを止めなければ。朔也様を、これ以上傷つけさせない!)
詩乃は目を閉じ、自身の内側、睡蓮の根が張る「心の深淵」へと意識を沈めた。
そこには、まだ自分でも触れることができない、圧倒的な力の塊があった。
列車が鉄橋に差し掛かり、轟音が周囲を支配したその瞬間。
「……退きなさい」
詩乃の唇から、冷徹な一言が漏れた。
その瞬間、彼女を中心に、目に見えない『極寒の波動』が爆発的に広がった。
「な、なんだ、この冷気は……!?」
痩身の男が驚愕し、たじろいだ。
彼の足元、列車の屋根がみるみるうちに凍りつき、薄氷が四方に這い回る。
それは、詩乃がこれまで見せてきた『癒やし』の睡蓮ではない。
敵意を凍結し、存在そのものを拒絶する、冬の睡蓮の力。
「詩乃……?」
朔也もまた、その変容に目を見張った。
詩乃の髪が、風に煽られながら白銀の輝きを帯びているように見えた。
その瞳は、かつての怯えた少女のものではく侵すべからざる聖域を守る守護者のそれだった。
「これ以上……。母様の思い出も、私の未来も、朔也様も!貴方たちのような卑劣な者に、触れさせはしない!」
詩乃が手をかざすと、凍てついた空気の刃が、包帯の男の巨体を吹き飛ばした。
重力に逆らうような冷気の渦が、屋根の上の二人を列車の外へと押し出す。
「おのれ、完成前でこの出力か……!」
痩身の男は恨みがましい声を上げながら、夜の闇へと消えていった。鉄橋の下、流れる川の音だけが、彼らの脱落を告げていた。
静寂が戻った。
残されたのは、激しく揺れる貨物列車と、肩で息をする朔也、そして光を失いその場に崩れ落ちそうになる詩乃だった。
「詩乃!」
朔也が刀を収め、彼女を抱き留める。
詩乃の肌は、氷のように冷たくなっていた。
「朔也様……。私、追い払えましたか……?」
「ああ。お前が俺を守ってくれたんだ」
朔也は、彼女の冷え切った手を自分の胸元に入れ、温めた。
詩乃の異能は、明らかに『変質』を始めていた。帝都を離れたこと、そして朔也への想いと軍部への憤りが、彼女の力の深層を揺り動かしたのだ。
(これが、咲良様が危惧し、そして期待した『睡蓮』の真の姿なのか)
列車の汽笛が、長く、悲しげに響いた。
前方に、西那須野駅のホームが見えてくる。憲兵たちの松明の火が、雪の混じり始めた夜闇の中で、無数に揺れている。
「詩乃、行くぞ。ここからは鉄路ではなく、山を越える」
朔也は、意識が朦朧としている詩乃を背負い、列車の速度がわずかに落ちた瞬間に、闇深い線路脇の斜面へと身を投げた。
雪混じりの土の匂い。
遠ざかっていく列車の音。
背中で震える詩乃の鼓動を感じながら、朔也は北の空を見上げた。
追跡者は、一度退けたに過ぎない。
軍部の魔の手は、この先の険しい山道にこそ、網を張っているだろう。
だが、朔也の心には、確かな光があった。
背負った少女の中に眠る、時代をも凍らせるほどの強大な力が、彼らに勝利をもたらす予感。
大正の夜は、まだ深く、険しい。
二人の逃亡劇は、鉄路を離れ、神々が眠る北の連峰へと、その舞台を移そうとしていた。

