大正異能譚─花は遅れて咲く─

 隔離の勅令と逃避の決断

 帝都の空は、鉛色に淀んでいた。

 数日前まで、黒峰家と花守家の婚礼を「大正の美談」ともてはやしていた銀座のカフェーや赤煉瓦の街並みは、今や冷ややかな猜疑心に満ちている。

 新聞各紙が、軍部寄りの言論人による「異能脅威論」を書き立てて以来、街の空気は一変した。

道を行く人々は、隣に立つ者が「異能者」ではないかと疑い、その袖口から覗く肌に、変異の兆候がないかを探るような、卑屈な視線を交わし合っている。

 黒峰本邸の周囲には、いつしか「護衛」という名目の憲兵たちが立ち並ぶようになった。黒いマントを翻し、銃剣を帯びた彼らの存在は、誰の目にも黒峰家に対する「監視」であり「軟禁」であった。


「……やはり、電信も止められたか」
 本邸の重厚な執務室で、朔也は秘書官が差し出した報告書を睨みつけた。

 帝都から地方の分家へ向けた連絡、そして異能者同士の通信網が、軍部の検閲によって次々と遮断されている。遠藤大佐の動きは、朔也の予想を上回る速さだった。

「はい。郵便物もすべて一度、憲兵司令部を経由しているようです。表向きは『混乱に乗じた過激派の取り締まり』としておりますが……」

「実態は、異能者の手足を縛り、孤立させることか」

 朔也は、窓の外に視線を向けた。雨に濡れた庭園の奥、漆黒の軍服を着た憲兵が、微動だにせずこちらを監視している。

 遠藤大佐が宣言した「異能者強制隔離法案」の国会採決まで、残り一週間を切っていた。

法案が通れば、憲兵隊は堂々とこの邸内に踏み込み、詩乃を「特別管理対象」として連行するだろう。

「詩乃は、どうしている」

「奥様は、離れの書庫で、咲良様の残された資料を整理しておいでです。……非常に静かにお過ごしですが、時折、窓の外の憲兵を見て、悲しげな顔をなされています」

 朔也の胸に、鋭い痛みが走った。

 真実を公表すれば、道が開けると信じていた。だが現実は、大佐という巨大な権力が、民衆の恐怖を薪にして、より大きな火を焚き付けたのだ。

「これ以上の滞在は、彼女を死へ追いやるに等しい」

 朔也は、デスクの引き出しから、古びた地図を取り出した。それは、維信の書斎から回収した資料を基に、朔也が密かに作成した「源流」への道標だった。

 帝都を離れ、極東の険しい山脈を越えた先にある、忘れられた地。

 そこに、詩乃の異能を浄化ではなく「完成」させる鍵があるという。

 
 その日の夜。

 ガス灯の火を絞り、薄暗くなった寝室で、朔也は詩乃と向かい合った。

 外では、雨音が激しさを増している。憲兵たちの軍靴の音が、時折廊下にまで響いてくるような錯覚を覚える、息詰まる沈黙だった。

「詩乃。よく聞いてほしい」

 朔也の声は、静かだが鋼のような決意を秘めていた。

 詩乃は、膝の上で細い指先を組み、じっと朔也を見つめた。その瞳には、すでに覚悟の色が宿っている。

「大佐は、法案の採決を待たずに動く可能性がある。明晩、帝都を脱出する」

 詩乃の肩が一瞬、小さく揺れた。

「脱出、それは…黒峰家を…この家を捨てるということでしょうか?」

「捨てはしない。一時的に預けるだけだ。俺が不在の間、家督は信頼できる叔父に代行させる手筈を整えた。だが、お前をここに留めておくことは、もうできない。大佐の狙いは、黒峰家の権勢ではなく、お前の中に眠る『完成された異能』そのものだからだ」

 朔也は、詩乃の両手を包み込むように握った。

 大正という時代において、名家の当主が家を空け、行方も告げずに旅に出ることは、社会的自死にも等しい行為だった。親族からの勘当、財産の没収、そして軍部からの「逆賊」の汚名。それらすべてを背負うことになる。

「詩乃、俺についてきてくれるか。名誉も、贅沢な暮らしも、帝都の華やかさも、すべて失うことになるかもしれない」

 詩乃は、ゆっくりと首を振った。

「朔也様。私は、あなたが私を見つけ出してくださったあの日から、もう何も持っておりません。私にあるのは、あなたからいただいた簪と、母が命懸けで守ってくれた、この呪われた…いえ、愛された力だけです」

 詩乃は、朔也の手を握り返した。

「どこへでも、参ります。たとえ地の果てであっても、あなたの隣が、私の居場所ですから」

「……ありがとう、詩乃」

 二人は、暗闇の中で深く抱き合った。

 窓の外では、雷鳴が轟いた。それは、静かな生活の終焉を告げる、時代の咆哮のようでもあった。
 


 翌朝。朔也は最後の準備に取り掛かった。

 帝都脱出には、偽装が必要だ。憲兵の目を欺くため、表向きは『黒峰当主夫妻、静養のため鎌倉の別邸へ移動』という届け出を提出させた。

 もちろん、大佐がそれを鵜呑みにするはずがない。道中、必ず襲撃、あるいは連行の機会を伺ってくる。

「準備は整ったか」

 朔也は、信頼する影の護衛たちに問いかけた。彼らもまた、世間に隠れて生きる異能者たちであり、朔也に恩義を感じている者たちだ。

「はっ。馬車は三台用意しました。影武者を乗せた二台は東海道を鎌倉へ。当主様と奥様は、貨物列車に紛れ込み、北へと向かっていただきます」

「北か。険しい道のりになるな」

「憲兵隊は、南の別邸に戦力を集中させるはずです。その隙を突きます」

 大正という時代は、鉄道網が急速に発達した時代でもあった。蒸気機関車が吐き出す黒煙は、文明の象徴であると同時に、逃亡者にとっては格好の隠れ蓑となる。

 午後。朔也は最後に、本邸の応接室で遠藤大佐からの「伝令」と対峙した。

 現れたのは、冷酷な眼差しをした若手の将校だった。

「黒峰殿。大佐からの伝言です。『賢明な判断を期待している。隔離は、異能者のためでもあるのだ』と」

 将校は、室内を品定めするように見回した。

「鎌倉へ静養に行かれるとか。憲兵が数名、護衛として同行することを許可願いたい」

「お気遣い痛み入る。だが、妻の精神状態が不安定でな。見慣れぬ軍靴の音は、彼女を怯えさせる。護衛は我が家の者だけで十分だ」

 朔也は、優雅に紅茶を啜りながら、冷徹な笑みを浮かべた。

「大佐にはこう伝えてくれ。黒峰家は、帝都の安寧を誰よりも願っている。……だからこそ、取るべき道は心得ている、とな」

 将校は、不敵な笑みを残して去っていった。

 それは、明らかな宣戦布告だった。
 


 深夜。

 帝都の喧騒が、激しい雨にかき消される頃。

 黒峰本邸の裏門から、ひっそりと一台の荷馬車が走り出した。

 中には、質素な旅装に身を包んだ朔也と詩乃がいた。詩乃は、絹の着物を脱ぎ捨て、動きやすい木綿の袴姿になっていた。

その手には、母・咲良の遺品である小さな手鏡と、朔也から贈られた守り刀が握られている。

「……帝都が、あんなに遠くに」

 馬車の小さな窓から外を覗いた詩乃が、ぽつりと呟いた。

 遠ざかる帝都の灯火は、雨に煙って、まるで夢の跡のように儚く見えた。

「これからは、誰も俺たちを守ってはくれない。法律も、家柄も、名前も通用しない場所へ行く」

 朔也は、腰に差した軍刀の柄を確かめた。

「だが、そこでお前は、本当の意味で自由になれる。母上が願った、咲き誇る花になれるんだ」

 馬車は、蒸気が立ち込める上野の貨物駅へと滑り込んだ。

 巨大な蒸気機関車が、地響きのような音を立てて停車している。石炭の匂いと、油の混じった熱気が、二人の肌を打つ。

 彼らが乗り込んだのは、木材を運ぶための無蓋車の一角に作られた、隠しスペースだった。

「出発だ」

 朔也の言葉と共に、重い汽笛が夜の静寂を切り裂いた。

 ガタン、と大きな衝撃が走り、列車はゆっくりと動き出す。

 追っ手は、すでに動き出しているだろう。大佐の執念が、この線路の先で待ち構えているかもしれない。

 だが、二人の心に迷いはなかった。

 帝都という檻を抜け出し、未踏の「源流」へと向かう旅。

 それは、大正という激動の時代の中で、二人が一人の人間として、そして異能者として生き抜くための、壮絶なる闘いの始まりであった。

 暗闇の中、列車は加速していく。

 詩乃は、朔也の肩に頭を預け、目を閉じた。

 耳に届くのは、力強い列車の鼓動と、隣にいる愛する人の呼吸だけだった。

「……咲き誇ってみせます。あなたのために。そして、お母様のために」

 小さく、だが確かな誓いが、黒煙の中に消えていった。