大正異能譚─花は遅れて咲く─


 夜が明けた帝都は、熱狂の中にあった。
 
 朝刊の第一面には、大手新聞社による大見出しが踊っていた。花守維信が料亭『水月』で逮捕された事件の衝撃は、維信の非道な行動と共に帝都中に広まっていた。

 【帝都激震!花守家当主、異能者実験の黒幕か】 
 【「愛の異能者」の裏側で、身重の妻を軍部に提供】
 【黒峰朔也当主、決死の告発!軍部高官の関与も浮上】

 人々は、維信の罪、すなわち『妊娠中の妻を、自身の野望のために人体実験の検体に差し出した』という非人道的な行いと言える極悪非道な犯罪に凍りついた。長年“異能者の鏡”として君臨し、異能婚の成功例として讃えられてきた花守家の美談は、一瞬にして崩壊した。

 逮捕から三日後。黒峰朔也は有力新聞者の主筆や記者が集められ、黒峰邸の大広間で、朔也による緊急の“事実陳述”が行われた。朔也は、婚約者の詩乃を隣に控えさせ、大広間に集まった新聞関係者たちの前に立った。

 集まった記者たちは、朔也の登場に息を呑み、一斉に筆を走らせ始めた。

 「本日、私は、婚約者である詩乃と共に、この度の事件の全貌と、花守維信の罪をお話ししたいと思います。これは、我々異能者社会全体を正すために必要なことです」

 朔也は言葉を一度区切り、詩乃の手を強く握りしめた。その手の温もりが彼女に勇気を与えた。

 「花守維信は、かつて自身の妻であり、詩乃の母親である霧ヶ原咲良を、軍部の秘密実験に差し出しました。目的は、咲良様の持つ“桜”の異能と、軍部の薬品による刺激で、より強力な異能を持つ子供を生み出すためです。」

 記者たちが静まり返ると、朔也の声だけが響きわたる。

 「詩乃は、母親の命と引き換えに生まれました。維信にとって、詩乃は娘ではなく“実験データー”に過ぎませんでした。彼は、詩乃が異能を覚醒させ完成させた後も、彼女を『繁殖の母体』として軍に引き渡す計画を立てていました」

 黒峰邸に集まっていた記者たちは、その非道さに息を呑んだ。そして朔也は隣の詩乃を見た。

 「しかし、私の婚約者である詩乃は、一人の人間として、この真実を受け止め立ち上がりました」

 朔也の陳述が一区切りついたところで、詩乃は静かに席を立ち、陳述の場に臨んだ。震える声で話し始めたが、彼女の視線は報道関係者ではなく、ただ朔也に向けられていた。

 「私は……私の中に流れる血を、呪いました。母を苦しめた父の狂気が、私を作ったと」

 詩乃の言葉に、涙ぐむ者もいた。

 「ですが、私は知りました。母、咲良は、実験の苦痛の中で、自らの命と『桜』の異能を使いきり、胎児だった私を守り抜いた。私の異能『睡蓮』は、母の愛と、守ろうとした意思が、毒を浄化し変異させた力なのです」

 彼女は凛とした目で前を見据えた。

 「私は、父の道具ではありません。母の愛の証です。そして、黒峰朔也の妻となる女です。私たちは、この真実を隠しません。この事件を風化させず、異能者が道具として扱われる時代を、この手で終わらせるために、戦い続けます」

 記者会見は、大成功だった。
 
 詩乃の告白は、世論に強烈な感動と共感を呼び起こした。人々は維信の非道さに怒り、咲良の悲劇に涙し、そして、その運命を背負いながらも気高く立つ詩乃を“奇跡の花”と呼んだ。
 
 黒峰本邸に戻った朔也は、すぐさま執務室に籠もった。彼は、表面上の勝利に浮かれることはなかった。
 
 『大佐が動く』
 朔也は、そう確信していた。維信の逮捕と、実験の公表は、軍部の最高幹部、遠藤大佐にとって最大の危機であり、同時に最大の好機でもある。
 
 「当主様、維信の逮捕により、軍部内の異能研究派閥は一時的に沈静化しましたが、大佐の動きが活発です」
 
 秘書官が報告する。
 
 「報道管制は、まだ敷かれてないか」
 
 「公表された真実が強烈すぎて、一時的に統制不能状態です。しかし、今日明日には必ず、軍部からの逆報道が始まるでしょう」
 
 朔也は、懐から取り出した栞を指でなぞった。詩乃が贈ってくれた、睡蓮の花びらの栞。これに記されていた、亡き母・咲良の言葉を思い出す。
 
 「維信の狂気は、異能への偏執が招いたもの。この狂気を断たなければ、次なる混沌を生む」
 
 朔也の予想通り、その日の夕方から、帝都の空気は一変した。
 
 遠藤大佐が、異能研究派閥の残党と、彼が長年飼いならしてきた報道機関を使って、逆襲を開始したのだ。
 
 最初は詩乃に同情的だった世間は徐々に“異能の力”の恐ろしさを強調し始める。
 
 帝都の街角では、御用学者や軍部よりの言論人が寄稿した「号外」が配られ、演説壇に立った活動家たちが異能者の脅威を煽動するように叫んだ。
 
 『異能の暴走こそ、文明社会を脅かす元凶なり!』
 
 大群衆の緊急増刊号や新聞の社説が、こぞって掌を返し始めた。
 
 世論は急速に揺れ動いた。維信の非道さは、いつしか“異能者だからこそ犯せる、一般人には理解できない異質な罪”として捉えられ始めた。そして、最も恐ろしいのは、詩乃に向けられたものだった。
 
 『花守詩乃の異能は、母の生命力を吸い上げて変異した、危険な混沌の力であり、彼女の存在そのものがあの非道な実験の完成形である』
 
 この報道は、人々の間に根強い異能者への偏見を再び燃え上がらせた。人々は、維信の事件を機に、隣にいる異能者が、いつ自分を裏切る狂気に駆られるかと怯え始めた。
 
 恐怖と憎悪が、帝都の街に暗い影を落とし始めた。
 
 その夜。朔也の執務室の窓を、激しい雨が打ち付けていた。
 
 ドンドン!
 
 扉が激しく叩かれ、詩乃が蒼白な顔で入ってきた。その手には、夕刊の新聞が握られている。
 
 「朔也様……ご覧になりましたか……?」
 
 「ああ。卑劣極まりないやり方だ」
 
 朔也は、冷静だった。感情的になれば、大佐の思う壺だ。
 
 「彼らは、維信の罪を、異能者全体の罪にすり替えようとしている。人々は、真実よりも、恐怖に流されやすい」
 
 「私の力が……混沌の力だと……」
 
 詩乃の瞳が揺れる。せっかく真実を公表し、母の名誉を回復できたと思ったのに、その結果が、異能者全体への差別と憎悪の増幅だった。
 
 「私のせいで、異能者の皆様が苦しむことに……」
 
 「違う!」
 
 朔也は強く否定し、詩乃を抱き寄せた。彼の体温と香りが、詩乃の恐怖を和らげる。
 
 「お前のせいではない。大佐が長年温めてきた、異能者を軍の管理下に置くための策略だ。維信は、その策略のために利用されただけの道具だ」
 
 朔也は、詩乃を抱きしめたまま、静かに語りかけた。
 
 「維信の断罪は、単なる復讐ではない。俺たちが、この国の闇の核心を暴いたということだ。だからこそ、大佐は本気で動き出す」
 
 その予感は、すぐに現実となった。
 
 翌日の正午、帝都全域に号外が配られた。
 
 遠藤大佐が、臨時会見で、“異能者強制隔離法案の成立”を正式に宣言したのだ。
 
 「これ以上、異能者の狂気に一般市民を晒すことはできない。維信のような悲劇を繰り返さないために、全ての異能者を軍の管理下に置く。来週中には、法案を国会で強行採決する!」
 
 隔離は、異能者に対する事実上の強制収容を意味する。法案が成立すれば、帝都にいる異能者はすべて、軍の施設へ強制的に連行される。
 
 そして、詩乃は間違いなく“最高危険度の隔離対象”として、真っ先に狙われるだろう。
 
 「来週……」
 
 詩乃が息を呑む。猶予はほとんどない。
 
 「時間がなさすぎる」
 
 朔也の表情は、獲物を前にした鷹のように鋭く研ぎ澄まされていた。
 
 (このまま帝都にいれば、必ず捕まる。だが、ただ逃げるだけでは、大佐の愚行を止めることはできない)
 
 朔也は、詩乃の異能の鍵を握る、亡き母・咲良の残したメモを思い出した。維信を逮捕する前に、黒峰家の古文書室から回収していたものだ。
 
 【異能の源流は、極東の地の山奥深くに眠る。そこには睡蓮と桜の力が調和する真の秘密がある】
 
 咲良は、実験の前にこの記述を読んでいたらしい。維信が知らなかった、咲良様の最後の希望だった。
 
 朔也は、1つの決意を固めた。
 
 「詩乃。逃げるのではない。力を得るために、帝都を離れる」
 
 「力を……?」
 
 「ああ。大佐が本気で動き出す前に、俺たちは帝都を離れ、その『源流』を探る。詩乃の異能を完全に覚醒させ、大佐の愚行を根底から止める、真の力を手に入れるのだ」
 
 朔也は、彼女の手を握り、自分の頬に当てた。
 
 「これは、俺たち自身の未来のためだけじゃない。維信の罪で、偏見に苦しむ異能者全体を救うための、最後の手段だ」
 
 詩乃は、静かに頷いた。
 
 「分かりました。朔也様とご一緒なら、どこまでも。……母が託してくれた、この異能の真の目的を知りたい」
 
 朔也は、詩乃の返答に安堵し、深く頷いた。
 
 「では、準備だ。大佐の追跡網が完全に敷かれる前に、我々は帝都を脱出する。この戦いは、ここからが正念場だ」
 
 二人の間に、新たな旅立ちの決意が固まった。軍部の隔離宣言という波が押し寄せ、彼らの運命は激動の渦へと投げ込まれた。