朝の花守邸には、薄い霧が静かに漂っていた。
石畳に残る夜露が光を吸い込み、屋敷全体がどこか重苦しい気配に包まれている。
詩乃は、廊下を歩くたびに気配を消すようにして歩く。
足音ひとつで、誰かの機嫌を損ねてしまうことを知っているからだ。
(今日こそ……何事もありませんように)
そんな願いは、いつだって簡単に裏切られる。
食堂ではすでに家族が揃っていた。
継母・美鶴は艶やかな羽織をまとい、妹の華澄は横で笑っている。
詩乃の席に置かれた膳は、他より小さく、おかずもわずか。
それが“当たり前”になって久しい。
詩乃が座ろうとすると、美鶴の声が鋭く飛んだ。
「詩乃。座らないでちょうだい。華澄の気が散るわ」
「……はい」
淡々と返事をしながら、胸の奥がひどく冷えた。
華澄は、艶やかな黒髪に簪を揺らしながら、美鶴に笑いかける。
「お母様、昨日の髪飾り、本当に素敵だったわ。
煌牙様が“華澄が一番似合う”って」
「まあ、本当に。あなたは花守家の誇りだものね」
(誇り……)
詩乃は、そっと視線を落とす。
花守家には、代々語り継がれる古いしきたりがある。
──娘は生まれた瞬間、胸の奥に“花弁の光”を宿す。
──その光が強いほど、家に繁栄をもたらす。
──光が咲いた娘は、上位家系へ嫁ぎ、家の未来を結ぶ“鍵”となる。
華澄の胸には幼い頃から鮮やかな花弁が灯っていた。
それは家の者すべてを歓喜させ、華澄は生まれた瞬間から“宝”となった。
しかし──
詩乃の花弁は、一度も咲かなかった。
“花のない娘”
“咲かぬ花”
“価値のない長女”
その烙印は、家中の扱いを決定づけた。
食卓で茶を運んでいた家政婦の妙が、そっと詩乃の近くへ寄る。
「大丈夫ですか、詩乃様……少しお顔が」
「平気です。いつものことですから」
「……“いつものこと”で済ませていいはずがありませんよ」
妙の言葉は優しかったが、それが涙を誘いそうで、詩乃は黙った。
花守家では、花弁の光にまつわる伝承が多い。
“光を持つ娘は家の守り手となり、
光を持たぬ娘は影に従うべし”
そんな古文書まで残っている。
詩乃は幼い頃、その文を読んで泣いたことがあった。
だが泣いたところで何も変わらない。
むしろ、弱さを見せれば叱られるだけだと学んだ。
それ以来、詩乃は感情さえ自分の奥にしまい込むようになった。
「詩乃、お茶のお代わり」
華澄の声に呼ばれ、詩乃はすぐ立ち上がる。
(華澄は悪くない。
きっと、わたしがダメなだけ……)
そう自分に言い聞かせ、黙々と動く。
朝食が終わると、美鶴が軽く扇子を振った。
「詩乃。華澄のお気に入りの着物、泥がついていたわ。
あなた、今日中に綺麗にしておきなさい。
華澄の大事なものに触れるのだから、責任を持ちなさい」
「……はい」
“華澄のものは宝物、詩乃のものは不要”
それが花守家での絶対だった。
廊下の片隅に追いやられ、
詩乃は少しだけ壁にもたれた。
胸の奥がじんと痛む。
誰も気づかない場所で、そっと息を吐く。
(……母様。
どうして私は、花が咲かなかったの……?)
亡き母の面影はほとんど残っていない。
しかし、母の名が“光の家系”の出であったことは聞いている。
ならばなぜ自分には光が灯らなかったのか。
詩乃は自分の胸に触れた。
そこは、ずっと冷たいままだった。
花守家の家系図の中で、
“花を持たず生まれた娘”は極めて珍しい。
まるで呪われたように扱われる者も過去にはいたという。
(怖い。
けれど、いつか……いつか、私にも光が)
詩乃のその願いは、
声にならぬまま胸の奥深くに沈んでいく。
誰にも気づかれず、
誰にも届かず。
そうやって十九年。
だが──
この静寂の奥で、
まだ詩乃自身も知らない“小さな芽”が
確かに息を潜めているのだった。
石畳に残る夜露が光を吸い込み、屋敷全体がどこか重苦しい気配に包まれている。
詩乃は、廊下を歩くたびに気配を消すようにして歩く。
足音ひとつで、誰かの機嫌を損ねてしまうことを知っているからだ。
(今日こそ……何事もありませんように)
そんな願いは、いつだって簡単に裏切られる。
食堂ではすでに家族が揃っていた。
継母・美鶴は艶やかな羽織をまとい、妹の華澄は横で笑っている。
詩乃の席に置かれた膳は、他より小さく、おかずもわずか。
それが“当たり前”になって久しい。
詩乃が座ろうとすると、美鶴の声が鋭く飛んだ。
「詩乃。座らないでちょうだい。華澄の気が散るわ」
「……はい」
淡々と返事をしながら、胸の奥がひどく冷えた。
華澄は、艶やかな黒髪に簪を揺らしながら、美鶴に笑いかける。
「お母様、昨日の髪飾り、本当に素敵だったわ。
煌牙様が“華澄が一番似合う”って」
「まあ、本当に。あなたは花守家の誇りだものね」
(誇り……)
詩乃は、そっと視線を落とす。
花守家には、代々語り継がれる古いしきたりがある。
──娘は生まれた瞬間、胸の奥に“花弁の光”を宿す。
──その光が強いほど、家に繁栄をもたらす。
──光が咲いた娘は、上位家系へ嫁ぎ、家の未来を結ぶ“鍵”となる。
華澄の胸には幼い頃から鮮やかな花弁が灯っていた。
それは家の者すべてを歓喜させ、華澄は生まれた瞬間から“宝”となった。
しかし──
詩乃の花弁は、一度も咲かなかった。
“花のない娘”
“咲かぬ花”
“価値のない長女”
その烙印は、家中の扱いを決定づけた。
食卓で茶を運んでいた家政婦の妙が、そっと詩乃の近くへ寄る。
「大丈夫ですか、詩乃様……少しお顔が」
「平気です。いつものことですから」
「……“いつものこと”で済ませていいはずがありませんよ」
妙の言葉は優しかったが、それが涙を誘いそうで、詩乃は黙った。
花守家では、花弁の光にまつわる伝承が多い。
“光を持つ娘は家の守り手となり、
光を持たぬ娘は影に従うべし”
そんな古文書まで残っている。
詩乃は幼い頃、その文を読んで泣いたことがあった。
だが泣いたところで何も変わらない。
むしろ、弱さを見せれば叱られるだけだと学んだ。
それ以来、詩乃は感情さえ自分の奥にしまい込むようになった。
「詩乃、お茶のお代わり」
華澄の声に呼ばれ、詩乃はすぐ立ち上がる。
(華澄は悪くない。
きっと、わたしがダメなだけ……)
そう自分に言い聞かせ、黙々と動く。
朝食が終わると、美鶴が軽く扇子を振った。
「詩乃。華澄のお気に入りの着物、泥がついていたわ。
あなた、今日中に綺麗にしておきなさい。
華澄の大事なものに触れるのだから、責任を持ちなさい」
「……はい」
“華澄のものは宝物、詩乃のものは不要”
それが花守家での絶対だった。
廊下の片隅に追いやられ、
詩乃は少しだけ壁にもたれた。
胸の奥がじんと痛む。
誰も気づかない場所で、そっと息を吐く。
(……母様。
どうして私は、花が咲かなかったの……?)
亡き母の面影はほとんど残っていない。
しかし、母の名が“光の家系”の出であったことは聞いている。
ならばなぜ自分には光が灯らなかったのか。
詩乃は自分の胸に触れた。
そこは、ずっと冷たいままだった。
花守家の家系図の中で、
“花を持たず生まれた娘”は極めて珍しい。
まるで呪われたように扱われる者も過去にはいたという。
(怖い。
けれど、いつか……いつか、私にも光が)
詩乃のその願いは、
声にならぬまま胸の奥深くに沈んでいく。
誰にも気づかれず、
誰にも届かず。
そうやって十九年。
だが──
この静寂の奥で、
まだ詩乃自身も知らない“小さな芽”が
確かに息を潜めているのだった。
