黒峰邸への禍神襲撃から一夜が明けた。

 朔也は邸内に残る禍神の残滓を完璧に焼き尽くし、結界を瞬時に貼り直させた。彼は詩乃を抱きしめたまま一睡もせず、その瞳の奥には、妻を危険に晒した者への、冷え切った殺意が煮えたぎっていた。

 警護を万全にした後、朔也は花守家へ向かう準備を整えた。彼の隣で、静かに朔也の出発を待っていたが、その胸には、自らの力が試されることへの逃れられない予感が灯っていた。それは、恐怖ではなく、自己の運命を全うする覚悟だった。

「華澄の憎悪が、あの程度の影で済むはずがない。必ず、次がある。そして、その次は俺が裁きを下す。お前の光が及ばない領域は、この俺の炎が担う」

 朔也はそう詩乃に静かに誓ったが、その瞳はすでに、詩乃の鎮魂の光でなければ耐えられないほどの熱い炎を纏っているかのように激しく怒りに満ちていた。

 彼は自分の力と、詩乃の力の価値を、今ほど深く理解したことはなかった。2つの異能は、お互いに補完し合う、陰と陽の対となったのだ。

 その頃、花守邸では、煌牙が美鶴と華澄に黒峰邸襲撃の失敗を伝えていた。

「禍神は、花守詩乃の光によって浄化され、消滅した。あの娘の光は、まるで悲しみを全て吸い取る泉のようだった。華澄の憎悪は塵にも等しい。我々の異能では、あの純粋さには勝てない」

 煌牙の顔は蒼白だった。彼の計算と、紫堂家の異能ですら、詩乃の純粋な力の前で通用しないという事実は彼にとって最大の屈辱だった。彼は、指を震わせ、次の手を失っていた。
 
「嘘よ!嘘だわ!私こそが、最強の家系に選ばれるはずだったのに!なぜ、あの地味な娘が私よりも強い光を持つのよ!私の人生は何のためにあったの!?」

 華澄は狂乱した。彼女にとって、詩乃の覚醒は、自分の存在そのものの否定だった。彼女は自らの手を強く握りしめ、手のひらから血が滲んでも気づかない。その痛みすら、憎しみの炎で麻痺していた。

 華澄の胸の中で、怨嗟と嫉妬の炎が制御不能なまでに燃え上がった。その炎は、彼女の体を内側から焼き、生命力を吸い取りながら、負のエネルギーとして増幅していく。体温は異常な熱を持ち、周囲の空気を歪ませた。

「私の……花弁が、負けるはずがない……!私は、この世で一番美しく、愛される花のはずよ!」

 華澄の体から、紅と黒の混じった、禍々しい煙が吹き出した。それは、負の感情が実体化した不完全な禍神の顕現だった。華澄の背中からは黒い紅梅のような、禍々しい光の花弁が歪な形で現れ始める。

 それは、彼女の華やかな美しさが、そのまま毒と化したような、恐ろしい造形だった。美鶴は悲鳴をあげて意識を失って倒れ、煌牙は自身の結界内で、戦慄と興奮をないまぜにした表情で事態を観察していた。

「私は……黒峰様の妻になるはずだった!詩乃、貴女さえいなければ、私は最強の家系で頂点に立てたのに!私の輝きは……貴女の汚い光で、消せないわ!貴女ごと、この世界を道連れにしてやる!」

 華澄の憎悪は、この場にあるもの全てを焼き尽くし始めた。庭園の木々は瞬時に枯れ、屋敷の壁は熱でひび割れ、屋敷全体が黒い熱を帯びる。

 その時、轟音と共に、朔也と詩乃が現れた。彼らの登場で、華澄の黒紅の炎が一瞬、怯んだ。

「――そこまでだ」

 朔也の声は、絶対的な冷たさを持っていた。その声に、空間の熱さえも一瞬で鎮まる。
 
「黒峰朔也様!私を見て!私こそが、貴方に相応しい異能を手に入れたのよ!」

 華澄は叫び、黒紅の花弁を朔也に向けた。

 朔也は躊躇しなかった。右手を上げると、掌に荒れ狂う純粋な炎が渦を巻く。それは、即座に華澄の影を一瞬で灰燼に帰すことができる、裁きの炎だ。

「その汚い影は、この世に必要ない。消えろ。俺の炎に焼かれて、全て終われ。お前の存在は、詩乃の安息を乱す毒だ」

 朔也の容赦ない、言葉に華澄はさらに、憎悪を膨らませていく。

「待ってください!朔也様!」

 そこで、詩乃が、朔也の腕を掴んだ。その小さな体には、朔也の炎の熱と、華澄の憎悪の熱が同時に迫っている。詩乃は、朔也の炎と華澄の影、その両方を受け止めていた。

「朔也様。殺さないで。……あれは、華澄の純粋な苦しみです。朔也様の炎で焼いても、華澄の魂は救われない。裁きでは、救えないのです」

 朔也は詩乃を一瞥した。

「詩乃。俺の責務は、厄災の種を断つことだ。その愛は、俺には理解できん。だが、俺は、お前を信じる」

「ありがとうございます」

 詩乃は、朔也の制止を振り切り、華澄へと一歩踏み出した。

 その瞬間、詩乃の胸から淡い青の睡蓮の光が、再び溢れ出した。その光は、朔也の荒焔に匹敵するほどの強大な輝きを放っている。

「私は……憎しみを花に変える力を持つ。華澄は、憎しみに支配されている。私は、裁きではなく鎮魂をしなければならないのです!」

 華澄は、その純粋な光を見て、最後の力を振り絞って抵抗した。黒紅の影が、悲鳴をあげながら詩乃に襲いかかる。詩乃は目を閉じず、その全てを受け入れた。

 彼女の体から、溢れ出る睡蓮の光は、愛と赦しの水となり、華澄の影を包み込んだ。2つの異能が激しくぶつかり合う音は、激しい風となって屋敷を揺らす。

 詩乃の光が強いのは、その根源が“無垢”と“受容”だからだ。誰からも愛されなかった日々で育まれた、その底なしの優しさが、鎮魂の根源だった。

「華澄……もう苦しまないで。あなたは、愛されたかっただけでしょう?あなたのその苦しみも、私の光が全て受け止め、鎮めます。どうか、楽になって……」

 詩乃の優しい声が、光の中で響く。

 憎悪の塊は、光の中で力を失い、静かに、透明な雫となって床に吸い込まれていった。華澄は力を使い果たし、元の姿に戻って地面に泣き崩れる。彼女の顔に憎悪はもうなかったが、詩乃に助けられたという羞恥とどうして自分が朔也に選ばれなかったのか理解できない気持ちだけが残った。

 詩乃は疲労で倒れそうだったが、朔也が即座に背後から支えた。

「……よくやった。俺の裁きではなく、お前の愛で救ったな。お前は、俺の想像を超えた。俺の炎がお前を焼き尽くす前に、お前が俺の炎を沈めたように」

 朔也は、鎮まった華澄と、意識のない美鶴に冷たい視線を向け、煌牙に向かって低く絶対的な声で言った。

「紫堂煌牙。お前は何のために花守華澄のそばにいる?少なくとも、お前がちゃんと花守華澄を大切に愛しているならばこんなことにならぬよう止めているはずだ。お前は、自分の花嫁を道具程度にしか思っていなかったのだろう。そんなお前に、唯一の花嫁を選ぶ資格はない。」

 朔也の言葉に煌牙は、顔を歪めせたが、構わず朔也は冷たく告げた。

「この娘は、俺の大切な花嫁に手を出した、そしてお前はそれに加担した。花守家、及び紫堂家は本日をもって異能家としての全ての権利を剥奪し、この地の支配権も失う。2度と日の当たる場所に出ることは許さない。この汚名を抱えて、2度と俺たちの前に現れるな」

 朔也は、詩乃を抱き上げ、花守邸から去った。その炎の異能によって、花守家は存在そのものを消されたも同然だった。

「もう2度と、この憎しみの場に、お前を連れてくることはない。お前の光は、俺だけが守り、俺だけが愛する」

 朔也の声は、絶対的な愛と、未来への誓いに満ちていた。

 詩乃の胸で、淡い青の睡蓮の光が静かに、しかし力強く灯っていた。最強の当主の炎と、鎮魂の光が結びついた今、華澄の絶望は、二人の愛を決定的に固めるための、試練となった。そして、彼らの神婚を阻むものは、無くなったかに見えた。

 


 大正異能譚ー花は遅れて咲くー 第1章 完。