花守華澄からの贈り物事件以来、黒峰邸の警備は鉄壁を極めた。庭の結界は何度も張り直され、隙間なく異能の符が埋め込まれている。朔也は詩乃を自室の隣にある小さな客間へと移動させた。
 
 「俺の気配が常に届く場所にいろ」

 朔也はそう、厳命したが、その厳戒態勢は長く続かなかった。
 
 朔也は突如、大規模な禍神討伐の招集を受け、遠方へ赴くことになった。討伐隊長である黒峰の当主を動かせるのは、国の根幹を揺るがすほどの巨大な異変のみ。

 その情報自体が、既に華澄と紫堂煌牙によって巧妙に操作された罠であることに、詩乃は気づく由もなかった。

 「どうか、お気をつけて」
 
 早朝、軍装を纏う朔也に、詩乃は深々と頭を下げた。朔也は詩乃の頰に触れ、額に長い口付けを落とした。
 
 「心配するな。俺が戻ってくるまで、この部屋から一歩も出るな。……そして、もし何かが起きても、決して目を閉じるな」

 その瞳には、深い愛情と、一抹の不安が宿っていた。

 朔也が出立して数時間後の、真昼。黒峰邸は、普段の静謐さとは違う、張り詰めた沈黙に包まれていた。詩乃は言われた通り朔也の隣の部屋で読書をしていたが、胸の奥が酷くざわつくのを感じた。

 (……空気が、思い)

 外から入る光が、張りつくような黒い粒子を含んでいる。結界が揺らいでいるのだ。そして、その奥から、明確な悪意の鼓動が近づいてくる。

 その頃、黒峰邸から遠く離れた場所にある紫堂家の離れで、華澄は煌牙の隣に座っていた。

「煌牙様、本当に大丈夫なのですか?あの結界は……」

 華澄が不安そうに煌牙に尋ねた。

「心配するな、華澄。俺の妖狐の神性は、“偽り”を見抜く。黒峰の結界は強大だが、絶対ではない。特に、朔也が遠く離れた今なら、僅かな『遊び』がある。そこに、俺の“紫の息”を吹き込み、一時的に歪ませただけだ」

 煌牙の瞳は、紫色の異能の光を放っている。彼は華澄に、憎悪を込めた帯留めではなく、禍神を呼び込むための“鍵”を渡した。華澄はそれを強く握りしめ、憎しみに満ちた瞳で黒峰邸の方角を見つめた。

「詩乃……貴女を、地獄の業火が焼くのよ!」

 黒峰邸の庭を、異様な影が這い上がってきた。それは、形の成さない黒い塊。憎しみや嫉妬といった負の感情が、純粋なエネルギーとなって実体化した、禍神の原型だった。

 侍女たちの悲鳴が上がるが、黒峰の使用人も、この種の精神的な攻撃には無力だった。詩乃の部屋の扉が、音を立てて吹き飛んだ。

「ひっ……!」

 詩乃は悲鳴を上げ、後ずさる。

 禍神は詩乃の“微光”を感じ、まるで餌を求めるように部屋へと侵入してきた。その影に触れられた壁や家具は、瞬時に黒く焼け焦げ、崩れ落ちていく。

(朔也様は……間に合わない!)

 詩乃は足がすくみ、動けない。全身の毛穴が開くような恐怖に襲われる。憎悪の塊が、詩乃の胸へと迫る。

『消えろ!お前は、この世にいるべきではない』

 禍神の影から、華澄の呪詛のような声が響いた。それは、華澄の最も深い、憎しみの集合体だ。

(違う!私は、消えない……!生きて、朔也様のお側に!)

 その時、詩乃の脳裏に、朔也の言葉が過った。

『決して目を閉じるな』『お前は、憎しみを花に変える力を持っている』

 詩乃は恐怖を押し殺し、強く、強く、胸の奥にある“蕾”へと意識を集中させた。

(朔也様に守られてばかりいてはだめ。私は、朔也様の妻となるのだから!)

 このままでは、自分も……。何よりも黒峰邸のみんなが危ないと必死に蕾へと意識を向けた。

(私も……私にも光がある!)
 
 胸の奥深く、昨日硬く閉じたばかりの“蕾”が、内側から激しく脈打った。憎悪の熱に触れ、その蕾は一気に膨張する。

 ――パキン!

 心臓が破裂したような音と共に、詩乃の胸から、光が溢れ出した。

 それは、朔也が見た微かな灯ではない。部屋全体を、静かに、しかし圧倒的な力で満たす、冷たく澄んだ巨大な光の渦だった。

 光は、夜明け前の空のような淡い青色を帯びていた。そしてその光は、詩乃の体からではなく、胸の奥で、明確な花弁の形を成して咲き誇っている。

 ――睡蓮。

 朔也が贈った簪と同じ、泥の中でも清らかに咲く、強大な睡蓮の光。

 その光が放たれた瞬間、禍神の影は動きを止めた。憎悪の塊は、光を避けるように、激しく痙攣する。禍神の目的は“破壊”と“焼き尽くすこと”しかし、詩乃の放つ光は、破壊ではなく“鎮魂”。

 光は渦となり、禍神の影を包み込んだ。影から聞こえていた華澄の呪詛の声は、悲鳴へと変わり、やがて嗚咽へと変わる。

 憎しみとは、本質的には“苦しみ”だ。詩乃の光は、その苦しみの核を燃やすのではなく、優しく撫で、静かに鎮めようとする。

 禍神は、抵抗する力を失った。憎しみの塊は、その場で砕け散るのではなく、透明な雫となって、床に吸い込まれていった。まるで、激しく泣いた後の安堵のように、静かに浄化されたのだ。

 光が消え、静寂が戻る。

 詩乃は膝から崩れ落ちた。全身から力が抜け、汗が滲む。しかし、彼女の胸の奥では、はっきりと、完全な形を成した淡い青の花弁が灯っていた。

「――――詩乃ッ!」

 その直後、文字通り空気を引き裂くように朔也が部屋へ飛び込んできた。彼の顔は怒りと焦燥で歪んでいたが、目の前の光景に息を呑む。

 部屋は荒れているが、詩乃は無事だ。そして、その詩乃の周囲は、ごく僅かだが、しかし確かに睡蓮の残光が漂っていた。

 朔也は、詩乃の元へと駆け寄り、瓦礫に構わず彼女を強く抱きしめた。

「馬鹿な真似を!なぜ部屋から出た!」

 朔也は怒鳴ったが、その声は安堵と混ざり合い震えていた。

「朔也様……心配をおかけしてすみませんでした。ですが、朔也様の妻になる者として朔也様が留守の間は邸と邸の方々をお守りしたかったんです」

 詩乃は、申し訳ないことをしてしまったと思いつつ、素直に自分の思っていることを朔也に話をした。

「……馬鹿者。そんな風に言われてしまっては怒れないだろう」

 朔也は愛おしそうに詩乃の胸に灯る完全な花弁の光を見つめた。それは彼が待ち望んだ、唯一の光。

「……咲いたな。俺の遅咲きの花」

 朔也は、詩乃の髪に挿された睡蓮の簪に触れた。簪に埋め込まれた水晶は、詩乃の花弁の光を吸い取り、激しく脈打つように輝いていた。

 詩乃は、朔也の胸に顔を埋めた。恐怖はもうない。憎しみを乗り越え、力を開花させたことで、詩乃は初めて、自らの運命を受け入れたのだった。

「はい。……もう、誰にも、この光を消させません」

 その日、黒峰邸の当主と花嫁は、瓦礫の中で互いの存在を確かめ合った。
 
 そして、最強の当主に仕掛けられた罠は、結果として、彼の花嫁の完全な覚醒という予期せぬ祝福をもたらしたのだった。