父と娘のアヴニール

 高校受験を控える娘が東京の学校に行きたいと駄々をこねるので頭を抱えている。
 女子サッカー部の強豪校に進学したいらしい。
 娘は地元のなでしこリーグ所属チームの下部組織でプレーしている。
 テクニック、フィジカル面で特別に優れているらしく、運営からはトップチームの練習に参加しないかと誘いがきている。

 高校は公立でも私学でもかまわない。
 地元チームで評価されているのなら上京する必要はないではないかと娘に問うたが頭を振るばかり。
 子育ては家内に任せっぱなしだったので、娘がここまで聞かん坊だとは思わなかった。

 居間で座椅子に背中を預けて天井に向けて紫煙を吐いていたら入浴を済ませた家内がろくに髪も拭かずに居間に入ってきた。
「おいおい。畳が濡れるじゃねえか」
 家内は黙礼すると紅潮した頬をバンバンと両手で何度も叩いた。私はびっくりしてたまらず、
「オイオイオイオイオイッ! 取組前の力士じゃねえんだから」
 と奇行を慎むよう注意した。

 こんなことをするのは決まって何か特別なことを告げるときだ。
 家内は化粧水を肌に浸透させていたと明らかにわかる嘘をついた。
 私は乳液を塗るなりパックするなりしてこいと言って灰皿で火を揉み消した。家内は正座したまま動かない。
「まさか進学の話か?」私は溜め息を付きながら煙草に火を点けた。「覚悟はできてるから言ってみなさい」
「実は……都立高のスポーツ推薦を受けさせました」

 家内は意外にも毅然としていた。道理で二、三日ほど二人の姿が見えなかったわけだ。
 気付かなかった私も愚かだが、やたらカツ丼と生姜焼き弁当が食べたかったので六食分ほど買ってきてもらっていた。
 部屋に籠ってスマホとムスコをいじっているうちに娘と家内は東京に行っていたというわけだ。

 私はスマホを手に取り、都立高のスポーツ推薦についてネットで調べた。
 調査書のみならず、作文や面接を課す学校もあるようだ。
 実技試験は当たり前に実施される。なにより合格率の低さに腰を抜かした。

「おいおい。都立ってのはそもそも強豪なのか? うちのユースチームより強いのか?」
 私は腹立ちまぎれに紫煙を噴射した。
「ごめんなさい。私も詳しいことは……」
 私の怒りが爆発するのを恐れたのか、家内は早々に立ち去った。

 私は天井を見上げ、またプカリプカリと煙を吐いた。
 首の骨を鳴らして考えているうち、もし落ちるようならばまずいのではないかと気づいた。
 トップチームひいては下部組織のチームのレベルが問われることになる。

 それから合格発表当日までの四日間、思考を停止させ煙草ばかり吸っていた。
 睡眠不足と酸素供給不足で意識がもうろうとしていた。自室の壁時計を見たら正午すぎだった。
 家内に昼食を買ってくるよう頼もうとしたら懐中のスマホが鳴った。
 画面を見ずに適当にスライド、タップ操作をし、耳に当てた。下部組織の運営スタッフからだった。
『トップチームは明日から練習に合流してほしいと言ってます。よろしいでしょうか?』

 私は娘に訊いてくださいと言って通話を切った。
 部屋が真っ白に煙っていたので窓を開けた。
 膨らんだカーテンからすり抜ける寒気を新しく生まれた気持ちで吸い込んだ。