「わ、近!」
「また転ぶって」
「お、お前が!」
そう言いかけて、視線を合わせれば上手く言葉が紡げず、槙はうろうろと視線を彷徨わせた。
槙の様子のおかしさは恐らく織人に伝わっているのだろう、再び溜め息の気配がして、槙はきゅっと胸を痛めた。きっと、呆れて行ってしまうのだなと思っていれば、予想に反して、俯く頬に手が触れた。
「ちゃんと飯食ってんの?」
「え…、」
「それに、寝れてる?」
織人は少し屈んで、俯く槙の表情を心配そうに覗き込む。親指が頬の上をなぞっていくので、恐らく目の下に出来た隈を見て心配しての行動だろうが、それすら上手く受け止められず、槙は慌ててその手から逃れた。
「く、食ってるし、寝てるから!」
いつも通りを心掛けたが、笑ってみせる筈の顔は引きつってしまった。織人は訝る視線を向けていたが、やがて納得したのか、それとも諦めたのか、「ならいいけど」と踵を返した。その背中を見たら、無性に寂しさがこみ上げてきて、槙は思わず声を掛けていた。
「あ、なぁ!」
「何?」
だが、振り返った織人はやはり普段と何ら変わらない様子で、その顔を見たら、槙は何も言えなくなってしまった。
「…いや、なんでもないや」
そう言うと、織人は少し首を傾げただけで、そのまま行ってしまった。
自分の家にも来なくなって、学校に来ても顔を合わす機会も少なくて。それなのに、織人は以前と何ら変わらない。
おかしいのは自分の方だと気づかされたみたいで、何も言葉が出てこなかった。
触れられた手に甘えそうになって、その支えがもう自分の元にはないと思ったら、その現実を認める事が怖くなった。
今だって、たまにはうちに来ないかと言いそうになった。それよりも、聞く事があるだろう。バイトは忙しいのかとか、根をつめてないか、体を壊してないかとか。
織人の為に聞く事は、いくらでもあるのに。
「…自分の事ばっかだな、俺」
織人の気持ちを受け取れないと突き返したのは自分だ、いずれは距離が出来る事は分かっていた筈なのに。
織人に、もう頼っちゃいけない。そう思えば、不意に文人の姿が頭を過った。
昔もこうやって、自分中心に物事を考えていなかっただろうか。文人に気持ちを押し付けていなかったか、無理な選択を迫った事はなかったか。もしかしたら、自分が覚えていないだけで、いや、自分の存在自体が、文人にはやはり足かせになっていたのかもしれない。
槙は無意識に胸元のネックレスを握りしめた。
家族への愛と、自分への愛。それを天秤にかけた時、傾いたのはどちらだろう。選びきれずに、文人は自身の命を捨ててしまったのだろうか。
それとも、文人は優しいから、愛してもいないのに自分の事を突き放せなかったのだろうか。文人のお陰で学校に通えて、勉強をして、そんな生徒に迫られて。もし突き放したら、また学校も勉強も放り出すかもしれないと、無理をして合わせてくれたのだろうか。
そんな優しさいらないのに、構わず俺を切り捨ててくれたら良かったのに。
槙は、ぎゅっと唇を噛みしめると、足早に階段を駆け上がった。
文人をこんな風に失うくらいなら、振られる方がずっと良い。手酷く振ってくれたら、きっと諦められたのに。
「…諦め、られたかな」
今だって、まだ手放せない。痛みになって傷になって、絶対消えないようにと、槙は更に深く傷を抉っている。その痛みの先に、どうしてか織人の姿が見えて、槙はその姿を懸命に頭から追い払った。
揺れるなと、槙はただ自分に言い聞かせていた。


