「何、笑ってんだよ」
「いや、だってお前…可愛いくて!」
「はあ!?なんだよ、それ!」
今までの胸の強ばりが解けたように、ヒーヒー言って笑う槙、それが解せず赤くなって憤慨する織人。そんな二人の様子に、側で見守っていた龍貴も、つられるように笑顔になっていて、槙の楽しそうな様子に、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「じゃあ、俺はそろそろ失礼します!」
この分だと心配はいらないなと、龍貴が元気良く敬礼ポーズで告げれば、槙は笑いを抑え、「今日はありがとうな」と、どこか申し訳なさそうに眉を下げた。槙は、実咲と会った時の事を気にしているのかもしれない、龍貴はどんと自身の胸を叩いて、からりと笑った。
「坊っちゃんの為なら、なんとやらっすよ!」
「だから、坊っちゃんはやめてってば」
槙は呆れ顔を浮かべながらも、その表情はいつもと変わらない笑い顔だ。
「気をつけて帰れよ」
「はい!お二人も仲良くっすよ!坊っちゃん、素直が一番ですよ!」
「はいはい、じゃあな」
槙は、これ以上はからかわれると思ったのか、ひらひらと手を振って、先にアパートの階段を上がって行ってしまった。織人は槙の背中を見送って、龍貴に視線を戻した。織人も、今日が何の日であるか分かっている、だから、何がなんでも、今晩は槙の側に居たいと思ってくれたのだろう。龍貴はそう思い、何か聞きたげな視線を向ける織人に、そっと表情を緩めた。
「織人さん」
先程までの元気な声を潜めた龍貴に、織人は自然と表情を強ばらせた。
「今日、田所の奥さんに会ったんすよ」
「え、」
「まさかのバッティング。俺はカチンときちゃったけど、坊っちゃんは冷静でしたよ。でもしんどいと思うんすよ、だから、」
「分かってる」
間髪入れずに頷いた織人に、龍貴は僅か目を瞪り、それからどこかほっとしたように頷いた。龍貴も織人の事は子供の頃から知っている、小さな背中が槙を追いかけていた事、もう背中を追いかけるだけの小さな子供の頃とは違うのだと、織人が頼もしく見えたからだ。
「うん、頼むっす」
龍貴はそう、織人の肩を軽く叩いた。言葉では軽く聞こえたかもしれないが、織人の肩に触れた手の平は、熱く龍貴の思いを伝えただろう。織人はその思いを汲み取り、神妙に頷いてくれた。
「…でも、弱みにつけこんで坊っちゃんを傷つけるような事があれば、いくら織人さんといえど…分かってますよね」
ゆらりと顔を上げた龍貴の、重苦しく凄む眼差しに、織人はさすがに息を詰まらせた。きっと織人は思い出したのだろう、龍貴の前職を。先程よりも神妙さを増して頷いた織人に、龍貴はパッと笑顔を浮かべて手を離した。
「はは、そうびびんないで!俺は、織人さんの味方っすから!これでも応援してるんすよ」
そう朗らかに言えば、織人はきょとんとして目を瞬いて、遅れて顔を赤くすれば、龍貴は笑って手を振りながら、自慢の愛車に乗り込んで去って行った。
「おーい、織人ー?」
その声に織人がはっとして顔を上げると、なかなか部屋に入って来ない織人を心配してか、槙が部屋から出て顔を覗かせていた。織人は槙に目を止めると、熱さの残る顔を誤魔化すように頭をわしわしと掻き、「今、行く」と、アパートの階段を駆け上がった。
***
織人がキッチンに立つと、槙が興味津々とばかりに織人の手元を覗き込んできた。
「今日は何?」
「肉。店長が余るっていうから、ハンバーグのタネ貰ってきた」
「ハンバーグ?チーズとろけるやつ?」
「やつ」
「やった!」
「ガキじゃねぇんだから」
「いーじゃん!俺好きなんだよなー」
嬉しそうな槙に、織人は頬を緩めつつ、内心ではもどかしくも思っていた。喜んでくれてるのはきっと本心だろうが、多分、今の槙は無理をしてるように思う。心配させないように、空元気を振り撒いているのだろうと。
織人だって知っている、今日が何の日かって事くらいは。龍貴に言われなくとも分かっている、織人だって、槙の事をずっと見てきたのだから。
食事の合間も、槙は良く喋っていた。織人の手料理を褒め、美味しい美味しいとハンバーグを平らげ、帰りの車の中で聞いた龍貴の何でもない話を織人に聞かせていた。織人は槙に合わせて相槌を打っていたが、その話は半分も耳に入っていなかった。でもそれは、槙も同じだろうと思う。槙は、話したくて話してるんじゃない、良く回る口は、頭の中を巡る思いを掻き消す為じゃないかと織人は思う。
楽しそうにしなくてもいいのに、辛いって言えばいいのに。
耐えきれず口を開いたが、槙の何でもないような目を見たら、結局何も言えなかった。


