超絶クールな先輩は俺の前でふにゃふにゃのSubになる


 グレアは目に見えないが、確かに存在する。腕の中でぎゅっと縮こまっていた身体がひくん、と揺れ先輩の口が小さく開いた。

「あ……」
「飛鳥井先輩、きこえますか? 俺を見て(Look)ください」

 黒縁の眼鏡越しに長いまつ毛が震え、まぶたが上がる。黒いのに透明感があって、光の加減でグレーにも見える。吸い込まれそうな瞳。
 それが俺を捉えたとたん、先輩はシャツを掴んでいた手をパッと離し、身を捩って膝の上から下りようとした。
 その危なっかしい動きに俺も慌ててしまう。

待てって(Stay)! あ、悪い……悪気はないんです。先輩、危ないから、そのままでいてください」
「ご、ごめ……ん」

 俺の声にぴたっと動きが止まり、不安げに見上げてくる。前髪に隠れた眉尻が下がって、水分量の多い目が俺を見て揺れている。
 飛鳥井先輩の叱られた子犬のような反応に、俺まで罪悪感で胸がいっぱいになってしまう。怒ったわけじゃない。謝らせたかったわけじゃないんだ……

「これは応急処置です。先輩、身体は大丈夫ですか? つらいところがあったら言って(Say)ください」
「だ、だいじょうぶ……さっきは怖くて、身体震えたけど。いまは、治ってきた」
「良かった……!」

 コマンドのおかげだが、素直に答えてくれたことが嬉しくて、同時にめちゃくちゃほっとした。先輩の肩に顔をうずめるように頭を動かしてしまい、「ふぁっ」という声と共に先輩の身体がぴくっと揺れる。
 俺は自分のやるべきことを思い出し、慌てて身体を起こした。

いい子ですね(Good boy)、先輩。ありがとう」

 意識せずその頭を撫でてしまっていた。柔らかい髪と、小さく形のいい頭を手のひらに感じる。先輩の瞳がとろりと熱を帯びていく。

「……うん。やったぁ……」

 動揺で手の動きが止まってしまった。ふにゃ……と表情を緩めた先輩は、バレてないと思っているのか、そぉっと俺の手に頭を押し付けてくる。

 こ・れ・だ・よ……!

 Subってみんなこんななのか!? ギャップがやばい。ぶっちゃけて言えば――可愛すぎてやばい。
 たとえ華奢でも腕の中の身体は確かに男の骨格で、感じる重みも女とは違う。それなのに……顔が熱くて、人生で初めてくらいに赤くなっている気がした。
 
 先輩を支える手と撫でている手で両手が埋まっているから手では熱を隠せない。俺はうまく次の言葉が出てこず、先輩から顔を逸らすことしかできなかった。

「かざやぁ、グレアほしい」
「…………」

 忍耐だ! 俺!
 
 グレアは威嚇にも使うし、逆にSubへのご褒美や、プレイ中コマンドを通りやすくするためにも使う。人にもよると聞くが、Subは信頼する相手からグレアを受けただけで蕩けた心地になることもあるという。
 間違っても信頼されているとは思えないものの、先輩はグレアの影響を受けやすいタイプに見えた。
 
 俺はこれ以上グレアを出して先輩がとろっとろになったり、あるいはコマンドを与え続けていると、間違いなく俺自身の理性が崩壊するという自信がある。そしてそれを、プレイ後の先輩が赦してくれるとは到底思えない。

(……これ以上この人に嫌われたくない)

 ひとつの思いが頭の中を占めてゆく。俺を毛嫌いしてくる憎たらしいひとなのに、もう関わらなければいいだけなのに、グレアの影響を抜けたあとの先輩が嫌がることはしたくなかった。
 そうすると今の先輩の望みを退けるしかないわけで。

「ごめん、先輩」

 ぽつりと謝ることしかできない。潤んで煌めく瞳に押し負けそうで、先輩の長い前髪をぐしゃぐしゃと乱す。
 そんな風にされても撫でられていると思っているのか嬉しそうに目を細めて口元は緩んでいるし、また甘えるように見上げてくる顔は心臓に悪い。

 この時間が早く過ぎ去ってほしいという思いと、永遠に続いてほしいという思いと。しばらく相反する感情を持て余しながら視線を繋いでいれば、す……っと先輩の目に理性が戻ってくるのがわかった。

 状況を認識した途端びくっと身体を震わせ、慌てて立とうとするのを止めて自分が立ち上がった。膝から下ろした先輩を椅子に座らせて、自分が目の前にひざまずく。
 先輩が口を開く前に、こちらが先手を打つ。俺はためらいなく頭を下げた。

「すみませんでした。俺、頭に血が上って……つい威嚇のグレアを出してしまったんです。不意打ちキツかったっすよね」
「ああ、いや……」

 正面から動揺が伝わってきたが、侮蔑の目を向けられることが怖かった。声からは感情を判断できず、視線を上げられない。
 
「応急処置とはいえ勝手にプレイしてしまって、不愉快でしたよね。忘れてください。俺も忘れます」
「まぁ、その……」
「俺、もう行きますね! 石田先輩がたぶん近くにいるんで、声かけときます」
「あ……」

 先輩がなにか言おうとしていることは分かっていた。でもたぶん、俺の言っていることは間違っていない。俺だってプレイじゃなかったら、あんなふうに人を褒めたり撫でたりするなんて恥ずかしくてできるとも思わない。

 情けないのは承知の上でたたみ掛け、先に部屋を出る。一瞬だけ掠めるように見た先輩の顔色は、良くなっていたように思う。

(思い返すと恥ずかしーけど、やっぱなんかスッキリしてるんだよな……)

 夕日の差し込む廊下の先、険しい表情で待つ石田先輩を視界に収めつつ、不思議な爽快感が身体を包んでいるのを感じる。これがDomの本能なのか、と俺は小さく呟いた。