超絶クールな先輩は俺の前でふにゃふにゃのSubになる


 先輩の部屋は二階にあった。六畳ほどの空間で、ベッドと学習机以外にあまり物はない。近づいたときに感じる、先輩の匂いがしてドキドキする。
 机の上には広げた赤本があり、それを押しのけてグラスを置いた先輩はクローゼットから低い折りたたみテーブルを出した。慌てて手伝う。

 俺の勝手な行動に怒っているのだろう、先輩の表情は終始むすっとしていて、全く喋らない。俺もどうしたものかと考えながら身体を動かすが、テーブルのセッティングは一瞬にして終わってしまった。
 お母さんがカットしたロールケーキを持ってきてくれて、そのあとは痛いほどの沈黙に包まれる。他の姉弟は今いないのか、二階はとても静かだ。

「エプロン……脱いじゃったんですね」
「あ゙ぁ?」
「アッ、ナンデモナイデス……」

 うっかり導入を間違えてしまったせいで、先輩が怖い。けど思ったよりいつも通りで安心した。ホッとした表情に気付いたのか、先輩は気まずそうに視線を逸らす。

「怪我は……大丈夫か?」
「はい! 明日には抜糸なんです。先輩こそ……大丈夫ですか?」

 先輩だって殴られていたし、一番心配なのは精神面だ。見た目にはもう、傷もなく元気に見える。ただすぐ頷いた先輩に、それ以上のことを訊く勇気も出てこない。
 ごまかしにロールケーキを食べ、他愛のないことを聞いた。お菓子作りは無心になれるからたまにやるらしい。

 二人で話していても以前のようなくすぐったい空気にはならず、先輩の態度はどこか固い。邪険にされている感じは消えたが、ぴくりとも笑わないのだ。

 俺はどうすればいいのか分からず、小さな疑問は棚に上げて、みずからの本題を切り出すことにした。崩していた足を正座に変え、姿勢を正す。正面からは怪訝な目を向けられている。

「朔先輩。俺、ずっと考えてたんです。前にも俺以外とプレイしないでほしいって、言いましたけど……その気持ちは変わってません。他のDomなんかに跪かせたくない」
「……うん」

 初心者Domのくせに独占欲まる出しで、なにをお前がと言い返されたっておかしくない。それでも朔先輩は小さく相槌を打ち、聞く姿勢でいてくれる。その頬はほんのりと色づいているように見えた。
 いや、こんな告白聞く方も恥ずかしいよな。震える息を吐き出し、言葉を紡ぐために先輩の部屋の空気を吸い込む。

「俺の……ちゃんとしたパートナーに、なってもらえませんか。せめて自分が成人してからって、思ってたんですけど……それまで我慢できません。周囲のやつらにも先輩は俺のSubだって知らしめたいんです」
「は……」

 目も口も丸くした先輩が思わず漏れたような声をこぼす。たった十七歳のガキが将来を誓うなんて、馬鹿らしいに決まってる。でも本気だ。初めてプレイしたSubが先輩だったことは、偶然じゃなく運命だったと信じたい。
 俺はこのまま言いたいことを言い切ってしまおうと言葉を重ねた。

「本当はすぐクレイムも結びたいくらいです。もう、先輩以外の相手なんて考えられない。パートナーがいるだけでも、Subは安定しやすいっていうし……この前みたいなことも、ある程度は防げると思うんです。もっと、ちゃんと俺に守らせてください」
「風谷、自分がなに言ってるかわかってんの? 僕のせいで、お前まであることないこと言われてるんだぞ!?」
「違う! 先輩のせいとか、そんな風に考えたことないし……俺は他人になにを言われても気にしません」
「僕が気にするんだよ!」

 泣きそうな響きをともなった叫びに、ハッとする。思わず先輩の方まで近づいていって、顔を覗きこんだ。焼き菓子の甘い香りが鼻をかすめる。
 先輩が気にしていたのは、自分への中傷じゃなくて、もしかして……俺のことだったのか?

「俺はぜったいに、大丈夫です。何を言われたって跳ね返してやりますよ。それより、先輩が他の人とプレイするほうが耐えられない」
「プレイとかクレイムとか……そこに僕の意思はあるのかよ」

 一段と低くなった声に、少し身を引く。色づいたと思っていた先輩の顔は逆に青褪め、目尻は怒りに染まっている。
 自分が先輩に相手をしてもらえること前提で話を進めてしまっていたことに気づき、あわてて弁解した。

「もちろん、先輩が嫌なら……他の人も相手にしてもらって……」
「は?」
「専属契約じゃなくても我慢します」

 もともと望み薄の提案だったのだ。ただ、受け入れてもらえば大手を振って先輩を守れる。俺は先輩を独占できる。
 双方にとってメリットがあると踏んでいた。にもかかわらず……空気は凍りつくばかりだ。もしかして、他にパートナーになりたい人がいるとか?

 グラスに残った最後の氷が、ピシッと音を立てて裂ける。

「契約……ね。お前はさ、俺やお前に恋人とかできて、いつか結婚しても俺のDomでいたいわけだ」
「え……」
「お前の言ってるパートナーって、そういうことだろ? お互いとしかプレイしないっていう、契約」
「そう、ですけど……」

 そうだけど、そうじゃない。確かに自分の理想としていたのは、両親とパートナーたちとの関係だ。それなのに、いざ朔先輩に整理して説明されると、鉛のような違和感が胃に落ちる。

 先輩が立ち上がって、俺を見下ろした。今日のいのちを終えようとしている太陽が西日となって、窓から差し込む。逆光で先輩の表情がよく見えなくなる。

「そんなのお断りだ。勘違いするなよ、僕はDomに守られたいなんて思ったこと、これまで一度もない!」
「あ……すみません。俺が勝手に守りたいって、思ってただけです……」
「強いDomだからって調子に乗ってるんだよお前は。相手が、僕が……なにを考えてるかなんて、想像したこともないんだろうな」
「そんな……こと」
「風谷……出ていってくれ。もうお前の身勝手なことばを聞きたくない。もう、お前とは……プレイ、したくない……」

 出ていけという命令が、まるでコマンドのように俺を動かした。ショックで呆然としていたから、先輩から示された唯一の願いに応えることしかできない。
 俺は間違えたのだ。どこかでボタンをかけ違えて、不格好な望みを差し出してしまった。それで……先輩を傷つけた。

 腹の奥に落とされた鉛は重く、平衡感覚を失ったように頭がぐらぐらする。