「……まて。もう止めろって!」
「あ、すみません」
グレアの影響を抜けたらしい先輩が、俺の手を掴んで止める。黒い宝石みたいな目が、少し潤んで煌めいているのが綺麗だ。
俺はぼーっとそれを見つめながら、乱れた先輩の髪を手櫛で直す。さらさらしてて真っ直ぐで、指通りのいい髪。
「おいっ……もう、離せって」
「あ……すみません」
膝に乗ったままお世話させてくれるなんて、どうしたんだろうか。嬉しくて調子に乗っていたら、俺の腕が先輩の腰をがっちり掴んだままだったらしい。
ようやく解放された先輩は、脚に力が入ることを確かめながらゆっくりと立ち上がり、不機嫌そうに振り返った。
「お前さぁ。本当に体調悪くないんだよな?」
そう言いながら、額に手のひらを当ててくる。俺より体温の低い手は躊躇いもなく、それでいて思いのほか優しい。先輩から触れられたのは、これが初めてな気がした。
「んー……許容範囲か。なんかぼーっとしてねぇ? 文化祭の準備はどうなの」
「っ、順調っす」
「じゃあ勉強で夜更かししてんだろ。見かけによらず真面目だもんなぁ、風谷」
今度は髪をくしゃくしゃっとされて手が離れていく。俺のやり方とは違って、わざと乱れさせて遊ぶみたいな慣れた手つきだ。確か弟と妹がいるんだったか……
先輩から向けられる兄のような視線に、自然と心が開いた。
「必死ですよ。……俺、いつか親の事業継ぎたいんすけど、家族と仕事するなんて絶対嫌だって言ってる弟の方がよっぽど優秀で……」
「おお、お前偉いな。親御さんはなんて?」
「別に……好きにしろって」
両親は継いでくれたら嬉しいかな〜くらいで、無理強いしない姿勢でいてくれる。碧斗が今のところ外に出たいと言っていることに対しても、二つ返事だ。
「いい親じゃん。それがなんか問題あるわけ?」
「だって……弟の方がよかったって、思われたくないじゃないすか」
優秀な弟に来てほしかった。出来の悪い兄じゃなぁ……なんて、親や会社の人に思われたらと想像するだけでぞっとする。今できることなんて限られてるけど、せめて親や弟と同レベルの大学を出たい。
「ははっ。だっせーな」
「……先輩」
誰にも言えない悩みを打ち明けて、今日はなんだか優しい先輩に慰めてもらえる気がしてたのに……だっせーって。いや俺が情けなくて馬鹿でダサいのは分かってるけど!
思わず拗ねた気持ちになり、ジトッとした目で先輩を見上げた。おもしろそうに口角を上げながら、先輩が口を開く。
「学校で勉強してることってさ、社会に出るとほとんど役に立たないらしいぜ? それより頑張った経験とか、人とがっつり関わった経験が役に立つんだとよ。――というのがバ先の先輩談」
「ちょっと感動したの返してくださいよ……誰ですかそれ」
「あはは……まぁつまりさ、お前は親の会社に入って数学とか物理やる訳じゃないなら、そんな気を張らなくて大丈夫だろ。聞いた感じ充分頑張ってると思うし」
「…………」
その辺の身近な大人に言われるより、先輩の言葉は効いた。これは、間違いなく俺を励ましてくれている。嬉しくて、言葉が詰まってしまう。
「お前のクラスは文化祭に向けてまとまりがすごいって、武蔵が言ってたよ。なんつーか、カリスマ性っていうの? すげーあると思う。目立つだけじゃなくて、こう、言うことに従いたいと、思わせるような……ぐ。とにかく! お前は上に立つ才能あるよ。そんな根詰めて勉強やらなくても、いい社長になれそう」
「……ありがとう、ございます」
「あー褒めすぎた。いまの無し無し。調子に乗るなよ」
「えー……無理」
高校に入ってからずっと胸に滞留していた心のもやもやが、朔先輩が吹き込んだそよ風によって晴れてゆく。学校の授業がないせいか、最近は家でひとり勉強していても思うように進まず悶々としていたのだ。
いつも見た目くらいしか褒められることがなくて、それだって贅沢なことだと言われてしまえばそうだけど……がんばってるとか、内面を褒められることはそうそうない。
先輩は俺をどうしたいんだ? これだけ俺の心を掴んで、どうして何もないふりをできるだろうか。
椅子からゆっくりと立ち上がると、びっくりした様子で先輩が後ずさる。
「朔先輩。ひとつお願いがあるんですけど……」
「さっそく調子に乗るな!」
俺は今しかないと思って、ずっと思っていたことを告げた。過去はどうしようもないけど、これからは――
「俺以外の人と、プレイしないでもらえませんか」
「は……」
「嫌なんです。朔先輩が、俺以外の人と……するの」
「…………」
トン、と先輩の尻がぶつかった机に両手をついて、先輩を腕の中に閉じ込める。ポカンと目を丸くした先輩は、間近に迫った俺の胸から徐々に顔を上げた。
頬に血が上っている。怒って……いや、照れてる?
いい返事を待っていたものの、先輩は口を開かない。目をうろうろと彷徨わせ、唇を引き結ぶ。リップが落ちきっていないようで、いつもよりやっぱり唇が赤い。
先輩は結局なにも言わず、顔を伏せてしまった。あーあ、くそ。この反応は…………
気づけば窓の外の声も、廊下からの音も聞こえなくなっていた。細いあごをつかみ、無理やり上を向かせる。
「っ……!」
ドン! と胸を拳で叩かれたけど、敢えてゆっくりと顔を離した。ちゅ……と離れた唇が小さな音を立てる。
前髪の隙間から見えた先輩の目に涙の膜が張っていて、その煌めきが俺を惑わす。もう一度角度を変えて唇を重ねようとした。
「やめろ!!」
今度は全力で押され、身体がよろけた。先輩が叫ぶ。
あ……と自分のやらかしたことに気づき、呆然としているうちに先輩は俺から離れる。机の上にあった眼鏡を掴み、そのまま走って教室を出ていってしまった。
最悪だ。やっちまった。
「あー……馬鹿じゃん、俺」
周囲に音が戻ってくる。さすがに自分の顔を覆わずにはいられない。
愚かな男の後悔をあざ笑うかのように、鳴き出した蝉の声が暑苦しく辺りに響いていた。
「あ、すみません」
グレアの影響を抜けたらしい先輩が、俺の手を掴んで止める。黒い宝石みたいな目が、少し潤んで煌めいているのが綺麗だ。
俺はぼーっとそれを見つめながら、乱れた先輩の髪を手櫛で直す。さらさらしてて真っ直ぐで、指通りのいい髪。
「おいっ……もう、離せって」
「あ……すみません」
膝に乗ったままお世話させてくれるなんて、どうしたんだろうか。嬉しくて調子に乗っていたら、俺の腕が先輩の腰をがっちり掴んだままだったらしい。
ようやく解放された先輩は、脚に力が入ることを確かめながらゆっくりと立ち上がり、不機嫌そうに振り返った。
「お前さぁ。本当に体調悪くないんだよな?」
そう言いながら、額に手のひらを当ててくる。俺より体温の低い手は躊躇いもなく、それでいて思いのほか優しい。先輩から触れられたのは、これが初めてな気がした。
「んー……許容範囲か。なんかぼーっとしてねぇ? 文化祭の準備はどうなの」
「っ、順調っす」
「じゃあ勉強で夜更かししてんだろ。見かけによらず真面目だもんなぁ、風谷」
今度は髪をくしゃくしゃっとされて手が離れていく。俺のやり方とは違って、わざと乱れさせて遊ぶみたいな慣れた手つきだ。確か弟と妹がいるんだったか……
先輩から向けられる兄のような視線に、自然と心が開いた。
「必死ですよ。……俺、いつか親の事業継ぎたいんすけど、家族と仕事するなんて絶対嫌だって言ってる弟の方がよっぽど優秀で……」
「おお、お前偉いな。親御さんはなんて?」
「別に……好きにしろって」
両親は継いでくれたら嬉しいかな〜くらいで、無理強いしない姿勢でいてくれる。碧斗が今のところ外に出たいと言っていることに対しても、二つ返事だ。
「いい親じゃん。それがなんか問題あるわけ?」
「だって……弟の方がよかったって、思われたくないじゃないすか」
優秀な弟に来てほしかった。出来の悪い兄じゃなぁ……なんて、親や会社の人に思われたらと想像するだけでぞっとする。今できることなんて限られてるけど、せめて親や弟と同レベルの大学を出たい。
「ははっ。だっせーな」
「……先輩」
誰にも言えない悩みを打ち明けて、今日はなんだか優しい先輩に慰めてもらえる気がしてたのに……だっせーって。いや俺が情けなくて馬鹿でダサいのは分かってるけど!
思わず拗ねた気持ちになり、ジトッとした目で先輩を見上げた。おもしろそうに口角を上げながら、先輩が口を開く。
「学校で勉強してることってさ、社会に出るとほとんど役に立たないらしいぜ? それより頑張った経験とか、人とがっつり関わった経験が役に立つんだとよ。――というのがバ先の先輩談」
「ちょっと感動したの返してくださいよ……誰ですかそれ」
「あはは……まぁつまりさ、お前は親の会社に入って数学とか物理やる訳じゃないなら、そんな気を張らなくて大丈夫だろ。聞いた感じ充分頑張ってると思うし」
「…………」
その辺の身近な大人に言われるより、先輩の言葉は効いた。これは、間違いなく俺を励ましてくれている。嬉しくて、言葉が詰まってしまう。
「お前のクラスは文化祭に向けてまとまりがすごいって、武蔵が言ってたよ。なんつーか、カリスマ性っていうの? すげーあると思う。目立つだけじゃなくて、こう、言うことに従いたいと、思わせるような……ぐ。とにかく! お前は上に立つ才能あるよ。そんな根詰めて勉強やらなくても、いい社長になれそう」
「……ありがとう、ございます」
「あー褒めすぎた。いまの無し無し。調子に乗るなよ」
「えー……無理」
高校に入ってからずっと胸に滞留していた心のもやもやが、朔先輩が吹き込んだそよ風によって晴れてゆく。学校の授業がないせいか、最近は家でひとり勉強していても思うように進まず悶々としていたのだ。
いつも見た目くらいしか褒められることがなくて、それだって贅沢なことだと言われてしまえばそうだけど……がんばってるとか、内面を褒められることはそうそうない。
先輩は俺をどうしたいんだ? これだけ俺の心を掴んで、どうして何もないふりをできるだろうか。
椅子からゆっくりと立ち上がると、びっくりした様子で先輩が後ずさる。
「朔先輩。ひとつお願いがあるんですけど……」
「さっそく調子に乗るな!」
俺は今しかないと思って、ずっと思っていたことを告げた。過去はどうしようもないけど、これからは――
「俺以外の人と、プレイしないでもらえませんか」
「は……」
「嫌なんです。朔先輩が、俺以外の人と……するの」
「…………」
トン、と先輩の尻がぶつかった机に両手をついて、先輩を腕の中に閉じ込める。ポカンと目を丸くした先輩は、間近に迫った俺の胸から徐々に顔を上げた。
頬に血が上っている。怒って……いや、照れてる?
いい返事を待っていたものの、先輩は口を開かない。目をうろうろと彷徨わせ、唇を引き結ぶ。リップが落ちきっていないようで、いつもよりやっぱり唇が赤い。
先輩は結局なにも言わず、顔を伏せてしまった。あーあ、くそ。この反応は…………
気づけば窓の外の声も、廊下からの音も聞こえなくなっていた。細いあごをつかみ、無理やり上を向かせる。
「っ……!」
ドン! と胸を拳で叩かれたけど、敢えてゆっくりと顔を離した。ちゅ……と離れた唇が小さな音を立てる。
前髪の隙間から見えた先輩の目に涙の膜が張っていて、その煌めきが俺を惑わす。もう一度角度を変えて唇を重ねようとした。
「やめろ!!」
今度は全力で押され、身体がよろけた。先輩が叫ぶ。
あ……と自分のやらかしたことに気づき、呆然としているうちに先輩は俺から離れる。机の上にあった眼鏡を掴み、そのまま走って教室を出ていってしまった。
最悪だ。やっちまった。
「あー……馬鹿じゃん、俺」
周囲に音が戻ってくる。さすがに自分の顔を覆わずにはいられない。
愚かな男の後悔をあざ笑うかのように、鳴き出した蝉の声が暑苦しく辺りに響いていた。



