夏休み中は学校も空き教室ばかりだ。選択科目に使われる教室で、先輩を待つ。窓からは外で文化祭準備をしている同級生の声が聞こえ、廊下の方からは吹奏楽部が楽器を鳴らし演奏している音が聞こえる。
「よ。そっちは準備進んでるのか」
カラカラ、とドアを閉じる音が聞こえて先輩が入ってきた。学校でこうして会うのは久しぶりで、自然と心臓が跳ねる。
「はい! 今はまだ大変な準備もないので。――ん?」
「?」
パッと顔を上げてその顔を見れば、ふと違和感に気づく。小作りな顔はあらゆる表情を知ってしまってからは可愛いと感じてしまうが、基本的に無表情で目を引かない。
しかし今はなぜか、黙って小首を傾げているだけでも目が離せなくるほど印象的だった。なんだろう、普段通りの制服だし、なにが違うんだ?
「えーっと、朔先輩。……メイクしてます?」
「あ……っ!!」
まじまじと見つめると、唇に赤い色が乗っていた。眼鏡と前髪で隠れているけど、切れ長の目尻も黒色で強調されている気がする。
先輩は慌てた様子で口を拭おうとした。でも手の甲じゃ取れないだろう。
とっさに俺はポケットに入っていたハンカチを差し出すと、受け取った先輩の顔は恥じらっているのか真っ赤だった。えー……なにそれ。
「これは……っ。クラスのやつに、遊ばれて」
「あー、女子ってそういうところありますよね。でも先輩、似合うし可愛いっすね」
もともと赤みのある唇だけど、なんかこう……リップって唇の形を強調して見せるんだな。小さく形のいい唇に視線が吸い寄せられる。
俺が素直に感想を伝えたら、先輩はぱくぱく口を開いて言葉が出てこないようだった。
たった一言でかなり驚かせてしまったようだ。なんかプレイのときに可愛いとずっと思ってたから、普段から言ってる気がしてた。
俺、テンション上がって頭バグってんな。
先輩もれっきとした男だし、可愛いと言われたら嫌かも……でもまぁ、仕方なくない?事実だし。
プレイのときのふにゃふにゃな可愛さは俺だけのものだ。
『定期的にプレイの相手をしてほしい』という俺の提案に乗ってくれたということは、先輩にパートナーはいないってこと。威嚇事件のときに気づけばよかったのだが、どうやら石田先輩とはプレイする関係ではないようだ。
「そんな冗談おもしろくもないからやめろ。な……なぁ、あたま痛いんじゃないのか?」
「冗談じゃないっすけど。あー、なんか昨日はちょっと痛くて……でもいまは意外と」
「じゃあやめる! 心配して損した」
「わーっ! 待って!」
朔先輩はくるっと背を向けて去っていこうとする。
本気で怒らせてしまったことに気付いて、俺は慌てて追いかける。ドアの手前で夏でも白い腕を掴み、背中に向かって謝った。
「すみません……あの、今日は駄目でもいいですから。怒らないでくれませんか?」
一度の機会を逃すより、嫌われて二度と会ってくれないほうがつらい。縋っているようで情けないなと思いつつ、メールの返信でさえ遅いと気になるのだからなりふり構っていられなかった。
なにより朔先輩が俺のことを心配してくれてたんだと思うだけで、喜びに心臓が掴まれたように苦しくなる。あの、俺のことを見れば舌打ちしてガン無視していた人だぞ?
「怒って……ない。やろう、今日」
「あ……ありがとうございます!」
振り向いた顔はほんのりと頬が赤らんでいた。いや怒ってただろこれ。皮膚が薄いからすぐにわかるな……
「風谷、脱げとかは無しだからな?」
「分かってますって。――あ。落ちたら危ないんで眼鏡取っていいですか?」
念を押されて、もちろんと頷く。一瞬妖しい想像が脳内に広がりかけて、別のことに思考を切り替えた。先輩こそ変なことは言わないでほしい。
許可を取って眼鏡を外す。手を近づけるだけで、先輩はキュッと目を閉じ「ん、」と顎を上げる。
まだグレアも出してないのに素直かよ……。キス待ち顔に見えてしまったのは、俺の都合の良い妄想だ。
隣の机に眼鏡を置くカチッという音が、合図になった。
ふわりと、優しさを意識してグレアを出す。
初めのころと比べて、グレアの質や量を思いどおりに操れている実感がある。若いうちにコツを掴むのは難しいと聞いていたが、先輩という相手がいたからこそ、俺はDomとして成長できた。
「ん……」
「朔先輩、こっちへ来てください」
椅子に腰掛けて、自分の方へ呼ぶ。どこまで近づいたらいいのか分からないという顔をしている先輩の腰を引き寄せ、もうひとつコマンドを放った。
「はい。ここでおすわり」
「ふぇっ!?」
すとんと力の抜けた腰を、自分の片腿の上に乗せた。俺が先輩に教えたSubの基本姿勢は、正直いつもめちゃくちゃあざとくて可愛い。褒めると膝に擦り寄ってくるのがなー……
とはいえ、先輩を学校の床に跪かせるのは抵抗があった。実は潔癖症だったのかも俺。いや文化祭準備で床に座り込んでたわそういえば。
朔先輩は戸惑っているが、俺はいつもより間近にある顔に向かって微笑んだ。
「それでいいです。よくできました、先輩」
「んっ……ぇへへ」
頭を撫でただけで出てくる色気のある『んっ』はなんなんだ! 薄っすらと思っていたけど、先輩は感じやすすぎる気がする。皮膚刺激に敏感なのはプレイ中だから? Subってみんなこう?
内心の叫びを押し隠し、それでも手は動揺でいつもより激しく頭を撫でくりまわす。ふやけた顔でくすくす笑っている先輩は、あまりにも無防備だ。
そのままあれこれ命令して従わせたくなったものの、さすがの俺も自重した。プレイバーで先輩に一歩進んで触れるようになってから、俺の箍はいつなんどき外れてもおかしくないほどぐらぐらだ。
少し近づくと、もっと欲しくなってしまう。先輩には中毒性がある。そのことに気付いた時点で、もう俺は戻れない場所にいた。



