天狗の神様の契約花嫁

 翌日、私は久しぶりにたっぷりとした睡眠をとった。
 朝早くに水を汲みに行く必要もないこと、誰かの起きる気配も感じなかったために起きたらすっかり日が昇っていた。
 こんなに寝たのは久しぶりだった。
 離れで水を確保して生活するにはどうしても早めに起きて井戸から甕に汲みだしておく必要があり、その作業を分担するためにも私と千佳子で水汲みをしていたから。
 母屋の使用人が来るより早く汲んでいないと嫌味を言われてしまうので、必然的に早い時間、日が昇り始めるころに動き出さないと間に合わなかった。
 そんな生活を続けていたから、朝の早起きは習慣になったものと思っていたが寝ようと思えば寝れるものらしい。
「こんなに寝ていて良かったのかしら」
 思わず起き抜けに呟けば、それを聞きつけた八重桜が言う。
『今までが早起き過ぎたのですよ。メノウを見守っていた一ノ宮の桜はいつも早起き過ぎて心配していたと言っています』
「一ノ宮の木と話が出来るのですか?」
 私の問いかけに、八重桜は微笑まし気に答えてくれる。
『私たちは土に根を張っているのです。地面は続いているものですから、繋がっているところとは話せるのですよ。だから動けなくてもいろんなことを知っているし、知識も豊富。古いことから新しいことまで知っていますよ。人より寿命も長いですからね』
『そこの八重より、私がご長寿だからねぇ。古いことは私にお聞き』
 藤の木はそんなことを言ってくれる。
「それでは佐彦様の幼いころもご存じですか?」
『もちろんだとも。この庭で一番のご長寿が私だからねぇ』
 藤の木はとっても嬉しそうに話してくれる。
「では、ぜひいろんなお話を聞かせてくださいませ」
『喜んで、可愛い我らの巫女姫』
 私が庭の木々との会話を楽しんでいると、梅と鈴がやって来た。
「おはようございます、若奥様」
「訪問が遅くなり、申し訳ございません。お仕度のお手伝いをいたします」
 そうして、朝の身支度を二人に手伝ってもらい今日は和装にしてもらった。
 やっぱり着慣れているためか和装の方が気持ちが落ち着く。
 今日の和装は淡色の淡いグリーンの半振袖の着物で、帯は黄色地に毬の模様の可愛らしい物。
 着物は裾とそで下にサクラと鶯が描かれている。
「今の時期に合う素敵な柄ね。これも佐彦様が?」
 私が口にすると鈴が答えてくれる。
「えぇ、この生地は佐彦様が昨年メノウ様の様子を見に行った後に持ってきてくださった反物で作っていたものですよ」
 なんて答えてくれる。
「さぁ、朝餉もたんとお召し上がりくださいね。母の松が腕によりをかけてメノウ様の朝餉をご準備していましたから。昨日も美味しそうに食べてくださって、母も父も喜んでおりました」
 梅がそんな風に、昨日の私の食事風景を喜んでいたらしい調理場での松たちの様子を教えてくれる。
「すごく美味しかったの。見た目も華やかなのに味付けは繊細で、すごく美味しかった。朝餉もとっても楽しみよ」
 そうして支度を整えて食堂へと向かう。
 昨日のように、歩いていると庭からはたくさんの声が聴こえてくる。
 どれも私の部屋の庭の木々や花たちと同じく優しいものが多い。
 さすがは神様のお屋敷の生きる者たちということだろう。
「このお庭は花々も木々も鳥も虫も、みんな優しいわね。朝からたくさん声をかけてくれるわ」
 そんな私の言葉に、梅と鈴は逆に少し心配そうにした。
「聴感覚はそれこそどんなものの声も拾うと聞きます。うるさすぎたり、御不快になったり、ご気分が悪くなったりしていませんか?」
 優しい二人に私は微笑んで答えた。
「大丈夫よ。このお屋敷で聴こえる声は皆優しいもの」
 私の素直な言葉に二人は納得したのか、安堵の表情を浮かべた。
「まぁ、ここは現世にある神代と現世の狭間の幽世ですから。現世のような濁ったものや人は入り込めません。幽世とはいっても神の居る場所ですから半神代なのです」
 だからここはこんなにも居心地が良く、安心できるのね。
 生き物たちもすべてのびのびと穏やかに暮らしているし、鳥も蝶も花も木々も優しさに溢れている。
 それはここに住まう神々が穏やかで優しいことの表れだと思う。
 猿田彦神様も天宇受売命様も佐彦様も、ここに来てからずっと穏やかで優しい。
 それは亡くした母、和代と同じような温かな思いを感じるのだ。
 父や義母、異母妹に感じたことはないものだ。
 あの家は華やかだが、冷たい空気が流れていた。
 穏やかさや温かさといった言葉とは反対に位置する家だった。
 父である泰治も、メノウにとっては父であったことはないというくらいには関わりすらなかった。
 顔を合わせることはおろか、話したこともほとんどない。
 メノウにとっては父はいないものという感じだった。
 一緒に生活したという記憶もなかったし、関りも無い。
 名前だけ父という人。
 それがメノウにとっての一ノ宮泰治だった。
 財閥の当主としていかに仕事をしようとも、本妻亡きあとすぐに後妻とその娘を引き連れてきた時点で人としては最低だし、そもそも本妻が居ながら外に義母を囲っていたことは異母妹の年齢から明らかなのだから。
 たしかに、外の世界現世は濁りだらけの世界だろう。
 それは自身の今までの環境と生活で嫌というほど理解していた。
 現世は綺麗なばかりではいられない、汚いことも濁ったこともたっぷりある。
 むしろ濁の方が多いかもしれない。
 だからこそ、まだこの現世の片隅に幽世を作り現世に寄り添ってくれる神様が居ることは救いがあると思っても良いのだろうか?
 そんなことを考えながらも回廊を渡り食堂へとたどり着く。
「おはよう、メノウ。昨日より顔色も良くなったね。さぁ、たんとお食べ」
 そんな声を掛けつつ椅子を引き私を座らせてくれる佐彦様。
「おはようございます、佐彦様。たっぷりと寝かせてもらったのでとっても元気です」
 私の返事に佐彦様は嬉しそうにほほ笑んだ。
 お顔立ちが整っていて、朝日よりも眩しい。
 殿方の麗しさに眩しいと思ったのは初めてだった。