雪が降り始めたのは、祇園花見小路の灯りがぼんやりと滲む頃だった。

【叢雲】の暖簾をくぐると、炭火の匂いと餡子の甘い香りがふわりと立ち込める。
カウンターの奥、紺の陣羽織を羽織った長身の男が、静かに鉄瓶を傾けていた。
叢雲京四郎。
この店の主人であり、誰も知らない最強の剣豪。
その時、戸が小さく鳴った。
「……すみません、まだ……やってますか?」
掠れた、震える声だった。
京四郎が顔を上げると、そこに立っていたのは――
白い息を吐きながら、肩を縮こまらせた小柄な娘。
黒髪は雪で濡れ、頬は凍りそうなほど青白い。
着物の上に羽織った薄いコートは、どこか古めかしく、裾がびしょ濡れだった。
灯は、初めて外の世界を踏んだその足で、
ここまで逃げてきたのだ。
「……甘いものが、食べたくて」
それだけ言うのが精一杯だった。
膝が崩れ、床に手をつく。
指先が震えている。
背中の呪印が、冷えた体に疼き始める。
京四郎は一瞬でカウンターを回り、灯の体をそっと抱きとめた。
冷たい。
あまりにも小さくて、壊れそうだった。
「……大丈夫だ。ここは安全だ」
低い、どこか懐かしい響きの声。
灯は朦朧としながら、その胸に顔を埋めた。
――雪の匂いと、ほのかに甘い餡子の香り。
京四郎は灯を奥の座敷に運び、火鉢の前に横たえる。
濡れた髪をそっと手で払い、毛布をかけてやった。
「……少し待っていろ」
台所から、鉄板を焼く音がする。
卵の香ばしい匂い。
焦がしバター。
そして、椿餡の甘い匂い。
十分もしないうちに、京四郎が戻ってきた。
湯気の立つ、焼きたてのどら焼きを皿に載せて。
「ほら、食べてみろ。……熱いから気をつけろ」
灯は震える手でそれを受け取る。
一口かじる。
――甘い。
涙が、ぽろりと落ちた。
「……どうして、こんなに優しいんですか」
京四郎は答えなかった。
ただ、灯の濡れた髪を、もう一度そっと撫でた。
その時だった。
灯の背中が、突然激しく疼いた。
呪印が熱を帯びる。
誰かを愛したら、痛みが走る。
それが、灯の運命だった。
「っ……!」
灯はどら焼きを落とし、床にうずくまる。
京四郎が慌てて抱き起こす。
「おい、どうした!?」
灯は必死に首を振った。
――言えない。
この人に触れられただけで、こんなに痛い。
この人が優しいだけで、死にそうになる。
「……なんでも、ないです……」
灯は涙を拭い、震える唇で笑った。
「……おいしいです。
 こんなに甘いもの……初めて食べました」
京四郎は、初めて――
300年ぶりに、自分の胸が痛むのを感じた。
外では、雪が静かに降り続いていた。
暖簾の向こう、祇園の夜はまだ長い。
この夜、二人の呪いが、ほんの少しだけ、揺らいだ。