……翌日の午後、僕が乗った車の中には。とてもよい香りが広がっていた。
「甘くていいわよねぇ、海原君?」
運転席から、波野先輩のお母さんに聞かれても。
「は、はい……」
それ以外は、僕に答えようがない。
「スイートピー、蝶々みたいな花びらでかわいい・よ・ね?」
後部座席に座る僕から真横に、カバンをふたつ分隔てたところで。
花束を顔に寄せながら波野先輩が。
キラキラした目で、僕に聞いてくる。
「は、はい……」
「だ・よ・ね!」
先輩は、僕の答えには満足したようだったけれど。
「でもこれ、なんか見張られてるみたいだよね〜」
すぐに少し、不満そうな顔になる。
「どうかしたの、姫妃?」
「だってママ、ここにね……」
先輩はそういって『藤色』の花びらを、ちょんと左手の人差し指でつつくと。
「なんかいる!」
そういって、今度はそれをつまんでいる。
「どういうことなの、海原君?」
いや、あの……それは娘さんに直接聞いてくださいよ……。
「ママ、なんでもない。ただね。今頃学校で誰かさんたちがね〜」
「クシュン!」
「くしゅん」
……藤峰先生と、三藤先輩。
たぶんいまごろ。同時にくしゃみとかしてそうだよな……。
「ほら! すぐほかの女の子のこと考えな・い・の!」
波野先輩が、そういって。
僕の真横のカバンを、ふたつとも動かしてしまう。
「あの……近くないですか?」
「そう? 別に〜」
先輩がわざと曲げた左肘が。
ブレザーの袖越しに僕の右肘に当たる。
すると先輩のお母さんと、バックミラー越しに目が合って。
「あら、仲良しなのねぇ」
冗談とも本気ともつかないほほえみを、返される。
波野先輩も、母親の表情に気がついたようで。
「あぁ、これで『最後』かぁ〜」
なんだか女優みたいに、見事なため息つきをつくと。
もう一度軽く肘を当ててきてから。
窓の外を眺めだした。
文化祭前に起こった、立て看板が倒れた事故で。
当時演劇部だった波野先輩は、あろうことかその『額』に怪我をした。
なりゆき上とはいえ、学園祭の責任者だったのは僕で。
どれだけみんなが……僕のせいではないといってくれても。
心のどこかではやはり……。
事前の対策を徹底しなかったことを悔いている。
その怪我というか傷跡の治療は、本日が最終日。
「要するに、明日からは遠慮なくおでこ出せる日っ!」
「そ、そうですね……」
いままでも、包帯に肌色や黒色を塗ってみたりして。
割とおでこは出ていたけれど。
波野先輩がそれらから解放される日が……ついにきた。
「……最終日でしょ。付き添ってあげたらどうかしら?」
お弁当を食べていたときに、そう提案したのは月子だった。
「えっ? いい・の?」
「姫妃の『最後』でしょ。構わないわ」
強調する部分がなんともいえない、いいかただったけれど。
月子はとても堂々としていて。
「じゃ、このあと公休にしてあげるね」
海原君の担任でもある響子先生が。
あっさりと決めてしまった。
教室に戻る前に、玲香がよかったねと声をかけてくれて。
「なんか、月子がいうとは思わなかった」
思わず素直な感想を口にすると。
「……昴君のためなら、あの子はなんでもするからね」
玲香は、少しだけ悔しそうな声でつぶやいてから。
「ま、そういうことだから。昴君をよろしくね!」
そのあとは笑顔で、わたしを見た。
「あら、海原君」
待ち合わせしていたママは、ちっとも驚かなくて。
「はい、頼まれていた回復祝い」
そういって、手に持っていたスイートピーの花束を彼に渡そうとする。
「えっ?」
戸惑うわたしと、海原君に。
「冗談よ、かわいかったから買っただけ」
そういって『ママが』わたしに、花束をくれた。
「花束、海原君からじゃないの?」
「あるわけないでしょう、きてくれただけでも上出来よ」
本人を前に、母娘で好き勝手いいながら。
三人で病院へと車で向かっていく。
「……そろそろ、着くわよ」
病院にかよわなくていいのは、やっぱりうれしい。
でも、海原君と一緒に。
ほかのみんながいない中で、ふたりで過ごせる。
そんな特別な機会から『卒業』するのは。
……割と嫌、なんだよね。
「そんなものから『卒業したって』、まだ『終われない』わよ」
「えっ、ママ?」
「傷は癒えるものでしょ。支えてもらえて、よかったわね」
ママはとてもやさしい顔をして、そういうと。
……わたしのおでこに、指先でそっと触れてくれた。
「……ええっと……『波野』……昴さ〜ん?」
波野母娘が診察室に入ってすぐに。
これまでに何度も見かけた看護師が。
明らかに僕を見て、呼んでいる。
見えない誰かが……うしろにいるのだろうか?
念のため振り返ってみると。
よかった、白い壁しかなさそうだ。
「ちょっと! そこの君ですよっ!」
「えっ?」
やっぱり、僕のことですか?
でも診察室の扉のすぐ横には……。
付き添いは『ご家族』までって、書いてませんか?
「ほら……『ご兄弟』でしょ。早くきなさい」
「へっ?」
そういわれて、診察室に押し込まれると。
波野先輩が僕を見て。
「あ、わたしの『お兄ちゃん』だっ!」
大根役者みたいな声を張りあげる。
ただ白衣を着た医師は冷静で。
「……兄だって? でもその『制服』って一年生だよね?」
ズバリと……いい当ててしまう。
「それに波野さんは、二年生の制服だよね?」
ドクターって、普段白衣を着ているので。
きっと『制服』に詳しいのだろう。
……ただ、波野先輩はそんなことは気にしない。
「『兄』はえっと、双子で・す!」
「双子って、基本はほぼ同時に産まれるよ」
「時差があって!」
「医学的には、珍しい時間差だね」
次々くるドクターの突っ込みに。
「えっと、留年してるんで・す!」
先輩が平然と答えるけれど。
よく一瞬で、そんな出鱈目を……。
「そうか、事情があるんだね……」
えっ……納得しちゃうんですか?
「わかった、ちょっと動かないでね……」
「はい!」
「いや『留年君』じゃなくて、患者さんだけどね」
「す、すみません……」
ドクターが、真剣な表情で傷口を観察する。
「……経過、極めてよし」
それを聞いて、先輩のお母さんが小さくガッツポーズしたと同時に。
「海原君、やった〜!」
……先輩が、設定を自ら叩き潰した。
「り、離婚したので名字が違いま・す!」
最後までバレバレの嘘をつく先輩は、『大物』だ。
「仲のよろしいことで、ね。お兄ちゃん?」
看護師は、いかにもという顔で僕を見ると。
「付き添い、頑張ったわね」
そういって僕を、労ってくれたあとで。
「お兄ちゃんなら……妹には手出ししちゃダメよ」
……なんだか、とても恐ろしいことを口にした。

