一生懸命生きなくていい~文芸系短編集~

祖母が亡くなり、田舎の家をとうとう処分することになった。

「……あつ」

タンクトップの胸もとを掴み、ぱたぱたと風を送る。
縁側から見渡した世界は、濃い緑がどこまでも広がっていた。
容赦なく太陽は照りつけ、夏を謳歌しているはずの蝉さえも、バテてその声も聞こえない。

「休んでないで手伝ってよ」

「へーい」

母に軽く返事をし、立ち上がる。
お盆休みを利用して家の整理に来ていた。

「なんでこの家、エアコンないのー?」

したたる汗を首にかけていたタオルで拭う。

「田舎で風通しがいいからよ」

母はそう言うが、そよとも風は入ってこない。
しかし、ぶつぶつ文句を言ったところで終わらないので、とにかく手を動かす。

難敵は大量の本だった。
亡き祖父は読書家で、とにかく本が多い。
私の記憶の中にいる祖父は、昔風の太い黒縁眼鏡をかけ本を読んでいる姿だ。
本はあとで古本屋に引き取ってもらうという話だったが、骨董品のような本が多いのでいまどきの古本屋では反対に処分料を取られそうだ。

「ねー、これ、SNSに上げて欲しい人にあげるとかやっちゃダメー?」

「アンタが全部、面倒見るならいいけど」

 声をかけると奥で作業をしていた母からすぐ返事が来た。

「全部面倒、ね」

壁一面を埋め尽くす書棚を見渡す。
まだ私が大学生なら夏休みにあいだに可能かもしれないが、社会人になった今では無理だ。

「スマン、じいちゃん」

本をむざむざ廃棄してしまうのを祖父に詫び、それでも捨てないでほしいと祖父が思っていそうな本はないかチェックする。
まあ、祖父に言わせれば全部捨てるな!だろうけれど。

「ばあちゃんのかな」

本棚の片隅に『毎日の献立』なんて本を見つけてほっこりする。
いまだに続いているその料理番組のレシピ本を、祖母はかつて定期購読したらしい。
数年分が几帳面に並べてあった。

「ばあちゃんらしいといえばらしいかな」

祖母はとにかく几帳面な性格で、毎日の料理ですらきっちり計量して作っていた。
その反動なのか母は、なんでも大雑把だが。

台所で計量スプーンを使って調味料を計っていた祖母を懐かしく思いながら本棚を見ていたら、ある一冊で目が留まった。

「あれ?」

引き抜いた本は、表紙の見事な桜の絵が印象的な画集だった。
普通なら祖母はこの画家が好きだったんだろうかとしか思わないところだが、私が引っかかったのは。

「これ、図書館の本だよね?」

かなり古いのか、背表紙には今はもうあまり見ない三段区切りのシールが貼ってある。
裏表紙を開いてみるとポケットは空だった。

処分の本をもらったのか、それとも返し忘れたのか。
だとするとあの几帳面な祖母らしくない。
これはぜひとも謎を解くために図書館へ行かねば。
……嘘です。
いいかげん暑くて、涼みに行きたいだけです。

「おかーさーん、図書館の本が出てきたから、返しに行ってくるー」

母の返事を待たず靴を履き、車に乗った。

図書館は天国のように涼しかった。

「はー、生き返る……」

しばらく空いている椅子に座り、熱を持つ身体を冷やす。
カウンターに利用客がいないのを確認し、声をかけた。

「すみません。
これ、祖父の家を整理していたら出てきたんですけど、ここのですよね」

「そうですね、ありがとうございます」

受け取った女性職員は何カ所か確認し、愛想笑いを浮かべた。

「長くお借りして、申し訳ありませんでした」

これでミッション終了だと頭を下げて帰ろうとしたが。

「あの」

声をかけられて踏み出しかけた足を止める。

「この本を、誰が借りていたんですか」

「は?」

自分と同じとしくらいの彼女が、なにを言っているのか理解できない。
曰く、今は亡き館長がこの本が返ってくるのを待っていたという。

「それは……本当に申し訳ありませんでした」

ふたたび深々と頭を下げる。
けれど彼女のほうが申し訳なさそうになった。

「いえ。
その、私は先輩に聞いただけなので、詳しい話は先輩からいいですか」

いつの間にか事務所から出てきていた、職場のママさん社員くらいの女性が頷き、私も承知していた。



「ばあちゃんがそんな、大恋愛していたなんて知らなかったなー」

祖父の家に戻りながら聞いた話を思い出していた。

結婚して祖父の元に嫁いできた祖母だが、祖父の両親とは上手くいかず、よくこの図書館に逃げ込んできていたらしい。
泣き腫らした目でぼーっと座っている祖母に男性職員が気づき、そのうちふたりは密かに想いを通わせるようになったそうだ。
といっても、図書館へ来たときに少しだけ会話を交わすくらいだったそうだが。

しかし図書館へ行くのを祖母は姑に咎められるようになったある日。

『どうしても耐えられなくなったらこの本を返しに来て』

そう言って男が渡したのが、あの本だった。

『そのときはこの桜を、ふたりで観に行こう』

表紙の桜はふたりのお気に入りだった。
祖母は男が自分を守ろうとしてくれているのだと知り、本を受け取って黙って帰った。
その男が今は亡き、館長だという。

「『だからあの本には返ってきてほしいが、戻ってこないのはあの人が幸せだって証拠だから』って、泣ける」

館長は死ぬまで独身を貫き、淋しそうに笑ってはそう言っていたという。
本当に尊い純愛だ。

しかし、かくしゃくとしてた祖母が曾祖母に苛められて泣いていたなんて信じられなかったし、そんな秘めた恋をしていたのも驚いた。

「ただいまー」

「もう! こんな時間までなにしてたの!」

母は怒っているがもう夕方になろうとしていれば仕方ない。

「ごめんって。
頼まれたお弁当とアイスも買ってきたから、許して。
母さんの好きな、白くまもあるから」

手に提げていた袋を見せ、母を拝み倒す。

「そんなんで許されると思ったら、大間違いだからね」

母は怒りながらも袋の中を確認して嬉しそうに顔を緩ませ、チョロくて助かる。
きっとこういうチョロいところが可愛くて、父は惚れたのだろう。

「……そういえば」

喫茶店でかき氷をつつきながら話をしてくれた図書館員は、くだんの館長は白くまが大好きで、食べられなくなってからもこれだけは喉を通ったと言っていた。

「まさか、ね」

浮かんできた考えを、私は頭を振って追い出した。


【終】