放課後の将棋部部室は、いつものように静かだった。窓から差し込む夕日が、昨日と同じように机と将棋盤を赤く染める。春原湊は盤の前に座り、角を少し前に出す。手元の駒を触りながら、無意識にため息をつく。

「今日も誰も来ないのか…」湊はつぶやいた。
「まあ、部室は静かでいいけどな」後ろから白鳥佐久人の声がかかる。部長は黒縁メガネをかけ、盤を覗きながら微笑む。

「白鳥先輩、今日も見守りですか?」湊は軽く聞いた。

「見守りというより、成長の確認だな」白鳥は軽く手を挙げ、微笑みを浮かべる。「湊、お前の指し方、少しずつだが迷いが減ってきた気がする」

湊は小さくうなずき、駒を前に進めた。
そこへ、部室のドアが勢いよく開いた。

「おっと、こんなところに隠れ家があったのか!」

その声に湊は思わず顔を上げる。茶色がかった明るい黒髪、少しクセのある前髪が跳ねている少年――朝比奈陽真がそこに立っていた。体格は引き締まっていて、表情は屈託なく明るい。初めて会うはずなのに、なぜか空気ごと圧倒されるような力があった。

「君が、新しく転校してきた朝比奈陽真かい?」白鳥が静かに声をかける。

「そうだよ、よろしくな!」陽真は部室に大きく一礼し、窓際にある将棋盤の前に駆け寄る。「おいおい、こんな静かな部室で指すの? いいじゃん、楽しそう!」

湊は一瞬戸惑った。普段の静かな空気が一瞬で揺らいだのだ。彼の世界が、初めて外からの雷に打たれたかのように震える。

「…う、うん。まあ、そうだね」湊は少し声を震わせながら答えた。

西園寺が湊の隣で目を丸くする。「先輩、なんだか今日は様子が違いますね」

「…ああ、まあな」湊は駒を手で回し、視線を陽真に向ける。

「ねえ、俺と指してみようぜ!」陽真は笑顔で言い、すぐさま盤を挟む。「どんな手を打つか見せてもらうよ!」

湊は一瞬考える。普段なら穏やかに受け流すはずの提案だ。だが、どこか胸の奥がざわつく。「え、ええっと…いいけど…」

「よっしゃ!」陽真は勢いよく駒を握り、先手を取る。「じゃあ、いくぞ!」

白鳥は静かに立ち上がり、遠くから二人を見守る。「…久しぶりに、この部屋が活気づくかもしれないな」

西園寺も顔を輝かせながらつぶやいた。「先輩、今日は本気で指すんですか?」

湊は少し緊張しながらも駒を握る。「…はい、でも…あくまで…」

陽真は笑いながら言葉を遮る。「いいじゃん! 本気でいこうぜ!」

駒が盤上で動く音が、部室に響き渡る。角を前に出す陽真、守りを重視する湊。初手からすでに二人の性格が表れていた。

「なるほど、守りに入ったな」陽真はくすっと笑う。「面白いじゃん、でももっと攻めるべきだよ」

「…でも、勝つことで誰かを傷つけたくない」湊は小さくつぶやきながらも、次の手を考える。

陽真は真剣な目で湊を見つめる。「逃げてるだけじゃん。勝つのも負けるのも、本気で意味があるんだ」

湊の心が大きく揺れる。初めて誰かに真正面から挑まれた感覚。盤上の駒よりも、自分の内面の方が揺れていた。

「…わかった、じゃあ…やってみる」湊は一歩前に出て駒を置く。

盤上は、二人の性格がぶつかり合う場所となった。守りと攻め、冷静と直感、静と動。陽真は駒を前へ進めるたびに声を出す。

「ここで桂馬だ!」
「うわ…読めてなかった…!」湊は手を止めず、盤面を睨む。

白鳥は静かに目を細める。「…湊、お前、少し変わったな」

西園寺も興奮気味に目を輝かせる。「先輩、本気で楽しそうですね!」

陽真は笑いながら駒を指す。「おいおい、面白いぞ! 湊、君、やるじゃん!」

湊も次第に自然な笑みを浮かべる。勝ち負けを恐れていた自分の心が、少しずつ解きほぐされるのを感じる。

盤上の攻防は、二人の間の会話になり、そして心の交流になった。陽真の勢いと明るさが、灰色だった湊の世界に少しずつ色をつけていく。

「…君、結構強いんだな」陽真は駒を置き、湊を見つめる。

「…いや、守りすぎただけで…」湊は顔を少し赤くしながら答える。

西園寺が笑いながら言った。「先輩、今日の湊先輩はいつもと違います! 目が輝いてます!」

白鳥も微笑みながら頷く。「いい刺激になったな、湊」

陽真はさらに笑顔を弾けさせる。「これから毎日こうやって指そうぜ! もっと勝負して、もっと楽しもう!」

湊は深呼吸をし、盤に目を落とす。胸の奥のざわつきは、恐れではなく期待だった。

「…うん、わかった。よろしく」

その瞬間、部室の空気が変わった。静寂の中に、新しい色が差し込むように。灰色だった放課後が、少しだけ活気づき、湊の心は静かに揺れた。

夕日が沈む頃、二人は盤上で駒を置きながら笑い合った。白鳥は遠くから温かく見守り、西園寺は嬉しそうに声を上げる。

「面白いな…この部屋が、やっと動き出した」白鳥は呟いた。

湊は盤を前に手を止めず、しかし笑顔を浮かべていた。灰色の日常はまだそこにあるが、もう一筋の光が、確かに差し込んでいた。

陽真――雷のようにやってきた転校生は、静かだった湊の世界を音もなく揺さぶり、彩りを加えたのだ。