放課後の校舎は、まるで世界から音を吸い取ったかのように静かだった。廊下には帰宅する生徒の足音がまばらに響くだけで、風に揺れるカーテンの音が微かに部室の扉を通して届く。春原湊はいつものようにそっと将棋部の扉を押した。
部室の中は夕日に染まっていた。窓から差し込む赤い光が、木の机や将棋盤の駒に柔らかく反射し、影を長く落としている。人影は少なく、空気はゆったりと流れ、時間の感覚も少しだけ止まったようだった。
湊は机の前に座り、盤を広げ、駒をひとつひとつ丁寧に整える。指先だけが静かに動く。角を少し動かす、そのたびに小さな音が響く。沈黙の中で、指の動きが彼自身の心のリズムを映していた。
「今日も誰も来てないのか…」湊は独り言のように呟いた。
将棋は好きだ。だが、湊の指す将棋はいつも穏やかで、決して熱く勝負をしようとはしない。勝つことで誰かを傷つけてしまうかもしれないという思いが、心のどこかに常に影を落としていたのだ。
駒を一手置き、湊は窓の外の夕日を見上げる。赤く沈みゆく空の色と、彼自身の心の色が重なって映る。心の中で呟く――「このままでもいいのかな。でも、なんだか満たされない。」
その時、部室の奥から柔らかな声がした。
「今日も落ち着いてるな、湊。」
湊の視線は自然と先輩の白鳥佐久人に向かう。長身で黒縁メガネをかけた部長は、温厚で柔らかい物腰の先輩だ。言葉は短いが、部員の心理を理解しているのが伝わる。湊は小さくうなずいた。言葉は少なくても、二人の間には信頼がある。
「まだ誰も来てないのか。」湊はまた独り言を漏らす。
その瞬間、ふわりとした茶色の髪を揺らしながら、西園寺琉青が顔を出した。小柄で童顔、目が笑っている彼は、湊を慕う後輩だ。
「湊先輩、今日も一緒に指すんですか?」
湊は軽く微笑むだけ。言葉よりも、駒を指先でそっと動かす。その動きは正確で、静かに盤上に自分の意思を刻むようだった。
遠くの窓際には、顧問の三条浩司が静かに座っていた。棋聖まで登り詰めた過去を持つ男だが、今は将棋界から退き、部員たちを見守るだけの存在である。湊の動きを目で追いながら、静かに息をつく。
「今日も盤上の動きは穏やかだな…」
その言葉に、湊はふと過去の祖父の声を思い出す。小さい頃、祖父はいつも言った。「駒はただの駒じゃない、心を映す鏡だ。」勝負で誰かを傷つけたくないという思いも、あの時から変わっていない。
湊は駒を一手ずつ慎重に動かし、盤の上の自分の心を確かめる。駒の配置を整え、香車を進め、角のラインを確認する。その動作の中で、静かに自分の内面を観察するのだ。
「守りすぎてるのかな、俺…」湊は小さく呟いた。勝つことへの恐怖ではなく、勝ったときに誰かを傷つけてしまう恐れが、手の止めどころを曖昧にしている。
西園寺がそっと声をかける。「湊先輩、角のライン、少し変えてもいいと思います!」
湊は指を止め、目を細めて盤面を見た。西園寺の提案は些細なことだが、後輩が自分を見ていることに少し心が温まる。微かに頬が緩む。
白鳥は湊の横で静かに笑った。「夕日がきれいだな、今日の空も灰色じゃないか。」
その言葉に湊は小さく笑みを返す。灰色の世界に、ほんの少し光が差した瞬間だった。
盤上では、湊は駒を慎重に動かしながら自分に問う。「本当に、このままでいいのか…?」答えはまだ出ない。ただ、指は止まらず、駒は確実に盤に置かれる。
部室の空気は静かで、しかしどこか温かい。顧問は遠くから見守り、白鳥は微笑み、後輩の西園寺は尊敬の目を向ける。その全てが、湊の灰色の放課後にわずかな彩りを加えていた。
沈む夕日の光が、盤の駒と湊の表情を柔らかく染める。静寂の中、湊の心は小さく揺れる――灰色の世界が、ほんの少し色づく瞬間だった。
そして湊は、盤に最後の駒を置き、窓の外の空を見上げる。遠くの校舎の屋根に反射する光、風に揺れる木々、誰もいない廊下の音。全てが静かで、すべてが彼の心に響く。
「この日常も、変わるのかな…」
その問いに答えはまだない。ただ、盤上で動かす駒と、自分の手の感触が、これから訪れる色づいた日々の予感を告げていた。
部室の空気は相変わらず静かで、しかし確かに変化の兆しがあった。湊は目を細め、駒を握ったままゆっくりと息を吐く。灰色の放課後は続くが、その中に小さな希望の光が差し込み始めていた。
部室の中は夕日に染まっていた。窓から差し込む赤い光が、木の机や将棋盤の駒に柔らかく反射し、影を長く落としている。人影は少なく、空気はゆったりと流れ、時間の感覚も少しだけ止まったようだった。
湊は机の前に座り、盤を広げ、駒をひとつひとつ丁寧に整える。指先だけが静かに動く。角を少し動かす、そのたびに小さな音が響く。沈黙の中で、指の動きが彼自身の心のリズムを映していた。
「今日も誰も来てないのか…」湊は独り言のように呟いた。
将棋は好きだ。だが、湊の指す将棋はいつも穏やかで、決して熱く勝負をしようとはしない。勝つことで誰かを傷つけてしまうかもしれないという思いが、心のどこかに常に影を落としていたのだ。
駒を一手置き、湊は窓の外の夕日を見上げる。赤く沈みゆく空の色と、彼自身の心の色が重なって映る。心の中で呟く――「このままでもいいのかな。でも、なんだか満たされない。」
その時、部室の奥から柔らかな声がした。
「今日も落ち着いてるな、湊。」
湊の視線は自然と先輩の白鳥佐久人に向かう。長身で黒縁メガネをかけた部長は、温厚で柔らかい物腰の先輩だ。言葉は短いが、部員の心理を理解しているのが伝わる。湊は小さくうなずいた。言葉は少なくても、二人の間には信頼がある。
「まだ誰も来てないのか。」湊はまた独り言を漏らす。
その瞬間、ふわりとした茶色の髪を揺らしながら、西園寺琉青が顔を出した。小柄で童顔、目が笑っている彼は、湊を慕う後輩だ。
「湊先輩、今日も一緒に指すんですか?」
湊は軽く微笑むだけ。言葉よりも、駒を指先でそっと動かす。その動きは正確で、静かに盤上に自分の意思を刻むようだった。
遠くの窓際には、顧問の三条浩司が静かに座っていた。棋聖まで登り詰めた過去を持つ男だが、今は将棋界から退き、部員たちを見守るだけの存在である。湊の動きを目で追いながら、静かに息をつく。
「今日も盤上の動きは穏やかだな…」
その言葉に、湊はふと過去の祖父の声を思い出す。小さい頃、祖父はいつも言った。「駒はただの駒じゃない、心を映す鏡だ。」勝負で誰かを傷つけたくないという思いも、あの時から変わっていない。
湊は駒を一手ずつ慎重に動かし、盤の上の自分の心を確かめる。駒の配置を整え、香車を進め、角のラインを確認する。その動作の中で、静かに自分の内面を観察するのだ。
「守りすぎてるのかな、俺…」湊は小さく呟いた。勝つことへの恐怖ではなく、勝ったときに誰かを傷つけてしまう恐れが、手の止めどころを曖昧にしている。
西園寺がそっと声をかける。「湊先輩、角のライン、少し変えてもいいと思います!」
湊は指を止め、目を細めて盤面を見た。西園寺の提案は些細なことだが、後輩が自分を見ていることに少し心が温まる。微かに頬が緩む。
白鳥は湊の横で静かに笑った。「夕日がきれいだな、今日の空も灰色じゃないか。」
その言葉に湊は小さく笑みを返す。灰色の世界に、ほんの少し光が差した瞬間だった。
盤上では、湊は駒を慎重に動かしながら自分に問う。「本当に、このままでいいのか…?」答えはまだ出ない。ただ、指は止まらず、駒は確実に盤に置かれる。
部室の空気は静かで、しかしどこか温かい。顧問は遠くから見守り、白鳥は微笑み、後輩の西園寺は尊敬の目を向ける。その全てが、湊の灰色の放課後にわずかな彩りを加えていた。
沈む夕日の光が、盤の駒と湊の表情を柔らかく染める。静寂の中、湊の心は小さく揺れる――灰色の世界が、ほんの少し色づく瞬間だった。
そして湊は、盤に最後の駒を置き、窓の外の空を見上げる。遠くの校舎の屋根に反射する光、風に揺れる木々、誰もいない廊下の音。全てが静かで、すべてが彼の心に響く。
「この日常も、変わるのかな…」
その問いに答えはまだない。ただ、盤上で動かす駒と、自分の手の感触が、これから訪れる色づいた日々の予感を告げていた。
部室の空気は相変わらず静かで、しかし確かに変化の兆しがあった。湊は目を細め、駒を握ったままゆっくりと息を吐く。灰色の放課後は続くが、その中に小さな希望の光が差し込み始めていた。



