その男と出会う瞬間まで、前世なんて一度も思い出すことはなかった。
それどころか前世なんてあるわけがないと、十五歳の今の今まで信じてもいなかったんだ。
「どうも、前世でツガイだった者です」
なのに、見上げるほどの背丈のある同級生に向かって、俺はそう声をかけていた。
高校入学式の初対面で、こんなに不思議ちゃん発言をするつもりはさらさらなかった。
ほら、目の前の男も、やや目を見開いて驚いている。
式が始まる直前の講堂内には、周囲に同学年が大勢いて、その中の何人かは俺に憐れみの視線を向けている。
〝あ~、なんかイタイ挨拶をしている奴がいるな。滑っているぞ〟
そんな冷ややかな視線を浴びて、いたたまれなくなる。不思議ちゃんレッテルを貼られる前に、さっき口にした言葉をどう取り消そうかと必死に考えていると、額にじわりと汗がにじんできた。
すると、目の前にいる男は、笑うこともなく無表情のまま、軽く頭を下げた。
「前世では、どうも」
「あ……、ども」
〝滑った〟自分を助けるために、同じく滑ってくれたのか、それとも男の方も前世を思い出したのか。
どっちだろうと思っている内に式が始まり、結局、聞きそびれてしまった。
一.前世を思い出しました。
「はぁ!? 前世がふくろうだったことを思い出したって!?」
「うん。俺の前世、ふくろう」
俺、福(ふく)地(ち)千(ち)春(はる)は、つい三日前に前世を思い出した。
前世――俺が福地千春として生まれる前の人生だ。森の奥地に住むふくろうだった。
思い出したからといって、人格に影響がないような記憶。
それを小学校からの親友である木(き)田(だ)友(ゆう)一(いち)に伝えてみた。
すると、彼の垂れた細目がわずかに見開き、いつもほんのり上がった口角が、への字に歪(ゆが)んだ。
……まぁ、そんな妙な反応になるのも無理はないか。
身内にだって言っていないこと。けど、この木田という男に伝えたところで、俺を見る目は変わらないだろう。多分、俺が宇宙人だって言っても、そこそこに流してくれる。そんな奴だし、そんな仲。
「うーん……うん! さっぱり分からん! 千春ってば、そんなオカルトっぽいこととか言う奴だっけ!?」
今は昼どき。木田は握り飯を口いっぱいに頬張っていて、口を開くたびに米粒が飛ぶ。
俺は自分の持っているパンをサッと避けながら、その食べ方を続ける限り女子にはモテんだろうなぁ、と顔をしかめた。
「別に信じなくてもいいけどさ。マジで思い出したんだよ、前世。俺ってば、目ん玉くりくりのさ、ふっくらな胸元、丸いフォルムで滅茶苦茶可愛かったんだよな」
「目がデカいのは今世もじゃん。ちんまいし髪の毛はふわふわしてるし、まぁ、ふくろうに見えなくも……うん。全然見えないな」
「ちんまいは余計」
身長百五十九センチ。身長順で整列すれば前の方。だが、わざわざ言わなくていい。
「――で、なんでそんなネ(・)タ(・)思いついたの?」
ネタか。まぁ、俺が木田でもそう思うだろうな。
「木田に話そうと思ったのはさ。前世で夫婦だった奴に会っちゃったんだよ。ソイツと同じクラスだったからさ。内々に秘めておくより言葉に出しちゃいたい気分だったんだ」
「夫婦?」
「うん、ふくろうの夫婦は、ツガイって呼ぶんだけどさ……」
木田から二度目の「はぁ?」を聞きながら、俺は廊下側の一番後ろの席を指さした。
そこに座っているのは、入学式で「どうも」と軽く挨拶を交わした男だ。
身長は優に百八十センチを超え、体格もがっしりとしている。黒々としたくせ毛に、意志が強そうなきりっとした眉、整った目鼻立ちも相まって、体格以外にも色々目立つ奴だ。
「アイツ。アイツのことを見て、前世を思い出したんだよ」
「んん~?」
木田は一番後ろに座る男に視線をやり、顔をしかめた。
彼の名前を思い出そうとするかのように、木田は「えーと」と呟(つぶや)くが、まだ高校が始まって三日目。名前が出てこないのだろう。
俺もクラス全員の名前を覚えたわけじゃないけれど、ツガイだった男の名はすぐに覚えた。
「盛(もり)岡(おか)翔(しょう)真(ま)」
「あぁ……、盛岡、ね。盛岡。……千春ってアイツと今まで接点あったのか?」
お笑いのつもりなのか、それとも変なものでも食ったのか……木田が考えているのは、そんな感じだろう。
「接点なんてないよ。入学式に盛岡を見てツガイだったなと、こう~……急に思い出したっていうか」
盛岡とは入学式で「どうも」と挨拶を交わしたけど、あれっきり話していない。
盛岡自身もまだクラスメイトとは打ち解けていないようで、誰かと話している姿を見たことはなかった。だから、まだどんな奴かも分からない。
「えっと、さ。よく知らない奴をジョークのネタに使うのはやめた方がいいぞ? デカくて怖そうじゃん」
「多分だけど、そんなに怖くはない……かな?」
盛岡に前世の記憶があるのかは定かではない。けれど、挨拶したときにぺこりと頭を下げる仕草は礼儀正しかった。体格もいいし、礼儀を重んじるスポーツでもしていそう。
「ん? うーん? うーん……」
木田は唸りながら、胸元のポケットからスマホを取り出した。素速く画面に何かを入力して検索を始める。俺もそうだけど、木田も分からないことがあれば、まずはネットだ。
「ふむ」
木田は顎(あご)を擦(さす)り、スマホ画面を俺に見せた。そこに映るのは、寄り添う二羽のふくろうの写真だった。
「ふくろうって一生添い遂げる個体が多いって聞いたことあるけど」
鳥類は一夫一妻制が多く、鶴やワシ、アホウドリは離婚率が断トツ少ない。ふくろうも一度ツガイになったら一生を添い遂げる個体が多い。
「うん。俺、アイツと一生を添い遂げたよ」
「ヒュ~~!」
「だから、前世ね」
考えることが面倒くさくなったのか、木田が適当に話にノッてきた。詳しくツッコまれるよりこっちの反応の方がいい。
このまま軽く流そうと、へらへら笑っていたら、廊下側の後ろに座っている盛岡と目が合った。
なぜか視線を逸らせずにいると、彼は立ち上がってこちらに向かってくる。
足がやたらと長く、歩幅も大きい。みるみるうちに距離が詰まっていく。
「あ」
――っという間に、盛岡が俺たちの目の前まで来て、影を落とした。
その威圧感にビビって、木田と俺は身体を小さくする。そんな俺たちに盛岡は声をかけてきた。
「自分の話をされているのかと思って」
「……え、と」
それはそう。同じ空間であからさまな視線を送って、こそこそ話していれば、気になって当然だ。噂(うわさ)される側はたまったものじゃない。
「――ごめんなさい!」
俺はパンッと両手を合わせたあと、勢いよく頭を下げた。
「ご指摘の通り、盛岡くんの噂をしていた。誓って悪口は言ってはないけど、気分悪くさせたよな? 悪かった!」
ふくろうだった前世。盛岡はそれを覚えているような口ぶりだった。けれど確定じゃない。入学式は俺に話を合わせてくれただけなら、はた迷惑な話だろう。
「…………」
おそるおそる顔を上げると、盛岡は何も言わず、ただこちらを見下ろしていた。その視線にいたたまれなくなり、口をきゅっと閉ざす。
そんな俺を見かねて、木田が助け船を出してくれた。
「盛岡くん。まぁまぁ、こちらの空(あ)いている席に座りたまえ」
木田が俺の席の後ろにある椅子を引くと、盛岡は素直に腰を下ろした。
「俺、木田友一。こっちの目ん玉くりくりは福地千春ね。よろしく。んで、盛岡っちって呼んでいい?」
「盛岡っち? ……木田、それはあまりに慣れ慣れしいぞ」
木田が会話をリードしてくれることはありがたいけれど、心の距離感がある関係で、その呼び方を提案するのはいかがなものか。
「あぁ、別にいい」
「え?」
……あだ名が、まったく見た目のイメージじゃないけど。
「はいはーい! では、サクサクと話を進めていっちゃいますね。盛岡っちって、前世はふくろうだったのでしょうか?」
唐突な木田の発言に、ぎょっとする。でも、三日間ずっと聞きたかったことだったから、ありがたい。
「あぁ。福地くんと目が合ったときに思い出した」
「え、入学式で? それ千春と同じじゃん」
多分、俺の言うことなんて、ほとんどネタとでも思っていたのだろう。
木田は俺と盛岡を交互に見比べ、何かを言いかけて口を開いた。だがすぐに思い直したのか、言葉を飲み込む。そして今度は何か楽しいことでも思い浮かんだのか、ニマニマし始めた。
「いや、いいよ。信じる信じないは置いておいて、お前ら面白いじゃん。ネタにしておけよ」
木田は立ち上がると、俺と盛岡の肩をパンパン叩く。このノリに慣れている俺は構わないけど、初めての奴は引いているんじゃないか。
ちらりと横を見ると、盛岡と視線が合った。
「ネタにするかは分からないけど。俺、この地域に引っ越してきたばかりで、高(こ)校(こ)ではまだ仲がいい奴いないから、よろしく」
「…………」
意外にも盛岡は木田のノリは嫌いではないようで、まさかの友達申請。
いいのか? 仲良くする奴が俺たちみたいなお調子者でいいのか?
……とは思いはするが、真正面からそう言われたら、やっぱり嬉しくなるものだ。
「それじゃ、よろしくぅ〜」
俺が握手の手を差し出す前に、木田が盛岡の手を握りブンブンと上下に振った。
挿絵①
「前世のくだりからなら、握手は俺からだろ。あ、盛岡……っち? 俺もこんなノリなんだけど、よろしくね?」
「ん」
高校で初めて出来た友人が、前世で一生寄り添ったツガイだなんて奇妙な縁があるものだ。
深く考えるのを止め、俺も握手した手を上下に振った。
「ただいま」
学校から帰ると、俺は真っ先に仏間に向かった。
六畳ほど部屋には、仏壇と座布団があるだけ。
仏壇の前に飾られた写真に手を合わせていると、誰もいないはずの二階から階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
とん、とん、と、ゆったりとしたその足音は、よく聞き慣れたもので、驚きはしなかった。
「千春、おかえり~」
立ち上がって仏間からリビングに出ると、叔父さんが廊下からひょっこり顔をのぞかせる。
「叔父さん仕事じゃないの? 半休?」
「あぁ。半休だったんだけどね。トラブルが起きたみたいだから、今から仕事場へ戻るよ。ちなみに、ちょっと帰りが遅くなる。それで……」
叔父さんは気まずそうな顔をする。――そっか。今日は夕ご飯の当番だったんだ。
両親が亡くなって、早五年。
父の弟である久(ひさ)治(はる)さんに引き取られてから、ずっとふたりで暮らしてきた。掃除や洗濯は見つけた方、暇な方がやるスタイル。やってくれたら、どうもね。ていう具合で、今日まで上手くやっている。
ただ、叔父さんは料理が苦手なので、俺に丸投げにならないよう、隔日で担当することを決めていた。
「分かった」
言いづらそうな気配を察知し、叔父さんに言わせる前にさっと言う。
「今日は俺が作るから。でも、残業なら、夕食食べてくる?」
「うちで食べるよ! ありがとう。二十時には帰ってくるから」
「了解」
叔父さんを見送ったあと、リビングでドラマを一話だけ見て、それから買い物へ出かけた。
夕方のスーパーには、仕事や学校帰りの人たちが足早に集まり、惣菜コーナーでは割引シールの貼られたコロッケや唐揚げが次々と手に取られていく。それらを横目に、自分は目当ての商品をひょいひょいとかごに放り込み、レジへと向かった。
そこの列の中に、ひときわ背の高い人影がひとつ、すっと立っている。
「ん?」
同じ高校の制服、それから、がっしりとしたあの背中は、昼間見たばかりだ。
「……盛岡っち?」
全然しっくりしないあだ名で呼びかけると、盛岡は振り返った。
「福地、くん」
相手も呼びにくそうなので、「千春でいいよ」と言うと、向こうも「なら、俺も呼び捨てでいい」と返ってくる。
「翔真は……」
私服の俺と違って、翔真は制服姿だ。きっと学校帰りに立ち寄ったのだろう。案外、家が近いのかもしれない。
「部活帰り? 何部?」
「あぁ、柔道」
なるほど、見た目通りだ。試合中に睨まれたら、それだけでビビりそう。
……なんて想像していたら、くっきり二重の切れ長の目が、俺の持つレジカゴに視線を落とした。
「千春は夕食の買い出し? もしかして、料理するのか? えらいじゃん」
「うん。俺、両親を事故で亡くしちゃって、叔父さんとふたり暮らしだからさ。仕方なく覚えたっていうかね」
「え」
瞬時に翔真は〝しまった〟というような困惑した表情を浮かべたので、俺は手を左右にひらひらと振った。
「俺、叔父さんと仲いいんだよ。あっ、前のセルフレジ空いたぞ」
気まずそうに立ち尽くす翔真の背を押す。その手にあるのは唐揚げとアイスだ。そのあとすぐ、別のレジが空いたので、俺もささっと会計を済ませた。
「お?」
店を出れば、翔真は駐車場の端で突っ立っていた。俺に気付くと、大股で近づいてくる。そして、買ったばかりのアイスを俺の前に差し出した。
「やる」
「はは、なんでぇ?」
「いい子だから」
……いい子って?
翔真のノリはまだ分からない、けれど、場の雰囲気に流されて、ありがたく貰うことにした。
「じゃ、遠慮なく。あ、ふたつに割れるアイスじゃん。一緒に食おうよ」
「急ぎじゃないのか?」
「ないない。叔父さん残業で遅いし」
駐車場の端にはベンチがあって、手招きして一緒に座った。
びりっとアイスの袋を手で破って、二つに割ったチューブ状のアイスを翔真と半分ずつ分ける。チョココーヒー味だ。
うま、うまと、透明ボトルを吸っていると、妙に強い視線を感じる。
ん? と横を向くと、翔真が射るような瞳で俺を見ていた。
「何? 俺の顔に何か付いている? 食わないの?」
「――あ、あぁ」
はっとしたように翔真は視線を外す。
「はは、変なの。意外とお茶目でぼんやりさん?」
「……そういうわけじゃない」
ふぅん、と俺は頷(うなず)き、残りのアイスを一気に吸い込んだ。それから立ち上がって、すぐ傍にあるゴミ箱に空の容器をぽいっと突っ込んだ。
再び翔真の隣に座りなおすと、置かれた唐揚げから立ちのぼるニンニクの香りが鼻腔をくすぐる。空腹時には危険すぎる香りだ。
途端、俺の素直な腹はぎゅるううっと返事をした。
「……すまん。聞かなかったことにして」
そう言っている最中にも、ぎゅるぎゅると腹の音が鳴っている。
「ん」
「ん?」
翔真の短い声に横を向くと、彼が唐揚げを俺の口元に押し当ててきた。
え、と思う前に、ニンニクの美味しそうな匂いがすぐそこにあるから、反射的に唐揚げをもぐもぐっと頬張ってしまう。口の中に、じゅわぁ~と旨味が広がった。
唐揚げが口の中から消えると、もう一個と口の中に放り込まれる。
くれるのなら素直にもらうけど──なんだろう、この感じは……。
「…………」
俺たちは呆然と見つめ合った。
――思い出した。ふくろうのときも、こうして餌を分け与えてもらっていたんだ。
まだ俺たちのあいだには、ぎこちなさが流れているというのに、なんというか、あれだ。
今、多分俺らは、前世を感じちゃっている。
二.前世のツガイと親友です。
「ほら、千春」
「ん」
翔真に声をかけられて振り向くと、一口サイズにちぎったパンを口の中に放り込まれた。レーズンとクルミが入っていて、パンのほのかな甘味が口の中に広がる。
モグモグと口を動かしていると、絶妙なタイミングでコーヒー牛乳を手渡された。
「ありがとう」
「しょっぱいのはいるか?」
「しょっぱいのあるの?」
「しゃかりこ」
それって俺の大好物なやつじゃん。と目を輝かせていると、一本口の前に差し出された。
それを、ガガガガガガ……と勢いよく前歯で噛む。なくなると、また差し出されるので、どんどんくれとばかりに食らいつく。
「しゃかりこがある世界に生まれてきてよかった!」
「だな。ほら」
差し出されるしゃかりこをまた咥(くわ)えると、木田が口を開けた。
「盛岡っち、俺にもあーんしてくれよ」
「「なんで?」」
「いやだ、この人達、木田くんに対して冷たくなぁい?」
「「普通だろ?」」
――という、俺たちのやり取りは通常通りすぎて、それを見ているクラスメイトは何も言ってこない。
初対面のぎこちなさがあったのは二日間くらいで、俺と翔真が仲良くなるのに時間はかからなかった。
二学期の今では、幼馴染だっけくらいの馴染み方。長年一緒にいたような阿(あ)吽(うん)の呼吸。
〝俺と翔真は前世でツガイだった〟
このやりとりは、俺と翔真のあいだでよく言い合っているので、クラスメイトも耳にしているはずだ。
でも今のところ、ツッコまれたことはない。木田がいつもボケや合いの手で割り込んでくるから、ただのネタとして流されている気がする。
「千春って、あーんすると、なんでも食うんだよ。かわ……面白い」
その言葉の通り、翔真はよく俺に食べ物を与える。最初は少し戸惑ったけれど、気づけば当たり前のように受け入れていた。慣れって怖い。
それから、翔真も俺も木田を除(の)け者(もの)にしているわけじゃない。同じくらい好きでも、接し方がそれぞれ違うってだけだ。
「ほら、木田」
翔真はしゃかりこが入った筒を丸ごと差し出した。
「どうも~」
木田はそれを頬張りながら、昼休みが残りわずかになった時計を見て、「次の体育、だるぅ」と呟いた。
「きたきたきた、盛岡選手です! 華麗なドリブル、ひとり、ふたり抜き……そして――スラムダァアアアアアアアンクゥ!」
午後の授業は、体育館でのクラス対抗バスケ大会だ。
各クラスが二チームに分かれ、熱戦が次々と繰り広げられていた。
俺と木田がいるチームAは、一試合目であっさり敗退。今は見学に回っている。一方、翔真がいるチームBは順調に勝ち進んでいて、みんなの注目を集めていた。
最初のうちは拍手で応援していたが、木田が暇を持て余し始めたあたりから、悪ノリが始まった。
それで、チームBの実況なんかをしているってわけだ。面白がって他の奴らも耳を傾けている。
実況の通り、バスケ部のメンバー以上に活躍しているのは翔真だ。恵まれた体格と身体能力を活かし、初戦からキレのある見事な動きを見せている。
「おぉ! ダンクからの速攻! 盛岡選手の勢いは止まりません!」
そのダンク以降も、チームBは相手に一切の得点を許さず、試合終了の笛が鳴るまで圧倒し続けた。
翔真の大活躍が勝利を引き寄せ、チームBは見事優勝。
木田の実況のおかげかどうかはさておき、試合は終始熱気に包まれていた。
「盛岡、すげぇ!」
わっと優勝チームに人だかりができる中、翔真の周りにはバスケット部の面々が一斉に群がった。
俺と木田は少し離れた場所から、翔真にひらひらと手を振る。
それに気づいた彼は、人だかりからするりと抜け出し、まっすぐこちらへ向かってきた。
「翔真、お疲れ様、大活躍だったな」
「ありがとう。千春の応援、聞こえていたよ」
翔真は礼を言いながら、よしよしと俺の頭を撫でた。撫でて褒められるべきはそっちだが、彼はことあるごとに俺の頭を撫でまわしたがる。
餌付けといい、これも翔真なりの親愛表現かと思って、素直に受け入れていた。
「へへへ」
俺が笑うと、翔真も頬を緩める。
「はいはいはーい! ふたりの世界に入るなって! ――ところでこの私、木田くんの実況はどうだった?」
「木田の実況は煩(うるさ)かった」
「えへ。そこはぁ、盛り上げ上手だって言ってくれよぉ~!?」
「千春、その指どうした?」
超前向きな木田をスルーしながら、翔真は膝を少し折って俺の右手を見た。中指には湿布を巻き付けている。
「大したことない。ちょっと突き指しただけ」
全然活躍してないのに突き指をするなんてどんくさい。恥ずかしくて、手を後ろに隠したが、翔真が見せろと睨んでくる。
「ちゃんと保健室へ行ったのか?」
「……まぁ」
「まぁ? ちゃんと診(み)てもらえ。適当にしておくと長引くぞ」
保健室へ行ったところで同じような処置だろう。病院と違って、レントゲンで骨の状態を確認出来るわけでもない。
手を左右に振って大丈夫だと言ってみたが、心配性の翔真は俺の意見を聞き入れない。
「千春、行くぞ」
デカい手に左腕を掴まれる。だが、ダンクを決めて優勝に導いた立役者が、その場を抜けようとするなんて、周りは許すはずがない。
「盛岡、お前、バスケ部に入れよ~!」
背後からバスケ部の連中が、翔真の肩をがしっと掴んだ。
「いや、今は」
「今度、スリーオンスリーで対決しようぜ!」
あっという間に、翔真はまた人盛りの中心へと引っ張られていく。
振り向いた彼が、もの言いたげにこちらを見るので、俺は「早くいけ」と左手を振った。
すると翔真は言葉を飲み込み、代わりに木田に目配せする。
「んま。あの人ったら、すっかり千春の夫気取りよ」
「あらん、やだ。愛されちゃって? でもまだ若いから、結婚できないわよぉ」
「……まぁ、冗談はともかく、盛岡っちの言う通り。ちゃんと診てもらえよ」
「う……」
これ以上ごねるのは面倒臭い。かといって、付き添いがいる怪我でもない。
「分かった。言う通りに行ってくる」
木田にそう声をかけて、ひとりで保健室へ向かった。
コンコン、とノックすると、すぐに「どうぞ」と返事がある。ドアを開けると、狭い室内には、俺と同じように突き指したらしい生徒がひとり。養護教諭の手元には、湿布とテーピングが並んでいた。
「――うん。それほど腫(は)れていないし、骨は大丈夫そうね」
「はい」
指先に巻かれたテーピングは、手際よく、綺麗に整えられていた。試しに指を曲げてみようとしたら、「動かさないように」と静かに注意を受ける。
「ありがとうございます」
ひとこと礼を言って保健室を出ると、もう下校時間だった。
校舎に響く生徒たちの喋り声の中に、こちらに近づいてくる足音がひとつ浮かび上がる。
振り返ると、翔真がいた。
「大丈夫か?」
「平気。ほら」
俺はすっと右手を前に出して、手当したアピールをする。彼はにやっとし、えらいと言わんばかりに俺の頭を撫でた。
「それから、制服を持ってきたぞ」
「おぉ、気が利(き)く。ありがと」
翔真も体操服のままだ。着替えたいが、教室にはまだ生徒が残っているはずで、女子の目も気になる。目配せひとつで、俺たちは別館の空き教室へと向かった。
肩幅ががっしり、逆三角形の格好いい背中――。
「溢(あふ)れる清涼感」
俺は制服に、翔真は柔道着に。互いに着替え終わったあと、思わずぼそりと呟いた。
「あぁ、制汗剤のことか? 間違えて買ったんだけど、本当は無香料派」
翔真から漂ってくるシトラスミントの香りも清涼感がある。けれど俺が言っているのは翔真自身のことだ。汗を掻(か)いてちょっと湿った硬質の髪の毛、袖から見える逞(たくま)しい腕。体育会系の爽やかさが溢れている。
「翔真から青春の香りがする」
「はは。なんだそれ。それなら、千春も青春の香りがするだろう?」
「いや、俺はしない。木田もしない」
実際は香らない匂いの話をしているのに、翔真は俺の肩を抱き寄せ、頭に額をひっつけた。あろうことか──くん、と匂いを嗅いでいる!?
「わ、やめろよ。汗臭いって」
「え」
厚い胸を慌てて押して距離を取ると、翔真はきょとんとしたまま動かない。何故か、その顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「なんだよ、その反応。驚くほど変な匂い? そりゃ運動後だし……って、ガチなの?」
頭皮の匂いなんて自分じゃ分からない。毎日洗っているけど、専用シャンプーに変えるべき?
こっちは焦っているのに、翔真は気まずそうに視線を逸らす。顔を背けるほどの悪臭!?
「知らなかった。俺って、そんなに臭いのか。……分かった。帰りにドラッグストアで高いシャンプーを買って帰るよ」
「いや……匂いは、普通なんだけど」
「なんだけど?」
「思わず千春の匂いを嗅いだ自分に驚いて」
思わずだったのか。
「はぁ~、なんだ、そっちか。俺はとんでもない臭い匂いじゃないかって、マジで焦ったんだからな!?」
教室のドアが締めっぱなしだから匂いが気になるんだ。さっさとここから出てしまおう。
そう思ってドアを開けた瞬間、後ろからそっと腕を掴まれた。
「……なぁ。千春はさ、俺といると、妙な気分にならないか?」
「妙って、何?」
振り返りざまに聞き返すと、翔真の真剣な表情が、じわじわと悲しげに歪んでいく。
「……だよな」
「え、っと……」
意味がさっぱり分からないのに、翔真は続けて「こんなのおかしいよな」と呟いて腕を離す。
どこか様子が変で、なんでもないようには見えない。
何か悩みが?
ふざけてないでちゃんと聞こうと向き合ったとき、廊下から複数人の足音が聞こえてきた。
「え~、盛岡くん、どこだろう」
「確かに別館に向かっていたよ! 告白のチャンスじゃん。絶対ものにしなよ」
聞き覚えがない女子の声が廊下に響く。その途端、翔真はあからさまに顔をしかめたので、俺はすっとドアを閉めた。……ものにしなよ、って言い方は嫌だよな。
「各教室、確認していこうよ」
その言葉のあと、ドア開け閉めや施錠の有無を確認する音が聞こえてくる。まるでハンターだ。この調子では、彼女たちはすぐにここに来るだろう。
「知り合い?」
「知らない」
その声も心なしか暗い。
俺はくるりと周囲を見渡し、ちょうどいい場所を見つけた。
「隠れよ」
「え?」
俺は翔真の腕を引っ張り込み、一緒に用具ロッカーの中に入った。
「――千春!?」
狭いロッカーに男ふたり。みっちみちの缶詰状態。
翔真を押し込んだあと、俺は背中から入ったので、背中にぴったりと温もりがある。
「何やって!?」
「せま……なんで俺まで入っちゃったんだろう」
「おかしいだろ!? こんなにくっつかれたら……色々、やばすぎるから!?」
翔真が焦っているので出ようかと思ったが、近づく足音がする。
「しぃ、黙って」
「……っ」
身動きひとつ取れない狭さ。長時間はここにいるのは難しい。
ほんの少し。彼女たちが通り過ぎるまでのあいだ、翔真には窮屈さを我慢してもらおう。
「あっ、ここの教室だけ、鍵がかかってないよ!」
女子の声が教室に響き、俺はロッカーの隙間からそぉっと覗き込んだ。あれは、別クラスの女子だ。「誰もいないね~」「うん」などと話している。
きっと、ぱっと見て、出て行くだろう。彼女たちには翔真探しというミッションがあり、先を急いでいるはずだ。
――そう思っていたのに、案外、女子は目ざとい。
「あっ見て! 誰かいたのかな。体操服が置きっぱなしだよ」
「本当だ。そういえば、盛岡くんも体操服だったよね?」
「ひょっとして待っていたら、戻ってくるかも」
……え!?
信じられないことに、彼女たちはどかっと椅子に腰を下ろし、「それでさぁ」なんて駄弁(だべ)り始めた。
ひくっと、口元が引きつる。
嘘だろう……予想外すぎる。
内心で悲鳴を上げていると、頭の上で、翔真が苦しそうに息を吐いた。
俺を押しつぶさないようにしているのか、その身体は強(こわ)張(ば)っている。背中ごしに伝わる心臓の音も、ばっくばっくと跳ねているし、相当苦しいに違いない。
女子たちに早く教室から出ろ~と念じていたら、ふと背後に違和感を覚えた。
俺の腰下辺(あた)りに硬いものが当たっている。
……ん? この位置にあるものって?
まさか、翔真の下半身が反応した……いや、それだとなんでだよな? うん、それはない。失礼すぎる。ということは、ポケットに入れていたものがズレた?
潰れたり折れたりしないか心配になり、尻をずり動かして位置を調整しようとするが、上手くいかない。
すると、ふーっ! と翔真が怒るように息を吐き、俺の腰をがっしと掴んだ。
「な……何、やってんだよ……」
小声で唸(うな)るので、俺も小声で返す。
「翔真のポケットにあるもの、潰しちゃ悪いなって。それ、ちょっと触っていい?」
「……っ、っ!?」
後ろ手で尻に当たるものを退かそうとしたが、そもそも手を回すスペースがない。無駄に腰をもじもじと動かすだけとなる。
「……く、そ。やめろ……」
滅茶苦茶苦しそうな声で止められた。
あ、そうか――翔真の後ろには掃除道具が入っていて、動くと背中が痛いのかも。
「もういい。絶対に、何もするな」
小声だが、強く言われ、頷く。
少しでも俺が前に詰めれば楽になるかと思ったけど、効果は微々たるものなのだろう。
触れ合っているその体温は急激に上がっていて、心音はさっきよりずっと速い。
これ以上は、翔真が限界っぽい。
隠れた意味がなくなるけど、もう外へ――。
「どうも、お邪魔しま~す! 忘れ物しちゃってさぁ」
馴染みの声が、教室の外から届いた。
隙間からじっと見つめると、教室の中に木田が入ってくる。
──まさか、俺と翔真が戻ってこないから、探してくれたのか!?
「あ~、やっぱり。これこれ」
木田が俺たちの体操服を手に持つと、女子はあからさまにげんなりした顔をした。「いこいこ~」「時間を無駄にしちゃったね」と口々に言いながら立ち上がり、教室を出て行った。
「なんだあれ……」
木田が呟いた瞬間、俺たちはロッカーの扉を押し開け、勢いよく飛び出した。
「ふはぁっ、助かったぁ~」
「うわっ!?」
まさか俺たちがここにいるとは思わなかったようで、木田はびくんっと飛び跳ねた。
「びっくりしたぁ……! 盛岡っちが制服を届けに行ったっきり、ふたりとも教室に戻ってこないから探していたんだ。まさか、そんな狭いとこに隠れていたとは」
「どうなることかと思った……ありがとう」
礼を言いながら、安堵の溜め息を吐く。
「それで? そんなところで何やっていたんだよ?」
「あぁ……」
〝ふたりでロッカーに入る〟という奇行は、早めに説明した方がいいかと、大雑把に事情を説明した。
「は? 女子から逃げるために……それでロッカー?」
「いやまぁ、翔真ひとり隠せばよかったんだけど、勢い余ってさ……。あっ、翔真、大丈夫――」
慌てて振り返ると、彼は俯(うつむ)いてしゃがみ込んでいた。――全然大丈夫そうに見えない。
「どうした!? どこか痛めたか!? 俺の身体で押しつぶしちゃったから具合悪くなったのか!?」
駆け寄ろうとすると、翔真がストップというように手を前に出した。
「こっちに来るな」
「え……でも、首筋まで真っ赤になってるよ!? あと、ズボンに入っていた硬いものも大丈夫?」
「…………」
「……ズボンの中に……硬い? 盛岡っち?」
「……最悪」
翔真がちょっと顔を上げて、眉を潜(ひそ)めて俺を睨む。あからさまに不機嫌になっている。
「放っておいてくれ」
「けど、立ち上がれないほど辛いなら――っ」
言いかけたところで、木田にがしっと肩を掴まれた。
「今日、千春は家の用事があるって言ってただろう? 先帰れよ。盛岡っちのことは、木田くんがちゃ~んと面倒みといてやるって! な!?」
その言葉に翔真は頷く。
もし原因が俺だったなら、ここで頷くわけにはいかない。けれど、木田に「はいはーい」と背中を押され、教室の外に追い出された。
三.モテる男は大変です。
「ロッカーのことがあってから、翔真が俺と目を合わせてくれない」
「ふぅん」
「木田は翔真から何か聞いていない?」
登校中、俺は木田に尋ねた。
ロッカー事件のあと、木田は翔真とふたりで残っていた。何か聞いていたら教えて欲しかったが、彼は「んー」と曖昧な相槌を打つだけ。
そのそっけなさに俺はもう独り言のように呟く。
「……ここは詫びの品を奮発すべきか」
そんなことを考えながら校舎に足を踏み入れると、前を歩く女子たちが一斉に同じ方向を向いた。つられて視線を向けると、翔真が女子と喋っていた。
柔道着を着たままなのは、朝練を終えたばかりだからだろう。
相手は、確か三年の先輩だ。腰まで伸びた髪に、ばっちりメイクの派手めな容姿。先輩の周りも派手な人たちが多いから、自然と顔を覚えていた。
それにしても、やたら自分の髪の毛を触って、身体をくねらせている。翔真に好意があるから、ああいう仕草になるだろうか。
「あらぁ、千春の夫はモテるわねぇ」
ふぅん、しか言わなかった木田がようやく意味ある言葉を発した。
「あれ、やっぱり告白だよな」
バスケットの試合をきっかけに、翔真のモテ方は凄まじかった。
「――たく、ここにもいい男がいるのに、なんで盛岡っちばかりに集中するかねぇ」
「ん~」
先日、部活中の翔真の姿を見た女子が「やばい」と口々に漏らしていた。〝やばいほど格好いい〟のやばいだ。
「女子たち曰く、翔真は雄味があって、ヘラヘラしているだけの男子と違って雄々しい魅力とやらがあるんだってさ。それに、翔真は大口叩かないけど有言実行だしね。分からなくはないよ」
すると、木田が自分自身のことを指さした。俺だってモテ系でしょうって言いたいのだろうか。残念ながらそれには同意しかねる。
「それより、あんまりじろじろ見るなよ。行こう」
木田に声をかけた瞬間、先輩が勢いよく翔真の腕に抱きついた。スキンシップが多い先輩だ。
このまま見ていたら、いたたまれなくなりそうで、さっとその場を離れた。
教室に続く階段を上っていると、横から木田が指で俺の肩をツンとつつく。
「……あれを見て、千春は何も思わないわけ?」
「ん? あれって、告白現場? 俺も恋人が欲しいかって意味? ん~」
俺は、少し考えて「時間ないかな」と答えた。
先月から俺はバイトを始めた。
両親から残された遺産はあるし、特別金に困っている訳じゃないけど、自分の小遣いとスマホ代くらいはちゃんと稼ぎたい。今時スマホがないなんて不便だし。
それに、近いうちにひとり暮らしするつもりでいる。そのための資金も少しずつ貯めていきたい。
「恋人とか出来たら、遊びたくなるだろうし。俺はまだいいや」
「いやぁ、そういう意味ではなくて……盛岡っちのことだよ」
「翔真のこと? なんで俺が気にするの?」
「…………」
木田は物言いたげな表情で口を開きかけたが、小さく首を振る。
「なんでもない」
「そう?」
席に着いて、隣の奴に挨拶していると、翔真が教室に入って来た。
どうしてか、その顔は見たことないくらい強張っている。
やっぱり、目が合わない、か。
ロッカー事件の前は、ふとした拍子に視線が合うことが多かったのに、今はまるで避けられているみたいだ。
また前みたいに戻りたくて、俺は頭の中で、詫びの品の候補をひとつずつ並べていく。
午前中そのことばかりを考えていたら、隣にいる女子たちが声を潜めて言った。
「盛岡くん、先輩と付き合うって」
先輩って、今朝の?
俺は翔真の方をちらりと見て、ほんの少しだけ淋しさを覚えた。
◇◇◇
「ねぇ、聞いて! 盛岡くん、恋人と別れたって!」
登校して教室に入ると、女子たちが席の近くで屯(たむろ)していた。その会話で、翔真の破局を知った。
一週間前、こんな風に彼女たちの声で、翔真が付き合い始めたと聞いたばかりなのに……。
「知ってるよ! 既に新しい恋人がいるんだって!」
「え、もう!?」
一人の女子の声と、俺の心の声が重なった。急展開だ。
「ショック。幻滅した~」
「そう? 非モテよりいいじゃん。私も相手してくれないかな」
彼女たちは声を潜めているが、興奮しているので丸聞こえだった。〝先輩には別の男がいた〟〝セフレ〟〝新しい恋人はC組の子〟〝誰でもいい?〟〝実はヤリチン〟だとか。
まるで、ゴシップに食いついて楽しむ野次馬だ。
翔真は部活の朝練でホームルームぎりぎりにしか現れないと分かっているからか、遠慮のかけらもない。
「木田……」
「うん、なんかな」
木田と俺はしかめっ面(つら)で互いの席に着いた。
──キーンコーンカーンコーン。
午前の授業終了のチャイムが鳴り終わると、教室の空気が急にだるんと緩んだ。
「昼飯、屋上へ行く?」
朝の女子たちの会話を思い出して、俺と木田は翔真を誘い、屋上へ向かった。
そこには生徒がちらほらといて、俺たちはなんとなく人を避けるように給水タンクの裏に回り、腰を下ろした。
「──ほら、千春」
「ん」
翔真は、あーんと俺の口にチョコを放り込んだ。
「……ありがと」
ロッカー事件の直後は、翔真とギスギスしていた。でも、どうやら本気で怒っていたわけじゃなさそうで、相変わらず、俺にお菓子をくれる。
「……それでな、勉強ノートに推しの写真を貼ると、見つめ合っているみたいで始終ときめいていられるんだ。盛岡っちにもおすすめだぜ?」
「木田はそれで、勉強に集中できるのか?」
「できるぞ。推しの目が“木田くんガンバレ”って言ってくるからな」
翔真は木田の話に耳を傾け、相(あい)槌(づち)を打ちながら笑っている。
「……ん~」
その屈託のない笑い方を見ていると、また女子たちの噂が頭をよぎった。
何度も思い出してしまうのは、多分、俺自身が気になっているからなんだろう。
だって、今までの翔真は、恋愛よりも部活──そんなタイプだったから、どうも妙な感じがする。
「翔真って、告白されて少しでも好きになれそうだと思うから、付き合うんだよね? 付き合ってから、気が合うかどうかを決めているの?」
「…………」
軽く疑問を口にしてみた途端、翔真の顔からすっと表情が消え、そのまま固まった。
ちょっと踏み込み過ぎたかもしれない。話題を変えようとしたところで、彼がぼそりと小さく呟いた。
「好きになれなかったらそれでもいいって……付き合ってみないと、分からないから」
「ふーん。そうなんだ」
「…………」
翔真の付き合うは、いわばお試し期間(・・・・・)みたいなものなのか。
その感覚は、俺には分からないけど、恋愛観は人それぞれ。他人の恋に対して自分の意見を押し付けるつもりはさらさらない。
木田は俺らを交互に見たあと、「きゃは」と、いつもよりおちゃらけた声を出した。そして、何故か翔真の肩をポンッと叩き「コーラ奢(おご)っちゃる」と誘った。
「え、俺は?」
木田の答えは、ウィンクひとつ。〝来るな〟ということらしい。喉が渇いているわけでもないからいいけど。
「じゃ、俺は先に教室に戻っているよ」
「おう」
残ったお菓子を口の中に放り込んで立ち上がる。屋上から出て階段を下りるまでは彼らと一緒で、そこから、ひとり教室へ戻った。
「福地くん、突然ごめんね」
「ん?」
自分の席に着いた途端、女子に話しかけられた。バスケ部の川合(かわい)さんだ。
これまで個人的に喋ったことはない。用件はなんだろうかと思っていると、翔真のことだった。なんてことはない。翔真に渡して欲しいと手紙を差し出されたのだ。
「ごめん、俺からは渡せない。アイツ、もう彼女いるし」
翔真の現彼女に失礼だろうと断ると、「もう!?」と川合さんは声を上げてショックを受けた。
「じゃあ、盛岡くんが恋人と別れたら、私に教えて欲しいの!」
「えぇえ……」
まさかのとんでもない発言。
どうして友人の破局報道をしなくてはいけないのか。
勿論、そんなことは出来るはずもなく、手を振って断ると、彼女は勢い余って机を両手でバンッと叩いた。
「次の恋人に絶対なりたいの。他の人とは違って、私、福地くんと仲よくしていても全然大丈夫だから!」
「は?」
「男の友情には邪魔しないから!」
彼女が翔真の次の恋人になろうがなるまいが、俺にはどっちでもいいことで。……そうじゃなくて、スルー出来ない一言だった。
〝福地くんと仲よくしていても〟
「…………」
自分の名があがり、ギクリとする。
ひょっとして、前の先輩と別れた理由は俺? 前世ツガイという設定でベタベタしているから?
木田以外にツッコまれることはなく、周囲も冗談として笑っていた。みんな、軽く楽しんで受け流してくれている。そう、勝手に思い込んでいた。
一緒にいる時間だけみれば、木田との方がずっと長い。学校でもべったりだし、休みの日もたまに遊ぶ。
対して翔真とは、わざわざ約束して遊びに行くこともない。
でも翔真の恋人なら、ツガイ(・・・)という言葉を嫌がるのは、そりゃまぁ、当然だ。
猪(ちょ)突(とつ)猛(もう)進(しん)ガールの一言にどう返事していいのか迷っていると、ぬぅっと大きな影が現れた。
「……千春に何してんの?」
「あっ、盛岡くん……」
先程までの勢いはどうしたのか、彼女はモジモジし始めて、「ご、ごめんね! もう行くね」と同じクラスなのに、教室を出て行った。
しかも、手紙は俺の机の上に置きっぱなしのまま。
――おいおい。この手紙、どうするんだよ。渡したくないんだけど。
捨てるわけにはいかず、渡すしかないのかと考えていると、翔真が前の席に座り直した。
「――どうするんだ?」
「え? どうするって?」
それを聞く翔真は無表情だけど、俺を見る目は強く鋭い。
「川合さんに凄い形(ぎょう)相(そう)で迫られていただろ。千春が困っているのを見て分からない時点で最低最悪。机なんか叩いてさ、付き合ったら何をされるか分かったもんじゃない」
翔真がそんな風に他人の悪口を言うなんて初めてで、口をポカンと開けた。
「近づくなって言っておいてやろうか?」
「――えぇ……と、なんで?」
どうしてか、翔真は徐々に眉間にシワを寄せ、不機嫌な表情に変わっていく。
何かが彼の逆鱗に、触れてしまったようだ。
背筋にゾクッと悪寒が走る。
いつもと違う雰囲気に驚いていると、「はいはーい」と木田が俺の横の席に座った。
「はーい! 盛岡っち、それは誤解だ。千春はそれほどモテないのだ。おそらくは、その手紙を君に渡して欲しいとでも頼まれていたのだろう!」
木田は俺の机に置きっぱなしだった手紙をひょいと手に取り、それを翔真の胸元に押し付けた。
翔真は封筒を開け、その場で手紙に目を通す。感情の色はまるでなく、ただ内容を確認するためだけに読んでいるようだった。
「翔真には恋人がいるから、俺からは手紙を渡せないって断っていたんだ。結局置いていかれたけど……」
「……そうだったのか」
翔真はその便箋を封筒に戻した。
不機嫌オーラが漂ったままだから、何故か俺が怒られているみたいに思えて口を噤(つぐ)んでしまう。それを見た翔真は、ハッとして首を横に振る。
「俺のせいで悪かったな。千春に迷惑がかからないように気をつけるから」
「迷惑ってほどじゃないよ。つーか、うーん。モテるのも大変なんだな?」
「そうなんだ、モテるって大変なんだ。俺って罪な男」
翔真に向けて言った言葉を、木田がうんうんと頷いている。
髪を手で掻き上げてフンッと鼻で笑い格好つけているが、全然様(さま)になっていない。
「細目のうすしお顔王子、木田友一! 総愛され目指してまっす」
木田のことを適当に聞き流しながら、チラリと翔真を見る。
「むしろ、俺が迷惑とかなら、すぐ言ってな?」
「それは絶対ない」
「そ?」
顔を覗き込むと、翔真の顎がわずかに強張った。奥歯を噛みしめているのが動きで分かる。
少しまだ怒っているように思えた。
四.欲しいのは、ふくろうです。
二年になって、翔真とはクラスが別れた。木田と俺はまた同じクラス。
「まさか、前々前世では俺とお前はツガイだった?」
「そうかもな。バッタか何かだったかもしれんな」
「そういう設定にしとく?」
――なんて、俺らのふざけた仲は相変わらず。
男子たちってホント無邪気なんだから!なんて女子によく言われる。
でも、翔真と一緒に三人でいた頃には、〝男子たち〟って一(ひと)括(くく)りにされなかったっけ。
あれはやっぱり、翔真という際立った存在がいたからなんだろう。
「千春、今日もバイト?」
「うん。じゃあな」
放課後は、まっすぐバイト先へ向かう。
一年の頃から続けているコンビニバイトは、俺にはありがたい環境だった。
店長が気配りの出来る人で、テスト期間や学校行事にも配慮してくれるし、長期休みのシフトも無理なく調整してくれる。
そんな店長だけど、バックヤードではシフトのことでよく唸っている。
コンビニの店長になる前は、飲食店の経営などを経験して、苦労してきたんだそう。「バイトの子は大事にしなきゃ」「辞めるときはひとり紹介してね」とよく言っている。なんとなく放っておけないタイプの人だ。俺の叔父さんとちょっと雰囲気が似ている。
「じゃあ、福地くん。レジは頼んだよ」
「はい、店長」
「僕は裏にいるから、何かあったら声かけて」
コラボ商品やキャンペーンで商品の入れ替えもあって、今日という日は割と忙しい。
俺が手に持ったのは、ぬぼぅっとした顔のふくろうのぬいぐるみだ。くじの一等賞。
それを棚に陳列していたら、自動ドアが開き、タラタラタラ~、タラ、タラッタ。とメロディが鳴った。
「いらっしゃいませ~、おぉ、翔真じゃん!」
店内に入ってきたのは、部活帰りかと思われる制服姿の翔真だ。
「千春? ……バイトしているって聞いていたけど、ここのコンビニだったんだ」
「うん」
ここのコンビニは翔真の家から近く、たまに寄っているのだそう。
夕方からの時間帯によくバイトを入れていると伝えると、彼は「へぇ」とこちらに近づいてきた。その視線にあるのは、俺が持っているぬいぐるみだ。そこから視線は動かず、じっと見つめている。
「ん? このキャラ好き?」
「……いや、キャラ物はあまり知らない」
「俺も。でも、流行っているみたいだよ。――あ、ごめん。お客さん」
客が来たため、レジに戻る。電子化が進んで金に触れる機会が減った。ピッピッとバーコードを読み込み、表示画面を確認したら、客がスマホをかざして決済を済ませる。
客が店内にいなくなったタイミングで、翔真はスポーツドリンク二本とコーラとからからくんを持ってレジに来た。
「部活帰りって、腹減るもんな」
彼は頷きながら、さっき俺が陳列していたふくろうキャラを見る。前世ふくろうだったから、ふくろうが気になるのだろうか。
「くじする?」
「あぁ」
「マジ? ガラじゃないけど」
強(こわ)面(もて)がぬぼうっとしたキャラを持っている姿というのは、ちょっとダサい気がする。いや、意外性という意味では女子受けするのかもしれない。
まぁいいか、とくじの箱を翔真の前に差し出した。
「何等狙い?」
「一等」
「まさかのぬいぐるみかぁ。よっしゃ、祈ったる! 当たりますように~!」
当たれ当たれ~と両手を合わせて祈ると、翔真がふはっと笑う。この目尻を下げた笑顔は、特別仲がいい奴にしか見せない。
笑顔のお礼に俺もにっこりすると、「捲(めく)って」と箱から取ったくじを手渡される。
「オッケー! んんんん~~、いでよ一等!」
「どう?」
「――おぉ……ネタ的には面白くない。三等。中当たり」
「三等? 何?」
三等は、小さいふくろうぬいぐるみのキーホルダーだ。
俺は棚からそれを取って翔真の手のひらに乗っけてあげる。翔真が持つとさらに小さく見える。
「ちっちゃい。千春みたい」
「まて、おい。ディスってくるじゃないか。俺はそんなにコンパクトではない。今も前世も」
「俺から見れば、これくらいだし」
「今日の翔真くんは、悪い口が止まんないのかなぁ~、俺の鉄拳が飛ぶ前に帰んなさいよ」
鉄拳なんぞリアルで飛んでいるのを見たことがないけど、俺はげんこつを作って見せた。けど、はははっと笑う声に、自然と拳は下がる。
「これ、握って」
翔真は何故か俺にふくろうのキーホルダーを持たせた。よく分からないが、言われた通り、ふわふわのそれを軽く握る。
くれるのかと思ったけれど、そうではなく翔真は俺の手からキーホルダーを取ったら、自分の鞄に付けた。謎行為。
「何?」
「元気が出る気がするから。夏休みに大きな大会があるからさ」
「柔道の? そっか、いい結果が出せるといいな」
翔真が柔道している姿を見たことはない。大したことは言えない代わりに、彼の手を握って友達として勝利を念じた。
「んん~、友情パワー! なんちゃってね」
「……うん。千春ありがとう」
「いやいや、どっち向いてお礼言ってんの! そのキーホルダー俺じゃねぇし。俺、こっち!」
キーホルダーに声をかける翔真にツッコむ。彼は益々目尻を下げながら、じゃあまたなと手を振ってコンビニを後にした。
「……夏休みは、部活の試合か」
誰も聞いていないと思い、ぽつりと呟くと、横で店長が聞いていた。
涙目で「もうシフト目一杯入れちゃったよ〜」と嘆き始めるので、慌てて誤解だと説明した。
◇◇◇
最高気温は下がらないまま、時間だけが進んで夏休みは終わった。
制服を着た瞬間、じんわりと汗ばむ。
「叔父さん、おはよう」
二階自室から一階のダイニングルームに降りると、叔父さんがテーブルに突っ伏していた。今日は有給だって言っていたので、パジャマのままだ。
「はぁ~~」
俯いたまま、長い溜息を吐いたので、二日酔いかと水を差しだす。
「ありがとう。はぁあ、月日が早いねぇ〜。今日から新学期かぁ」
「なんで、叔父さんが嘆くの? 夏休み終わって怠(だる)いの、俺なんだけど」
「だって、千春に夏休みを満喫させてやっていないからさぁ」
その言葉に苦笑いする。満喫させてって……そんな齢(とし)じゃないのに。
「夏休み充実してたよ」
「バイトでだろう~。高校生らしくもっと羽を伸ばせばいいじゃん」
「はいはい、のびのびできました。満足です」
適当にかわすと、叔父さんは拗ねた顔をして、上半身を上げる。やつれ気味だけど目鼻立ちは整っていて、身内びいきかもしれないけど格好いい部類だ。父さんとは、あまり似てない。
「昔は、叔父さんに遊ぼうってよく誘ってくれたのになぁ。公園や海、楽しかったなぁ~」
叔父さんは子供好きで、小さい頃はよく遊んでもらった。海水浴やBBQ、魚釣り、家に来るたび、俺用のお菓子を持ってきてくれたっけ。
「いつの話だよ?」
「いつだって、叔父さんは千春をかまいたいんですよ~」
叔父さんはしょぼくれたまま、テーブルの上のメロンパンに手を伸ばした。福地家の朝食は、あるものを摘まめ、各々好きなものを食べろ、だ。
俺も椅子に腰かけて、シリアルを頬張る。テレビをつけて、朝のニュースを見た。互いに気をあまり使い過ぎないことも福地家のルール。
「あ。そろそろ行く時間だ。じゃあね、叔父さん」
「気を付けてね」
叔父さんに手を振ったあと、洗面所で身だしなみを整え、早足で玄関に向かった。
あ。と思い出すとともに引き返して、居間にある仏壇に手を合わせた。
そこに飾られた両親の写真は、いつも優し気に微笑んでいる。まるで「千春、おはよう」と言ってくれているみたいだ。
はたきで軽く埃(ほこり)を払い、背筋を伸ばした。
「元気にいってきます」
その言葉は室内にすっと消える。その静けさを破るように、ぴんぽーんぴんぽーんと家のチャイムが鳴って、木田が迎えに来た。
「おぉ、凄い……!」
一か月ぶりに学校に登校すると、《柔道部全国大会優勝おめでとう》というでっかい垂れ幕が校舎に飾られていて、「やった」と思わず声が漏れた。
翔真は団体でも個人でも優勝し、全校生徒が揃った朝礼で表彰されていた。
次の休憩時間、木田と一緒に祝いの言葉を伝えようと、翔真がいる教室へ向かった。
けれど、彼の周りは人が多く、何も言えないまま、教室を後にした。
【お~め~で~と~】
代わりと言っては何だが、祝マークの絵文字をこれでもかと付けたメールを送っておいた。きっと周りからいっぱいそんなメールが届いているだろうけど、「ありがとう」と翔真からすぐに返信がきた。暫(しばら)くは注目されるだろうし、返信は不要だと書いておけばよかった。
「きゃっ、ふくちゃん可愛い~!」
「ふくちゃんいいよね」
……ふくちゃん?
女子たちの声が耳に入り、思わず振り向いた。
ふくちゃんとは呼ばれたことないけれど、福地だから反応してしまう。
だけど、なんてことはない。彼女たちが〝ふくちゃん〟と呼んでいるのは、ぬぼうっとしたふくろうのキャラクターのことだ。
俺のセンスでは、あのキャラはそんなに可愛いとは思わないけれど、流行(はや)りとはなんとも恐ろしいことだ。
何故か、その日を境にふくちゃんキーホルダーを鞄に付けた女子が多くなった。たまに男子も。
うちの学校での流行り方は尋常ではなく、不思議に思っていたら、とうとう木田の鞄にまでふくちゃんキーホルダーが付いていた。
木田はドルオタで、アイドルのロゴキーホルダーなんかは付けるけど、俺と同じくキャラには興味がないタイプなのに。
「そのキーホルダー、そんなに可愛いかねぇ?」
机に肘付けて、ふくちゃんを眺めていると、木田が腕を組んで話し始めた。
「流行ってさ、一番の話のネタになると思わないか?」
「ふぅん?」
「正直、ふくろうキャラの可愛さにはピンと来ない。けど、俺はこのビックウェーブに乗っかりたい! 実はさぁ、だいぶ前に姉貴がくじで当てて、二個あるからって俺にくれたんだよ!」
「へぇ?」
どうやら、木田はこのキャラを話題に女子に話しかけようと考えているようだ。
そして、集団の空気とは恐ろしいものだ。
みんなが、ふくちゃんのことで盛り上がっていると、俺も知らなきゃいけないような気がして、じわじわと焦りが募ってくる。
すっかり触発されてネットで検索すると、ショート動画が山ほど出てきた。
暇さえあれば、それを見て勉強していたというのに――。
一週間後、あれほど盛り上がっていたふくちゃんブームは、嘘みたいに静まり返った。
──完全に流行に乗り遅れた。
「ふくちゃんブームって、なんで終わったの?」
急激なブームの廃(すた)れに疑問を持つ奴らが、教室でぽつぽつと話していた。そこで俺もその流行の発端を小耳に挟んだ。
発端は、翔真だった。
なんでも翔真は、“ふくちゃん”を柔道全国大会に、持っていったらしい。しっかり優勝したことで、縁起のいいアイテムとして広がったようだ。
おそらく、翔真が持っていたものは、コンビニで当たったあの“ふくちゃん”で間違いないだろう。
そして彼が、それを付けなくなった途端──みんなも付けなくなったと。なんだそれ。
呆れながら、流行とはそういうものなのかとひとつ勉強になった。
「はぁ~~、女子って、難しい」
ふくちゃんという話題がなくなったあとも、木田は積極的に女子に話しかけていた。だが、仲良くなるには一歩及ばす。よく遊びに誘ってはいるが、きっぱり断られていた。……果敢に挑む勇気は称賛する。
「どんまい」
「おう」
「お前には俺がいるじゃん、帰ろうぜ」
「おう……俺には千春がいるもん」
嘆く木田の肩を軽く叩いて、俺たちは並んで下校した。
残暑が厳しく、コンクリートの道は、ゆらゆらと蜃(しん)気(き)楼(ろう)が立ち上っている。
「暑い」
そう呟いた五分後、また「暑い」と口にしてしまう。
「千春、このあとバイト?」
「いや、今日は休み」
「んじゃ、ちょっと涼みにマッグへ行こうぜ」
「いいね」
一刻も早く涼みたい。木田の提案に賛同し、家とは逆方向にあるマッグへ向かった。
店内はすっと爽やかな冷気に包まれていて、木田と一緒にふわぁと声を上げた。さらに期間限定のシェイクを飲めば、幸せな心地になる。
「あ、配信見ていい?」
推しアイドルがライブ配信しているそうで、木田はテーブルにスマホを置いた。よくこうして一緒に動画を見るので、そのアイドルのことは、結構知っている。
ひらひらのふりふりを見ているあいだ、小腹が減ったのでのんびりポテトを摘まんだ。
「あ――、外、暑さマシ」
店の外に出ると、空は赤く染まって、日が傾いていた。
外の気温が若干落ち着いて、クーラーで冷えた身体にもちょうどいい。
寄り道をしたせいで、家までの道はいつもより遠い。普段は通らない道を木田とたわいもない話をしながら歩く。
ふと住宅街の先に目をやると、見慣れた背中が視界に入った。翔真だ。遠目でもすぐに分かる。
部活はもう終わったのだろうか。
「翔――」
声をかけようとして手を挙げて、そしてゆっくり下げた。
翔真の横には女子がいた。この暑い中、彼女は翔真の腕を掴み、身体を寄せている。翔真の手はポケットにあるけれど、あの親密さはどう見たって恋人同士。
学校にいるときとは違う。怪しい――雰囲気。
恋人がいることは知っているけれど、実際に女の子とふたりっきりでいるところを見るのは、初めてだった。
すぅっと翔真と彼女は、住宅街の奥へと消えていく。翔真の家は、俺がバイトしているコンビニの近くだと言っていたから、向かっているのは、きっと彼女の家だろう。
少しだけ見えた横顔は、どこかすましていて、俺や木田と話していたときの、あの子供っぽさはなかった。
大人びていて、どこか遠く感じた。
「なんか、知らない人って感じ」
そう呟いて、自分もそこから歩き出した。数歩進んで横で変顔している木田に気がついた。
「なんで変顔してんの?」
「――よせ、これが通常運転だ」
翔真のモテ具合を見て、冗談めかして僻(ひが)んでいるのかと思えば、真剣っぽい。
その〝っぽい〟顔で、「千春はキレイ目な女子が好き、美乳派なんだよな?」と聞いてくる。……真剣だと感じたのはどうやら気のせいのようだ。
「何? 急に」
「……俺は、正直大きければちょっと垂(た)れていてもいいなと思うのだが、千春はスラッとしたキレイな子がいいんだよな!? 女優顔って感じの! 前に言っていたもんな!?」
随分と前に言った話を持ち出されたものだ。
おそらく、アイドル系か女優系かの二択で聞かれたときの話だろう。確かに二択なら女優顔だ。けど、キレイめが好きって言ったかな?
少し考えて、中学の頃を思い出す。俺と木田は陸上部で同じ部内で仲良くなった女子がいた。スレンダーでキレイな子だ。会話のノリが楽しくて、好きか嫌いかで言えば好きだけど、恋かというと微妙なライン。
初恋かと言われると、その子が浮かぶ。
――けど、部活を辞めて話さなくなっても平気だったから、やっぱり違うような気がする。
すっかり忘れていたことが急に話題に上がって、返事に困っていると、木田がますます変顔になっていく。苦虫を嚙み潰したような表情。
「盛岡っちは、あぁ見えて不器用で。急いで人を好きになろうとしてるんだよ。アイツはすげぇ焦ってて!」
「焦ってるのは木田だろ? お前がそんなに翔真を見ているとは知らなかったよ」
「ケロッとしている千春を見ると、あぁ~……って感じ」
切ない! と木田は自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
五.ありがとう、大好きです。
午前の授業がすべて終わり、木田と一緒に購買へ向かっていると、翔真と廊下ですれ違った。
目が合うと、互いに自然と「よっ」「おう」と言いながら近づく。翔真の手にはアンパンが握られていた。
「翔真も購買? 弁当じゃないの、珍しいね」
「いや、弁当もある。これは食後のデザート」
クラスが離れてめっきりつるまなくなったし、連絡を取り合っているわけでもない。けれど、いつ会っても馴染み感がある。
翔真が「最近、どう?」と大きく開いた質問をしてくるので、昨日――翔真と彼女が仲良く歩いているところを思い出した。
それが最近一番驚いたこと。……まぁ、それは言わなくてもいいか。
「昨日はバイト休みだったから、寝まくったよ。九時に寝て七時に起きた。寝る子は育つ――ていうのはデマだと思うな」
「ふは」
翔真は吹き出すように笑いながら、俺の頭を高いところからよしよしと撫でてくる。
「やっぱり、千春は〝ふくちゃん〟そっくりだな」
「そんなにコンパクトじゃないって。――ふくちゃん。あのキーホルダー、凄い流行ったよね」
翔真が全国大会で優勝したとき、ふくちゃんを持っていたという噂が広まり、学校ではちょっとしたブームの火種になった。
「ふくちゃんは、ちゃんと家に置いている」
「え? まだ持っているんだ」
「うん。学校だとやたらベタベタ触ってくる奴がいてさ。嫌なんだよな、自分のものに触られるの」
翔真はものすごくしかめっ面をした。けどすぐに俺の視線に気づいて、なんでもないと誤魔化す。
俺は手を前に出して、ニギニギと開け閉めする。
「俺もベタベタ触ってしまった気がするけど」
「それは……千春が触るのはいいんだよ」
「そう? 俺って愛されてんなぁ」
その言葉は拾われず、沈黙が落ちた。
会話が滑ってしまったかと思い、翔真の顔を覗き込むと、その目元がほんのり赤い。何を照れているんだ?
「あぁあ、んもぉ! すぐにふたりの世界になるんだから、俺、オレェ! 愛され木田くんもいますよぉ!? 見えますか! おふたり、見えますかぁ!?」
「「すまん、いたのか」」
「いるわい!」
いつものノリツッコミにより、言いかけた言葉は引っ込んだ。
「はは、木田も相変わらずだな」
そう言う翔真の表情は、いつも通りだった。
昨日、住宅街で見かけた大人みたいな翔真じゃなく、同年代の知っている奴だ。何故か──ホッとした。
「あっ、そうだ! 久しぶりに三人で昼食食べない?」
「お、いいね」
木田とふたりで「どうする?」と聞くと、翔真はふっと笑って「いいよ」と言った。
それから、どちらかの教室ではなくて、なんとなく屋上に向かった。
午前中に雨が降っていたせいで、屋上の地面はまだ濡れている。そのせいか、俺たち以外に人はいなかった。
座るためにビニール袋を尻に敷いて、濡れた地面を気にしながら、パンを頬張る。新発売されたコンビニ限定カレー焼きそばパンだ。
「――え? ひとり暮らし?」
「うん、ほおふぁお」
口の中がパンでいっぱいだったので、手で押さえながら頷く。
コンビニの新商品の話から、いつの間にか俺のバイトの話になっていた。
人間関係はいいけど時給は安くて、つい「ひとり暮らしするには金が足りない」とぼやいてしまったのだ。
「千春、ずっとひとり暮らしするって言ってたもんな。何? 盛岡っちは初耳?」
翔真はぎこちなく首を縦に振った。
「え、初めて言ったっけ? 高三の夏くらいからひとり暮らし始めるのが目標」
「千春の叔父さん、淋しがるんじゃねぇ?」
「いや、本当にお世話になっているからこそ、早めに出たいんだ。叔父さんの時間を、ちゃんと返してあげたい」
あれこれ事情を知っている木田は、「そか」と短く相槌を打つ。
「うん。――ん?」
話題を変えようとしたとき、スラックスのポケットの中でスマホが震えた。
取りだして画面を見ると、知らない番号からの着信だった。
――なんだろう?
警戒して出れずにいると、切れた。
「……すぎ」
今まで黙っていた翔真が、ぼそっと呟く。隣にいても小さすぎる声は耳に届かない。
「ん、なんて?」
聞き返すと、翔真は勢いよく顔を上げた。
「──ひとり暮らしなんて、危なすぎるって言ったんだよ! 物騒なことに巻き込まれるかもしれないだろう。何かあったらどうするんだ!」
「へ? え、何? ――ははっ、急に女子高生のお父さんみたいになって、どうしたんだよ」
「……っ、家事とか色々大変だし、やめておいた方がいいよ」
その言葉に俺は手を左右に振る。
「あぁ、ほら、そこは大丈夫だろ。俺、家庭的だから」
俺の家庭の事情は、翔真にも話している。
家事は交代制。けど叔父さんの仕事の兼ね合いで、実のところ夕食は俺の方が作る割合が高い。料理アプリ頼みだけど、叔父さんはよく「店に出せるレベルだぞ!」って褒めてくれる。まぁ、保護者目線だろうけど。
とにかく金さえ貯(た)まれば、ひとり暮らしを始めても大して困らないと思っている。
「あ、手土産持参でなら遊びに来ていいよ」
「…………」
笑いながら冗談めかしてそう言ったけど、翔真が真顔で全然笑っていない。
「……手土産なくても、いいからな」
慌てて訂正したが、翔真は険悪な表情で俺を見つめる。
――だから、なんだよ? その不機嫌な顔は。
すると、木田がすかさず翔真にツッコむ。
「盛岡っちが心配するのは分かるけど、不機嫌になるのは違うだろ」
「……あぁ、分かっているよ」
木田は翔真が不機嫌な理由を何故か分かっていて、窘(たしな)めている感じが釈然としない。
「分かってないじゃん。盛岡っち、本当はどうしたいわけ?」
「…………」
「他の子、好きになるって言ったじゃん」
……一体、なんの話だ?
会話に乗り遅れた。あまりに分からなくて、聞き直す気にもなれない。除け者にするな、と訴えてくる木田の気持ちが少し分かる。
内心で、すまん。と木田に謝っていると、スマホ画面にメールの通知が表示された。タップして開くと、クラスメイトからだ。
「え? なんだろ?」
「千春、どうした?」
「担任が俺のこと探しているって。ちょっと職員室へ行ってくる」
何か提出し忘れていたっけ……と考えながら立ち上がったとき、屋上ドアが勢いよく開いた。
「福地!」
ドアを開けて現れたのは担任だった。わざわざ屋上まで用件を伝えに来てくれたことに、少し驚く。
「先生!? あっ、ごめんなさい。ちょうどメールを見たところで、職員室へ向かおうかと思っていたんです……」
言いながら、担任の表情があまりに真剣で、口元が強張っていることに気づいた。
「え、っと」
思わず笑みを作ったけど、担任の表情は変わらない。
なんだろう、この感じ。……前にも、そんな表情を見たことがあった気がする。
いつ──そうだ、あれは、小学五年の三学期だ。
時間目の休み時間、友達と喋くっていたら、担任が急に、「帰り支度をして」と声をかけてきた。言われるままにランドセルを背負い、昇降口へ向かうと、両親じゃなくて叔父さんが立っていて……。
その記憶がよぎった瞬間、担任がすっと、俺にメモを差し出した。
「福地、ここに書いている病院に向かって欲しい」
「……え?」
「福地の叔父さんが交通事故に遭ったそうだ。詳しい状況は分からない」
「――事故?」
交通事故──その言葉にドッと強く心臓が跳ねた。
肌が粟(あわ)立(だ)ち、冷や汗がぶわっと噴き出す。話している担任の声が、突然遠くに感じられた。
ちゃんと話を聞かなくちゃいけないのに、頭が真っ白で──。
「千春!」
肩を強く掴まれた。横を向くと、心配そうな翔真の顔があった。
「千春、行こう。今、タクシーを呼んだから」
「……っ」
そうだ。病院へ行って、具合を確認しなくちゃ。
しっかりしなくちゃいけないのに、身体が竦(すく)んで動かない。どうやって一歩出したらいいのか分からない。
どうしてこんなに身体がいうことを聞かないのか。視線を落とすと、足が大きく震えている。足だけじゃなくて全身も。
翔真はそんな俺の頭を胸元に抱き寄せ、背中をポンポンと叩いてくれた。
「落ち着け。深呼吸しろ」
「…………」
「息を吸って、吐くんだ」
ぎゅっと瞼を閉じて、翔真が言うように息を吸って、吐く。
「もう一度、ゆっくり」と彼のアドバイス通りに深呼吸していると、手足の感覚が戻ってきた。
震えているが動かせるようになった手で、翔真の胸元を掴むと、ドアが勢いよく開いた。
「――千春っ! 荷物、全部持ってきたぞ! とにかく今すぐ行け!」
木田の手には俺の鞄。
今のあいだに、教室と屋上を往復してくれたのか。
木田は荒い息を吐きながら、それを俺に持たせると、ぐいと腕を引っ張る。
「俺も自転車で追いかけるから! 多分病院内には入れないけど、病院の前で待ってるよ!」
「千春、俺も付き添うよ」
病棟には、身内と関係者しか入れない。
それでも、付き添うと言ってくれるふたりの存在が、何より心強かった。
「……急いで、行くよ」
足が動くようになり駆け足で屋上ドアを開ける。こんな状況だから担任は注意せず、「気をつけて」とだけ言った。
一気に階段を下りて校舎を出る。翔真が呼んだタクシーは校門の横に到着していた。
翔真も一緒に同行してくれ、俺の代わりに運転手へ行き先を伝えてくれる。
「はぁ……」
車内でただ座っていると、どうしても叔父さんの安否を考えてしまう。また怖くなって震えていると──そっと大きな手が背中に触れた。
翔真がゆっくり撫でてくれている。
そのぬくもりを感じているうちに、タクシーは病院の前へ到着した。
タクシー代は翔真が立て替えてくれ、俺は彼に力強く手を引かれながら、車を降りた。
そこまでは足が動いていた。なのに、いざ病院に入ろうとすると、足がすくむ。心臓がぎゅっと縮こまり、視界の端がじわりと滲む。
「……やっぱり、怖い」
すると、目の前がまた真っ暗になり始め、翔真が遠くで俺の名前を呼んでいるように聞こえた。そこから記憶が途切れ途切れになり、気づけばベンチに座らされていた。
包み込むように身体に腕を回され、優しく背中を撫でられている……。
「千春」
力強く名を呼ばれ、俺はゆっくりと顔をあげた。
そこにいる翔真は、顔を歪ませ心配そうに瞳を揺らしている。
「千春、辛いのなら無理する必要はない。俺が様子を聞いてくる」
「……っ、俺、だめだめ、で……」
「全然そんなことはないよ。千春は駄目じゃない」
その言葉に涙が溢れてきた。
俺の手をぎゅっと掴むその強さ。任せろと態度で示してくる。心強くて、気持ちが落ち着いてくる。
俺は、ずずっと鼻を啜(すす)った。
「……な……なぁ? 病棟の入り口まで……付いて、来てくれる?」
震える声で言うと、翔真が頷く。
「あぁ。そこまで行けるか?」
「……うん。すごい、心強いよ」
また鼻水が出そうになっていると、ズボンのポケットでスマホが鳴った。画面を見ると、知らない番号からだ。
このタイミングでの着信に身体が強張る。
何か悪いことを知らせるものだと思ったら、着信に出ることに躊躇(ためら)ってしまう。
見かねた翔真が「俺が出るよ」と俺のスマホを手に取って、代わりに出てくれる。
「もしもし」
「…………」
「えぇ、こちらは千春くんの携帯で間違いありません。――え? えぇ……いえ、俺は千春くんの友人で……はい」
無意識に翔真の制服の裾を掴む。
「はぁ……、そうでしたか」
緊迫した声で話し始めたが、徐々に気が抜けたような声になる。そして、翔真は俺を見て、苦笑いする。
暗さのないその様子に、強張っていた身体の力が抜けた。
「翔真――もしかして」
翔真はひとつ首を縦にして頷き、「千春くんに代わりますので」と言ったあと、俺にスマホを差し出した。
「もしもし、福地千春です――」
受付で案内された病室にノックして入ると、「はーい」と気の抜けるような声が聞こえる。眉間にシワが寄りそうなのを、指で押さえて揉みながら、俺は病室のドアを開けた。
真っ白い病室、白い仕切りカーテン、そこに馴染みの細身の中年男がにこやかに手を振っていた。その姿に、溜息を吐く。
「……無事でよかったよ。叔父さん」
「いやいや、無事じゃないからね!? ほら、見て右足骨折しちゃったよ」
そう言って、ギプス固定されている右足を指さした。
「トラックが突っ込んできたんだよ!? 乗っていた車なんて、ぺちゃんこに大破してるのに、僕は足一本だけ。頑丈すぎる。自分にリスペクトしてしまったよ」
「……そう」
九死に一生を体験したと、きゃっきゃしている。いつも通りの元気さに、溜め息を吐いた。
「はぁ……もう、どれだけ心配したと思ってんの」
学校で叔父さんが交通事故に遭ったと聞いたときには、目の前が真っ暗になった。さらに過去のことまで思い出して、大パニック。
不満タラタラ、ねちねちと文句を言うと、叔父さんは「そっか〜ごめんごめん〜」と軽い相槌を返してきて、なんだか脱力する。
サイドテーブルに突っ伏すと、叔父さんがポンッと俺の頭に手を置いた。
「ここまでよく来れたね、千春。頑張った、怖かっただろう」
「……うん」
頷くと、ちょっと涙が出てくる。この短時間で脳みそが上下に揺さぶられ過ぎた。涙を制服の裾に吸わせて、鼻を啜る。
叔父さんにこの齢で泣き顔を見られるのは恥ずかしいので、涙が止まるまで顔は上げられない。
「……でも、俺だけだったら、きっと耐えられなかった。友達が病院に着くまで傍にいてくれて、着いてからも、俺の代わりに状態聞いてきてくれるって言って……本当に、助けられた」
「へぇ? 木田くんは男前だねぇ」
木田はよくうちにも来るので、当然叔父さんも知っている。
「木田にも感謝しているけど、今話したのは別な奴」
「さっきの電話の子かな。いい友達じゃないか」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「うん。本当にいい奴なんだ」
「千春はその分、友達を大事に出来るといいね」
叔父がたまに見せる保護者面をしたとき、病室のドアが開いた。
入ってきたのは、初めて見る顔だった。柔らかな雰囲気をまとった、穏やかそうな中年女性だ。
彼女は俺の方を向くと、ほんのり照れたように微笑み、軽く頭を下げた。俺も慌てて頭を下げ、それから短い会話を交わした。
彼女は叔父さんが働いている会社――の隣にある花屋で働いているのだという。仕事の合間に慌てて来たらしく、そんなふたりの仲を想像するのは容易(たやす)い。
「じゃ、俺は一度帰るよ。夜に荷物持ってくるから」
「うん、ありがとう」
「……ゆっくりしてね」
お邪魔虫だと思った俺は、早々に病室を後にしてナースステーションで軽く説明を聞いて、病院を出た。
「――千春!」
「……ふたりとも」
病院前のベンチに翔真と木田が座っていて、俺を見ると立ち上がった。
翔真は電話で叔父さんの様子を聞いたはずなのに、俺のことを心配して待ってくれていた。
「叔父さん、無事だったよ」
改めて状況を説明すると、ふたりは表情に安堵を浮かべる。
「そっか。なんにせよ、命にかかわる事故じゃなくて、安心したよ。はぁああ~、俺、自転車パンクしたから自転車屋に寄ってくるわ……」
自転車のタイヤがパンクするくらい必死にペダルを踏んでくれた木田を想像する。小学生からの幼馴染は友人想いだ。そういえば、一緒に登校するようになったのも、両親が亡くなってからだった。
色々込み上げて来て、その背後から、がばぁっと抱きついた。
「俺、ガチで木田のこと大好き。ありがとう!」
「ふっ、愛され木田くんの魅力にすっかりメロメロのようだな」
明日は学食の一番高いメニューを奢りたまえ。そう強(ね)請(だ)ってくるあたり、いかにも木田らしいが、それくらいはお安いご用だ。なんならデザートも付けてやる。
「ふっ明日も元気に来いよな」
木田はそう言って、自転車を押しながら手を振り、その場を後にした。
その背中を見送ったあと、停車しているタクシーが視界に入る。翔真に立替えてもらったことを思い出して、急いで代金を返した。
「いいよ」
「いいよって、いいわけないだろう。はい」
翔真の手の平に強引にお金を押し付けて、返却されないように掴んだ手の上から自分の手をぎゅっと握る。大きい手だ。
――この手に凄く支えられた。
「ありがとう。翔真」
「当たり前だろ」
「……うん」
「いつだって頼りにしていいから」
その言葉に胸打って、目尻が熱くなる。
ぎゅっぎゅっと感謝の気持ちで、手を握った。それから顔を上げて、翔真を見つめる。
「大好き。翔真がいてくれてよかった」
「…………」
木田にも同じように言ったのに、キャラが違うせいで若干恥ずかしさが込み上げてくる。それをへへっと笑いながら誤魔化していると、大きなその手が俺の髪の毛をわしゃわしゃと乱雑に扱う。
文句も今日という日は何にも出てこない。
やられっぱなしでも、へらへらしていたら──彼の額がコツンと頭にくっついた。そして、ゆっくりと腕が俺の身体に回される。
「え……えぇ、翔真!? ちょっと、おい。こんな場所だぞ!」
いや、そういえば、パニックが起きた時も、ここで抱きしめられていたっけ!?
けど、さっきとは違う。今はもう平気だ。
「翔真ってば!」
翔真の横腹を軽く叩くと、何故かもっと力強く抱きしめてくる。
「ぐ……っ、ぐえ、ぐるじぃ」
潰れたような声を上げると、翔真はようやく身体を離した。
一体なんだよ、とその顔を覗き込もうとした瞬間──彼はまた、俺の髪の毛を両手でぐちゃぐちゃにしてくる。
挿絵②
「わっ、さっきから――」
「見守るだけなんて……、そんなのとっくに無理だった」
「何?」
「ふっ、ははは……」
肩を震わせて笑っているが、面白さが伝わってこず、頬を膨らますと、ぷっと指で頬をつつかれる。文句は今日のうちは我慢……。
「はは……それにしても、小腹が減ったな。千春、今からマッグに行かないか?」
「お。翔真が誘ってくれるのって、初めてじゃん。あ、木田、まだ近くにいるかな? 誘ってみる?」
「あぁ」
木田にメールをすると、自転車屋の近くの店なら徒歩で行けるとすぐに返事がきた。
そこで期間限定バーガーを三人で頬張った。
六.親友にむらむらしています。
高校三年、翔真と木田と俺はまた同じクラスになった。
クラスメイトは、木田と俺との間に翔真がいることが意外だとよく言っている。二年の頃より翔真の笑顔が多くて、これがまた意外なんだそう。
本人に直接聞いてみると、「柔道部の奴らとつるむことが多かったから、気を張っていた部分もある」と言った。そのあとすぐに「多分」と付け加えていた。
振り返っても、自分の態度なんて分からないだろう――が彼の本音らしい。
とはいえ、二年の半ばくらいから翔真は分かりやすいくらい変わった。
ひとつは、翔真は恋人を作らなくなった。完全フリーだ。
俺はその話に触れないけれど、女子たちが噂していたのを聞いたことがある。
どんな美人からの告白や誘いにも、きっぱり断っているって。
これまでの彼とはまるで別人のようで、今の翔真には、付け入る隙がまったくないらしい。
〝恋愛する時間がない〟〝本命の彼女が出来た〟など、彼をめぐる憶測も様々に飛び交っている。
そして、変わったことがもうひとつある。
「いらっしゃいませ~」
「千春」
「おう、翔真」
翔真がよくうちのコンビニを利用するようになったのだ。
俺がシフトに入っているときは、必ずと言っていいほど顔を合わせている。
それで翔真がレジに持ってきたのは、明日学校で食べるお菓子だ。「お菓子はコンビニで買うよりスーパーで買った方が安いぞ」と声をかけたこともあったが、「スーパーよりコンビニの方が近い」なのだそう。
それから――……、
「送っていくよ」
「……今日も?」
「あぁ、店の外で待っているから」
翔真は、俺のバイト帰りに送ってくれるようになった。
今年の四月ごろ、近辺で変質者が出るという噂が立った。それ以来、こうしてまめに送ってくれるのだけど――俺、男だし。
だけど、断わろうとすると、頑固な翔真が現れる。
彼は俺の脇に手を入れるや、ひょいと持ち上げ「こんなに軽ければ、どこかに連れ込むのも簡単だ。なぁ、だろ?」と脅すようなことを言うのだ。
この齢で、幼児のように〝たかい、たかい〟をされるのは本当にキツイ!
ゴリラみたいな馬鹿力は翔真以外にはいないと反論したが、俺の意見は聞き入れられない。
さらにその場所が教室だったから、当然人目もある。クスクス笑うその声が耳に入り、羞恥心に降参してしまった。
「……なぁ、翔真」
「ん?」
「送ってくれんのは嬉しいけど、無理すんなよ?」
翔真はターコイズブルーの格好いいクロスバイクを手押ししている。俺の家まで送り届けたあと、それに跨って帰るのだ。
こっちは翔真と一緒にいて楽しいし、断る理由は何もない。けれど、彼は部活も勉強もあるだろうし、俺の都合を優先されるのは気が引ける。
「好きでこうしていることだから」
「紳士だねぇ、翔真の爪の垢を煎(せん)じて飲めば、俺も女子にモテるのかなぁ」
「千春はそのままがいい」
「あらん、やだ。嬉しいわ」
ふざけていると対向車がやってきて、翔真が俺の肩を掴んで道の端に寄せる。何気ないところでも男前。
俺と木田なら、対向車が来ても「やべ」「よけろ」って互いに言って終わり。
二年のころ、〝男子たち〟って一括りにされた理由がなんとなく分かってしまう。
――ぽつ。
「ん?」
俺たちが同時に空を見上げた瞬間、土砂降りの雨が勢いよく頬を叩いた。
数秒間、翔真と見つめ合い、そして勢いよく駆け出した。俺の家まで、もうそれほど距離はない。
「おぉおおお、雨の中の猛ダッシュ! 青春ドラマっぽいなぁ⁉︎」
「千春と木田って、変なところでテンション上がるよな」
「うぉおおおおお!」
バイト疲れでテンション下がっていたけれど、猛ダッシュに次第にテンションが上がってくる。それに、運動部でもない俺が全力疾走出来るぎりぎりの距離に家があって本当にありがたい。
玄関に着くや、ぜぇぜぇと息を揺らしながら、しゃがみ込む。
「走ったあと、すぐにしゃがむなよ」
背後で翔真が言った。振り返ると、その表情はケロッとしたものだ。流石(さすが)、現役。体力が全然違う。
「じゃ、帰るから」
「ちょーっと待った。この大雨の中、帰らせるなんて鬼畜じゃねぇか。寄っていけ」
「いいよ。この雨はすぐには止まなさそうだから、さっと帰った方が早い」
帰ろうとする翔真のクロスバイクのハンドルを掴む。
「なら、泊まっていけ。客用布団くらいあるし」
「……いや、突然のことで悪いから」
「遠慮の塊か。事故にでも遭われたらこっちは堪らないって」
何も考えずに言った言葉だけど、翔真は表情を強張らせた。俺の両親のことや叔父さんの件を思い出させてしまったのだろう。
「悪い」
翔真はちっとも悪くないのに謝ってくるから、デコピンをする。
「泊まり決定な」
有無を言わさず、俺はクロスバイクをカーポートに突っ込み、翔真を家の中に招いた。
「はい、これ。タオル。あと着替えのスウェット。叔父さんが買い間違えたLLサイズ。マジ新品」
翔真に着替えを持たせたあと浴室へ向かい、せっせと湯を沸かす。脱衣場で突っ立ったままの彼に「とりあえず服脱げよ」と声をかける。
「……あのさ、千春の叔父さんは?」
「あ、気を使わなくていいよ。今日叔父さんは恋人のところに泊まっているから」
叔父さんは恋人がいるというのに、つい最近まで外泊なんて一切しなかった。俺を気にかけてくれて嬉しいけど、そういう気遣いはやめてもらった。
「ほら、風呂に入れよ」
振り向くと、気まずそうな顔があった。
「ん?」
「…………」
翔真は無言のまま、濡れた服を脱ぎ始めた。筋肉が盛り上がった逆三角形の格好いい背中だ。後ろからぼんやり見ていると、彼は振り向いて「スケベ」とじろっと睨んで、浴室に入っていった。
「……スケベって」
案外デリケートなんだなと思いながら、自分も濡れた服を脱いでまとめて洗濯機に入れて回す。
それから浴室のドアをガラッと開けると、身体を洗っていた翔真の背中が大袈裟な程、跳ねた。
「――俺が入っているのに、なんで入ってくるんだ!? 正気か!?」
「えぇ、正気かって何? 俺も濡れたままで冷たいし、男同士なんだから一緒に入ればいいじゃん。柔道部の合宿とかでも共同風呂だろ?」
何をそんなに動揺しているのかと首を傾げると、翔真は口を一文字にして下を向く。それからシャンプーボトルをプッシュして荒々しく頭を擦り始めた。
「そんな強くしたら頭皮痛んで、将来ハゲんべ?」
「俺がハゲようとスキンヘッドにしようと、千春には関係ないだろう」
「何怒ってんだよ。驚かせて悪かったよ……んじゃ、詫びに千春くんが洗って差し上げようではないか」
乱雑に動く手を掴んで、彼に代わって泡立つそこを柔らかく洗っていく。
「っ、な、にやって……」
「おー、意外。髪質、結構柔らかいなぁ」
偉そうなこと言ったけれど、人様の髪の毛を洗うなんて初めてだから勝手が分からない。指圧っぽいのをすればいいのかとすると、むすっと不機嫌な声で「痛い」と言われる。
「……千春は何も分かってない」
「へーへー、そうですか。こんなことするの、初めてなんだからしょうがないだろう。お客様、お痒いところはございませんか~?」
折角だからシャワーまでかけてやる。ちょっと小憎らしい反応だったから美容師みたいなサービスじゃなく、上からザーザーかけまくる。
「はーい、終わりでーす」
シャワーノズルを元に戻し、声をかけると、翔真は顔を上げ、濡れた髪の毛を掻き上げた。
鏡越しに不機嫌そうな翔真と目が合って、空気を誤魔化すように、俺はにかっと笑う。
「さっぱりした――だ、ろ……」
ちょうど、翔真が振り返ったので、思わず語尾が弱まった。
盛り上がった胸筋、シックスパックの腹部、無駄のないライン──まるで彫刻みたいだ。
そういえば体育の着替えでも、翔真はいつも俺に背を向けていた。だから、逞しい背中しか知らなかった。
この体躯が俺と同じ年だなんて……。
「うわ、えげつな……」
思わず呟いた言葉に、翔真の額に太い血管が浮かび上がり、すぅーっと目を細めた。
――どうやら先ほどからお怒りのご様子です。
思わず脳内の呟きが敬語になってしまうくらいに、威圧感のある睨みだ。正直、その身体つきにもビビッている。
「人の身体、まじまじ見るな」
「そんなこと言ったって、風呂だし。見ないなんて難しいだろ」
「……あぁ、そう」
突然、翔真は思いっきり俺の手を掴んで引いた。
「おわっ」
あまりに強く引かれたせいで体勢を崩し、ごつい肩にしがみついてしまった。
「あ、ぶな……って、ん? なんで俺の腰をホールドしてるんだ?」
がっしり、俺の腰に太い腕が巻き付いている。
何だ?と顔の向きを変えると、翔真はボディーソープのボトルをプッシュし、ソープを手に馴染ませていた。
「えっ、何? 俺のことを洗うつもり?」
「されたらやり返す」
「ごめんって。そんなに嫌だとは思わなかったんだって――ば、わっ!?」
大きな手が、俺の腰をそっと撫でた。
それは、やけに慎重な触れ方で、ぴくんと腰が跳ねる。
なんで、そんな触れ方? ……まさか、仕返しにくすぐりを!?
「へ……。く、くすぐったいの無理っ。マ、マジで弱いんだって。脇腹をちょっとツンされるだけで、大笑いしちゃうもん――わははっ」
言っているそばから、脇腹を撫でられて、笑いが出た。
「って、早速、脇腹を狙ってくるな!」
やめてもらおうと弱点を打ち明けたのに、逆効果になってしまった。
「しょ、翔真くんってば?」
「洗わせろ」
洗わせろって? やけに意固地になっている。
けど、どうしよう。翔真にとっては、俺の抵抗なんて赤子の手をひねるようなものだ。腕の太さも俺の倍はあって、敵(かな)いっこない。
――これは、我慢して耐えるしかないのか……!?
「ソ、ソフトタッチはくすぐったいから、我慢出来ない。せめて、強めにしてっ!?」
洗い方を強めにって言っただけなのに、翔真は俺の腰をもっと強く引き寄せる。驚いてまたしがみつくと、まるで担がれているみたいな体勢になった。ぴったりと肌と肌が密着している。
「えぇ?」
一緒に風呂に入るのは嫌なのに、裸でひっつくのは平気なのか? 謎すぎるだろう!?
頭の中が疑問符だらけになっていると、大きい手が俺の足裏から洗い始める。むずがゆくて耐えられない
「ひゃははっ、足裏、無理!」
足をばたつかせると、その手が足首に移動する。
次は、ふくらはぎ、膝、太もも……。
「お、……わ」
ゆっくりと上がっていく感触に、くすぐったさとはまた違う何かを覚える。なんか──、
いやらしい……。
「……しょっ翔真! お前の手――ひゃん」
止めようとしたら、思いっきり変な声が漏れた。ひゃん、は、恥ずかしすぎるだろう。
「わあっ! 今のはナシ! 聞かなかったことにしてくれ」
「…………」
「おい、仕返しなら、もう充分すぎるだろう!?」
ほんの一瞬、翔真の手は止まった。だが、ホッとする暇もなく、また動き始める。太ももの付け根は、まずい……。
「や、べ」
ぞくぞくが止まらなくて、自分の手をぎゅっと握った。ただのおふざけなのに……!
──身体が反応しちゃった!
「……元気だな」
「……っ」
当然、密着している翔真には、俺の下半身の変化なんてバレバレだろう。
「うぅうう~。シャレになんないって」
もう一度、足をばたつかせると、翔真はあっさりとホールドしていた腕の力を弱めた。チャンス!とばかりに、勢いよくその身体から離れる。
「……え」
途端、強い視線とぶつかって、胸がぎゅっとした。
な、に?
……なんで、そんな目をして……。
それに、いつも見ている翔真とは違う? どこか切なげで、色気のような気配が漂っている。濡れた髪、ひそめた眉、熱の籠った頬……。
「千春」
「……っ」
張りのある声で自分の名を呼ばれ、息を呑む。触れられていないのに、電流みたいなものが全身を駆け抜けた。
「触ってやろうか?」
「触る? ふわっ、え!?」
翔真の手が俺の下半身に伸びてきて、その言葉の意図に気付く。──というか、翔真も興奮して反応している!? 一体、どうしてそ(・)う(・)なった!?
「ななな……なんで、翔真まで!?」
「折角だから、触り合いするか」
「触り合い!?」
──どういうこと!?
「俺はいいって、うわ!」
焦って逃げ出そうとした瞬間、石鹸でぬるついた床に足を取られ、滑りそうになった。咄嗟に翔真の腕が伸び、俺をしっかりと支えてくれる。
「あっ、ぶな……」
「気をつけろよ」
「っ!」
唇がくっつきそうな至近距離に翔真の顔があって、ぎょっとする。
すると翔真は、ひょいと俺の腰を掴み、そのまま膝の上に座らせた。そっと抱き寄せられ、彼の身体の熱さに息が詰まりそうになる。
「触らせて」
「…………っ」
さっきと違ってホールドは強くない。
なのに、俺は動けなかった。火照ったような雰囲気に包まれて、ただ、その手が俺に触れてくるのを呆然と見つめていた。
◇
ちゃぷん。触り合って互いにすっきりしたあと、俺はそそくさと、身を潜めるように湯船に身を潜めた。
「俺は先に出るけど、千春はしっかり湯船に浸かってくれ」
「――お、おう。い、や、……なんか……、うん、分かった」
「家庭の一般的な風呂に男ふたりは狭すぎるって」
なんてことを言いながら、翔真は先に浴室から出ていった。
言われた通り、俺は肩まで湯に浸かり、いつもよりもずっと長く湯船にいた。指がふやけているのを見て、そろそろ出ようと立ち上がる。
浴室のドアを開けた途端、ふと何か忘れている気がした。
あれ……、翔真を部屋に案内してない。
ハッとして、慌てて服を身につける。脱衣所を飛び出すと、廊下の壁にもたれて、翔真が立っていた。
そりゃそうだ。初めて来た家でうろつくなんて、普通はしないよな。
「す、すみません。家の中の案内を忘れておりました」
長湯したので、かなり待たせてしまった……!
「はは。なんで、敬語?」
翔真は笑いながら、俺の首にかけているタオルに手に取った。髪にそっと押し当てて、水気を吸わせる。
「雫がたれているぞ。怒らないし待ってやるのに」
「おぉ、ど、どうも」
――翔真って無骨そうなのに、意外だ。
思いがけない優しい手つきに戸惑っているあいだに、脱衣室へ戻される。
「千春って雑だよな。俺がドライヤーで乾かしてやるよ」
雑――というか、翔真の触り方が丁寧すぎるんだ。
そう感じるほど、俺の髪の毛を乾かす手つきはゆったりとして、柔らかいものだった。
「よし、ふわふわ」
丁寧なケアに、俺の髪の毛はふわ、ふわ、としている。
「ありがとうございます」
「いやなんの」
鏡越しに翔真を見ると、目も口元も柔らかく緩んでいる。風呂に入る前はむすっとしていたのに、今は鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌だ。
その様子を見ていると、胸の辺りがざわつく。
変な気分を振り払うように、「こっち」と少し大きめの声を出した。
「翔真、ついてきて。俺の部屋まで案内するから」
「あぁ」
リビング、トイレ、他の部屋の扉は開けないでと言いながら、二階自室に向かう。
「ここが千春の部屋か」
六畳の部屋には、机とベッド、それから本棚。あんまり物を置いていないので面白みがない。
「千春の匂いがする」
「俺の匂い……へぇ?」
臭かったら嫌だなと、消臭スプレーを持った。金(きん)木(もく)犀(せい)の香り。だが、スプレーを吹く前に腕を掴まれた。何故か翔真の目に力が入っている。
「金木犀の香りはいらない」
「そう? じゃ、ミント」
「消臭剤の類(たぐい)はいらないから」
何故だか強く言われる。そういえば、以前翔真は無香料派だって言っていたっけ。
「分かった。じゃ、客用布団用意するから」
そう声をかけて隣の部屋から客用布団を持ってくると、翔真は布団を敷くのを手伝ってくれる。
そうこうしていると、時刻はすっかり0時を超えていた。俺たちは大して雑談することなく翔真は布団、俺はベッドに入って横になる。
おやすみと互いに言い合って、部屋の電気を消した。
「……………………………………」
────え。
二時間遅れて、いや、実のところ、寝静まるこのタイミングまで〝ええぇぇぇえ〟の衝撃を我慢していたのだ。
目を閉じると――フラッシュバックするあれやこれ。
筋骨隆々の腕、盛り上がった肩、厚い胸板、上下する大きい手、濡れた音、肩にかかる吐息、熱い肌……。
『千春……』
まっすぐ俺を見つめる翔真の目。
思い出すだけで、心臓の奥から何かが叫び出しそうになる。
──なんで、こんなにドキドキするんだ。
ざわつく胸を手で押さえながら、こっそり眠っている翔真を見つめた。
黒い髪、黒いまつ毛、高い鼻、形のいい唇……。
寝顔だからさっきみたいにいやらしいわけじゃない。なのに─―動(どう)悸(き)が治まらない。
それどころか、胸が締め付けられるような苦しさまで覚えてしまう。
え。
七.ポップコーンはキャラメル味。
今年は値上げラッシュに、どんどんスナック菓子が内容量を減らしている。
チョコレートがかかった甘くて細くて、カリカリとしたスティック菓子。こちらも例外ではない。
「――だからさ、翔真。これは俺にあげるのではなく自分で食べなさい」
俺が飲んでいるのはブラック珈琲、この甘いスティックが何より合うことを知っているが、NOと断わった。
コンビニの新商品も去年に比べると結構値段が上がっていて、レジかごにポンポン入れていくと、三千円は軽く飛ぶ。
「そういうわけで、値上げなので。これから俺は菓子断ちをするよ」
「ひとりで一箱もいらないし、一緒に食えばいいだろ?」
「のんのん、帰りに食べなさい……」
ツンツン。
翔真はホッキーの先っちょを俺の唇にあて、軽くつつき始めた。
値上げなど全く気にしない彼は、俺の言うことなど無視だ。
――くちばし……つんつん。
ふわっと俺の脳裏に前世が思い浮かぶ。
ふくろうの俺が木の上でのんびりしているところに、エサを持ってきたふくろうの翔真がやってきて、くちばしで受け渡しするのだ。それから俺はふわふわの翔真にぴったり寄り添って……。
――まさか、ホッキーつんつんで、くちばしの感触を思い出すとは。
ふくろうの給餌っていうのは、求愛行動でもあり、前世ではそれはもうこまめに餌を持って来てくれたものだ。
「俺の指が千春の口に押し込むまであと、5、4、……」
勝手にカウントダウンを始めやがった。もし強引に突っ込まれれば、ホッキーでもかなり痛い。
「……分かったよ。一本もらうから」
手を出すと、翔真が俺の口に咥えさせたそうな雰囲気をしていた。今更ながら、その行動は前世の名(な)残(ごり)なのか?
そして、翔真は不服そうな顔をして、ホッキーを手のひらに置いてくれた。
俺は小さく口を開け、それをカリカリと小さく噛んで飲み込んでいく。一本食べ終わっただけで喉の渇きを覚えた俺は、ブラックコーヒーを一気に飲み干す。
「いつもおふたりさんは、イチャイチャしてんな」
「…………」
俺の横の席に座る木田は、さして興味なさそうに呟いた。イチャイチャ……いつもなら右から左へ流れる言葉もどこか引っ掛かりを覚える。
「……木田、そのジュース飲んだ? 俺のゴミと一緒に捨てといてやるよ」
「おー、ありがと」
木田から空き缶を受け取ったとき、翔真はジュースを一気に飲み干して、俺の手から空き缶を奪って立ち上がった。
「そういえば、職員室に来いって言われていたから、ついでに捨てといてやる」
「おう? そうか……、どうも」
翔真は三本の空き缶を片手で掴むなんて余裕で、もう片方の手で俺の頭をよしよしと撫でた。彼が動くとき、何人かの女子の視線も同じように動く。
用事がなくなった俺は脱力し、だらぁ~っと足を前に伸ばした。
「ん? 千春、なんかおかしくね?」
「心の友には分かるかい?」
木田は腕を組んだが、二秒後には「分からん」と、考えることを放棄した。
「もっと君の脳みそに俺を留めておいてはくれないかい。淋しいぜ」
「うん。やっぱりおかしいかな?」
「…………」
俺も自分のおかしさを自覚している。
いつ、どこで、なんでおかしくなったのか──それは、もう明白だった。
十日前、突然の大雨で翔真がうちに泊まった夜。
もっと言えば、翔真と風呂に入り、彼に身体を触られて、気持ちよくされてからだ。
あの日から、どうしても翔真のことが頭から離れない。
ふとしたときに、あの浴室でのことばかり脳裏に浮かぶ。生々しい肌の感触まで……。
あまりに気持ちよすぎたから? だから、頭から離れないのだろうか。
「あっ、声!」
木田が急に大声を出すので、身体が小さく飛び跳ねる。
「声って何?」
「今度、俺の推しアイドルちゃんが、アニメの声優するんだよ! 魔法少女キャラでさ、んもう俺のときめきが止まらない!」
「…………あ、そ」
声といえば――、浴室で、俺ってば、翔真に触られて変な声を出しちゃったっけ。
思い出したらげんなりする。男の低い声だし、気持ち悪くなかっただろうか。
けど、そういえば、翔真は全然萎(な)えていなかった。興奮した表情は雄度が増し、どこか怪しい色気を漂わせていた。女子ならもう色気だけで虜になってしまうんじゃないかってくらい。平常時とのギャップがまた、凄い。
『千春』
その顔で俺の名を呼ぶのは、衝撃が強すぎて、胸がずっとざわざわしている。
「――木田よ。俺は今、十代の多感な時期特有の悩みを味わっているのかもしれない」
「何その悩み方、格好いいな」
「まぁな、真似してくれてもいいぞ」
大きく溜め息を吐いていると、翔真が教室に戻ってきた。休み時間はもう残りわずかだったため、彼はこっちには来ず、自分の席に座った。ちらりと俺の方を見て頷いたので、俺も頷き返した。
◇◇◇
「いらっしゃいませ~……おう」
「おう」
今日も翔真はコンビニにやって来た。また明日のおやつの菓子を手に持つ。バター醤油味のポテトチップス。俺の好きなやつ。
レジ前に立つ翔真が、軽く微笑んだ。強(こわ)面(もて)が表情を緩めると、空気まで柔らかくなる。
一瞬、見惚れてしまって、ぎゅっと顔に力を入れる。
「何、変顔?」
「……お買い上げありがとうございます」
「いつも通り、外で待っているから」
翔真は買ったポテトチップスを持って俺に背を向けた。
自動ドアが開いたとき、外からの湿気の籠った風を感じた。
翔真は平然と店の外で立っているけれど、今日みたいな熱帯夜は、外で待つのは暑いはず。なのに、相変わらず、バイトが終わるころに迎えにくる。
落ち着かない気分で時計に目をやると、ちょうどバイトの終了時間になっていた。
俺は裏でシフト表を作っていた店長に声をかけ、スティックアイスを二本買った。
「お待たせ」
「お疲れ」
ん。っと、俺は翔真にアイスを差し出した。
「くれるのか?」
「うん。溶けないうちに食べよう」
「ありがとう。ちょうどそんな気分だった」
そう言って翔真は、アイスに豪快にかぶりつく。それを横目に、俺もアイスを口に含んだ。冷たさが舌の上で広がって、暑さを一瞬忘れてしまう。
「帰ろうか」
アイスを食べたあと、どちらからともなく言い合った。
翔真がクロスバイクのハンドルを握り、スタンドを足で軽く蹴る。カチャッという音を合図に歩き始めた。
対向車も人も誰もいない。虫の声さえ聞こえなくて、ちょっとした沈黙が気まずく感じられた。
「……なぁ翔真、映画館で食べるポップコーンは何味が好き?」
「唐突だな。……そうだな。オーソドックスな塩味がいいな」
分かると深く頷く。万人受けする塩味は勿論俺も好きだ。
「俺の一番の好みの味は、キャラメル。けど、映画館のポップコーンは量が多くてさ。アレって、ちょっと摘まめたらいいんだよね。――というわけで、買うのはチーズかバター醬油かな」
「シェアしたらいいだろ」
その言葉に、思わず眉間にシワが寄った。それは、シェアする相手がいるモテ男の発言だ。
さっさと話題を変えようと、次はおにぎりの具アンケートを取る。そうしているうちに、うちの茶色い屋根と白壁が見えて来た。
「俺は梅干し。……また明日な」
「うん、翔真。いつもありがとう」
「あぁ」
大きい手が俺の方に伸びてくる。
ぽんと柔らかく頭に乗せられた手が、軽く髪の毛を梳くように、撫でる。
「…………」
いつもと変わらない手つき。でも意識すると、こんなにも優しいことに気づいてしまう。
挿絵③
ふ……と胸の奥に温かい灯がともった。
そういえば、叔父さんが事故に遭ったとき、この手に支えられた。
混乱していたけど、ずっと翔真が背中を撫でてくれたことは覚えている。あのとき、どれほど心強かったか。
「なんか、とてつもなく、安心する……」
「ん?」
「──あっ、ごめん! 声に出た!」
ぽろっと出た言葉に動揺し、手で口を押さえる。
「千春にそう思ってもらえるなら、嬉しいよ」
「おっ、おのれ……、イケメンめ。包容力を見せつけて来るな……!」
悪口は出てこず、ただの褒め言葉を伝えると、翔真が声を上げて笑う。それから、くしゃっと俺の髪を撫で回して、その手はゆっくり離れていった。
──凄く柔らかい顔。
あれ……翔真って、俺のことをこんな風に見ていたんだ。
色々──当たり前のものとして、受け入れてしまっていた。
「千春、おやすみ」
「お――おぉ、おやすみ」
つい見つめてしまって、顔に熱が溜まっていく。それを誤魔化すように前髪を整えた。
気付けば、翔真はクロスバイクに跨っていた。彼がペタルをぐっと踏むと、あっという間に、その背が遠ざかっていく。
見えなくなった途端、我慢していたように、大きい溜め息が自分の口から漏れる。
ずっと、ドキドキしているんだけど。
ハラハラすることもエッチなこともない。
なのに、翔真が横にいるだけで動悸がする。学校でその姿が目に入るたび、落ち着かない気分になる。
今みたいに触れられたら、心臓がどうにかなりそうで――。
「俺……」
玄関先でしゃがみ込み、頭を掻いた。
「やっぱり、好きなのかなぁ」
好きと言う言葉に同意するように心臓が熱くなって、親友への恋を自覚した。
◇◇◇
みーんみんみん……。
夏の暑さにセミだって朝しか鳴けない。
まともに動ける午前中、学期末の大掃除が始まっていた。
学校の中庭を掃き掃除している最中、翔真に声をかけられた。
みんみんみん、と蝉の声がそこら中から響いて、十歩程離れた距離にいる翔真の声は搔き消される。
「え」
みんみんみんみん……。
もう一回聞き直しても、聞きとりにくい。耳に手を添え、聞こえないジャスチャーを大袈裟にみせると、翔真は大股でこちらにやってきた。彼の足なら五歩だ。目の前に立つと、さらに腰を曲げて、俺の顔を覗き込んでくる。
あ、近い。
翔真の顔を覗き込む行動はずっと以前からで、前はなんともなかったのに、今は激しく心臓が主張してくる。
「ポップコーン、シェアしよう」
翔真は一言一句はっきりと口にした。その目は妙に鋭く、睨んでいるように見える。
だけど、それが翔真の真剣な顔だと知っている俺は、やや疑問を残したまま頷いた。
「いいよ。たまには奢ってやるよ」
「じゃあ、夏休みのバイトのシフト、あとで俺にメールして」
翔真はポケットからスマホを取り出し、何かを入力し始めた。すぐに俺のスラックスのポケットに突っ込まれたスマホが震える。
スマホを手に取って確認すると、翔真が通い始めた塾の夏期講習の日程が、メールで送られていた。
翔真は受験組で、今年の夏は柔道ではなく勉強に専念するらしい。
一方の俺はというと、叔父さんの勤め先で就職の内定をもらっていて、どこか呑気なものだ。
この夏も、バイト三昧の日々を送る予定でいる――のだが。
「えーと?」
何故、俺に塾の日程を送り付けてくるのだろう。俺のバイトのシフトを聞いてくる意味も分からず、首を傾げる。すると翔真が口元を緩ませた。
「千春の仕草、ふくろうの前世を思い出す」
あぁ、ふくろうも首を傾げるからね。人間の首はあんなに傾かないけど。
「観たい作品、選んでおいて」
「…………」
「キャラメル味、シェアしよう」
観たい作品。――つまり、俺は映画館に誘われているってこと!?
まさか映画だとはつゆ知らず、安易に頷いてしまった。心臓を太鼓の棒で叩かれたくらい、ドォンと大きく鳴る。
そういえば、いつぞやのバイト帰りに、映画館のポップコーンを話題にしたっけ。
「そんなこと……よく覚えているな」
「まぁな、楽しみにしてる」
翔真が俺の頭をよしよしと撫でていると、ゴミ袋を引きずった女子が通りかかった。彼は俺から離れて駆け寄り、ゴミ袋を代わりに持って集積所へと向かった。
みんみんみんみん、と辺りが煩いのをいいことに、俺は小さく「無理でしょ」と呟いた。
手を動かせ~。と校舎から担任の声が飛んできたので、手にある竹ほうきを動かす。
――やっちゃった。
好きだと自覚したところで、男同士だ。
今まで翔真の恋人を何人も見たことがある。性格も見た目も派手めな女子が多かった。
俺が翔真と恋愛。――それが出来る要素なんてこれっぽっちもない。
実のところ、翔真と距離を置いて離れることも考えた。けど、同じクラスだし、残りの学校生活を考えると、しんどい。変な亀裂を生むくらいなら、そのままでいいと自分で自分を納得させている。
「翔真、教室へ戻ろ」
掃除道具を片付け終えると、ちょうど翔真が戻ってきたので、そう声をかけた。
「ゴミ袋持ってあげるの、紳士だねぇ」
「重そうだったから。当然だろ」
「そうね~」
へらっと笑って、たわいない会話をしながら、教室へと戻る。
扉をくぐると、翔真が「ポップコーン忘れるなよ」と声をかけてきた。
う。と声が漏れそうになるのを、苦笑いで誤魔化しながら席に座る。
スマホを持ち──七月、八月……都合を思い出しながら、予定表を見た。
バイトのシフトと翔真の夏期講習の空きを照らし合わせて、八月の第一土曜日が一番都合がいい。なら──、
【奢るから、映画へ行かない?】
困った時は木田頼み。早速彼にメールを送った。
実にいい案だ。木田と冗談を言い合っていれば、変な雰囲気にもならないはず。映画館のあと、ゲーセンや服を買いにいくのもいいな……。
「悪い。その日、推しの握手会なんだよな」
次の休み時間に、木田が俺の席に来て、そう言った。
「あ、握手会……?」
「指折り数えて楽しみにしているんだぁ」
よりによって、握手会。木田の推しアイドルへの情熱は強火なので、適うわけがない。
「何? そんなに俺のこと誘いたいわけ? あ~、でも、盛岡っちは千春に対して強引なウザいお父さんみたいになるからな。たまにひとりで反省はしているけどね。嫌なら断れば?」
「分かった。日程が合わなかったってことにするわ」
スマホを胸ポケットから取り出して、断りの文面を打とうすると──木田に手を掴まれる。
「早っ! もうちょっと真剣に迷ってやれよ!? 映画館でポップコーンをどうしても食べたい盛岡っちの気持ちも考えてやれ‼」
「え、どっちだよ」
「俺は、どっちとも友達なんだよ!」
あぁ、お名前、友一だもんね。友人想いだもんね、いい奴だよ。そりゃまぁ知っている。
「考えろ、ねぇ」
言われた通り、翔真とふたりっきりで映画を観る想像をする。
映画の上映中、翔真がポップコーンを指で摘んで俺の口元に運んでくる。俺もつい癖でそれを頬(ほお)張(ば)る。口が飽きないように、塩味とキャラメル味を交互にしてあーんしてくれるだろう。
そして、その指で彼もポップコーンを食べて……。
――映画どころじゃない。
心臓に負担がかかりすぎる。
俺は無理をしないスタイルだから、早めに決断してメールを打つ。映画はやっぱり断った。
「千春」
放課後、教室から出ようとしたら、翔真に呼び止められた。
教室ドアの前、とうせんぼ。
俺の後ろにいた木田は空気を読んで、「俺、先行くわ~」と反対側の教室ドアから手を振って出て行った。
他のクラスメイトも、俺と翔真のこういうやり取りにはすっかり慣れっこだ。木田に続いて、みんなも反対側の教室ドアから教室を後にした。
翔真は、何かあれば自然と頼られるタイプで、気づけばみんなが彼を頼っている。そんな風に周囲の信頼を集めるからこそ、些細なことは、自然と彼の融通に合わせてしまうのだ。
――些細っていうのは、俺のことなんだけどね。翔真が〝ウザいお父さん〟になるのは俺にだけだし……。
あっという間に教室の中がもぬけの殻になると、翔真は口を開いた。
「千春に日程全部合わせるから、一緒に映画館へ行こう」
「は? 日程、全部?」
それはつまり、メールで見せてもらった夏期講習の都合より、俺の都合を優先するってこと。
……夏期講習って馬鹿高いんだぞ。親御さんが泣くぞ。それとも日時に融通が利く塾なのか? 休んだら別の日に振り替えられるとか……。
「どうしても千春と行きたいんだけど、駄目か?」
「……い」
――いやって言え。
ふたりっきりで遊びに行けば、もっと友達とは思えなくなる。
言い訳ならシフト以外にもあるだろう。興味ある映画が上映されていないとか、他にやりたいことがあるとか。
なのに……翔真が、俺を優先してくれて嬉しいとか思ってしまう。
「千春、なんか顔が赤くないか」
「……っ!」
翔真が俺の頬に手を伸ばしてくるので、反射的に後ろに下がった。
「あっ、えっと……いや、顔が赤いとしたら、暑いのかなぁ、はは……大丈夫。なんでもないから」
しどろもどろに答えたからか、翔真は目を細めた。
「そういうわけで、映画はキャンセルで」
「いや、どういうわけだよ? ……千春、最近俺に対して距離があるよな」
「……う」
「それって、……風呂場で触ってから、だよな?」
どうやら、俺のポーカーフェイスはバレバレだったようだ。
当(あ)たり障(さわ)りのない返答を頭の中で必死に探す。俺が翔真のことを好きなことは隠し通さなきゃ。
……だろ。だって、翔真は女子が好きなんだから。
いつかの夕方、翔真は恋人と並んで歩いていた。あんな風に自分がなれることはないんだから。
俺はただの――……。
「俺のことが気持ち悪いか?」
翔真は声を低くして呟いた。その逆だよと心の中でツッコみして、笑顔でその場を乗り越えることにした。
「いやぁ、はは、そんなわけないでしょ! 男同士なんだからさ。翔真はなんでも気にし過ぎなんだよ」
「千春のことは気になるだろ」
「あ~、あ〜……」
真正面からみつめてくる黒い瞳。ここ最近、この瞳は揺れなくて真っすぐだ。視線の強さにじわっと手のひらが汗ばんでくる。
頬を指で掻きながら、誤魔化しきれなくて一部分だけを伝える。
嘘じゃないから、これで納得してくれ。
「き、気持ち悪いだなんて、本当に思ってないよ。翔真のことをそんな風に思うわけないだろ……ただ、俺、人に裸を触られるのとか、初めてだったんだよ。自分の声や反応とか思い出したら、恥ずかしくなって。変な態度とか取っちゃったなら、そのせい。だからさ、もうな、追求するのは勘弁して……」
自分の気持ちがバレないギリギリの範囲を探りながら言葉を選んだ。声は震え、動揺を隠しきれていない。
至近距離の視線に耐えきれず、ぎゅっと瞼(まぶた)を閉じる。
わずかな沈黙のあと、「そっか」と翔真が静かに言った。
「……ごめん。もう聞かない。顔を真っ赤にさせるようなこと、聞き出して悪かった」
「…………」
瞼を開けると、翔真が俺の前髪をサイドに流し、汗を軽く拭ってくれた。さっきの圧も、ない。
どうやら、今の俺の不自然すぎる様子が、逆に説得力を持ったみたいだ。
「あー……、今の五分間の俺ってさ、必死すぎてダサすぎるよな? 映画を断られただけでこれだよ? 恥ずかしすぎるよな」
同意を求めるような視線に「確かに」と頷く。
すると、翔真がぐしゃぐしゃと髪の毛を撫でまわしてきた。
「ダサくて悪かったな!」
翔真はじゃれついてきて笑う。空気がふっと緩み、和やかな雰囲気が広がった。
「…………」
思わず、じっと見つめてしまう。
今、気遣いの気配がした。
翔真は、わざとふざけて雰囲気を和らげてくれたんだ。強引で、自分の意見を押し通したいときは梃(て)子(こ)でも動かないくせに、ちょっと俺に気を使うところがある。
いつからか……と考えて、叔父さんが事故に遭ったときからだと思った。
それは翔真が人一倍庇護欲が強くて、困っている奴を放っておけない性分だから。もし──、
「翔真」
今、俺が翔真のことを好きだって言ったら?
「ん、何?」
「…………」
もっと気を使わせるのだろうか。それとも同情して優しくしてくれるのかもしれない。
……そんなのは、嫌だな。
「……千春、俺に文句があるって顔をしてるぞ。ちゃんと聞くから、話し……」
翔真が言い切る前に、廊下から女子の声が飛び込んできた。
「翔真くん。よかった! まだ教室にいたんだね」
教室ドアのすぐ前にいる翔真は、振り向くだけで相手が分かったが、俺は誰だと一歩身体を右側に寄せた。
そこにいるのは、二組の百(もも)瀬(せ)さんだった。
腰まで伸びた髪の毛に大きな瞳、王道の美少女。誰かが、学年一可愛いと噂していたっけ。
「あ、……こんにちは」
百瀬さんは俺がいることに気づいて、静かに頭を下げた。それから、長いまつ毛を上下に揺らしながら、翔真に視線を移す。
「私、翔真くんと一緒の大学を受けることにしたの。今日の放課後、一緒に勉強とかどうかな?」
同じ大学、一緒に勉強会? しかも、ふたりっきり?
百瀬さんはどこから見ても美少女だ。翔真に向けるはにかんだ笑顔は、さらに輝きが増す。まさに恋する女子って感じだ。
彼女が翔真のことを好きなのは、一目瞭然だった。
「百瀬さん、見れば分かると思うけど、今取り込み中だから」
「えぇ!?」
翔真の言葉に、ぎょっとする。
この甘酸っぱい空気を邪魔なんてできっこない。いたたまれない。
「いやいや、何言ってるんだよ!? 俺のことはもういいよ。百瀬さん、ごゆっくり~」
「全然、話が終わってないだろ」
「可愛い子優先だよ、ね!」
邪魔者は立ち去ろうとしたのに、翔真が俺の腕を掴む。その手を離そうとしたが、何をやっても離れない。馬鹿力め。
「えっと、確か……福地くん、ですよね? よかったら一緒に勉強しませんか?」
「いやいや、俺は邪魔するつもりないんで!」
俺が断っている横で、翔真も「俺も千春に用事があるから」と言葉を被せてくる。
すると、百瀬さんの表情はみるみる陰り、唇の端を震わせ、瞳を潤(うる)ませた。
今にもその大きな目から涙が出そう。女子を泣かせることへの拒否感からパニックになる。
「あぁっ!? え、えぇっと──そう、小テストあるって数学の先生言ってたなぁ!? 俺も復習しようかな!?」
……なんて、口走ってしまった。
ふたりも否定すればいいのに、「なら、一緒に」「そうか」と頷いて、流れるように自習室で勉強することが決まった。
――それで、四人掛けの長机の席で、翔真を真ん中にして座っている。
運がいいのか悪いのか、自習室は貸し切り状態だ。
「翔真くん、ごめんね。ここちょっと分からなくて」
百瀬さんが声を潜めて、隣の翔真に質問する。
翔真は問題を少し見て、ノートに分かりやすくメモを書き、口頭でも簡単に説明した。強面なのに、対応は親切丁寧。
「ふふ……そっかぁ、翔真くんって、やっぱり教え方凄い上手。すぐに分かっちゃった」
彼女が声を潜めるのは自習室だからっていうより、翔真だけと話したいから。
居心地の悪さに気分が沈んで、予習しようと開いた教科書を読んでも右から左に流れていく。
「福地くん、辞書を貸してくれないかな?」
その声に反応して、教科書から顔を上げると、百瀬さんとしっかり目が合った。――これは合図だ。
俺は今、辞書を持っていないことを彼女は知っている。
教室に取りに行って。そしてそのまま戻ってこないで。──その瞳が、静かにそう告げている。
「……分かった。教室から取ってくる」
「千春、それなら俺が」
「いーよ、いーよ。勉強組はしっかりやって」
ひらひらと手を振って立ち上がって、自習室を出た。
そのあとすぐに「翔真くん、私……」と百瀬さんの声が耳に入った。
その声は緊張を含んでいて、鈍感な俺でも告白が始まるのだと分かる。だから、早足でそこから離れた。
昇降口に向かっていると、C組の女子たちがぞろぞろと連なって駄弁りながら歩いている。
「あのぶりっ子、盛岡くんに告白したのかな。無駄なのにね」
「今、盛岡くんって本気の子以外は無理なんでしょ。生涯寄り添いたい相手がいる――だっけ? ギャグなのか本気なのか分からないよね」
「本気っぽいよ。盛岡くんに告白した子からそう断られたって聞いたもん。他の男子ならウケるけど、盛岡くんが言うとキュンとくるよね」
――へぇ、いいなぁ。
その話、本当か嘘かは分からないけど、心の底から羨ましい。
嫉妬と羨(せん)望(ぼう)が土砂崩れのように襲ってくる。
高校に入って、翔真のことを沢山知った。
おせっかいで、心配性で、強引で……でも困ったら、頭の中で翔真の顔を思い浮かべる。むっとするときもあるけど、今、思い浮かぶのはいいところばかり。
……知らなかった。俺って、翔真のことが、こんなにも好きだったんだ。
心の奥底に積もっていた感情が溢れ出して、居ても立っても居られなかった。
一刻も早く雑音から離れるために、廊下の角を曲がったところで全力疾走した。
「こら、廊下は走るな!」
先生に注意されたのを無視するなんて、多分小学校低学年ぶりくらいだけど、構わず、走った。靴を履き替えるためだけ、止まって、また走った。
校門を出たところで体力がつき、走るのをやめた。そこからは家までトボトボと歩く。
息を吸って吐いても苦しくて、胸いっぱいに濁り水が溜まっていくようだった。
八.一学期最後の日。
一学期最後の空には、大きなソフトクリームのような入道雲が浮かんでいた。
けれど、朝方まで降り続いた雨のせいで、運動場はぬかるみだらけ。歩くたびにぐちょ、ぐちょと不快な音が鳴った。
「おーい、最悪だったな。プリントは無事かぁ!?」
二階校舎から木田が運動場にいる俺に向かって手を振る。
担任から配られたプリントを机の上に置きっぱなしにしていたら、扇風機の強風にあおられて教室窓から飛んでいったのだ。
拾いあげたプリントにはべっちゃりと泥が付いていた。読めたものではなくて顔をしかめる。
……あとで職員室に寄って、新たに印刷してもらわないと。
「最悪」
運動場からすぐ出たところのコンクリートの地面で、足をずっ、ずっ、と擦りつけ、靴に付いた泥を落とす。でも、全然取れない。このまま靴を履き替えたら、靴箱も悲惨なことになるのは免れない。
たわしで靴裏の泥を落とそうと、中庭の水道へ向かった。
「――私、あのね」
女子の声が聞こえてきた。
青葉の下、木漏れ日がキラキラ差し込んでいる場所に、女子と翔真がいた。
朝から告白現場。昨日から連続だ。
……あーぁ。
スニーカーの汚れは、もう諦めるか。
「ごめん」
踵(きびす)を返したとき、翔真のはっきりとした声が耳に届き、思わず足が止まった。
「本気じゃなくていいの」
女子はすかさず食い下がったが、翔真のまっすぐな声がその場に響く。
「好きな人がいるんだ。その人以外は考えられない」
ふと、翔真がこちらを向いた。目が合ったような気がして、ぱっと顔を逸らす。背を向けてそそくさとその場を離れた。
逃げ込むように校舎の中に入って、自分の下駄箱に着くと、視界がゆらゆらと揺れる。
「……はぁ」
息を潜めていたことに気づき、息を吐く。
熱くなる目元を腕で擦って、靴を上履きに履き替えた。汚れた靴を靴箱に入れたら、やっぱり靴箱も汚れた。
ブブブ……。スラックスの中でスマホが震える。通知画面を見ると、翔真からの着信だった。それを親指で切り、靴箱に軽く頭をぶつけた。
「おーい」
沈んでいる俺とは対照的に、木田の明るい声が近づいてくる。
「ここにいたのか。終業式が始まるぞ。講堂へ行こうぜ」
「あぁ。……なぁ、木田」
前を歩く木田の背中をぼんやり見ながら声をかけると、「何?」と返事がくる。
「男同士の恋愛って、嫌悪感ある?」
「突然なんだよ? ないよ。好きになったら仕方ないじゃん」
「……お前はそういう子だよね。じゃあ、ネットで知り合った人と遊んだことある?」
「うん。この前SNSで仲良くなった人と一緒にライブに行った」
なんでもそのあと、同士たちで集ってオフ会をしたのだそう。充実したオタ活を聞きながら、俺は別のことを考えていた。
「ふぅん、いいな。俺も出会いを探してみようかな」
「おう、やろうぜ」
木田は深く考えることなく、ただ相槌を打った。
中庭では、生徒たちが講堂へと吸い込まれるように、次々と足を進めていく。
その流れに乗って、俺たちも講堂に足を踏み入れると、木田が「ん?」と首を傾げた。
「えーと? ……どういう意味? 千春はなんの……」
木田の言葉を掻き消すようにチャイムが鳴った。それ以上会話を続けず、さっと整列する。
そのあと翔真が講堂に入ってきた。一瞬、視線が合いそうになったけれど、気づかないふりをして顔を逸らす。
「近年SNSのトラブルが増加しています、夏休みは特に――」
壇上に立つ教師が夏休みの注意を語っているが、何ひとつ頭に入ってこない。式が終わり、講堂から出ると、外は唸るほどの暑さだった。
明日からは夏休み。
――出会いかぁ。
「はぁ、あっつい」
帰宅してすぐ、リビングの冷房をつけて、ソファに身を投げた。やる気が身体から抜け落ちたみたいで、動くのが億(おっ)劫(くう)だ。
それでも腹は空くので、スマホでレシピサイトを覗いてみる。
叔父さんは何が食べたいだろう。暑いし、さっぱりしたものがいいな。
ぼんやり献立を考えていると、玄関から「ただいま~」と叔父さんの声が響いた。
「早かったね、おかえり……」
リビングに入ってきた叔父さんの姿を見て、瞬きをする。
髪の毛をワックスで整え、リネン混のライトグレーのセットアップを品よく着こなしている。
「叔父さん、もしやデート?」
叔父さんはなかなかにイケメンだが、服には無頓着だ。普段はTシャツにスウェットパンツ。色違いをハードローテーションしている。珍しくお洒落をしているからデートだろうか。
すると、叔父さんは苦笑いして、気まずそうに頷く。
もっと堂々と惚(のろ)気(け)ていいのに、甥っ子に中年のおっさんが恋愛ではしゃいでいる姿を見せたくないらしい。
「よかったら一緒に夕食でもどうかな?」
「ううん。俺のことは気にしないでいいよ。夕食とかも適当に食べるから」
そう言うと、叔父さんは「好きなもの食べて」と俺の手にお札を握らせた。
「……いいのに。俺もひとり暮らしに慣れたいし」
握らされたのは万札だったので、驚いて呟く。けど、地雷を踏んだ。弧を描いていた叔父さんの目がすっと厳しいものに変わる。
「ひとり暮らしは許しません。昨日、話した通りだから」
「う」
ぴしゃりと言い切られる。ここで俺が「でも」と言おうものなら、小一時間はくどくどと話が続く。
以前から叔父さんとはひとり暮らしのことを話し合っているが、反対され続けていた。
『叔父さんの家なら、家賃も光熱費もいらない。想像よりずっと出て行くお金が多いんだ。ひとり暮らしを始めるのは、社会に出て充分に貯金が溜まってからにしなさい』
とつとつと諭(さと)されて、叔父さんの言い分も今ではちゃんと理解している。
本当はこの夏からひとり暮らしを始める予定だったけど、高校在学中は断念することにした。
ただ、高校卒業後はすぐに出て行くつもりだ。俺の意志は固く、それはまだ話し合いが続いている。
「とりあえず、今は叔父さんの言うことに頷いておく。彼女さんによろしくね」
「今度は三人で食べようね!」
「はいはい」
申し訳なさそうにする叔父さんを見送りながら、玄関ドアを閉めた。
「うーん、さらにやる気がなくなった」
夕食を作る予定だったけれど、ひとりだと億劫だ。デリバリーを頼む気分でもない。楽に食べられるものはないか冷凍庫を開くと、香味野菜のチャーハンが入っている。
これだけでは足りなさそうなので、もやしを茹(ゆ)で、ナンプラーとマジックソルトで軽く味付けして和(あ)えた。
簡単な夕食をテーブルに並べながら、片手で携帯を持つ。
ん~、と考えて、出会い、男同士、ゲイ、初心者と打ち込みながら、ネットサーフィンする。
「……色々あるんだなぁ」
テーブルに肘をついて、それらを眺めた。エッチ込みみたいなサイトもあるけれど、初心者というキーワードに反応してか、驚くようなサイトはヒットしなかった。
食事・デートだけとか、通話だけとか、初心者でも入りやすそうなサイトが複数ある。
失恋には新しい恋。なんて言葉を聞いたことはある。だけど、出会い系サイトに走るなんて、俺のガラじゃない。
それでも今、どうしようもなく胸が痛くて、虚しい。
恋心を自覚してから間もなくで、〝生涯寄り添いたい人がいる〟だなんて、えげつないダメージだ。追い打ちをかけるみたいに、翔真の口から『好きな人がいるんだ。その人以外は考えられない』なんて聞いて、完全にノックアウト。
このままだと夏休みが明けたときに、翔真とまともに会話なんて出来ない。きっと酷い言葉を投げつけて傷つける。
だから、俺がこういうサイトに逃げたくなるのも、まぁ分からなくもないだろう。……なんて、迷っている自分に言い聞かせながら、その中で一番初心者向けっぽいサイトを登録してみた。
操作は他のいつもやっているSNSと大差なかった。
他のユーザーはどんなプロフィール文を記載しているのか気になって、画面下に出てきたアイコンをタップしてみた。
趣味などの簡単な一文のなかに、タチとかネコとかって書いてある。――これはいわば抱く方と抱かれる方ってことだろうか。
「……う~!」
正直なところ、俺はどちらでもない。翔真を好きなだけで、男に欲情したことはない。
性的なことを考えると、後悔七割くらいあった部分がニョキッと顔を出す。
「エッチはハードルが高い。……そういうの考えたくない。木田に相談すべきだった。でも、頼りにしすぎるのもなぁ、アイツにはアイツの推し活があるし」
顔をしかめて瞼を閉じたら、瞼の裏に木田が浮かび上がり『馬鹿言え、そういうときこそ俺だろ』って言ってくる。
そして、現実の木田も大して相違なく、もっと早く言えよ!と相談に乗ってくれるに違いない。
翔真のことは伏せながら、適当に悩みを聞いてもらって流してもらおう。
年末、木田にはデッカイメロンを贈るか……なんて思いながら、メール画面を開いた。
――ピロン。
突然、メールが届く。出会い系サイトからのメッセージだ。
うぅ……と唸りながら、おそるおそる、通知をタップして──、
「──うわっ、わ、わ!?」
驚いてスマホを手から落としかける。
床に落ちる寸前、なんとかキャッチ出来て、ホッとしながら画面を改めて見た。
簡単な挨拶、それから話が合えば直接会わないか――と書かれている。
文面は丁寧だ。けれど、その添付された画像に、嫌悪感を覚える。
だって、この男、上半身裸……。
本人なのかどうかは分からないけれど、かなり筋肉質の男だ。翔真とは違い、見せるように作られた身体。いい身体だけど、完全に気持ちが萎える。
なんだよ、全然健全っぽくないじゃないか……。
画面越しでも、鳥肌が立ってしまうのに、直接出会うなんて出来そうにない。
ついこの前まで恋愛より友情脳だったんだ。きっとどんなイケメンと出会っても、木田や友達とたわいない話をした方が百倍楽しい。
やめよう。――登録して、たった二分。
早すぎる断念を決めたとき、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「ん、誰だ?」
叔父さんが宅配便を頼んでいたのかなと思い、立ち上がってインターフォンを確認する。
そこに映っていたのは、翔真だった。
「え、翔真? なんで?」
「千春? 突然ごめん。ちょっと話したいことがあって……」
そういえば、学校で翔真からの着信を切ったっけ。それから何のフォローもせず、顔も見ずに帰ってきた。
……家にまで来るなんて。もしかして、何か大事な用件だったのかも。
俺はスマホを握りしめたまま、慌てて玄関へと駆けた。
「――昼間、電話無視してごめん!」
謝罪の言葉と同時にドアを開けると、翔真は少し目を見開いた。
「いや、こっちこそ、突然来てごめん」
「いいよ、何か用事あったんだろ?」
昼間は翔真の顔を見ることが出来なかった。けど、業務連絡ならやり過ごせる。それに学校と違って自分の家だからか、ほんの少し余裕が持てた。
「まぁ、家に入れよ?」
「手土産がない」
「あは、そんなのいいよ。今日、叔父さんはいないしさ。気楽にして」
どうぞ、とスリッパを出した。だが、翔真は玄関には入って来たものの、そこに突っ立ったまま、靴を脱ごうとしない。
「聞いて欲しいことがある」
「ん? あ、ああ……」
改まった様子に疑問が浮かぶ。それに翔真の表情も、どこか緊張しているように見えた。
言いづらい話なのかと、こっちもつい身構えてしまう。
「今日の朝、千春も中庭にいたよな?」
「……いたっけ?」
朝の告白現場のことだ。
それがすぐに分かったけれど、俺はとぼけた。
話題を遠ざけたくて、「リビングに来いよ」と声をかける。なのに、翔真は微動だにしない。
「聞いて欲しい」
やめろ。今朝の中庭のことを俺なんかに話したって意味がないだろう。
「俺が好きな人は」
「いいよ! 聞きたくないから‼」
思わず、声を張り上げた。
「……ごめん」
すぐさま謝り、動揺を隠すように笑顔を作った。でも翔真の表情は硬いまま、ピクリとも動かない。
「急にデカい声出したら、驚くよな」
「…………」
「何を話していたっけ。そう、中庭だ。確かに翔真っぽい人を見かけたよ。でも、俺も急いでいたからさ、何にも聞いてないよ。もしかして、恋愛の悩み? それならさ、翔真と俺、恋愛観が違うから別の奴にしてよ。俺は興味ないかな」
俺が木田に相談したかったように、翔真も俺に悩みを打ち明けたかったのかもしれない。
けれど、翔真の好きな人のことなんて、聞く勇気はない。多分高校生のうちは無理だ。いや、社会人になっても暫く無理。
「木田が……」
「木田?」
「さっき木田から電話があった。千春が同性愛や出会い系についてどう思うかって聞いてきたから変だって」
「……え、と」
頬が引きつった。それを、翔真が見ている。
俺の下手くそなポーカーフェイスなんて、見抜かれてしまう。
じり、と少し足を引くと、彼が一歩を踏み込んできた。それだけで、俺との距離はたちまち消える。
避ける間もなく、スマホを持つ俺の右手が、彼の手に掴まれた。
「その反応、まさかなのか?」
「……っ」
図星過ぎて、言葉が詰まる。
まずい。黙っていても自分の反応が墓穴を掘っていく。
近くで見られたくなくて、右手を上に挙げて振りほどこうとしたけれど、離れない。
「腕、離せよ」
「理由を知りたい」
「こっちは言いたくないって──」
手に力が入っていたせいで、親指がスマホの認証ボタンを長押していた。ロックが外れ、顔の横で画面が点灯する。
翔真の視線が俺からスマホへと移った。その目が大きく見開かれたあと、すぅっと細まり、睨むような鋭さに変わっていく。
「それ」
その声は、今まで聞いたどの声より低かった。
「……男」
「え?」
「それ、出会い系サイトだろ」
手の中のスマホに目をやると、言い逃れようのない画面が開かれていた。
――上半身裸男のプロフィール画面だ。
「あっ! あぁ!? これは、たまたま開いて」
「たまたまで、そんなページを開くのか?」
「っ、どうでもいいだろ――あっ!」
掴んでいたスマホを翔真に奪われる。
取り返そうと手を伸ばしたが、彼は腕を高く掲げてそれをかわした。そのまま翔真は、男から届いたメッセージを読み始めてしまう。
画像に移るその男は、きっと手当たり次第に新規登録者にメールを送るような奴なのだ。
登録したけど、もうやめるつもりだった──なんて言えるはずがない。登録した理由なんか聞かれたら、自分の気持ちまで零れてしまう。
「……知らなかったよ。千春は女じゃなくて男が好きだったなんて」
「ちがっ、違う! とりあえず、それ返せっ!」
ジャンプして手を伸ばすが、それ以上にスマホを持つ手を高く挙げられてしまう。
それならばと、彼の上腕を両手で掴んで、ぐっぐっと下に体重をかけた。
だが、その硬い腕は、俺の全体重をかけてもビクともしない。それに翔真相手に自分から密着したのは失敗だった。完全にボディががら空きだ。
翔真は反対側の手で俺の腰を掴むと、手前に抱き寄せた。その腕の強さは今までと比較出来ないほど強い。
至近距離で、鋭く尖った目が詰(なじ)るように睨む。
「この男と会うつもりか?」
「なっ、なんでもいいだろ! 翔真には関係ないことだから!」
「関係ない?」
腰を掴む腕の力が強まる。ぎくりとして、俺は大きく身体を揺らした。
「……まだ会ってないよな? この男、ただのヤリ目的だ」
「なら、何? 翔真は俺の保護者なわけ? いい加減、うざいんだよ!」
思いきり厚い胸を押し返した瞬間、翔真のホールドが緩んだ。
「う、わ──」
反動で後ろに倒れかけた──が、すぐに彼の手が伸びてきて、しっかりと身体を支えられる。そのまま、玄関の框(かまち)にゆっくりと腰を下ろされた。
「…………」
俺、何やっているんだろう……。
情けなくて下を向くと、翔真が「軽い」と呟く。
「……軽いよ。千春はちっちゃいし可愛いから、嫌がっても強引にホテルに連れ込まれちまう」
「……はぁっ⁉」
ちっちゃくて、可愛い──またからかわれているのかと思い、顔を上げてキッと睨んだ瞬間、大きな影がゆらりと動いた。
肩を掴まれ、視界が反転する。
「え」
気づけば、背中に硬い床の感触。
そして、俺に覆いかぶさるように、翔真が真上にいた。
──獰(どう)猛(もう)で大きな野生動物に襲われている。
一瞬、そう思ってしまうほど、強く突き刺さるような視線が肌を刺す。
「な、なんだよ? ……退けろって」
翔真の変貌に動揺し、喉奥からか細い声が漏れた。
だけど、彼は目を細めるだけ。何も言わず、俺の腹にそっと手を置いた。
驚いて、びくんと身体が跳ねる。ひんやりしていて、翔真の手じゃないみたいだ。
「千春は、男に抱かれるってことが、どういうことか分かっていない」
「な、にを……っ!」
その手が円を描くようにくるりと腹を撫でる。その動きが妙に静かで、どこか不穏で、肌が粟立つ。
「この小さくて薄い身体で……受け止めて、揺さぶられて……」
ここに、と言うように、その手が下腹を柔らかく押す。
「っ」
「千春が男に抱かれる? なんだよそれ――想像するだけで、はらわた煮えくりかえる」
唸るような低い声。瞳の奥に、怒りが囂(ごう)々(ごう)と渦巻いているのが見えた。その目に射貫かれて、思考が止まる。
「千春」
ハッとすると、今にも俺に噛みつきそうな彼の顔が、すぐ目の前にあった。
唇が──触れそうになって、息を呑む。
けれど、触れるか触れないかのところで、彼の動きは止まった。
目が合っているはずなのに、近すぎて焦点が合わない。だけど、今、ものすごく胸が痛い。
「……なんで、抵抗しないんだ」
「なんで、って……」
言葉を詰まらせていると、翔真は視線を下げた。その顔が、ぐにゅっと歪む。
「しょ……」
「なんで……俺じゃダメなんだ」
「え」
翔真は何かを押し殺すように瞼を強く閉じた。ぎりっと奥歯を強く噛み締めた音が、彼の口元から漏れる。
すると――ふっと、覆いかぶさっていた影と体重が消え、翔真は後ろに座り込んだ。
「……翔真?」
おそるおそる上体を起こすと、彼は自分の髪をぐしゃぐしゃと乱暴に掻きむしりながら、「ごめん」と小さく呟く。
「……今の全部、謝る。俺が悪い」
「…………」
「情けなさすぎる。……こんなはずじゃなかった。本当は……千春に好きだって言いたかった。なのに……嫉妬に狂って、責めてさ。……何をやっているんだろう、俺。……本当に最低だ」
翔真は両膝を抱えて、大きな身体を小さく丸めていた。「ダサ」のあと、もう一度「ごめん」と謝る。それから、また、「ダサイ」と呟いた。
自己嫌悪に沈み込むように、その場に蹲(うずくま)っている。その声も小さく、身体は震えていた。
俺はまだ驚きの渦中にいて、呆然とその様子を見つめてしまう。
「……でも、出会い系は危ないから。千春は可愛すぎて心配なんだ。友達としてなら聞いてくれるか?」
そう言いながら、下を向く翔真の目から、ぽろ──と透明の雫が零れた。
「……っ」
「暫くしたら、出て行くから」
ずっ、と彼の鼻を啜る音が、その場に響く。
「…………」
──俺……自分ばかりで、何も見えてなかった。
泣いている翔真を見て、ようやく気付くなんて。
ズキズキと痛む胸を服の上から掴んだあと──俺は思いきり自分の両頬を叩いた。
パンッという音に反応するように、翔真がわずかに顔を上げる。
「翔真」
俺はそっと彼に近寄り、Tシャツの裾でその目元をゴシゴシと拭いた。それから、乱れた髪の毛を手(て)櫛(ぐし)で整え、男前に戻ったことを確認してから、「ごめんなさい」と謝る。
「……傷口に塩。千春は結構えげつない」
「そうじゃなく! ちゃんと告白聞かずにごめん。泣かせて、ごめんなさい!」
「…………」
「ずっと翔真の好きな人は別にいると思っていたんだ。それに恋愛話なら聞きたくないなって。その理由は……、それは」
それまで勢いよく言ったが、肝心な告白では口ごもる。でも、こんな風に翔真を傷つけたのは自分自身だ。
自分を叱(しっ)咤(た)しながら、彼を見つめる。
「翔真のことが、好き……です」
――親友に告白って、照れが凄まじい。
そのせいで、すぐに下を向いてしまう。
だけどいつまで経っても翔真から何も返事がない。長い沈黙に耐え切れなくて、ほんの少し顔を上げると、翔真が飛びかかるような勢いで俺の身体に抱きついてきた。
ぐえっと潰れるような声が、自分の喉から漏れた。なのに、もっと強く抱きしめられる。感激の抱擁なのかと思いきや……、
「え?」
翔真の言葉から驚愕の声が出る。どうやら、反射的に俺を捕獲したようだ。
「ち、はるが……好き? 俺を?」
翔真は確かめるように呟いたあと、「幻聴?」と疑問を口にした。けれど、抱き締める腕の力は少しも緩まない。
状況は飲み込めないのに、離したくないという彼の気持ちが伝わってくる。そっとその背中に手を回す。
疑われるのは嫌だった。だから今度は、はっきりと強く言った。
「俺、翔真が好きなんだ」
「……っ」
すんなり伝えられたことに安堵していると、密着したその身体から、心臓の強い鼓動が伝わってきた。
俺と同じくらいうるさい音……。それが嬉しくて、ほわほわしていられたのは、ほんの数十秒ほど。
ますます強くなっていく腕の力でそれどころじゃなくなる。「ギブ、ギブ」と横腹を叩くと、若干腕の力は緩まった。若干ね……。
まぁ、赤くなった顔を見られなくていいか――と、暫くそのままでいた。
「ずっと千春だけが特別だった」
俺を抱き締めたまま、翔真がそう呟く。
それからは、堰(せ)き止(と)めていたものを一気に放出するみたいに「凄く、好きで。離したくないくらい好きで。もう本当に好きで」「本当は離れようとしたけど、無理だった」と言葉を続ける。
先ほどまで親友だった男の好きの大パレードに身体がむず痒くなってくる。
「……う」
――俺、そんなにすぐに恋愛脳へチェンジ出来ない。
いたたまれなくなってきて、身体を捩(よじ)り、翔真の口を手で塞いだ。
「翔真よ。気づいているか、ここは玄関土間だ」
「……気づいてはいるけど、この機を逃すわけにはいかないので」
「逃? ……いや、部屋に入れよ」
「…………」
翔真はちょっと考えて「それも、そうだな」と今度は素直に頷いた。ようやく立ち上がり、リビングに通す。
「リビングではなく、千春の部屋で話したい」
「いいけど、なんで?」
「……リビングは共同空間だし」
部屋に行きたいと言う翔真は、先程と違い、すっかりいつもの様子だ。
「ん~? まぁ、いいけど。じゃ、ジュース持って行こう。ちょっと待ってて」
俺は食べかけの夕食にラップをさっとかけて冷蔵庫に入れた。それからコップに注いだジュースを手に持って、翔真とともに二階の自室へと向かう。
「久しぶりの千春の部屋だ」
部屋に入ると、翔真はしみじみと呟いた。深く息を吸っている彼を横目に見つつ、ジュースを机に置いた。この部屋にはそんなに変わった匂いがするのだろうか。
「適当に座って――」
机にある読みかけの本をざっと片付けて、振り返った。
その瞬間、背後から翔真が身を寄せてきて唇を奪われた。軽く、ちゅっとするやつ。
突然のことで、ぱち、ぱち……とまばたきをする。
「え、はや……流石、ヤリチン」
「……ヤリ……千春と初めてのキスをしたあとに言われたのが、その言葉か。ショック」
翔真ははぁ~と溜め息を吐いて、大袈裟に肩を落とす。
申し訳ないが、なんせ俺は恋愛経験ゼロ。
「翔真さん、でも今の、俺のファーストキスですよ。いかがですか」
「……テンションが上がります」
「それはよかったです」
だけど、それを伝えるべきではなかったのかもしれない。
どうやら、彼のテンションを上げすぎてしまったようだ。二回目のキスは数秒後にやってきた。
しかも濃いやつだった。唇とか甘噛みされて、舌が口の中でいっぱい動くやつ。離れても、またすぐにくっつく。今度はなかなかに離れない。
――これは初心者用じゃないだろう!?
パンパンと厚い胸を手で叩いて休憩を挟もうとしたが、口の中を動く舌に翻(ほん)弄(ろう)される。
そして、叩いていた手は、胸元を弱く掴むだけになった。
そのうち足に力が入らなくなり、ガクガク震えてくる。すると、ふわっと足が床から離れた。縦抱っこされてのキス。
ますますくらくらしていると、急に体勢が楽になった。なんてことはない、ベッドに押し倒されたのだ。
シャツに忍びこむ手の熱さに、うっとりしていた意識が少し起き上がる。
首を横に振れば、自分たちの口元から唾液の糸が引く。なんて卑猥なんだと翔真の口を手で押さえて止めた。
「はぁはぁ……ヤリチンめ。手が早い……」
彼の口元に置いていた手は力が入っていなくて、すぐに退かされる。
「なら、キスだけ。もう一回」
すかさず三度目のキスを強請ってくる男の目が血走っている。息も荒いし、初心者の俺を気遣う余裕もない。
「キス、だけ?」
「もう一回、頼む」
滅茶苦茶、必死な様子に胸がぐっとくる。おねだりはずるい。
「まぁ……俺はケチじゃないから、いいけど」
俺の方から、翔真の頬に唇を押し当てて音を立ててキスする。遊び半分のやつだったのに、目の前にある目がギラギラし始める。
「やり返す」
「……え、へ? たかがほっぺチュー……」
わしっと両頬を掴まれて、これまた息を荒くした翔真に唇を奪われる。
ほっぺチューは千倍になって返って来た。濃厚で激しくて、意識全てがキスに持っていかれる。
「うう~」
やばい、キスってこんなに気持ちいいのか。
文句を忘れるほど、キスの気持ちよさに流されていると、自分の身体が興奮して反応してしまう。
「気持ちよくなってきた?」
はふ、はふ、と息をしながら、至近距離の翔真を睨む。
おのれ、コイツ。確信犯だろう。恐ろしいヤリチンだ。
呆れて物も言えないでいると、「どうしようか?」と選択肢を与えられる。にまにましていて腹が立つ。けれど、とりあえず今は……、
「……優しくしてくれ」
そう、お願いするのがベストに思えた。
「善処します」
翔真は満足気にそう答えたあと、ふっと笑顔が消えた。
肌がぴりっとするほどの真剣な表情。翔真はハッとして一度、笑おうとしたけれど、口元が歪んで苦笑いになった。
そのまま、また真顔に戻って、俺の服を性急に剥(は)ぎ取(と)っていく。顎や首筋に這う唇はやけに熱い。
唇だけじゃない、手も身体も視線も全部熱くて、変になりそうだ。
「……はっ」
翔真は俺の身体のあちこちに触れていく。背中やふともも、膝裏、それこそ、自分では全く触らない身体の内側まで。
性急だけど、とても優しい触れ方だった。きっと手加減をしてくれているのだろう。その証拠にあっさりと彼の手は止まった。
「ごめん。これ以上は進まないから」
言っていることと、欲望を孕んだ表情が合わない。
飢えた獣みたいな荒々しい息が頬に当たって、ぞくっとする。
「けど、いつか、抱きたい」
「……っ」
ぐっと息が詰まる。
「俺、千春が好きすぎて、ずっとおかしいんだ」
興奮して真っ赤になっている目で見つめられて、破裂しそうな胸の音がした。
翔真を好きだと自覚したきっかけは、この熱視線だ。
それに射貫かれて、ときめいたら、あとは数(じゅ)珠(ず)つなぎのようにあれもこれも気になって、友達から好きな人に変わるのは、すぐだった。
けど、俺、今まで――こんな翔真は、知らなかった。
「千春、好きだ」
切なげな表情に、ぎゅん、と全身が高まる。
電流が身体に走るみたいな快感が一気にのぼり詰めて、果ててしまった。
◇
「風呂……、入る?」
「……あぁ。借りてもいいか?」
互いにすっきりしたあと、室内にはどこかぎこちない照れが残っていた。
そそくさと風呂場に向かうと、翔真は前回と違ってあっさりと一緒に入った。
俺は湯船に浸かり、翔真は身体を洗う。
目の前にある筋肉隆々の逞しい身体をじっと見つめていると、最中の翔真を思い出す。
雄々しい雰囲気で、情熱的だった。翻弄されて実感が持てずにいたけど、じわじわと自分の痴(ち)態(たい)を思い出す。
――俺、変な声を出していなかったか?
恥ずかしくなってきた。翔真に気持ち悪く思われていないだろうか。なんだか、不安になってくる。
「千春、前に寄って」
身体を洗い終えた翔真が、そう言って後ろから湯船に入ってきた。
振り返ると、彼は鼻の下を伸ばして、デレデレしている。
あ。これ、大丈夫なやつだ。
見たことないくらい上機嫌な翔真を前に、呆気に取られていると──彼はキス待ちだとでも思ったのか、俺の唇を、パクリと食べた。
……湯船の中でするディープキスはのぼせることが分かった。
「――じゃあ、またな」
「うん……また」
翔真が帰り支度を終えたのを見届けて、玄関先まで送り出す。
風呂場でもずっと、ぎゅうぎゅうと抱きしめられていたせいか、俺の顔にはまだ熱が籠っている気がする。
それに、翔真の甘い雰囲気が、いつまで経っても抜けない。なんというか、シロップでもぶっかけたんじゃってくらい、甘い。
落ち着かなくて、ぐぬぅっと顔を歪めてしまう。
「……千春」
玄関ドアを半分開けたところで、翔真は振り返った。
「何? なんか忘れ物?」
「現世でもよろしくお願いします」
「…………」
至って真剣な表情でそう言う翔真に、照れが出てふざけたくなる。が――、
「こちらこそよろしくお願いします」
と、真面目に返事をした。
◇◇◇
「木田、こっち!」
新学期が始まる前、俺と翔真は木田を喫茶店に呼び出した。
俺たちは少し早めに店内に入り席についていた。あとから来た木田に手を振ると、外の唸るような暑さにやられたのか、彼は席に着くなりメニュー表で顔を仰ぎ始めた。
「あちー……ん?」
木田はソファ席に横並びに座る俺たちを交互に見る。
「ん~距離感、空気感……どういうこと?」
俺には空気感やらは分からないけど、木田はいつもと違う雰囲気を察したようだ。元々、その報告をしたくて呼び出したから、話を切り出しやすくて助かった。
「千春と付き合い始めた」
翔真の方から伝えると、木田は目を細めて大層不愉快そうな顔をした。ケッと言いながら口元を歪ませる。
「リア充撲(ぼく)滅(めつ)!」
「俺は、木田のこと好きだけど」
「俺は大好きだけど」
「……総愛され目指しています。おふたりさん、よかったね」
木田は不(ふ)貞(て)腐(くさ)れながら言っているけど、翔真の相談係を務めていたのだそう。
俺の鈍感さに板挟みになっていた――とか。
そんな感謝の気持ちもあってか、翔真は木田に一番高いパフェを奢っていた。メロンがのっているやつだ。
「御馳走様! いやぁ、メロン旨かったなぁ」
店から出て、しっかり食べた木田の機嫌は、俺たちに笑顔を向けるまでに回復した。
「じゃあね、また新学期にな」
「うん」
手を振って木田の背を見送っていると、その目の前で、おばあちゃんが食材が入ったエコバッグを落とした。
木田はすぐに反応して、道端に転がった野菜を追いかける。
俺も手伝おうとした、そのとき──、
おばあちゃんの近くにいた茶髪の青年が、すっとしゃがみ込む。そしてふたりは手際よく、落ちた野菜をエコバックに詰め直し、おばあちゃんに手渡した。
「おばあちゃん、これで全部かな? 気をつけてね~」
ほっこりする光景に目を細めていると──突然、青年が木田の手を握った。
「あの……どこかで、会ったことありませんか?」
「ふえ? えぇ、いやあ、人違いですよ?」
「僕が分かりませんか?」
木田は首を左右に振って、握られている手を離そうとする。だけど、男の方は声を明るくして言った。
「前世でお会いしましたよね」
まさかの前世。
木田は「気のせいです! 会っていませんから!」と全力疾走で、その場を去っていく。
あっという間に小さくなる背中を見ながら、俺と翔真は顔を見合わせた。
九.翔真から見た千春。
「現世でもよろしくお願いします」
千春との交際が始まって、たった二時間。この言葉を出す俺は、なかなかに重い。
醜態を晒しまくった告白のあとで、するりと本音が出た。焦った。けど──、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
千春から返事をもらえた。
そして、福地家から数歩離れたところで、その場にしゃがみ込む。
明日からも続く関係だと思うと、ぐあああ~と言いようのない何かが込み上げてきて、髪の毛をぐっちゃぐちゃに掻く。
うっれしい。
恋人。……千春が、俺の。
その実感を早く感じたくて、キスもしたし、抱き締めて、触った。ずっと千春が欲しくて我慢していたから、自分でも驚くほど手が早かった。
俺はそういう意味で千春が好きだって、それを千春は分かっているのかって、確認したかった。
どこまでなら、俺が触れてもいいのか……。
「……っ」
蹲りながら、唇の端にきゅっと力を込める。
……千春は、俺が触っても嫌がっていなかった。
心臓がまだ強烈に跳ねていて、口から出そうだ。
『こちらこそ』『よろしくお願いします』そう言ってくれる千春を脳内で何度もリピートしてしまう。
余韻に、身体の奥がじんじん震える。
ふ──、突然、付近の光が消えた。動かなくなったせいで、家前のセンサーが反応しなくなったらしい。立ち上がると、また灯りが点く。
……流石に人ン家の前で蹲っているのは不信すぎる。
足早にその場から離れようとしたら、ジーンズに入れっぱなしのスマホが揺れた。
それは数分前に別れたばかりの千春からのメールだった。
「珍しい……」
思わず声に出るほど、な(・)い(・)ことだった。
千春は連絡が全くまめじゃない。既読スルーは当たり前。次の日で間に合う用件なら、送らなくてもいいと思っているところがある。「昨日くれたメールのことなんだけど」ってちゃんと忘れず次の日に声をかけてくれるところは、変に律儀。
そんな面倒くさがり屋が、メール……?
まさか……恋人になるとマメになるパターン?
恋人になると、こんな特典もついてくるのか?
たった一通のメール。でも、千春からとなると、浮かれまくってしまう。落ち着かない気持ちで、スマホを覗いた。
【翔真、財布忘れているぞ】
「…………」
本当に必要な用事だった。服を脱いだときに、千春の部屋に置きっぱなしにしてしまった。
幸い、彼の家からまだ数分の距離にいる。
取りに戻ると打とうとして、やめた。
【明日、取りに行く】
そう打つと、すぐに返事がある。
【今くらいの時間でもいい?】
【うん。また明日】
よしっと内心で叫ぶ。
予定表に千春の名前がある。それだけでも猛烈に浮かれてしまう。
「……ははっ」
きっと、飛び跳ねそうに浮かれるくらい、俺が千春のことが好きだなんて──千春は気づいていないだろうな。
俺が千春を好きになったのは──、
『どうも、前世でツガイだった者です』
千春にそう声をかけられる前、講堂に入る手前のクラス発表の掲示板だった。あのとき──俺は千春に見惚れていた。
後になって、それが一目惚れだったと分かった。
そうとも気づかない当時の俺は、ただ千春と仲良くなりたくて、友達になった。
くったくのない笑顔も、冗談ばかり言っているところも、素直なところも、何気ない仕草も──全部が気になって、好きになって、気づけば、ずぶずぶと彼に嵌っていた。
千春に視線が縫い付けられたように、彼ばかり追いかけてしまう。
日に日に、胸が締め付けられるような切なさが募っていく。それだけなら、見ているだけでよかったなら……傍にいられると思った。
けど、俺は性欲まで一緒に覚えるようになった。
友達なのに。
千春が俺のことを意識していないのは手に取るように分かった。だとしたら、俺の存在は恐怖でしかないだろう。友達に性的に見られるなんて、おぞましすぎる。
頭では分かっているのに、どうしても彼が欲しい。抱き締めて、キスして、自分だけを見て欲しい。
そんなことばかり考える自分が何かのバケモノみたいに思えた。
だから、気持ちを瓶に詰めて蓋をして、必死に誰かを好きになろうとした。千春を傷つけないために、遠ざかったつもりだった。
けど、分かったのは……。
「ずっと、千春が忘れられなかった」
手をぎゅっと握りしめた。
あのとき俺は──諦めないことを決めた。
◇◇◇
――千春が、ひとり暮らしをする。
それを聞いたのは、高校二年の二学期が始まってすぐの頃だった。
千春と木田とはクラスが離れてしまったけれど、顔を合わせれば自然と寄り合って喋る。
その日も、たまたま購買の前ですれ違い、「久しぶりに三人で昼食食べない?」と誘われて、三人で屋上へ向かった。
昼飯を頬張りながら、三人でたわいない話で盛り上がる。
コンビニの新商品、バイトの話──そして、千春が溜め息交じりに呟いた。
「ひとり暮らしをするには、金が足りない」
その言い方には、前々から決めていたような響きがあり、木田は既に知っていたらしい。
よく働くとは思っていた。でも、まさかひとり暮らしを考えていたなんて……。
「千春、ずっとひとり暮らしするって言ってたもんな。何? 盛岡っちは初耳?」
なんとも言えない焦燥感が、じわりと胸に広がり、そして──、
「ひとり暮らしなんて、危なすぎるって言ったんだよ! 物騒なことに巻き込まれるかもしれないだろう。何かあったらどうするんだ!」
気付けば、声を荒げていた。
案の定、千春はきょとんとしている。俺の反応が意外だったらしく、目を丸くして、首をかしげた。
それを見て、頭から冷たい水を浴びせられたような気分になった。
――そうか。千春の、ほんの少し先の未来に、俺はいないんだ。
幼馴染で休日も遊ぶ木田と違って、俺は学校以外での接触を避けていた。必要以上に連絡も取らない。
際限なく好きになりそうで、それが怖かったから。
だけど、今のまま高校を卒業したら、千春とは滅多に会えなくなるだろう。その事実が、胸にのしかかって、背筋が凍り付く。
「盛岡っち、本当はどうしたいわけ?」
木田の言葉は、迷いのど真ん中に突き刺さった。
傷つけないように離れたい。でも、離したくない。その矛盾を、ずっと抱えていた。
けれど──答えを出すどころではなくなった。
「福地の叔父さんが交通事故に遭ったそうだ」
慌ただしく屋上にやってきた教師が、そう言った。事故の言葉に、その場が凍り付く。
ハッとして千春の方を見ると、彼はただ呆然と立ち尽くしていた。
みるみるうちに顔から血の気が引いていき、その手を取ると、異様なほど冷たくなっている。
こちらの問いかけにも反応せず、明らかに、いつもの彼じゃない。
こんな状態の千春をひとりで病院に行かせるわけにはいかず、俺と木田は午後の授業をサボった。
タクシーの中、千春は全身を震わせながら、恐怖と戦っていた。
そして、病院前で我慢の限界を超えたように、彼は動けなくなってしまった。また呼びかけにも応じなくなって、人形のように顔から感情が消える。急ぎベンチに座らせ、硬くなった身体を解すように背中を撫でた。
――千春の両親は、事故で亡くなった。
以前、スーパーで会った時に千春の口からそれを聞いた。辛い過去があるのに、表面上、影は全く見えなかった。いつだって、千春は飄々として、明るい。
けど、大口開けたあの満面の笑みが出るようになるまで、どれだけの辛いことを乗り越えてきたんだろう。周囲の助けもあっただろうけど、きっと千春自身が頑張っていたんだ。じゃなきゃ、あんな風に笑えない。
乗り越えてちゃんと前を向いている千春に、どうして追い打ちをかけるみたいに酷いことが起きるんだ。
『俺、叔父さんと仲いいんだよ』
千春が言った言葉を思い出す。俺は必死で会ったこともない人の無事を祈った。
「千春……」
何度も名前を呼び続けていると、ふいに彼と目が合った。──途端、千春の顔がくしゃっと崩れる。
苦しいのは千春なのに、まるで自分のことのように、ズキンと胸が痛んだ。
なんとかしたい、支えたい──頭の中がそれ一色になった瞬間、千春のスマホが震えた。
着信に千春は過剰なくらい怯えていて、俺は彼の代わりに電話を取った。
「もしもし──」
耳に当てると、穏やかな男の人の声が聞こえてきた。それは、事故に遭ったという千春の叔父さんだった。
俺の脱力した表情は、千春にも伝わったのだろう。唇の端を震わせながら、目を潤ませる。
電話を千春に代わると、彼はうん、うん……と相槌を打つ。みるみるうちに顔色がよくなっていく。そして、電話のあと、ほうっと息を吐き、立ち上がった。
「ごめん。いってくるね」
早く、叔父さんの無事を目にしたい。そんな感じで彼は足早に病院の中へと入っていった。
「…………」
俺は外のベンチで、彼が戻ってくるのを待っていた。
自分の手の中にまだ千春の身体の震えがあった。初めて見た彼の泣き顔が脳裏にこびり付いて離れない。
――千春をぬくぬくにさせる役目を、自分が欲しい。
唐突にそう思った瞬間、身体の奥がぐっと引きしまるような感覚がした。その時だ――。
「――盛岡っちぃ! 千春は大丈夫か!?」
物凄い形(ぎょう)相(そう)で木田が叫びながらやってきた。乗っている自転車から変な音がしている。それに学校から病院はかなり距離があって、こんなに早く着いたのはよっぽど心配していたからだろう。
無事を伝えると、木田は「あぁあ、マジか! よかったぁああ!」と叫んで安堵した。
そんな木田だから、病院から出てきた千春は、真っ先に抱きついて感謝を伝えた。そこにやきもちめいた感情は一切なく、俺は木田という人間をリスペクトしていた。
木田はパンクした自転車を押しながら「自転車屋へ行くよ」と言って、その場を離れた。
その背を見送ったあと、千春は俺の方を向く。律儀にタクシー代を返してくれながら、手をぎゅっぎゅっと握ってきた。
「大好き。翔真がいてくれてよかった」
「──っ!」
大好き。
雷がズドーンと落ちたような衝撃が走った。全身がびりびりする。
「へへ」
そのあと照れたようにはにかんだ笑顔の破壊力に、心臓を打ち抜かれた。
――どうして、何もせずに諦めることしか考えなかったんだろう。
初めから、こんなにも千春の隣が欲しくて堪らなかったのに。
……俺の方こそ、大好きだ。
溢れる感情に我慢できなくて、ぎゅっと千春を抱き締めた。
焦ったように、彼は腕の中でもがく。けれど、しばらくすると、その身体は諦めたように力を抜いた。
「見守るだけなんて……、そんなのとっくに無理だった」
溢れ出す想いを呟きながら、俺は心の中で、はっきりと決めた。
──千春を諦めない。
もう逃げるのをやめよう。
みっともない自分をさらけ出す覚悟は、出来た。
◇◇◇
「……とはいえ、みっともなさすぎる」
あのとき決めた覚悟を思い浮かべていると、さっきの最低最悪な自分が浮かんでくる。
嫉妬に狂って、千春を責めてしまった。
大切にする。そのはずだったのに、あの告白は理想とは程遠い。
自己嫌悪に溜め息が出たとき、スマホ画面がふっと灯った。千春からのメールだ。
【出会い系アプリは消したから。勘違いするなよ】
「…………」
出会い系の文字に、思わず眉間にシワが寄る。
けれど、明日言えばいいことを報告してくれることが嬉しかった。そういう立場になれたことに安堵する。嫉妬の炎は、あっという間に鎮火して、残ったのは圧倒的な嬉しさだけだった。
絶対、今度は間違えない。大事にするから──。
「俺でぬくぬくになってくれたら、いいな」
十.付き合い始めたふたり
放課後、掃除道具を片付けていると、翔真がちょいちょいと俺のことを手招きする。
なんだ?と思いながら、掃除道具を指定の場所に置いて、物置き倉庫のドアも閉めて、ちょいちょいしている翔真の元に近寄った。
「何?」
「校舎裏へ行こう」
「校舎裏? なんで?」
俺が首を傾げると、翔真は言いにくそうな顔をした。
「……最近、ふたりで話していないから」
「そうだっけ? よく話している気がするけどな」
──夏休みに入る直前、俺たちは付き合い始めた。
映画館でポップコーンをシェアしよう。今度は俺から誘おう──そう思った矢先、知り合いに短期のバイトを頼まれてしまった。
俺はバイトの掛け持ち、翔真の夏期講習。
結局、予定が合わず、夏休みは終わってしまった。
けれど、学校が始まれば毎日会っているわけで、……あぁ、でも木田と三人で話すことも多いか。
聞かれたくないことでもあるのだろうと頷いて、校舎裏へ向かう翔真の後ろを付いていく。
九月も後半になると、日差しの強さも随分マシになってきた。やや暗い校舎裏に足を踏み入れると、すっと涼しい風が頬を撫でる。
「で、何? 悩みでもあるの?」
「……今、凄く悩んでいる」
「今? ってことは俺? なんかしたっけ?」
すると、翔真が挙手するので「はい、盛岡くんどうぞ」と発言を許可する。
「先生、恋人に恋人扱いをしてもらえないので悩んでいます」
「……っ!?」
そう言いながら翔真は俺に一歩近づくので、俺は二歩後ろに下がる。すると建物に背が当たった。建物と翔真に挟まれて圧迫感が凄い。
見上げると、真剣な眼差しがそこにあった。
「友達のときと全然態度が変わらないのは、どうしてでしょう。教えてください」
「……へ」
「俺がメールを送れば五回に一度の返事。しかも疑問文しか返事がこない。電話も俺から。休日は基本バイト。態度とか友達の時と全く変わらない。こっちが必死にムードを作っても気づきもしない。見つめてもニコッて笑うだけ、それは可愛いけど。デートに誘えば『あ、木田も行く?』と声をかける」
「いや……えっと」
翔真のメールは、おはようとかおやすみとかそんな挨拶も入っているし、毎回返信すると、家事が進まないからであって。あと、基本的に土日はバイトなのだ。木田を誘えば楽しさ二倍……これに関しては俺が悪い。
まだまだ彼の口から俺への不満が出てきそうなので、苦笑いする。
「しょ……翔真って重いんだな?」
「…………」
あからさまに翔真の表情がどんより曇る。
すぐに言葉を間違えたと謝ったが、ズーンという漫画効果音がピッタリな程、沈み始めた。
「ほ、本当にごめん。……ただ、そう言われても……」
友達と恋人で態度を変えるなんて、恋愛IQが低い俺には難しい。
そもそも急に態度が変わったら、変じゃないか? 巷(ちまた)でよく見るカップルみたいに腕組んでべったりするなんてハードルが高すぎて出来やしない。
「……分かった」
悶々と考えていると、翔真が呟く。
「俺は重い、分かっている」
「い、いや……だから、失言でした、ん?」
翔真が俺の脇腹に手を添える。何をするつもりだろうと見ていたら、俺の足が地面からふっと離れた。
「うわっ!」
何を!?と思っていると、背後の校舎の壁にある腰かけるには心もとない段差にちょこんと尻を下ろされた。狭くて、すぐ落ちちゃうところを、すかさず彼が身体を寄せてくる。建物と翔真にサンドされて、身動きが取れない。
あ、翔真と視線の高さが同じだ……。
「俺はもっと意識してもらいたい」
「……意識って」
「キスしたい、いい?」
一応聞いてくれるけれど、この距離はする気満々だろう。いや、聞いてくれるだけ親切なのかもしれない。ちゃんと人が来ないところに呼んでくれたのもありがたい。
でも、改まって言われると、気恥ずかしい。
「…………どうぞ」
「どうも」
瞼を閉じる前に、ちょんっと唇同士がくっついた。
唇の先を軽く触れ合って、すぐに離れる。
前みたいにがっついたキスを想像していたから、拍子抜けしていると、また唇がくっついた。
今度は下唇だけ。次は上唇。それから唇の端、軽めのバードキスが降り注ぐ。
頬や顎、鼻、瞼、顔全体、たまに首筋。
「……っ」
そして、唇の端に彼の唇が触れるので、次は唇へのキスが来るのだとやや顎を上げて瞼を閉じた――。
が、唇にはキスが来ず、また頬に戻る。
挿絵④
「う……」
今、キス待ちの顔をしてしまった!
羞恥に悶えていると、翔真の唇が、唇に触れるかどうかのぎりぎりに唇を押し当てる。吐息が口元をくすぐり、何故だか、キスしているときよりも唇の感触をリアルに感じた。
焦らされて……?
翔真のシャツを引っ張って、薄目を開けて睨んだ。
「っ、ヤリチン……、卑(ひ)猥(わい)だ……」
「ヤリ……」
ヤリチンと言ったせいか、彼は眉間にシワを寄せ、大きく長い溜め息を吐いた。恋人がいたのは一年も前のことなのに、モテ男の印象が強くて、つい口に出してしまう。
「……あのな、とびっきり大事な奴に手を出すって、かなり葛(かっ)藤(とう)があるんだよ。ずっと見守っていられる親友か、怖がらせて終わりにするか――はぁ、結局親友のままではいられなかったんだけど。……前も言っただろ」
「……はい、聞きました」
実のところ、翔真は俺に一目惚れしていたらしい。
翔真は友達のままでいようと二年の中頃まで葛藤していたそうだ。関係を壊すより、心に秘めて俺のことを親友として長く支えようと思ってくれていた――とか。
「だから、まごころ込めてキスしております」
「なんと、まごころが」
「はい、入っています。続けても?」
改まると気恥ずかしさが浮き上がってくるが、返事の代わりに目を伏せた。
そのまま、1、2、3……で唇に柔らかい感触と体温。ちゅっと静かにリップ音。
今度はすぐには唇が離れなくて、上唇を柔らかく挟まれる。下唇も同様に。
少しだけくっついている唇がはむ、はむ……と動く、まるで俺の唇の感触を確かめているようだ。
微かな触れ合いだというのに、身体が火照ってくるような気がするのはどうしてだろうか。
薄目を開けてみても、至近距離すぎて彼がどんな表情をしているのか分からない。けれど、閉じられたまつ毛が、微かに揺れている。
唇が角度を変えながら、くっついて、離れて、今度は強めにくっつく。
無意識に、きゅっと翔真の胸元を掴むと、ぎゅっと腰を掴む腕の力も強まった。
翔真とキスしているな、ってちゃんと分かる。
「……き、もち……いい」
胸のうちで、ぽこん、ぽこんとあぶくのように、彼への気持ちが浮き上がってくる。
もしかして、まごころが入っているからかもしれない。
まごころキスって呼ぼう。
ちゅ、ちゅ……って軽めで多くのキスが降ってくる。まごころ大サービスを感じながら、こんな体勢だというのに、身体の力が抜け、唇が開いてくる。
唇を挟む力も強まり、もっと口が開いてしまう。
舌が出そうになる。足りなくなるような感覚。……ディープキスになってしまう理由が今分かった。
軽いキスは気持ちがいい。でも、もっと深く触れ合いたいと自然に思ってしまう。
唇の内側、その粘膜部分の熱さや、舌がどう動くのか知っている。
したいなと思っていると、大きな手が俺の頬に添えられた。深まる合図……?
その予感は的中し、にゅるっとした熱い舌が口の中に入ってきた。
その感触を想像していたから、すごく口の中が敏感になっている気がする。
彼の舌先が俺の舌を優しくツンツンして、柔らかく巻き付いてくる。
――あ。
ツンっと脳みその奥に気持ちよさが流れたとき、彼の唇が離れた。
「千春……」
翔真は余(よ)裕(ゆう)綽(しゃく)々(しゃく)という感じでなく、どちらかと言えば、余裕がなさげ。
そんな彼を見つめながら、俺は静かにまばたきをした。
「……ん、気持ちよかった。したくなるの、よく分かる」
それに癖になるのも分かると素直に言うと、翔真は満足気に口角を上げた。
「求めてもらえるように、ゆっくり俺のこと意識させていくから」
とはいっても、付き合って初日で俺をベッドに押し倒した男だ。虎(こ)視(し)眈(たん)々(たん)とチャンスを窺(うかが)っているはず。でも、今日までキスひとつ我慢するところもある。
「……お手柔らかにお願いします」
◇◇◇
「ん……」
屋上、校舎裏、バイト帰りの路地。
誰もいない場所で、翔真とこっそりキスする。
ゆっくり俺のことを意識させていく――その言葉の通り、キスするたびに徐々に翔真を意識するようになった。
最近、ふたりっきりになると、翔真の口元を直視できない。
今日はキスするのか、その先にも進むだろうか。そう思うと、心臓が速くなって、緊張して上手く喋れないこともある。
けど、いつまで経っても、キス以上のことは何もない。
「盛岡くん、荷物持ってくれてありがとう」
放課後、帰り支度をしていると、廊下からクラスの女子と一緒に翔真が教室に入ってきた。
まるで背中にも目がついているかのように気が利くところが、翔真がモテる理由なのだろう。
「重い物を持つときは、俺みたいな体育会系に任せればいいから」
「うん……」
ちょっと女子の顔が赤くて、胸の中がもやっとする。
俺もそうだけど、翔真はゲイじゃない。なのに、互いに恋愛的に好きになるって──改めて考えると、奇跡みたいなものだよな。
「……木田、帰ろっか」
嫉妬めいた感情をさっと打ち消して、隣にいる木田に声をかけた。リュックを背負って、教室を出る。
「千春さん」
――千春さん?
その声に立ち止まると、翔真が慌てて追いかけてきた。でも、なぜ〝さん〟付けなのだろう。
「はい、何の御用でしょうか」
俺も敬語で返事すると、翔真もその口調のまま続ける。
「俺の家に遊びに来ませんか?」
「い、え?」
俺がオウム返しをすると、真横にいた木田は口をへの字にして変な表情を浮かべた。それからゆっくり頷いて、そそくさとひとり帰ってしまう。
いつもの俺なら、変な奴、と思うだけだが、ピンときた。
――彼氏の家へ誘われる、イコール、エッチなお誘い……ってことなのか。
付き合って約四か月。初エッチは早いのか、遅いのか、正直俺には分からない。けれど、この誘いを断る程、野暮じゃないつもりだ。
「いい、よ」
周囲には分からないだろうけど、学校で〝エッチオッケーだよー!〟なんて返事していると思うと、いたたまれない。
身体を小さく竦めると、頬に熱が滲んだ。おそるおそる翔真を見上げると、彼はどこか照れくさそうに、安堵したような苦笑いを浮かべていた。
「よかった。千春の好きなお菓子を用意しているから」
「おう。それは……楽しみ、だね」
「じゃあ、行こう」
促されるままに教室を出て、翔真の家に向かった。
道中は緊張を誤魔化すように、ひらすらしゃべり続けた。動画サブスクで観れる映画やドラマ、あれこれと一方的にまくしたてているうちに、気づけば翔真の家に着いてしまう。
ベージュの外壁に茶色の瓦屋根。玄関前の赤いポストと、小さな花壇が目に入る。全体的になんだか可愛らしい印象の家だ。
「あの、親御さんは……?」
「今日は遅くなるって」
……てことは、やっぱりエロいことを。
心臓の音が口から出そうになりながら、そっと敷居をまたいだ。
「どうぞ」
二階にある翔真の部屋に入ると、壁一面にずらりと並んだトロフィーが目に飛び込んでくる。
「おぉ!」
きょろきょろとしていると、翔真が俺のリュックをひょいと奪う。そして、自分のバッグと並べてラックの上に置いてくれた。
……そのすぐ隣には、ベッドだ。
「飲み物取ってくるから、適当に座って」
「お、おぉ」
頷いてみたものの、適当って?
どこに座れば正しいのかさっぱり分からない。この場合はやっぱりベッドか? ベッドでいい……よな?
「……よし」
小声で呟き、ベッドの端っこにちょこんと座った。
……まずいまずい。緊張してきた。口から心臓が出てきそうだ。
こんな状態でうまくやれるのか、心配になっていると、翔真がトレイを持って部屋に戻ってきた。
「おまたせ」
「う、うん……なんかいっぱいだな」
トレイの上には、しゃかりこ、キャラメル味の高そうなポップコーン(百貨店とかで売られているやつ)、バター醤油のポテトチップス、ホッキー……などなどがこんもりと乗っていた。
俺が百パーセント好きなお菓子を用意しているところ――なんというか前世だ。
前世の翔真(ふくろう)ってば、俺(ふくろう)が好きなものばかり持ってきてさ、気を引こうとするんだ。
現世でもその癖が出ている。……ていうか、それにキュンする俺もどうなの。餌付けされちゃっているじゃん。
翔真は俺が座っている前に簡易的な折り畳みテーブルを広げ、その上にお菓子のトレイを置いた。それから、ペットボトルのコーラを手渡してくれる。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
もらったペットボトルをぎゅっと両手で握りしめる。
――それで、ここから先、どうしたらいいの!?
恋人っぽい雰囲気を醸し出す? 甘い言葉でも吐けばいいのか。きりっとした顔で「翔真、いつも格好いいな。そんなお前が好きだぜ」とか? あぁあああ、駄目だ。俺、まだそういうことを言える自信がないよ! 思いっきり冗談に振り切ってしまいそうだ。
動揺していると、テレビ画面がパッと点いた。
「千春がさっき語っていた映画ってどれ? サブスクで配信しているんだよな?」
「……映画? あ、あぁ。リモコン貸して」
翔真からリモコンを受け取って、さっき一方的にオススメした映画を改めて説明し直す。画面を操作しながら、「アクションならコレ、ホラーならコレ」と順に作品を紹介していく。
「千春がもう一度観てもいいって思えるやつ、どれ? それ観よう」
「じゃあ……これかな」
俺と翔真はベッドの上で肩を並べ、壁にもたれて座った。
画面がゆっくりと暗転し、有名なイントロが流れ始める。
――映画、か。……なるほど。部屋に入ってすぐエッチするのは、情緒がないものな。
つまり、映画を観るのは、雰囲気づくりのためなんだな。
……きっと、頃合いを見計らって、押し倒されるんだ。
ごくりと唾液を飲む。その音がやけに大きく室内に響いた。
肩と肩が、ほんの少し触れ合う距離に翔真の体温がある。そんな状況で始まった映画は冒頭からまるで頭に入ってこない。
緊張して口の中に唾液が溜まってきて、またごくりとする。呼吸すら上手くできなくて、時折「はぁあぁ」と大きな息が漏れて、気まずさが増す。
「──ふっ!?」
ちょんと、翔真の小指が自分の小指に当たったので、ついに来る!? と肩が飛び跳ねた。そのあと、膝を折って三角に縮こまった。
まごころの方? 初めからディープな方? どっち?
身構えていたが――。
映画一本観終わってしまった。
「アクションシーンが迫力あったな。結構面白かった」
「は……え?」
映画の内容なんて、頭に入ってこなかった。覚えているのは、やたら派手な車の爆破シーンだけ。
……どういうこと?
きょとんとしながら翔真から視線を逸らすと、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。一本の映画をまるごと観たら、そりゃあ日も暮れる。
ちょうどそのとき、一階から「ただいま」という誰かの声と、生活音が聞こえてきた。
「ちょっと待ってて」
そう言って翔真は立ち上がり、部屋を出て行く。ポツンと待っていると、すぐに彼が戻ってきた。
「おふくろが、夕飯食べていくかって」
「夕食――あっ、俺も夕食作らないとな! そろそろ帰るな!?」
エッチどころか、キスすらなかった。……本当に、ただ遊ぶだけのつもりで誘われただけだった。
完全な勘違いだったことに気づき、赤面しながら慌てて上着を羽織り、リュックを背負った。
「翔真のお母さんにお誘いありがとうって、伝えてから――」
そう言いながら部屋のドアノブに手をかけた瞬間、後ろから翔真が俺の腕を掴んだ。
「バイトのシフト教えて。千春との時間を確保させてほしい」
「…………」
「俺の勉強とか気遣ってくれているのは分かっているけどさ、再来週から冬休みだろう? 恋人なのに長期間会わないとか、ありえない」
ありえないって言うとき、その視線がぐっと強まったので、俺はぽりっと頬を掻いた。
キスもエッチもしなかったけど、めちゃくちゃ好かれている。
「……いいけど」
俺もスマホを取り出して、シフト表をそのまま翔真に送った。すぐに翔真が予定をすり合わせてくる。月曜、火曜……バイト以外の予定も聞いてくれる。
すると、〝バイトか翔真の家〟というスケジュールになってしまい、流石にストップをかける。
「おい、受験生でしょうが!」
「……短時間でいいんだ」
「駄目……あっ、でも待てよ? そうか。俺が一緒に勉強すればいいってことか」
俺の提案に、翔真はパッと目を輝かせる。
「名案。千春がいると、勉強と遊びにメリハリつく」
「よし、分かった! 問題いっぱい出してやるよ」
「本当にいいのか?」
「うん! 千春さんが手伝って差し上げようじゃん」
「やった」
小さくガッツポーズを作る翔真があまりに嬉しそうなので、思わず俺も顔が緩んだ。
◇◇◇
冬休み。約束した通り、俺は翔真の家に通っている。
冬期講習は、日にちが選べる塾らしく、俺のシフトに合わせて入れているのだそうだ。
家でも、翔真はずっと勉強漬け。
休み前に、手伝うよと言ったものの、国立を目指す翔真に、俺がしてやれることなんて何もなかった。
正直、俺が傍にいる意味はない。でも翔真が、絶対に来てほしいと言うから、その通りにしている。
特にかまわれるわけじゃないけれど、好きな食べ物は絶対用意されている。居心地がいいから、俺も読書なんかをして静かに過ごす。
「ん~~」
年が明けた今日も、俺は午前中から翔真の部屋に来ていた。読書に飽きて背伸びをする。
真後ろにあるベッドにもたれかかりながら、天井を眺めた。チクタクと鳴る時計の秒針と翔真がページをめくる音を聞いていると、なんだか眠くなってくる。
「ねぇ翔真、ベッド借りていい? ちょっと横になりたい」
「ん、ベッド? ……あぁ、どうぞ」
「ありがとう」
許可を得たあと、ベッドにうつ伏せに寝転んだ。
ベッドフレームには、ふくろうのマスコット〝ふくちゃん〟がちょこんと置いてある。
――本当に気に入っているんだな。
小さなそれに触れようとして、以前翔真が〝自分のモノに触れられるのが嫌〟だと言っていたことを思い出した。
伸ばした手を引っ込めて、ぬぼうっとしたふくちゃんを眺める。
その顔を見ていると、本格的に眠くなってきて、瞼が閉じたときだ。ぬっと俺の身体を覆う影が出来て、のしりと背中が重くなった。
「――……へ?」
やや手加減した体重のかけ方。
その重さにドキリとしながら、上半身を後ろに捻ると、翔真の唇が軽く降ってきた。
「しよ、千春」
「しよって――そんな素振り今まで……ひ、ぇ」
尻に硬く反応しているモノを押し付けられた。
どこで興奮するところがあったのだろう。
ただベッドに寝転んだだけなのに。
「ずっと我慢していたんだ。でもガッチガチに緊張している好きな子に手は出せないだろう?」
「がま……ん、え?」
「千春さんのことエロイ目で見ているから、理性が擦り切れそうだった」
だから翔真は、俺以外の違うことで頭を埋めようとして、勉強だけに集中していたそうだ。俺がそばにいると、ひとりで勉強する倍以上捗(はかど)るのは、そういうことらしい。
挿絵⑤
「緊張する前に脱ごうな」
「へ!?」
翔真はそう言って、俺のジーンズを下着ごと取っ払う。次いで、身体を起こされてパーカーも剥ぎ取られた。
身に付けているのは靴下だけ――そんな俺を見て、翔真は舌なめずりする。〝俺のことをいやらしく見ています〟ってモロに分かって、ぎょっとする。
「俺の部屋に馴染んでくれるのを待ってた」
翔真が息を荒くしながら、とんでもないことを言った。
つまり、それって、俺が緊張しなくなるタイミングを虎視眈々と狙っていたということか。
「千春が裸でベッドに寝ているのに、止めたくない」
「おかしな言い方するな! 裸にしたのはそっちだろう」
「うん、今、俺は頭が湧いてる。だって、自分のテリトリー(領域)に千春がいるってだけで、ずっとグッときててさ。ようやく寛いでくれたのを見たら、囲いたくなる」
「えっ、囲い!? うわっ!」
すると、翔真が俺の首筋をぱくりと食べた。
噛みつくような強いものではなく、甘噛み程度だ。そのあとぺろぺろと舌で舐めてくる。じゃれつくような動きがくすぐったくて肩を竦めると、さらにでかい手が、俺の脇腹を撫でてきた。
「ふっ、く……はっふ、くっ、くすぐったい……っ、ひゃはは」
笑い声をあげると、翔真は首から顔を離した。
「…………」
無言でにっこりされると、笑いは引っ込んだ。はい、雰囲気を壊してごめんなさい。
ゆっくり近づいてくる唇にキスを予感して、俺は瞼を閉じる。
翔真のベッドでするキスは、いつも以上にドキドキした。
ちゅっちゅっと軽い口づけから始まって、徐々に濃厚になっていく。
腹に置かれた手が撫でるように移動して、平たい胸にある突起を親指と人差し指で軽く摘まんだ。
その瞬間、びりっと身体に気持ちよさが走る。何度もそうされると、もどかしさに身体を捩ってしまう。
すると、翔真は俺から唇を離し、デレッとしただらしない表情をした。思わず、眉間にシワが寄る。
「手加減してくれ」
「勿論です」
即答。やる気満々。ウキウキな男を見つめて、口を尖らせながら言う。
「一言文句言いたくなるな。けどまぁ、文句(それ)は置いておいて。あの――……そのだな、えぇっと、……アレはある?」
「何?」
「だからその、アレの話だよ。――翔真のことなら抜かりないと思うけど。……なければ、俺の財布の中に――ゴムが入っているから、……使って?」
自分の顔に熱が籠っていくのを感じながら、床に置いている鞄を指さした。
前に薬局でこっそり買っておいたんだ。財布の中に入れっぱなしにして、今日の今まで忘れていた。
「え?」
「ん?」
何故か、翔真の顔が真っ赤になる。目が合うと、パッと両手で顔を押さえた。
「どうし……」
「ああぁああ~! 嘘だろう。やばい! しよって言ったのは、互いの身体を手で触り合うだけのつもりだったんだけど。え、準備って……鈍感な千春が? 俺との行為のために? ――萌え死ぬ! 心臓が爆発する! くっそ、破壊力がやばすぎる」
突然、翔真が悶絶し始めた。
そのキャラ崩壊しまくっている言葉に「え?」と首を傾げる。
「ちょっと待って。え? 手で触りっこってこと? 入れないの?」
「触りっこって言い方も可愛い。……入れるとか、入れないとか……千春の口から……」
今、俺が何を言っても翔真のツボに入ってしまうのか、呼吸困難に陥っている。
疑問を通り越して呆れていると、はぁあ~っと翔真は大きく長い息を吐き、服を脱いで裸になった。
盛り上がった筋肉を目の前にして、胸がざわつく。
同じ男なのに、翔真に対しては見惚れてしまいそうになるから不思議だ。
ただ……もの凄く、興奮しているな。ソレは大丈夫なのか?
俺の物言いたげな視線が伝わったのか、翔真は気まずそうな表情をする。
「今(・)は最後までしない。慣らしても多分痛いだろうから。千春ちっちゃいし」
「……お、おう。そうだな……」
ちっちゃいと言われても、今だけは素直に頷いた。
するとまた、大きい身体がぬっと俺の上に覆いかぶさり、ぎゅうぎゅうと力強く抱きついてくる。
「ぐえっ、しょ……」
喉が潰されそうになりながら、その背中をポンポン叩いて、力を弱める合図を送る。
腕の締め付けはほんの少しだけ緩んだものの、次の瞬間には、俺の顔中にぶちゅぶちゅとキスの大雨が降り注いだ。
でも、まぁ……本番なしか。
そう思うと、自然と身体の力が抜けていく。
「──千春。嬉しくしてもらったお礼に、とっておきに気持ちよくしてやるよ」
「ん?」
翔真は意味深にニヤリとし、俺の膝をぱっかりと左右に開いた。
「ぎゃっ、な……何するつもりだよ」
ちゅっ、と内腿にキスが落ちる。
「まぁまぁ」
「まぁまぁって――ひゃぁ!?」
引いた腰をぐっと掴まれた。この手の力は、本気だ。
するとまた、同じ個所に唇が触れ、今後は強く吸い上げられる。
そこに真っ赤な痕が付いた。それを見て、翔真は満足気に微笑み、反対側の内腿にも口づける。
どんどん……痕が、増えていく。
「千春は肌が白いから、分かりやすくていいな」
「翔、真……っ」
なんて嬉しそうな顔をしているんだよ……。
そして――〝気持ちよくしてやる〟その言葉の意味を、身をもって知った。
身体中を手や唇で撫でられて、気持ちいい箇所が次々と翔真に暴かれていく。
真冬なのに、身体が熱い。
「……っ」
快感の沼にぐいぐいと引きずり込まれそうになって、シーツを必死に掴んだ。堪えようとした。でも、どうしても我慢出来なくて──。
気持ちいい大波に呑まれて、流されてしまった。
◇
「ふぅ……」
翔真の家を一緒に出て、肩を並べて歩く。
真っ白な雪が、ぽつり、ぽつりと空から降ってきた。火照った身体が冷えてちょうどいい。
「ごめん」
上を見上げていると、翔真が謝ってきた。
「なんのこと?」
「千春の身体、あちこち舐めて、キスマーク付けまくったこと」
「あー……さっきの話ね」
正直、食べられるのかと思った。
身体全部に口づけられて、目がぐるぐる回るくらい気持ちよかった。
けど、それだけ。俺ばかり。
ちらっと横を見ると、彼は肩を落としていた。それに俺の反応をうかがうような視線を向けてくる。
――あぁ、いつもより俺の口数が少ないからか。
ん~っと考えたあと、そうか。と自分の気持ちに納得する。
「翔真って、俺ばかり気持ちよくするじゃん?」
「それは、したいし、みたいし」
したいのか。
「けど、それだとお前ひとりだけレベル高いままだろ。それで、ちょっと不貞腐れているのかも。本当は俺だって、翔真を気持ちよくさせたい。けど、上手くいかない。触られると、気持ちよくなりすぎて……難しいよ」
ずっと前、住宅街で女子と歩いている翔真を見かけた。怪しげでエッチな雰囲気だった。
多分、俺と翔真には、まだそんな雰囲気は出ていないと思う。
自分も早くその関係までいきたい――とそこまでは考えていなかったけど、無意識に張り合っていたことに気が付いた。
「色々ライバル視している、と思う。多分」
「…………」
横で静かに聞いていた翔真は、赤い自販機の前で急に足を止めた。無言のまま、自販機に手を伸ばし、ピッ、とボタンを押す。
そして、彼は勢いよく頭を下げながら、ホットの缶コーヒーを俺に差し出してきた。
俺は甘党だけど、コーヒーは無糖派。
ちゃっかり俺がよく飲むメーカーの缶コーヒーだ。
「千春! 大事にしますから、高校卒業したら俺と一緒に暮らしてください!」
「突然何? やだけど」
「……っ!?」
好意は物凄く感じるから、缶コーヒーだけはその手から受け取った。差し出された手が下がらないので、掴んで下ろしてあげる。
すると翔真は、うつむいて肩を震わせた。激しく落ち込んでいる。
丸まった背をぽんぽんと叩いて、帰ろうと声をかけた。
「俺は、諦めない。ひとり暮らしをする千春の隣の部屋に住む……!!」
顔を上げた翔真は、ちょっと半泣きになっている。俺に対してナイーブすぎる。
「おいおい、学業に専念しなさいよ」
「絶対に諦めない」
しつこく宣言を続ける彼の横で、俺も缶コーヒーを買い、そっと手渡した。
それを飲むわけでなく手を温めるために使って、歩き始める。
「こんな寒い日は鍋かおでんをつつくのがいいですよね。一人前の材料って揃えるのが面倒ですよね」
「うん?」
「今年の四月、また食品値上がりするらしいです。割り勘って、いいですよね」
急に翔真がやたらふたりぐらしを推し始める。俺は軽く流しながら、相槌を打った。
「……くっついて寝たい」
家前でネタが尽きたのか、翔真の口からとうとう欲望が出てきた。
くっつく──その言葉に、前世の記憶が脳裏をよぎる。
そういえば、前世でも俺たちは、ずっとくっついていたっけ。
あの毛並みは今はないのに、相変わらず彼の傍は居心地よくて、ぬくぬくな気分になる。
ふはっと笑って、俺は相槌を打った。
「確かに」
おわり
それどころか前世なんてあるわけがないと、十五歳の今の今まで信じてもいなかったんだ。
「どうも、前世でツガイだった者です」
なのに、見上げるほどの背丈のある同級生に向かって、俺はそう声をかけていた。
高校入学式の初対面で、こんなに不思議ちゃん発言をするつもりはさらさらなかった。
ほら、目の前の男も、やや目を見開いて驚いている。
式が始まる直前の講堂内には、周囲に同学年が大勢いて、その中の何人かは俺に憐れみの視線を向けている。
〝あ~、なんかイタイ挨拶をしている奴がいるな。滑っているぞ〟
そんな冷ややかな視線を浴びて、いたたまれなくなる。不思議ちゃんレッテルを貼られる前に、さっき口にした言葉をどう取り消そうかと必死に考えていると、額にじわりと汗がにじんできた。
すると、目の前にいる男は、笑うこともなく無表情のまま、軽く頭を下げた。
「前世では、どうも」
「あ……、ども」
〝滑った〟自分を助けるために、同じく滑ってくれたのか、それとも男の方も前世を思い出したのか。
どっちだろうと思っている内に式が始まり、結局、聞きそびれてしまった。
一.前世を思い出しました。
「はぁ!? 前世がふくろうだったことを思い出したって!?」
「うん。俺の前世、ふくろう」
俺、福(ふく)地(ち)千(ち)春(はる)は、つい三日前に前世を思い出した。
前世――俺が福地千春として生まれる前の人生だ。森の奥地に住むふくろうだった。
思い出したからといって、人格に影響がないような記憶。
それを小学校からの親友である木(き)田(だ)友(ゆう)一(いち)に伝えてみた。
すると、彼の垂れた細目がわずかに見開き、いつもほんのり上がった口角が、への字に歪(ゆが)んだ。
……まぁ、そんな妙な反応になるのも無理はないか。
身内にだって言っていないこと。けど、この木田という男に伝えたところで、俺を見る目は変わらないだろう。多分、俺が宇宙人だって言っても、そこそこに流してくれる。そんな奴だし、そんな仲。
「うーん……うん! さっぱり分からん! 千春ってば、そんなオカルトっぽいこととか言う奴だっけ!?」
今は昼どき。木田は握り飯を口いっぱいに頬張っていて、口を開くたびに米粒が飛ぶ。
俺は自分の持っているパンをサッと避けながら、その食べ方を続ける限り女子にはモテんだろうなぁ、と顔をしかめた。
「別に信じなくてもいいけどさ。マジで思い出したんだよ、前世。俺ってば、目ん玉くりくりのさ、ふっくらな胸元、丸いフォルムで滅茶苦茶可愛かったんだよな」
「目がデカいのは今世もじゃん。ちんまいし髪の毛はふわふわしてるし、まぁ、ふくろうに見えなくも……うん。全然見えないな」
「ちんまいは余計」
身長百五十九センチ。身長順で整列すれば前の方。だが、わざわざ言わなくていい。
「――で、なんでそんなネ(・)タ(・)思いついたの?」
ネタか。まぁ、俺が木田でもそう思うだろうな。
「木田に話そうと思ったのはさ。前世で夫婦だった奴に会っちゃったんだよ。ソイツと同じクラスだったからさ。内々に秘めておくより言葉に出しちゃいたい気分だったんだ」
「夫婦?」
「うん、ふくろうの夫婦は、ツガイって呼ぶんだけどさ……」
木田から二度目の「はぁ?」を聞きながら、俺は廊下側の一番後ろの席を指さした。
そこに座っているのは、入学式で「どうも」と軽く挨拶を交わした男だ。
身長は優に百八十センチを超え、体格もがっしりとしている。黒々としたくせ毛に、意志が強そうなきりっとした眉、整った目鼻立ちも相まって、体格以外にも色々目立つ奴だ。
「アイツ。アイツのことを見て、前世を思い出したんだよ」
「んん~?」
木田は一番後ろに座る男に視線をやり、顔をしかめた。
彼の名前を思い出そうとするかのように、木田は「えーと」と呟(つぶや)くが、まだ高校が始まって三日目。名前が出てこないのだろう。
俺もクラス全員の名前を覚えたわけじゃないけれど、ツガイだった男の名はすぐに覚えた。
「盛(もり)岡(おか)翔(しょう)真(ま)」
「あぁ……、盛岡、ね。盛岡。……千春ってアイツと今まで接点あったのか?」
お笑いのつもりなのか、それとも変なものでも食ったのか……木田が考えているのは、そんな感じだろう。
「接点なんてないよ。入学式に盛岡を見てツガイだったなと、こう~……急に思い出したっていうか」
盛岡とは入学式で「どうも」と挨拶を交わしたけど、あれっきり話していない。
盛岡自身もまだクラスメイトとは打ち解けていないようで、誰かと話している姿を見たことはなかった。だから、まだどんな奴かも分からない。
「えっと、さ。よく知らない奴をジョークのネタに使うのはやめた方がいいぞ? デカくて怖そうじゃん」
「多分だけど、そんなに怖くはない……かな?」
盛岡に前世の記憶があるのかは定かではない。けれど、挨拶したときにぺこりと頭を下げる仕草は礼儀正しかった。体格もいいし、礼儀を重んじるスポーツでもしていそう。
「ん? うーん? うーん……」
木田は唸りながら、胸元のポケットからスマホを取り出した。素速く画面に何かを入力して検索を始める。俺もそうだけど、木田も分からないことがあれば、まずはネットだ。
「ふむ」
木田は顎(あご)を擦(さす)り、スマホ画面を俺に見せた。そこに映るのは、寄り添う二羽のふくろうの写真だった。
「ふくろうって一生添い遂げる個体が多いって聞いたことあるけど」
鳥類は一夫一妻制が多く、鶴やワシ、アホウドリは離婚率が断トツ少ない。ふくろうも一度ツガイになったら一生を添い遂げる個体が多い。
「うん。俺、アイツと一生を添い遂げたよ」
「ヒュ~~!」
「だから、前世ね」
考えることが面倒くさくなったのか、木田が適当に話にノッてきた。詳しくツッコまれるよりこっちの反応の方がいい。
このまま軽く流そうと、へらへら笑っていたら、廊下側の後ろに座っている盛岡と目が合った。
なぜか視線を逸らせずにいると、彼は立ち上がってこちらに向かってくる。
足がやたらと長く、歩幅も大きい。みるみるうちに距離が詰まっていく。
「あ」
――っという間に、盛岡が俺たちの目の前まで来て、影を落とした。
その威圧感にビビって、木田と俺は身体を小さくする。そんな俺たちに盛岡は声をかけてきた。
「自分の話をされているのかと思って」
「……え、と」
それはそう。同じ空間であからさまな視線を送って、こそこそ話していれば、気になって当然だ。噂(うわさ)される側はたまったものじゃない。
「――ごめんなさい!」
俺はパンッと両手を合わせたあと、勢いよく頭を下げた。
「ご指摘の通り、盛岡くんの噂をしていた。誓って悪口は言ってはないけど、気分悪くさせたよな? 悪かった!」
ふくろうだった前世。盛岡はそれを覚えているような口ぶりだった。けれど確定じゃない。入学式は俺に話を合わせてくれただけなら、はた迷惑な話だろう。
「…………」
おそるおそる顔を上げると、盛岡は何も言わず、ただこちらを見下ろしていた。その視線にいたたまれなくなり、口をきゅっと閉ざす。
そんな俺を見かねて、木田が助け船を出してくれた。
「盛岡くん。まぁまぁ、こちらの空(あ)いている席に座りたまえ」
木田が俺の席の後ろにある椅子を引くと、盛岡は素直に腰を下ろした。
「俺、木田友一。こっちの目ん玉くりくりは福地千春ね。よろしく。んで、盛岡っちって呼んでいい?」
「盛岡っち? ……木田、それはあまりに慣れ慣れしいぞ」
木田が会話をリードしてくれることはありがたいけれど、心の距離感がある関係で、その呼び方を提案するのはいかがなものか。
「あぁ、別にいい」
「え?」
……あだ名が、まったく見た目のイメージじゃないけど。
「はいはーい! では、サクサクと話を進めていっちゃいますね。盛岡っちって、前世はふくろうだったのでしょうか?」
唐突な木田の発言に、ぎょっとする。でも、三日間ずっと聞きたかったことだったから、ありがたい。
「あぁ。福地くんと目が合ったときに思い出した」
「え、入学式で? それ千春と同じじゃん」
多分、俺の言うことなんて、ほとんどネタとでも思っていたのだろう。
木田は俺と盛岡を交互に見比べ、何かを言いかけて口を開いた。だがすぐに思い直したのか、言葉を飲み込む。そして今度は何か楽しいことでも思い浮かんだのか、ニマニマし始めた。
「いや、いいよ。信じる信じないは置いておいて、お前ら面白いじゃん。ネタにしておけよ」
木田は立ち上がると、俺と盛岡の肩をパンパン叩く。このノリに慣れている俺は構わないけど、初めての奴は引いているんじゃないか。
ちらりと横を見ると、盛岡と視線が合った。
「ネタにするかは分からないけど。俺、この地域に引っ越してきたばかりで、高(こ)校(こ)ではまだ仲がいい奴いないから、よろしく」
「…………」
意外にも盛岡は木田のノリは嫌いではないようで、まさかの友達申請。
いいのか? 仲良くする奴が俺たちみたいなお調子者でいいのか?
……とは思いはするが、真正面からそう言われたら、やっぱり嬉しくなるものだ。
「それじゃ、よろしくぅ〜」
俺が握手の手を差し出す前に、木田が盛岡の手を握りブンブンと上下に振った。
挿絵①
「前世のくだりからなら、握手は俺からだろ。あ、盛岡……っち? 俺もこんなノリなんだけど、よろしくね?」
「ん」
高校で初めて出来た友人が、前世で一生寄り添ったツガイだなんて奇妙な縁があるものだ。
深く考えるのを止め、俺も握手した手を上下に振った。
「ただいま」
学校から帰ると、俺は真っ先に仏間に向かった。
六畳ほど部屋には、仏壇と座布団があるだけ。
仏壇の前に飾られた写真に手を合わせていると、誰もいないはずの二階から階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
とん、とん、と、ゆったりとしたその足音は、よく聞き慣れたもので、驚きはしなかった。
「千春、おかえり~」
立ち上がって仏間からリビングに出ると、叔父さんが廊下からひょっこり顔をのぞかせる。
「叔父さん仕事じゃないの? 半休?」
「あぁ。半休だったんだけどね。トラブルが起きたみたいだから、今から仕事場へ戻るよ。ちなみに、ちょっと帰りが遅くなる。それで……」
叔父さんは気まずそうな顔をする。――そっか。今日は夕ご飯の当番だったんだ。
両親が亡くなって、早五年。
父の弟である久(ひさ)治(はる)さんに引き取られてから、ずっとふたりで暮らしてきた。掃除や洗濯は見つけた方、暇な方がやるスタイル。やってくれたら、どうもね。ていう具合で、今日まで上手くやっている。
ただ、叔父さんは料理が苦手なので、俺に丸投げにならないよう、隔日で担当することを決めていた。
「分かった」
言いづらそうな気配を察知し、叔父さんに言わせる前にさっと言う。
「今日は俺が作るから。でも、残業なら、夕食食べてくる?」
「うちで食べるよ! ありがとう。二十時には帰ってくるから」
「了解」
叔父さんを見送ったあと、リビングでドラマを一話だけ見て、それから買い物へ出かけた。
夕方のスーパーには、仕事や学校帰りの人たちが足早に集まり、惣菜コーナーでは割引シールの貼られたコロッケや唐揚げが次々と手に取られていく。それらを横目に、自分は目当ての商品をひょいひょいとかごに放り込み、レジへと向かった。
そこの列の中に、ひときわ背の高い人影がひとつ、すっと立っている。
「ん?」
同じ高校の制服、それから、がっしりとしたあの背中は、昼間見たばかりだ。
「……盛岡っち?」
全然しっくりしないあだ名で呼びかけると、盛岡は振り返った。
「福地、くん」
相手も呼びにくそうなので、「千春でいいよ」と言うと、向こうも「なら、俺も呼び捨てでいい」と返ってくる。
「翔真は……」
私服の俺と違って、翔真は制服姿だ。きっと学校帰りに立ち寄ったのだろう。案外、家が近いのかもしれない。
「部活帰り? 何部?」
「あぁ、柔道」
なるほど、見た目通りだ。試合中に睨まれたら、それだけでビビりそう。
……なんて想像していたら、くっきり二重の切れ長の目が、俺の持つレジカゴに視線を落とした。
「千春は夕食の買い出し? もしかして、料理するのか? えらいじゃん」
「うん。俺、両親を事故で亡くしちゃって、叔父さんとふたり暮らしだからさ。仕方なく覚えたっていうかね」
「え」
瞬時に翔真は〝しまった〟というような困惑した表情を浮かべたので、俺は手を左右にひらひらと振った。
「俺、叔父さんと仲いいんだよ。あっ、前のセルフレジ空いたぞ」
気まずそうに立ち尽くす翔真の背を押す。その手にあるのは唐揚げとアイスだ。そのあとすぐ、別のレジが空いたので、俺もささっと会計を済ませた。
「お?」
店を出れば、翔真は駐車場の端で突っ立っていた。俺に気付くと、大股で近づいてくる。そして、買ったばかりのアイスを俺の前に差し出した。
「やる」
「はは、なんでぇ?」
「いい子だから」
……いい子って?
翔真のノリはまだ分からない、けれど、場の雰囲気に流されて、ありがたく貰うことにした。
「じゃ、遠慮なく。あ、ふたつに割れるアイスじゃん。一緒に食おうよ」
「急ぎじゃないのか?」
「ないない。叔父さん残業で遅いし」
駐車場の端にはベンチがあって、手招きして一緒に座った。
びりっとアイスの袋を手で破って、二つに割ったチューブ状のアイスを翔真と半分ずつ分ける。チョココーヒー味だ。
うま、うまと、透明ボトルを吸っていると、妙に強い視線を感じる。
ん? と横を向くと、翔真が射るような瞳で俺を見ていた。
「何? 俺の顔に何か付いている? 食わないの?」
「――あ、あぁ」
はっとしたように翔真は視線を外す。
「はは、変なの。意外とお茶目でぼんやりさん?」
「……そういうわけじゃない」
ふぅん、と俺は頷(うなず)き、残りのアイスを一気に吸い込んだ。それから立ち上がって、すぐ傍にあるゴミ箱に空の容器をぽいっと突っ込んだ。
再び翔真の隣に座りなおすと、置かれた唐揚げから立ちのぼるニンニクの香りが鼻腔をくすぐる。空腹時には危険すぎる香りだ。
途端、俺の素直な腹はぎゅるううっと返事をした。
「……すまん。聞かなかったことにして」
そう言っている最中にも、ぎゅるぎゅると腹の音が鳴っている。
「ん」
「ん?」
翔真の短い声に横を向くと、彼が唐揚げを俺の口元に押し当ててきた。
え、と思う前に、ニンニクの美味しそうな匂いがすぐそこにあるから、反射的に唐揚げをもぐもぐっと頬張ってしまう。口の中に、じゅわぁ~と旨味が広がった。
唐揚げが口の中から消えると、もう一個と口の中に放り込まれる。
くれるのなら素直にもらうけど──なんだろう、この感じは……。
「…………」
俺たちは呆然と見つめ合った。
――思い出した。ふくろうのときも、こうして餌を分け与えてもらっていたんだ。
まだ俺たちのあいだには、ぎこちなさが流れているというのに、なんというか、あれだ。
今、多分俺らは、前世を感じちゃっている。
二.前世のツガイと親友です。
「ほら、千春」
「ん」
翔真に声をかけられて振り向くと、一口サイズにちぎったパンを口の中に放り込まれた。レーズンとクルミが入っていて、パンのほのかな甘味が口の中に広がる。
モグモグと口を動かしていると、絶妙なタイミングでコーヒー牛乳を手渡された。
「ありがとう」
「しょっぱいのはいるか?」
「しょっぱいのあるの?」
「しゃかりこ」
それって俺の大好物なやつじゃん。と目を輝かせていると、一本口の前に差し出された。
それを、ガガガガガガ……と勢いよく前歯で噛む。なくなると、また差し出されるので、どんどんくれとばかりに食らいつく。
「しゃかりこがある世界に生まれてきてよかった!」
「だな。ほら」
差し出されるしゃかりこをまた咥(くわ)えると、木田が口を開けた。
「盛岡っち、俺にもあーんしてくれよ」
「「なんで?」」
「いやだ、この人達、木田くんに対して冷たくなぁい?」
「「普通だろ?」」
――という、俺たちのやり取りは通常通りすぎて、それを見ているクラスメイトは何も言ってこない。
初対面のぎこちなさがあったのは二日間くらいで、俺と翔真が仲良くなるのに時間はかからなかった。
二学期の今では、幼馴染だっけくらいの馴染み方。長年一緒にいたような阿(あ)吽(うん)の呼吸。
〝俺と翔真は前世でツガイだった〟
このやりとりは、俺と翔真のあいだでよく言い合っているので、クラスメイトも耳にしているはずだ。
でも今のところ、ツッコまれたことはない。木田がいつもボケや合いの手で割り込んでくるから、ただのネタとして流されている気がする。
「千春って、あーんすると、なんでも食うんだよ。かわ……面白い」
その言葉の通り、翔真はよく俺に食べ物を与える。最初は少し戸惑ったけれど、気づけば当たり前のように受け入れていた。慣れって怖い。
それから、翔真も俺も木田を除(の)け者(もの)にしているわけじゃない。同じくらい好きでも、接し方がそれぞれ違うってだけだ。
「ほら、木田」
翔真はしゃかりこが入った筒を丸ごと差し出した。
「どうも~」
木田はそれを頬張りながら、昼休みが残りわずかになった時計を見て、「次の体育、だるぅ」と呟いた。
「きたきたきた、盛岡選手です! 華麗なドリブル、ひとり、ふたり抜き……そして――スラムダァアアアアアアアンクゥ!」
午後の授業は、体育館でのクラス対抗バスケ大会だ。
各クラスが二チームに分かれ、熱戦が次々と繰り広げられていた。
俺と木田がいるチームAは、一試合目であっさり敗退。今は見学に回っている。一方、翔真がいるチームBは順調に勝ち進んでいて、みんなの注目を集めていた。
最初のうちは拍手で応援していたが、木田が暇を持て余し始めたあたりから、悪ノリが始まった。
それで、チームBの実況なんかをしているってわけだ。面白がって他の奴らも耳を傾けている。
実況の通り、バスケ部のメンバー以上に活躍しているのは翔真だ。恵まれた体格と身体能力を活かし、初戦からキレのある見事な動きを見せている。
「おぉ! ダンクからの速攻! 盛岡選手の勢いは止まりません!」
そのダンク以降も、チームBは相手に一切の得点を許さず、試合終了の笛が鳴るまで圧倒し続けた。
翔真の大活躍が勝利を引き寄せ、チームBは見事優勝。
木田の実況のおかげかどうかはさておき、試合は終始熱気に包まれていた。
「盛岡、すげぇ!」
わっと優勝チームに人だかりができる中、翔真の周りにはバスケット部の面々が一斉に群がった。
俺と木田は少し離れた場所から、翔真にひらひらと手を振る。
それに気づいた彼は、人だかりからするりと抜け出し、まっすぐこちらへ向かってきた。
「翔真、お疲れ様、大活躍だったな」
「ありがとう。千春の応援、聞こえていたよ」
翔真は礼を言いながら、よしよしと俺の頭を撫でた。撫でて褒められるべきはそっちだが、彼はことあるごとに俺の頭を撫でまわしたがる。
餌付けといい、これも翔真なりの親愛表現かと思って、素直に受け入れていた。
「へへへ」
俺が笑うと、翔真も頬を緩める。
「はいはいはーい! ふたりの世界に入るなって! ――ところでこの私、木田くんの実況はどうだった?」
「木田の実況は煩(うるさ)かった」
「えへ。そこはぁ、盛り上げ上手だって言ってくれよぉ~!?」
「千春、その指どうした?」
超前向きな木田をスルーしながら、翔真は膝を少し折って俺の右手を見た。中指には湿布を巻き付けている。
「大したことない。ちょっと突き指しただけ」
全然活躍してないのに突き指をするなんてどんくさい。恥ずかしくて、手を後ろに隠したが、翔真が見せろと睨んでくる。
「ちゃんと保健室へ行ったのか?」
「……まぁ」
「まぁ? ちゃんと診(み)てもらえ。適当にしておくと長引くぞ」
保健室へ行ったところで同じような処置だろう。病院と違って、レントゲンで骨の状態を確認出来るわけでもない。
手を左右に振って大丈夫だと言ってみたが、心配性の翔真は俺の意見を聞き入れない。
「千春、行くぞ」
デカい手に左腕を掴まれる。だが、ダンクを決めて優勝に導いた立役者が、その場を抜けようとするなんて、周りは許すはずがない。
「盛岡、お前、バスケ部に入れよ~!」
背後からバスケ部の連中が、翔真の肩をがしっと掴んだ。
「いや、今は」
「今度、スリーオンスリーで対決しようぜ!」
あっという間に、翔真はまた人盛りの中心へと引っ張られていく。
振り向いた彼が、もの言いたげにこちらを見るので、俺は「早くいけ」と左手を振った。
すると翔真は言葉を飲み込み、代わりに木田に目配せする。
「んま。あの人ったら、すっかり千春の夫気取りよ」
「あらん、やだ。愛されちゃって? でもまだ若いから、結婚できないわよぉ」
「……まぁ、冗談はともかく、盛岡っちの言う通り。ちゃんと診てもらえよ」
「う……」
これ以上ごねるのは面倒臭い。かといって、付き添いがいる怪我でもない。
「分かった。言う通りに行ってくる」
木田にそう声をかけて、ひとりで保健室へ向かった。
コンコン、とノックすると、すぐに「どうぞ」と返事がある。ドアを開けると、狭い室内には、俺と同じように突き指したらしい生徒がひとり。養護教諭の手元には、湿布とテーピングが並んでいた。
「――うん。それほど腫(は)れていないし、骨は大丈夫そうね」
「はい」
指先に巻かれたテーピングは、手際よく、綺麗に整えられていた。試しに指を曲げてみようとしたら、「動かさないように」と静かに注意を受ける。
「ありがとうございます」
ひとこと礼を言って保健室を出ると、もう下校時間だった。
校舎に響く生徒たちの喋り声の中に、こちらに近づいてくる足音がひとつ浮かび上がる。
振り返ると、翔真がいた。
「大丈夫か?」
「平気。ほら」
俺はすっと右手を前に出して、手当したアピールをする。彼はにやっとし、えらいと言わんばかりに俺の頭を撫でた。
「それから、制服を持ってきたぞ」
「おぉ、気が利(き)く。ありがと」
翔真も体操服のままだ。着替えたいが、教室にはまだ生徒が残っているはずで、女子の目も気になる。目配せひとつで、俺たちは別館の空き教室へと向かった。
肩幅ががっしり、逆三角形の格好いい背中――。
「溢(あふ)れる清涼感」
俺は制服に、翔真は柔道着に。互いに着替え終わったあと、思わずぼそりと呟いた。
「あぁ、制汗剤のことか? 間違えて買ったんだけど、本当は無香料派」
翔真から漂ってくるシトラスミントの香りも清涼感がある。けれど俺が言っているのは翔真自身のことだ。汗を掻(か)いてちょっと湿った硬質の髪の毛、袖から見える逞(たくま)しい腕。体育会系の爽やかさが溢れている。
「翔真から青春の香りがする」
「はは。なんだそれ。それなら、千春も青春の香りがするだろう?」
「いや、俺はしない。木田もしない」
実際は香らない匂いの話をしているのに、翔真は俺の肩を抱き寄せ、頭に額をひっつけた。あろうことか──くん、と匂いを嗅いでいる!?
「わ、やめろよ。汗臭いって」
「え」
厚い胸を慌てて押して距離を取ると、翔真はきょとんとしたまま動かない。何故か、その顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「なんだよ、その反応。驚くほど変な匂い? そりゃ運動後だし……って、ガチなの?」
頭皮の匂いなんて自分じゃ分からない。毎日洗っているけど、専用シャンプーに変えるべき?
こっちは焦っているのに、翔真は気まずそうに視線を逸らす。顔を背けるほどの悪臭!?
「知らなかった。俺って、そんなに臭いのか。……分かった。帰りにドラッグストアで高いシャンプーを買って帰るよ」
「いや……匂いは、普通なんだけど」
「なんだけど?」
「思わず千春の匂いを嗅いだ自分に驚いて」
思わずだったのか。
「はぁ~、なんだ、そっちか。俺はとんでもない臭い匂いじゃないかって、マジで焦ったんだからな!?」
教室のドアが締めっぱなしだから匂いが気になるんだ。さっさとここから出てしまおう。
そう思ってドアを開けた瞬間、後ろからそっと腕を掴まれた。
「……なぁ。千春はさ、俺といると、妙な気分にならないか?」
「妙って、何?」
振り返りざまに聞き返すと、翔真の真剣な表情が、じわじわと悲しげに歪んでいく。
「……だよな」
「え、っと……」
意味がさっぱり分からないのに、翔真は続けて「こんなのおかしいよな」と呟いて腕を離す。
どこか様子が変で、なんでもないようには見えない。
何か悩みが?
ふざけてないでちゃんと聞こうと向き合ったとき、廊下から複数人の足音が聞こえてきた。
「え~、盛岡くん、どこだろう」
「確かに別館に向かっていたよ! 告白のチャンスじゃん。絶対ものにしなよ」
聞き覚えがない女子の声が廊下に響く。その途端、翔真はあからさまに顔をしかめたので、俺はすっとドアを閉めた。……ものにしなよ、って言い方は嫌だよな。
「各教室、確認していこうよ」
その言葉のあと、ドア開け閉めや施錠の有無を確認する音が聞こえてくる。まるでハンターだ。この調子では、彼女たちはすぐにここに来るだろう。
「知り合い?」
「知らない」
その声も心なしか暗い。
俺はくるりと周囲を見渡し、ちょうどいい場所を見つけた。
「隠れよ」
「え?」
俺は翔真の腕を引っ張り込み、一緒に用具ロッカーの中に入った。
「――千春!?」
狭いロッカーに男ふたり。みっちみちの缶詰状態。
翔真を押し込んだあと、俺は背中から入ったので、背中にぴったりと温もりがある。
「何やって!?」
「せま……なんで俺まで入っちゃったんだろう」
「おかしいだろ!? こんなにくっつかれたら……色々、やばすぎるから!?」
翔真が焦っているので出ようかと思ったが、近づく足音がする。
「しぃ、黙って」
「……っ」
身動きひとつ取れない狭さ。長時間はここにいるのは難しい。
ほんの少し。彼女たちが通り過ぎるまでのあいだ、翔真には窮屈さを我慢してもらおう。
「あっ、ここの教室だけ、鍵がかかってないよ!」
女子の声が教室に響き、俺はロッカーの隙間からそぉっと覗き込んだ。あれは、別クラスの女子だ。「誰もいないね~」「うん」などと話している。
きっと、ぱっと見て、出て行くだろう。彼女たちには翔真探しというミッションがあり、先を急いでいるはずだ。
――そう思っていたのに、案外、女子は目ざとい。
「あっ見て! 誰かいたのかな。体操服が置きっぱなしだよ」
「本当だ。そういえば、盛岡くんも体操服だったよね?」
「ひょっとして待っていたら、戻ってくるかも」
……え!?
信じられないことに、彼女たちはどかっと椅子に腰を下ろし、「それでさぁ」なんて駄弁(だべ)り始めた。
ひくっと、口元が引きつる。
嘘だろう……予想外すぎる。
内心で悲鳴を上げていると、頭の上で、翔真が苦しそうに息を吐いた。
俺を押しつぶさないようにしているのか、その身体は強(こわ)張(ば)っている。背中ごしに伝わる心臓の音も、ばっくばっくと跳ねているし、相当苦しいに違いない。
女子たちに早く教室から出ろ~と念じていたら、ふと背後に違和感を覚えた。
俺の腰下辺(あた)りに硬いものが当たっている。
……ん? この位置にあるものって?
まさか、翔真の下半身が反応した……いや、それだとなんでだよな? うん、それはない。失礼すぎる。ということは、ポケットに入れていたものがズレた?
潰れたり折れたりしないか心配になり、尻をずり動かして位置を調整しようとするが、上手くいかない。
すると、ふーっ! と翔真が怒るように息を吐き、俺の腰をがっしと掴んだ。
「な……何、やってんだよ……」
小声で唸(うな)るので、俺も小声で返す。
「翔真のポケットにあるもの、潰しちゃ悪いなって。それ、ちょっと触っていい?」
「……っ、っ!?」
後ろ手で尻に当たるものを退かそうとしたが、そもそも手を回すスペースがない。無駄に腰をもじもじと動かすだけとなる。
「……く、そ。やめろ……」
滅茶苦茶苦しそうな声で止められた。
あ、そうか――翔真の後ろには掃除道具が入っていて、動くと背中が痛いのかも。
「もういい。絶対に、何もするな」
小声だが、強く言われ、頷く。
少しでも俺が前に詰めれば楽になるかと思ったけど、効果は微々たるものなのだろう。
触れ合っているその体温は急激に上がっていて、心音はさっきよりずっと速い。
これ以上は、翔真が限界っぽい。
隠れた意味がなくなるけど、もう外へ――。
「どうも、お邪魔しま~す! 忘れ物しちゃってさぁ」
馴染みの声が、教室の外から届いた。
隙間からじっと見つめると、教室の中に木田が入ってくる。
──まさか、俺と翔真が戻ってこないから、探してくれたのか!?
「あ~、やっぱり。これこれ」
木田が俺たちの体操服を手に持つと、女子はあからさまにげんなりした顔をした。「いこいこ~」「時間を無駄にしちゃったね」と口々に言いながら立ち上がり、教室を出て行った。
「なんだあれ……」
木田が呟いた瞬間、俺たちはロッカーの扉を押し開け、勢いよく飛び出した。
「ふはぁっ、助かったぁ~」
「うわっ!?」
まさか俺たちがここにいるとは思わなかったようで、木田はびくんっと飛び跳ねた。
「びっくりしたぁ……! 盛岡っちが制服を届けに行ったっきり、ふたりとも教室に戻ってこないから探していたんだ。まさか、そんな狭いとこに隠れていたとは」
「どうなることかと思った……ありがとう」
礼を言いながら、安堵の溜め息を吐く。
「それで? そんなところで何やっていたんだよ?」
「あぁ……」
〝ふたりでロッカーに入る〟という奇行は、早めに説明した方がいいかと、大雑把に事情を説明した。
「は? 女子から逃げるために……それでロッカー?」
「いやまぁ、翔真ひとり隠せばよかったんだけど、勢い余ってさ……。あっ、翔真、大丈夫――」
慌てて振り返ると、彼は俯(うつむ)いてしゃがみ込んでいた。――全然大丈夫そうに見えない。
「どうした!? どこか痛めたか!? 俺の身体で押しつぶしちゃったから具合悪くなったのか!?」
駆け寄ろうとすると、翔真がストップというように手を前に出した。
「こっちに来るな」
「え……でも、首筋まで真っ赤になってるよ!? あと、ズボンに入っていた硬いものも大丈夫?」
「…………」
「……ズボンの中に……硬い? 盛岡っち?」
「……最悪」
翔真がちょっと顔を上げて、眉を潜(ひそ)めて俺を睨む。あからさまに不機嫌になっている。
「放っておいてくれ」
「けど、立ち上がれないほど辛いなら――っ」
言いかけたところで、木田にがしっと肩を掴まれた。
「今日、千春は家の用事があるって言ってただろう? 先帰れよ。盛岡っちのことは、木田くんがちゃ~んと面倒みといてやるって! な!?」
その言葉に翔真は頷く。
もし原因が俺だったなら、ここで頷くわけにはいかない。けれど、木田に「はいはーい」と背中を押され、教室の外に追い出された。
三.モテる男は大変です。
「ロッカーのことがあってから、翔真が俺と目を合わせてくれない」
「ふぅん」
「木田は翔真から何か聞いていない?」
登校中、俺は木田に尋ねた。
ロッカー事件のあと、木田は翔真とふたりで残っていた。何か聞いていたら教えて欲しかったが、彼は「んー」と曖昧な相槌を打つだけ。
そのそっけなさに俺はもう独り言のように呟く。
「……ここは詫びの品を奮発すべきか」
そんなことを考えながら校舎に足を踏み入れると、前を歩く女子たちが一斉に同じ方向を向いた。つられて視線を向けると、翔真が女子と喋っていた。
柔道着を着たままなのは、朝練を終えたばかりだからだろう。
相手は、確か三年の先輩だ。腰まで伸びた髪に、ばっちりメイクの派手めな容姿。先輩の周りも派手な人たちが多いから、自然と顔を覚えていた。
それにしても、やたら自分の髪の毛を触って、身体をくねらせている。翔真に好意があるから、ああいう仕草になるだろうか。
「あらぁ、千春の夫はモテるわねぇ」
ふぅん、しか言わなかった木田がようやく意味ある言葉を発した。
「あれ、やっぱり告白だよな」
バスケットの試合をきっかけに、翔真のモテ方は凄まじかった。
「――たく、ここにもいい男がいるのに、なんで盛岡っちばかりに集中するかねぇ」
「ん~」
先日、部活中の翔真の姿を見た女子が「やばい」と口々に漏らしていた。〝やばいほど格好いい〟のやばいだ。
「女子たち曰く、翔真は雄味があって、ヘラヘラしているだけの男子と違って雄々しい魅力とやらがあるんだってさ。それに、翔真は大口叩かないけど有言実行だしね。分からなくはないよ」
すると、木田が自分自身のことを指さした。俺だってモテ系でしょうって言いたいのだろうか。残念ながらそれには同意しかねる。
「それより、あんまりじろじろ見るなよ。行こう」
木田に声をかけた瞬間、先輩が勢いよく翔真の腕に抱きついた。スキンシップが多い先輩だ。
このまま見ていたら、いたたまれなくなりそうで、さっとその場を離れた。
教室に続く階段を上っていると、横から木田が指で俺の肩をツンとつつく。
「……あれを見て、千春は何も思わないわけ?」
「ん? あれって、告白現場? 俺も恋人が欲しいかって意味? ん~」
俺は、少し考えて「時間ないかな」と答えた。
先月から俺はバイトを始めた。
両親から残された遺産はあるし、特別金に困っている訳じゃないけど、自分の小遣いとスマホ代くらいはちゃんと稼ぎたい。今時スマホがないなんて不便だし。
それに、近いうちにひとり暮らしするつもりでいる。そのための資金も少しずつ貯めていきたい。
「恋人とか出来たら、遊びたくなるだろうし。俺はまだいいや」
「いやぁ、そういう意味ではなくて……盛岡っちのことだよ」
「翔真のこと? なんで俺が気にするの?」
「…………」
木田は物言いたげな表情で口を開きかけたが、小さく首を振る。
「なんでもない」
「そう?」
席に着いて、隣の奴に挨拶していると、翔真が教室に入って来た。
どうしてか、その顔は見たことないくらい強張っている。
やっぱり、目が合わない、か。
ロッカー事件の前は、ふとした拍子に視線が合うことが多かったのに、今はまるで避けられているみたいだ。
また前みたいに戻りたくて、俺は頭の中で、詫びの品の候補をひとつずつ並べていく。
午前中そのことばかりを考えていたら、隣にいる女子たちが声を潜めて言った。
「盛岡くん、先輩と付き合うって」
先輩って、今朝の?
俺は翔真の方をちらりと見て、ほんの少しだけ淋しさを覚えた。
◇◇◇
「ねぇ、聞いて! 盛岡くん、恋人と別れたって!」
登校して教室に入ると、女子たちが席の近くで屯(たむろ)していた。その会話で、翔真の破局を知った。
一週間前、こんな風に彼女たちの声で、翔真が付き合い始めたと聞いたばかりなのに……。
「知ってるよ! 既に新しい恋人がいるんだって!」
「え、もう!?」
一人の女子の声と、俺の心の声が重なった。急展開だ。
「ショック。幻滅した~」
「そう? 非モテよりいいじゃん。私も相手してくれないかな」
彼女たちは声を潜めているが、興奮しているので丸聞こえだった。〝先輩には別の男がいた〟〝セフレ〟〝新しい恋人はC組の子〟〝誰でもいい?〟〝実はヤリチン〟だとか。
まるで、ゴシップに食いついて楽しむ野次馬だ。
翔真は部活の朝練でホームルームぎりぎりにしか現れないと分かっているからか、遠慮のかけらもない。
「木田……」
「うん、なんかな」
木田と俺はしかめっ面(つら)で互いの席に着いた。
──キーンコーンカーンコーン。
午前の授業終了のチャイムが鳴り終わると、教室の空気が急にだるんと緩んだ。
「昼飯、屋上へ行く?」
朝の女子たちの会話を思い出して、俺と木田は翔真を誘い、屋上へ向かった。
そこには生徒がちらほらといて、俺たちはなんとなく人を避けるように給水タンクの裏に回り、腰を下ろした。
「──ほら、千春」
「ん」
翔真は、あーんと俺の口にチョコを放り込んだ。
「……ありがと」
ロッカー事件の直後は、翔真とギスギスしていた。でも、どうやら本気で怒っていたわけじゃなさそうで、相変わらず、俺にお菓子をくれる。
「……それでな、勉強ノートに推しの写真を貼ると、見つめ合っているみたいで始終ときめいていられるんだ。盛岡っちにもおすすめだぜ?」
「木田はそれで、勉強に集中できるのか?」
「できるぞ。推しの目が“木田くんガンバレ”って言ってくるからな」
翔真は木田の話に耳を傾け、相(あい)槌(づち)を打ちながら笑っている。
「……ん~」
その屈託のない笑い方を見ていると、また女子たちの噂が頭をよぎった。
何度も思い出してしまうのは、多分、俺自身が気になっているからなんだろう。
だって、今までの翔真は、恋愛よりも部活──そんなタイプだったから、どうも妙な感じがする。
「翔真って、告白されて少しでも好きになれそうだと思うから、付き合うんだよね? 付き合ってから、気が合うかどうかを決めているの?」
「…………」
軽く疑問を口にしてみた途端、翔真の顔からすっと表情が消え、そのまま固まった。
ちょっと踏み込み過ぎたかもしれない。話題を変えようとしたところで、彼がぼそりと小さく呟いた。
「好きになれなかったらそれでもいいって……付き合ってみないと、分からないから」
「ふーん。そうなんだ」
「…………」
翔真の付き合うは、いわばお試し期間(・・・・・)みたいなものなのか。
その感覚は、俺には分からないけど、恋愛観は人それぞれ。他人の恋に対して自分の意見を押し付けるつもりはさらさらない。
木田は俺らを交互に見たあと、「きゃは」と、いつもよりおちゃらけた声を出した。そして、何故か翔真の肩をポンッと叩き「コーラ奢(おご)っちゃる」と誘った。
「え、俺は?」
木田の答えは、ウィンクひとつ。〝来るな〟ということらしい。喉が渇いているわけでもないからいいけど。
「じゃ、俺は先に教室に戻っているよ」
「おう」
残ったお菓子を口の中に放り込んで立ち上がる。屋上から出て階段を下りるまでは彼らと一緒で、そこから、ひとり教室へ戻った。
「福地くん、突然ごめんね」
「ん?」
自分の席に着いた途端、女子に話しかけられた。バスケ部の川合(かわい)さんだ。
これまで個人的に喋ったことはない。用件はなんだろうかと思っていると、翔真のことだった。なんてことはない。翔真に渡して欲しいと手紙を差し出されたのだ。
「ごめん、俺からは渡せない。アイツ、もう彼女いるし」
翔真の現彼女に失礼だろうと断ると、「もう!?」と川合さんは声を上げてショックを受けた。
「じゃあ、盛岡くんが恋人と別れたら、私に教えて欲しいの!」
「えぇえ……」
まさかのとんでもない発言。
どうして友人の破局報道をしなくてはいけないのか。
勿論、そんなことは出来るはずもなく、手を振って断ると、彼女は勢い余って机を両手でバンッと叩いた。
「次の恋人に絶対なりたいの。他の人とは違って、私、福地くんと仲よくしていても全然大丈夫だから!」
「は?」
「男の友情には邪魔しないから!」
彼女が翔真の次の恋人になろうがなるまいが、俺にはどっちでもいいことで。……そうじゃなくて、スルー出来ない一言だった。
〝福地くんと仲よくしていても〟
「…………」
自分の名があがり、ギクリとする。
ひょっとして、前の先輩と別れた理由は俺? 前世ツガイという設定でベタベタしているから?
木田以外にツッコまれることはなく、周囲も冗談として笑っていた。みんな、軽く楽しんで受け流してくれている。そう、勝手に思い込んでいた。
一緒にいる時間だけみれば、木田との方がずっと長い。学校でもべったりだし、休みの日もたまに遊ぶ。
対して翔真とは、わざわざ約束して遊びに行くこともない。
でも翔真の恋人なら、ツガイ(・・・)という言葉を嫌がるのは、そりゃまぁ、当然だ。
猪(ちょ)突(とつ)猛(もう)進(しん)ガールの一言にどう返事していいのか迷っていると、ぬぅっと大きな影が現れた。
「……千春に何してんの?」
「あっ、盛岡くん……」
先程までの勢いはどうしたのか、彼女はモジモジし始めて、「ご、ごめんね! もう行くね」と同じクラスなのに、教室を出て行った。
しかも、手紙は俺の机の上に置きっぱなしのまま。
――おいおい。この手紙、どうするんだよ。渡したくないんだけど。
捨てるわけにはいかず、渡すしかないのかと考えていると、翔真が前の席に座り直した。
「――どうするんだ?」
「え? どうするって?」
それを聞く翔真は無表情だけど、俺を見る目は強く鋭い。
「川合さんに凄い形(ぎょう)相(そう)で迫られていただろ。千春が困っているのを見て分からない時点で最低最悪。机なんか叩いてさ、付き合ったら何をされるか分かったもんじゃない」
翔真がそんな風に他人の悪口を言うなんて初めてで、口をポカンと開けた。
「近づくなって言っておいてやろうか?」
「――えぇ……と、なんで?」
どうしてか、翔真は徐々に眉間にシワを寄せ、不機嫌な表情に変わっていく。
何かが彼の逆鱗に、触れてしまったようだ。
背筋にゾクッと悪寒が走る。
いつもと違う雰囲気に驚いていると、「はいはーい」と木田が俺の横の席に座った。
「はーい! 盛岡っち、それは誤解だ。千春はそれほどモテないのだ。おそらくは、その手紙を君に渡して欲しいとでも頼まれていたのだろう!」
木田は俺の机に置きっぱなしだった手紙をひょいと手に取り、それを翔真の胸元に押し付けた。
翔真は封筒を開け、その場で手紙に目を通す。感情の色はまるでなく、ただ内容を確認するためだけに読んでいるようだった。
「翔真には恋人がいるから、俺からは手紙を渡せないって断っていたんだ。結局置いていかれたけど……」
「……そうだったのか」
翔真はその便箋を封筒に戻した。
不機嫌オーラが漂ったままだから、何故か俺が怒られているみたいに思えて口を噤(つぐ)んでしまう。それを見た翔真は、ハッとして首を横に振る。
「俺のせいで悪かったな。千春に迷惑がかからないように気をつけるから」
「迷惑ってほどじゃないよ。つーか、うーん。モテるのも大変なんだな?」
「そうなんだ、モテるって大変なんだ。俺って罪な男」
翔真に向けて言った言葉を、木田がうんうんと頷いている。
髪を手で掻き上げてフンッと鼻で笑い格好つけているが、全然様(さま)になっていない。
「細目のうすしお顔王子、木田友一! 総愛され目指してまっす」
木田のことを適当に聞き流しながら、チラリと翔真を見る。
「むしろ、俺が迷惑とかなら、すぐ言ってな?」
「それは絶対ない」
「そ?」
顔を覗き込むと、翔真の顎がわずかに強張った。奥歯を噛みしめているのが動きで分かる。
少しまだ怒っているように思えた。
四.欲しいのは、ふくろうです。
二年になって、翔真とはクラスが別れた。木田と俺はまた同じクラス。
「まさか、前々前世では俺とお前はツガイだった?」
「そうかもな。バッタか何かだったかもしれんな」
「そういう設定にしとく?」
――なんて、俺らのふざけた仲は相変わらず。
男子たちってホント無邪気なんだから!なんて女子によく言われる。
でも、翔真と一緒に三人でいた頃には、〝男子たち〟って一(ひと)括(くく)りにされなかったっけ。
あれはやっぱり、翔真という際立った存在がいたからなんだろう。
「千春、今日もバイト?」
「うん。じゃあな」
放課後は、まっすぐバイト先へ向かう。
一年の頃から続けているコンビニバイトは、俺にはありがたい環境だった。
店長が気配りの出来る人で、テスト期間や学校行事にも配慮してくれるし、長期休みのシフトも無理なく調整してくれる。
そんな店長だけど、バックヤードではシフトのことでよく唸っている。
コンビニの店長になる前は、飲食店の経営などを経験して、苦労してきたんだそう。「バイトの子は大事にしなきゃ」「辞めるときはひとり紹介してね」とよく言っている。なんとなく放っておけないタイプの人だ。俺の叔父さんとちょっと雰囲気が似ている。
「じゃあ、福地くん。レジは頼んだよ」
「はい、店長」
「僕は裏にいるから、何かあったら声かけて」
コラボ商品やキャンペーンで商品の入れ替えもあって、今日という日は割と忙しい。
俺が手に持ったのは、ぬぼぅっとした顔のふくろうのぬいぐるみだ。くじの一等賞。
それを棚に陳列していたら、自動ドアが開き、タラタラタラ~、タラ、タラッタ。とメロディが鳴った。
「いらっしゃいませ~、おぉ、翔真じゃん!」
店内に入ってきたのは、部活帰りかと思われる制服姿の翔真だ。
「千春? ……バイトしているって聞いていたけど、ここのコンビニだったんだ」
「うん」
ここのコンビニは翔真の家から近く、たまに寄っているのだそう。
夕方からの時間帯によくバイトを入れていると伝えると、彼は「へぇ」とこちらに近づいてきた。その視線にあるのは、俺が持っているぬいぐるみだ。そこから視線は動かず、じっと見つめている。
「ん? このキャラ好き?」
「……いや、キャラ物はあまり知らない」
「俺も。でも、流行っているみたいだよ。――あ、ごめん。お客さん」
客が来たため、レジに戻る。電子化が進んで金に触れる機会が減った。ピッピッとバーコードを読み込み、表示画面を確認したら、客がスマホをかざして決済を済ませる。
客が店内にいなくなったタイミングで、翔真はスポーツドリンク二本とコーラとからからくんを持ってレジに来た。
「部活帰りって、腹減るもんな」
彼は頷きながら、さっき俺が陳列していたふくろうキャラを見る。前世ふくろうだったから、ふくろうが気になるのだろうか。
「くじする?」
「あぁ」
「マジ? ガラじゃないけど」
強(こわ)面(もて)がぬぼうっとしたキャラを持っている姿というのは、ちょっとダサい気がする。いや、意外性という意味では女子受けするのかもしれない。
まぁいいか、とくじの箱を翔真の前に差し出した。
「何等狙い?」
「一等」
「まさかのぬいぐるみかぁ。よっしゃ、祈ったる! 当たりますように~!」
当たれ当たれ~と両手を合わせて祈ると、翔真がふはっと笑う。この目尻を下げた笑顔は、特別仲がいい奴にしか見せない。
笑顔のお礼に俺もにっこりすると、「捲(めく)って」と箱から取ったくじを手渡される。
「オッケー! んんんん~~、いでよ一等!」
「どう?」
「――おぉ……ネタ的には面白くない。三等。中当たり」
「三等? 何?」
三等は、小さいふくろうぬいぐるみのキーホルダーだ。
俺は棚からそれを取って翔真の手のひらに乗っけてあげる。翔真が持つとさらに小さく見える。
「ちっちゃい。千春みたい」
「まて、おい。ディスってくるじゃないか。俺はそんなにコンパクトではない。今も前世も」
「俺から見れば、これくらいだし」
「今日の翔真くんは、悪い口が止まんないのかなぁ~、俺の鉄拳が飛ぶ前に帰んなさいよ」
鉄拳なんぞリアルで飛んでいるのを見たことがないけど、俺はげんこつを作って見せた。けど、はははっと笑う声に、自然と拳は下がる。
「これ、握って」
翔真は何故か俺にふくろうのキーホルダーを持たせた。よく分からないが、言われた通り、ふわふわのそれを軽く握る。
くれるのかと思ったけれど、そうではなく翔真は俺の手からキーホルダーを取ったら、自分の鞄に付けた。謎行為。
「何?」
「元気が出る気がするから。夏休みに大きな大会があるからさ」
「柔道の? そっか、いい結果が出せるといいな」
翔真が柔道している姿を見たことはない。大したことは言えない代わりに、彼の手を握って友達として勝利を念じた。
「んん~、友情パワー! なんちゃってね」
「……うん。千春ありがとう」
「いやいや、どっち向いてお礼言ってんの! そのキーホルダー俺じゃねぇし。俺、こっち!」
キーホルダーに声をかける翔真にツッコむ。彼は益々目尻を下げながら、じゃあまたなと手を振ってコンビニを後にした。
「……夏休みは、部活の試合か」
誰も聞いていないと思い、ぽつりと呟くと、横で店長が聞いていた。
涙目で「もうシフト目一杯入れちゃったよ〜」と嘆き始めるので、慌てて誤解だと説明した。
◇◇◇
最高気温は下がらないまま、時間だけが進んで夏休みは終わった。
制服を着た瞬間、じんわりと汗ばむ。
「叔父さん、おはよう」
二階自室から一階のダイニングルームに降りると、叔父さんがテーブルに突っ伏していた。今日は有給だって言っていたので、パジャマのままだ。
「はぁ~~」
俯いたまま、長い溜息を吐いたので、二日酔いかと水を差しだす。
「ありがとう。はぁあ、月日が早いねぇ〜。今日から新学期かぁ」
「なんで、叔父さんが嘆くの? 夏休み終わって怠(だる)いの、俺なんだけど」
「だって、千春に夏休みを満喫させてやっていないからさぁ」
その言葉に苦笑いする。満喫させてって……そんな齢(とし)じゃないのに。
「夏休み充実してたよ」
「バイトでだろう~。高校生らしくもっと羽を伸ばせばいいじゃん」
「はいはい、のびのびできました。満足です」
適当にかわすと、叔父さんは拗ねた顔をして、上半身を上げる。やつれ気味だけど目鼻立ちは整っていて、身内びいきかもしれないけど格好いい部類だ。父さんとは、あまり似てない。
「昔は、叔父さんに遊ぼうってよく誘ってくれたのになぁ。公園や海、楽しかったなぁ~」
叔父さんは子供好きで、小さい頃はよく遊んでもらった。海水浴やBBQ、魚釣り、家に来るたび、俺用のお菓子を持ってきてくれたっけ。
「いつの話だよ?」
「いつだって、叔父さんは千春をかまいたいんですよ~」
叔父さんはしょぼくれたまま、テーブルの上のメロンパンに手を伸ばした。福地家の朝食は、あるものを摘まめ、各々好きなものを食べろ、だ。
俺も椅子に腰かけて、シリアルを頬張る。テレビをつけて、朝のニュースを見た。互いに気をあまり使い過ぎないことも福地家のルール。
「あ。そろそろ行く時間だ。じゃあね、叔父さん」
「気を付けてね」
叔父さんに手を振ったあと、洗面所で身だしなみを整え、早足で玄関に向かった。
あ。と思い出すとともに引き返して、居間にある仏壇に手を合わせた。
そこに飾られた両親の写真は、いつも優し気に微笑んでいる。まるで「千春、おはよう」と言ってくれているみたいだ。
はたきで軽く埃(ほこり)を払い、背筋を伸ばした。
「元気にいってきます」
その言葉は室内にすっと消える。その静けさを破るように、ぴんぽーんぴんぽーんと家のチャイムが鳴って、木田が迎えに来た。
「おぉ、凄い……!」
一か月ぶりに学校に登校すると、《柔道部全国大会優勝おめでとう》というでっかい垂れ幕が校舎に飾られていて、「やった」と思わず声が漏れた。
翔真は団体でも個人でも優勝し、全校生徒が揃った朝礼で表彰されていた。
次の休憩時間、木田と一緒に祝いの言葉を伝えようと、翔真がいる教室へ向かった。
けれど、彼の周りは人が多く、何も言えないまま、教室を後にした。
【お~め~で~と~】
代わりと言っては何だが、祝マークの絵文字をこれでもかと付けたメールを送っておいた。きっと周りからいっぱいそんなメールが届いているだろうけど、「ありがとう」と翔真からすぐに返信がきた。暫(しばら)くは注目されるだろうし、返信は不要だと書いておけばよかった。
「きゃっ、ふくちゃん可愛い~!」
「ふくちゃんいいよね」
……ふくちゃん?
女子たちの声が耳に入り、思わず振り向いた。
ふくちゃんとは呼ばれたことないけれど、福地だから反応してしまう。
だけど、なんてことはない。彼女たちが〝ふくちゃん〟と呼んでいるのは、ぬぼうっとしたふくろうのキャラクターのことだ。
俺のセンスでは、あのキャラはそんなに可愛いとは思わないけれど、流行(はや)りとはなんとも恐ろしいことだ。
何故か、その日を境にふくちゃんキーホルダーを鞄に付けた女子が多くなった。たまに男子も。
うちの学校での流行り方は尋常ではなく、不思議に思っていたら、とうとう木田の鞄にまでふくちゃんキーホルダーが付いていた。
木田はドルオタで、アイドルのロゴキーホルダーなんかは付けるけど、俺と同じくキャラには興味がないタイプなのに。
「そのキーホルダー、そんなに可愛いかねぇ?」
机に肘付けて、ふくちゃんを眺めていると、木田が腕を組んで話し始めた。
「流行ってさ、一番の話のネタになると思わないか?」
「ふぅん?」
「正直、ふくろうキャラの可愛さにはピンと来ない。けど、俺はこのビックウェーブに乗っかりたい! 実はさぁ、だいぶ前に姉貴がくじで当てて、二個あるからって俺にくれたんだよ!」
「へぇ?」
どうやら、木田はこのキャラを話題に女子に話しかけようと考えているようだ。
そして、集団の空気とは恐ろしいものだ。
みんなが、ふくちゃんのことで盛り上がっていると、俺も知らなきゃいけないような気がして、じわじわと焦りが募ってくる。
すっかり触発されてネットで検索すると、ショート動画が山ほど出てきた。
暇さえあれば、それを見て勉強していたというのに――。
一週間後、あれほど盛り上がっていたふくちゃんブームは、嘘みたいに静まり返った。
──完全に流行に乗り遅れた。
「ふくちゃんブームって、なんで終わったの?」
急激なブームの廃(すた)れに疑問を持つ奴らが、教室でぽつぽつと話していた。そこで俺もその流行の発端を小耳に挟んだ。
発端は、翔真だった。
なんでも翔真は、“ふくちゃん”を柔道全国大会に、持っていったらしい。しっかり優勝したことで、縁起のいいアイテムとして広がったようだ。
おそらく、翔真が持っていたものは、コンビニで当たったあの“ふくちゃん”で間違いないだろう。
そして彼が、それを付けなくなった途端──みんなも付けなくなったと。なんだそれ。
呆れながら、流行とはそういうものなのかとひとつ勉強になった。
「はぁ~~、女子って、難しい」
ふくちゃんという話題がなくなったあとも、木田は積極的に女子に話しかけていた。だが、仲良くなるには一歩及ばす。よく遊びに誘ってはいるが、きっぱり断られていた。……果敢に挑む勇気は称賛する。
「どんまい」
「おう」
「お前には俺がいるじゃん、帰ろうぜ」
「おう……俺には千春がいるもん」
嘆く木田の肩を軽く叩いて、俺たちは並んで下校した。
残暑が厳しく、コンクリートの道は、ゆらゆらと蜃(しん)気(き)楼(ろう)が立ち上っている。
「暑い」
そう呟いた五分後、また「暑い」と口にしてしまう。
「千春、このあとバイト?」
「いや、今日は休み」
「んじゃ、ちょっと涼みにマッグへ行こうぜ」
「いいね」
一刻も早く涼みたい。木田の提案に賛同し、家とは逆方向にあるマッグへ向かった。
店内はすっと爽やかな冷気に包まれていて、木田と一緒にふわぁと声を上げた。さらに期間限定のシェイクを飲めば、幸せな心地になる。
「あ、配信見ていい?」
推しアイドルがライブ配信しているそうで、木田はテーブルにスマホを置いた。よくこうして一緒に動画を見るので、そのアイドルのことは、結構知っている。
ひらひらのふりふりを見ているあいだ、小腹が減ったのでのんびりポテトを摘まんだ。
「あ――、外、暑さマシ」
店の外に出ると、空は赤く染まって、日が傾いていた。
外の気温が若干落ち着いて、クーラーで冷えた身体にもちょうどいい。
寄り道をしたせいで、家までの道はいつもより遠い。普段は通らない道を木田とたわいもない話をしながら歩く。
ふと住宅街の先に目をやると、見慣れた背中が視界に入った。翔真だ。遠目でもすぐに分かる。
部活はもう終わったのだろうか。
「翔――」
声をかけようとして手を挙げて、そしてゆっくり下げた。
翔真の横には女子がいた。この暑い中、彼女は翔真の腕を掴み、身体を寄せている。翔真の手はポケットにあるけれど、あの親密さはどう見たって恋人同士。
学校にいるときとは違う。怪しい――雰囲気。
恋人がいることは知っているけれど、実際に女の子とふたりっきりでいるところを見るのは、初めてだった。
すぅっと翔真と彼女は、住宅街の奥へと消えていく。翔真の家は、俺がバイトしているコンビニの近くだと言っていたから、向かっているのは、きっと彼女の家だろう。
少しだけ見えた横顔は、どこかすましていて、俺や木田と話していたときの、あの子供っぽさはなかった。
大人びていて、どこか遠く感じた。
「なんか、知らない人って感じ」
そう呟いて、自分もそこから歩き出した。数歩進んで横で変顔している木田に気がついた。
「なんで変顔してんの?」
「――よせ、これが通常運転だ」
翔真のモテ具合を見て、冗談めかして僻(ひが)んでいるのかと思えば、真剣っぽい。
その〝っぽい〟顔で、「千春はキレイ目な女子が好き、美乳派なんだよな?」と聞いてくる。……真剣だと感じたのはどうやら気のせいのようだ。
「何? 急に」
「……俺は、正直大きければちょっと垂(た)れていてもいいなと思うのだが、千春はスラッとしたキレイな子がいいんだよな!? 女優顔って感じの! 前に言っていたもんな!?」
随分と前に言った話を持ち出されたものだ。
おそらく、アイドル系か女優系かの二択で聞かれたときの話だろう。確かに二択なら女優顔だ。けど、キレイめが好きって言ったかな?
少し考えて、中学の頃を思い出す。俺と木田は陸上部で同じ部内で仲良くなった女子がいた。スレンダーでキレイな子だ。会話のノリが楽しくて、好きか嫌いかで言えば好きだけど、恋かというと微妙なライン。
初恋かと言われると、その子が浮かぶ。
――けど、部活を辞めて話さなくなっても平気だったから、やっぱり違うような気がする。
すっかり忘れていたことが急に話題に上がって、返事に困っていると、木田がますます変顔になっていく。苦虫を嚙み潰したような表情。
「盛岡っちは、あぁ見えて不器用で。急いで人を好きになろうとしてるんだよ。アイツはすげぇ焦ってて!」
「焦ってるのは木田だろ? お前がそんなに翔真を見ているとは知らなかったよ」
「ケロッとしている千春を見ると、あぁ~……って感じ」
切ない! と木田は自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
五.ありがとう、大好きです。
午前の授業がすべて終わり、木田と一緒に購買へ向かっていると、翔真と廊下ですれ違った。
目が合うと、互いに自然と「よっ」「おう」と言いながら近づく。翔真の手にはアンパンが握られていた。
「翔真も購買? 弁当じゃないの、珍しいね」
「いや、弁当もある。これは食後のデザート」
クラスが離れてめっきりつるまなくなったし、連絡を取り合っているわけでもない。けれど、いつ会っても馴染み感がある。
翔真が「最近、どう?」と大きく開いた質問をしてくるので、昨日――翔真と彼女が仲良く歩いているところを思い出した。
それが最近一番驚いたこと。……まぁ、それは言わなくてもいいか。
「昨日はバイト休みだったから、寝まくったよ。九時に寝て七時に起きた。寝る子は育つ――ていうのはデマだと思うな」
「ふは」
翔真は吹き出すように笑いながら、俺の頭を高いところからよしよしと撫でてくる。
「やっぱり、千春は〝ふくちゃん〟そっくりだな」
「そんなにコンパクトじゃないって。――ふくちゃん。あのキーホルダー、凄い流行ったよね」
翔真が全国大会で優勝したとき、ふくちゃんを持っていたという噂が広まり、学校ではちょっとしたブームの火種になった。
「ふくちゃんは、ちゃんと家に置いている」
「え? まだ持っているんだ」
「うん。学校だとやたらベタベタ触ってくる奴がいてさ。嫌なんだよな、自分のものに触られるの」
翔真はものすごくしかめっ面をした。けどすぐに俺の視線に気づいて、なんでもないと誤魔化す。
俺は手を前に出して、ニギニギと開け閉めする。
「俺もベタベタ触ってしまった気がするけど」
「それは……千春が触るのはいいんだよ」
「そう? 俺って愛されてんなぁ」
その言葉は拾われず、沈黙が落ちた。
会話が滑ってしまったかと思い、翔真の顔を覗き込むと、その目元がほんのり赤い。何を照れているんだ?
「あぁあ、んもぉ! すぐにふたりの世界になるんだから、俺、オレェ! 愛され木田くんもいますよぉ!? 見えますか! おふたり、見えますかぁ!?」
「「すまん、いたのか」」
「いるわい!」
いつものノリツッコミにより、言いかけた言葉は引っ込んだ。
「はは、木田も相変わらずだな」
そう言う翔真の表情は、いつも通りだった。
昨日、住宅街で見かけた大人みたいな翔真じゃなく、同年代の知っている奴だ。何故か──ホッとした。
「あっ、そうだ! 久しぶりに三人で昼食食べない?」
「お、いいね」
木田とふたりで「どうする?」と聞くと、翔真はふっと笑って「いいよ」と言った。
それから、どちらかの教室ではなくて、なんとなく屋上に向かった。
午前中に雨が降っていたせいで、屋上の地面はまだ濡れている。そのせいか、俺たち以外に人はいなかった。
座るためにビニール袋を尻に敷いて、濡れた地面を気にしながら、パンを頬張る。新発売されたコンビニ限定カレー焼きそばパンだ。
「――え? ひとり暮らし?」
「うん、ほおふぁお」
口の中がパンでいっぱいだったので、手で押さえながら頷く。
コンビニの新商品の話から、いつの間にか俺のバイトの話になっていた。
人間関係はいいけど時給は安くて、つい「ひとり暮らしするには金が足りない」とぼやいてしまったのだ。
「千春、ずっとひとり暮らしするって言ってたもんな。何? 盛岡っちは初耳?」
翔真はぎこちなく首を縦に振った。
「え、初めて言ったっけ? 高三の夏くらいからひとり暮らし始めるのが目標」
「千春の叔父さん、淋しがるんじゃねぇ?」
「いや、本当にお世話になっているからこそ、早めに出たいんだ。叔父さんの時間を、ちゃんと返してあげたい」
あれこれ事情を知っている木田は、「そか」と短く相槌を打つ。
「うん。――ん?」
話題を変えようとしたとき、スラックスのポケットの中でスマホが震えた。
取りだして画面を見ると、知らない番号からの着信だった。
――なんだろう?
警戒して出れずにいると、切れた。
「……すぎ」
今まで黙っていた翔真が、ぼそっと呟く。隣にいても小さすぎる声は耳に届かない。
「ん、なんて?」
聞き返すと、翔真は勢いよく顔を上げた。
「──ひとり暮らしなんて、危なすぎるって言ったんだよ! 物騒なことに巻き込まれるかもしれないだろう。何かあったらどうするんだ!」
「へ? え、何? ――ははっ、急に女子高生のお父さんみたいになって、どうしたんだよ」
「……っ、家事とか色々大変だし、やめておいた方がいいよ」
その言葉に俺は手を左右に振る。
「あぁ、ほら、そこは大丈夫だろ。俺、家庭的だから」
俺の家庭の事情は、翔真にも話している。
家事は交代制。けど叔父さんの仕事の兼ね合いで、実のところ夕食は俺の方が作る割合が高い。料理アプリ頼みだけど、叔父さんはよく「店に出せるレベルだぞ!」って褒めてくれる。まぁ、保護者目線だろうけど。
とにかく金さえ貯(た)まれば、ひとり暮らしを始めても大して困らないと思っている。
「あ、手土産持参でなら遊びに来ていいよ」
「…………」
笑いながら冗談めかしてそう言ったけど、翔真が真顔で全然笑っていない。
「……手土産なくても、いいからな」
慌てて訂正したが、翔真は険悪な表情で俺を見つめる。
――だから、なんだよ? その不機嫌な顔は。
すると、木田がすかさず翔真にツッコむ。
「盛岡っちが心配するのは分かるけど、不機嫌になるのは違うだろ」
「……あぁ、分かっているよ」
木田は翔真が不機嫌な理由を何故か分かっていて、窘(たしな)めている感じが釈然としない。
「分かってないじゃん。盛岡っち、本当はどうしたいわけ?」
「…………」
「他の子、好きになるって言ったじゃん」
……一体、なんの話だ?
会話に乗り遅れた。あまりに分からなくて、聞き直す気にもなれない。除け者にするな、と訴えてくる木田の気持ちが少し分かる。
内心で、すまん。と木田に謝っていると、スマホ画面にメールの通知が表示された。タップして開くと、クラスメイトからだ。
「え? なんだろ?」
「千春、どうした?」
「担任が俺のこと探しているって。ちょっと職員室へ行ってくる」
何か提出し忘れていたっけ……と考えながら立ち上がったとき、屋上ドアが勢いよく開いた。
「福地!」
ドアを開けて現れたのは担任だった。わざわざ屋上まで用件を伝えに来てくれたことに、少し驚く。
「先生!? あっ、ごめんなさい。ちょうどメールを見たところで、職員室へ向かおうかと思っていたんです……」
言いながら、担任の表情があまりに真剣で、口元が強張っていることに気づいた。
「え、っと」
思わず笑みを作ったけど、担任の表情は変わらない。
なんだろう、この感じ。……前にも、そんな表情を見たことがあった気がする。
いつ──そうだ、あれは、小学五年の三学期だ。
時間目の休み時間、友達と喋くっていたら、担任が急に、「帰り支度をして」と声をかけてきた。言われるままにランドセルを背負い、昇降口へ向かうと、両親じゃなくて叔父さんが立っていて……。
その記憶がよぎった瞬間、担任がすっと、俺にメモを差し出した。
「福地、ここに書いている病院に向かって欲しい」
「……え?」
「福地の叔父さんが交通事故に遭ったそうだ。詳しい状況は分からない」
「――事故?」
交通事故──その言葉にドッと強く心臓が跳ねた。
肌が粟(あわ)立(だ)ち、冷や汗がぶわっと噴き出す。話している担任の声が、突然遠くに感じられた。
ちゃんと話を聞かなくちゃいけないのに、頭が真っ白で──。
「千春!」
肩を強く掴まれた。横を向くと、心配そうな翔真の顔があった。
「千春、行こう。今、タクシーを呼んだから」
「……っ」
そうだ。病院へ行って、具合を確認しなくちゃ。
しっかりしなくちゃいけないのに、身体が竦(すく)んで動かない。どうやって一歩出したらいいのか分からない。
どうしてこんなに身体がいうことを聞かないのか。視線を落とすと、足が大きく震えている。足だけじゃなくて全身も。
翔真はそんな俺の頭を胸元に抱き寄せ、背中をポンポンと叩いてくれた。
「落ち着け。深呼吸しろ」
「…………」
「息を吸って、吐くんだ」
ぎゅっと瞼を閉じて、翔真が言うように息を吸って、吐く。
「もう一度、ゆっくり」と彼のアドバイス通りに深呼吸していると、手足の感覚が戻ってきた。
震えているが動かせるようになった手で、翔真の胸元を掴むと、ドアが勢いよく開いた。
「――千春っ! 荷物、全部持ってきたぞ! とにかく今すぐ行け!」
木田の手には俺の鞄。
今のあいだに、教室と屋上を往復してくれたのか。
木田は荒い息を吐きながら、それを俺に持たせると、ぐいと腕を引っ張る。
「俺も自転車で追いかけるから! 多分病院内には入れないけど、病院の前で待ってるよ!」
「千春、俺も付き添うよ」
病棟には、身内と関係者しか入れない。
それでも、付き添うと言ってくれるふたりの存在が、何より心強かった。
「……急いで、行くよ」
足が動くようになり駆け足で屋上ドアを開ける。こんな状況だから担任は注意せず、「気をつけて」とだけ言った。
一気に階段を下りて校舎を出る。翔真が呼んだタクシーは校門の横に到着していた。
翔真も一緒に同行してくれ、俺の代わりに運転手へ行き先を伝えてくれる。
「はぁ……」
車内でただ座っていると、どうしても叔父さんの安否を考えてしまう。また怖くなって震えていると──そっと大きな手が背中に触れた。
翔真がゆっくり撫でてくれている。
そのぬくもりを感じているうちに、タクシーは病院の前へ到着した。
タクシー代は翔真が立て替えてくれ、俺は彼に力強く手を引かれながら、車を降りた。
そこまでは足が動いていた。なのに、いざ病院に入ろうとすると、足がすくむ。心臓がぎゅっと縮こまり、視界の端がじわりと滲む。
「……やっぱり、怖い」
すると、目の前がまた真っ暗になり始め、翔真が遠くで俺の名前を呼んでいるように聞こえた。そこから記憶が途切れ途切れになり、気づけばベンチに座らされていた。
包み込むように身体に腕を回され、優しく背中を撫でられている……。
「千春」
力強く名を呼ばれ、俺はゆっくりと顔をあげた。
そこにいる翔真は、顔を歪ませ心配そうに瞳を揺らしている。
「千春、辛いのなら無理する必要はない。俺が様子を聞いてくる」
「……っ、俺、だめだめ、で……」
「全然そんなことはないよ。千春は駄目じゃない」
その言葉に涙が溢れてきた。
俺の手をぎゅっと掴むその強さ。任せろと態度で示してくる。心強くて、気持ちが落ち着いてくる。
俺は、ずずっと鼻を啜(すす)った。
「……な……なぁ? 病棟の入り口まで……付いて、来てくれる?」
震える声で言うと、翔真が頷く。
「あぁ。そこまで行けるか?」
「……うん。すごい、心強いよ」
また鼻水が出そうになっていると、ズボンのポケットでスマホが鳴った。画面を見ると、知らない番号からだ。
このタイミングでの着信に身体が強張る。
何か悪いことを知らせるものだと思ったら、着信に出ることに躊躇(ためら)ってしまう。
見かねた翔真が「俺が出るよ」と俺のスマホを手に取って、代わりに出てくれる。
「もしもし」
「…………」
「えぇ、こちらは千春くんの携帯で間違いありません。――え? えぇ……いえ、俺は千春くんの友人で……はい」
無意識に翔真の制服の裾を掴む。
「はぁ……、そうでしたか」
緊迫した声で話し始めたが、徐々に気が抜けたような声になる。そして、翔真は俺を見て、苦笑いする。
暗さのないその様子に、強張っていた身体の力が抜けた。
「翔真――もしかして」
翔真はひとつ首を縦にして頷き、「千春くんに代わりますので」と言ったあと、俺にスマホを差し出した。
「もしもし、福地千春です――」
受付で案内された病室にノックして入ると、「はーい」と気の抜けるような声が聞こえる。眉間にシワが寄りそうなのを、指で押さえて揉みながら、俺は病室のドアを開けた。
真っ白い病室、白い仕切りカーテン、そこに馴染みの細身の中年男がにこやかに手を振っていた。その姿に、溜息を吐く。
「……無事でよかったよ。叔父さん」
「いやいや、無事じゃないからね!? ほら、見て右足骨折しちゃったよ」
そう言って、ギプス固定されている右足を指さした。
「トラックが突っ込んできたんだよ!? 乗っていた車なんて、ぺちゃんこに大破してるのに、僕は足一本だけ。頑丈すぎる。自分にリスペクトしてしまったよ」
「……そう」
九死に一生を体験したと、きゃっきゃしている。いつも通りの元気さに、溜め息を吐いた。
「はぁ……もう、どれだけ心配したと思ってんの」
学校で叔父さんが交通事故に遭ったと聞いたときには、目の前が真っ暗になった。さらに過去のことまで思い出して、大パニック。
不満タラタラ、ねちねちと文句を言うと、叔父さんは「そっか〜ごめんごめん〜」と軽い相槌を返してきて、なんだか脱力する。
サイドテーブルに突っ伏すと、叔父さんがポンッと俺の頭に手を置いた。
「ここまでよく来れたね、千春。頑張った、怖かっただろう」
「……うん」
頷くと、ちょっと涙が出てくる。この短時間で脳みそが上下に揺さぶられ過ぎた。涙を制服の裾に吸わせて、鼻を啜る。
叔父さんにこの齢で泣き顔を見られるのは恥ずかしいので、涙が止まるまで顔は上げられない。
「……でも、俺だけだったら、きっと耐えられなかった。友達が病院に着くまで傍にいてくれて、着いてからも、俺の代わりに状態聞いてきてくれるって言って……本当に、助けられた」
「へぇ? 木田くんは男前だねぇ」
木田はよくうちにも来るので、当然叔父さんも知っている。
「木田にも感謝しているけど、今話したのは別な奴」
「さっきの電話の子かな。いい友達じゃないか」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「うん。本当にいい奴なんだ」
「千春はその分、友達を大事に出来るといいね」
叔父がたまに見せる保護者面をしたとき、病室のドアが開いた。
入ってきたのは、初めて見る顔だった。柔らかな雰囲気をまとった、穏やかそうな中年女性だ。
彼女は俺の方を向くと、ほんのり照れたように微笑み、軽く頭を下げた。俺も慌てて頭を下げ、それから短い会話を交わした。
彼女は叔父さんが働いている会社――の隣にある花屋で働いているのだという。仕事の合間に慌てて来たらしく、そんなふたりの仲を想像するのは容易(たやす)い。
「じゃ、俺は一度帰るよ。夜に荷物持ってくるから」
「うん、ありがとう」
「……ゆっくりしてね」
お邪魔虫だと思った俺は、早々に病室を後にしてナースステーションで軽く説明を聞いて、病院を出た。
「――千春!」
「……ふたりとも」
病院前のベンチに翔真と木田が座っていて、俺を見ると立ち上がった。
翔真は電話で叔父さんの様子を聞いたはずなのに、俺のことを心配して待ってくれていた。
「叔父さん、無事だったよ」
改めて状況を説明すると、ふたりは表情に安堵を浮かべる。
「そっか。なんにせよ、命にかかわる事故じゃなくて、安心したよ。はぁああ~、俺、自転車パンクしたから自転車屋に寄ってくるわ……」
自転車のタイヤがパンクするくらい必死にペダルを踏んでくれた木田を想像する。小学生からの幼馴染は友人想いだ。そういえば、一緒に登校するようになったのも、両親が亡くなってからだった。
色々込み上げて来て、その背後から、がばぁっと抱きついた。
「俺、ガチで木田のこと大好き。ありがとう!」
「ふっ、愛され木田くんの魅力にすっかりメロメロのようだな」
明日は学食の一番高いメニューを奢りたまえ。そう強(ね)請(だ)ってくるあたり、いかにも木田らしいが、それくらいはお安いご用だ。なんならデザートも付けてやる。
「ふっ明日も元気に来いよな」
木田はそう言って、自転車を押しながら手を振り、その場を後にした。
その背中を見送ったあと、停車しているタクシーが視界に入る。翔真に立替えてもらったことを思い出して、急いで代金を返した。
「いいよ」
「いいよって、いいわけないだろう。はい」
翔真の手の平に強引にお金を押し付けて、返却されないように掴んだ手の上から自分の手をぎゅっと握る。大きい手だ。
――この手に凄く支えられた。
「ありがとう。翔真」
「当たり前だろ」
「……うん」
「いつだって頼りにしていいから」
その言葉に胸打って、目尻が熱くなる。
ぎゅっぎゅっと感謝の気持ちで、手を握った。それから顔を上げて、翔真を見つめる。
「大好き。翔真がいてくれてよかった」
「…………」
木田にも同じように言ったのに、キャラが違うせいで若干恥ずかしさが込み上げてくる。それをへへっと笑いながら誤魔化していると、大きなその手が俺の髪の毛をわしゃわしゃと乱雑に扱う。
文句も今日という日は何にも出てこない。
やられっぱなしでも、へらへらしていたら──彼の額がコツンと頭にくっついた。そして、ゆっくりと腕が俺の身体に回される。
「え……えぇ、翔真!? ちょっと、おい。こんな場所だぞ!」
いや、そういえば、パニックが起きた時も、ここで抱きしめられていたっけ!?
けど、さっきとは違う。今はもう平気だ。
「翔真ってば!」
翔真の横腹を軽く叩くと、何故かもっと力強く抱きしめてくる。
「ぐ……っ、ぐえ、ぐるじぃ」
潰れたような声を上げると、翔真はようやく身体を離した。
一体なんだよ、とその顔を覗き込もうとした瞬間──彼はまた、俺の髪の毛を両手でぐちゃぐちゃにしてくる。
挿絵②
「わっ、さっきから――」
「見守るだけなんて……、そんなのとっくに無理だった」
「何?」
「ふっ、ははは……」
肩を震わせて笑っているが、面白さが伝わってこず、頬を膨らますと、ぷっと指で頬をつつかれる。文句は今日のうちは我慢……。
「はは……それにしても、小腹が減ったな。千春、今からマッグに行かないか?」
「お。翔真が誘ってくれるのって、初めてじゃん。あ、木田、まだ近くにいるかな? 誘ってみる?」
「あぁ」
木田にメールをすると、自転車屋の近くの店なら徒歩で行けるとすぐに返事がきた。
そこで期間限定バーガーを三人で頬張った。
六.親友にむらむらしています。
高校三年、翔真と木田と俺はまた同じクラスになった。
クラスメイトは、木田と俺との間に翔真がいることが意外だとよく言っている。二年の頃より翔真の笑顔が多くて、これがまた意外なんだそう。
本人に直接聞いてみると、「柔道部の奴らとつるむことが多かったから、気を張っていた部分もある」と言った。そのあとすぐに「多分」と付け加えていた。
振り返っても、自分の態度なんて分からないだろう――が彼の本音らしい。
とはいえ、二年の半ばくらいから翔真は分かりやすいくらい変わった。
ひとつは、翔真は恋人を作らなくなった。完全フリーだ。
俺はその話に触れないけれど、女子たちが噂していたのを聞いたことがある。
どんな美人からの告白や誘いにも、きっぱり断っているって。
これまでの彼とはまるで別人のようで、今の翔真には、付け入る隙がまったくないらしい。
〝恋愛する時間がない〟〝本命の彼女が出来た〟など、彼をめぐる憶測も様々に飛び交っている。
そして、変わったことがもうひとつある。
「いらっしゃいませ~」
「千春」
「おう、翔真」
翔真がよくうちのコンビニを利用するようになったのだ。
俺がシフトに入っているときは、必ずと言っていいほど顔を合わせている。
それで翔真がレジに持ってきたのは、明日学校で食べるお菓子だ。「お菓子はコンビニで買うよりスーパーで買った方が安いぞ」と声をかけたこともあったが、「スーパーよりコンビニの方が近い」なのだそう。
それから――……、
「送っていくよ」
「……今日も?」
「あぁ、店の外で待っているから」
翔真は、俺のバイト帰りに送ってくれるようになった。
今年の四月ごろ、近辺で変質者が出るという噂が立った。それ以来、こうしてまめに送ってくれるのだけど――俺、男だし。
だけど、断わろうとすると、頑固な翔真が現れる。
彼は俺の脇に手を入れるや、ひょいと持ち上げ「こんなに軽ければ、どこかに連れ込むのも簡単だ。なぁ、だろ?」と脅すようなことを言うのだ。
この齢で、幼児のように〝たかい、たかい〟をされるのは本当にキツイ!
ゴリラみたいな馬鹿力は翔真以外にはいないと反論したが、俺の意見は聞き入れられない。
さらにその場所が教室だったから、当然人目もある。クスクス笑うその声が耳に入り、羞恥心に降参してしまった。
「……なぁ、翔真」
「ん?」
「送ってくれんのは嬉しいけど、無理すんなよ?」
翔真はターコイズブルーの格好いいクロスバイクを手押ししている。俺の家まで送り届けたあと、それに跨って帰るのだ。
こっちは翔真と一緒にいて楽しいし、断る理由は何もない。けれど、彼は部活も勉強もあるだろうし、俺の都合を優先されるのは気が引ける。
「好きでこうしていることだから」
「紳士だねぇ、翔真の爪の垢を煎(せん)じて飲めば、俺も女子にモテるのかなぁ」
「千春はそのままがいい」
「あらん、やだ。嬉しいわ」
ふざけていると対向車がやってきて、翔真が俺の肩を掴んで道の端に寄せる。何気ないところでも男前。
俺と木田なら、対向車が来ても「やべ」「よけろ」って互いに言って終わり。
二年のころ、〝男子たち〟って一括りにされた理由がなんとなく分かってしまう。
――ぽつ。
「ん?」
俺たちが同時に空を見上げた瞬間、土砂降りの雨が勢いよく頬を叩いた。
数秒間、翔真と見つめ合い、そして勢いよく駆け出した。俺の家まで、もうそれほど距離はない。
「おぉおおお、雨の中の猛ダッシュ! 青春ドラマっぽいなぁ⁉︎」
「千春と木田って、変なところでテンション上がるよな」
「うぉおおおおお!」
バイト疲れでテンション下がっていたけれど、猛ダッシュに次第にテンションが上がってくる。それに、運動部でもない俺が全力疾走出来るぎりぎりの距離に家があって本当にありがたい。
玄関に着くや、ぜぇぜぇと息を揺らしながら、しゃがみ込む。
「走ったあと、すぐにしゃがむなよ」
背後で翔真が言った。振り返ると、その表情はケロッとしたものだ。流石(さすが)、現役。体力が全然違う。
「じゃ、帰るから」
「ちょーっと待った。この大雨の中、帰らせるなんて鬼畜じゃねぇか。寄っていけ」
「いいよ。この雨はすぐには止まなさそうだから、さっと帰った方が早い」
帰ろうとする翔真のクロスバイクのハンドルを掴む。
「なら、泊まっていけ。客用布団くらいあるし」
「……いや、突然のことで悪いから」
「遠慮の塊か。事故にでも遭われたらこっちは堪らないって」
何も考えずに言った言葉だけど、翔真は表情を強張らせた。俺の両親のことや叔父さんの件を思い出させてしまったのだろう。
「悪い」
翔真はちっとも悪くないのに謝ってくるから、デコピンをする。
「泊まり決定な」
有無を言わさず、俺はクロスバイクをカーポートに突っ込み、翔真を家の中に招いた。
「はい、これ。タオル。あと着替えのスウェット。叔父さんが買い間違えたLLサイズ。マジ新品」
翔真に着替えを持たせたあと浴室へ向かい、せっせと湯を沸かす。脱衣場で突っ立ったままの彼に「とりあえず服脱げよ」と声をかける。
「……あのさ、千春の叔父さんは?」
「あ、気を使わなくていいよ。今日叔父さんは恋人のところに泊まっているから」
叔父さんは恋人がいるというのに、つい最近まで外泊なんて一切しなかった。俺を気にかけてくれて嬉しいけど、そういう気遣いはやめてもらった。
「ほら、風呂に入れよ」
振り向くと、気まずそうな顔があった。
「ん?」
「…………」
翔真は無言のまま、濡れた服を脱ぎ始めた。筋肉が盛り上がった逆三角形の格好いい背中だ。後ろからぼんやり見ていると、彼は振り向いて「スケベ」とじろっと睨んで、浴室に入っていった。
「……スケベって」
案外デリケートなんだなと思いながら、自分も濡れた服を脱いでまとめて洗濯機に入れて回す。
それから浴室のドアをガラッと開けると、身体を洗っていた翔真の背中が大袈裟な程、跳ねた。
「――俺が入っているのに、なんで入ってくるんだ!? 正気か!?」
「えぇ、正気かって何? 俺も濡れたままで冷たいし、男同士なんだから一緒に入ればいいじゃん。柔道部の合宿とかでも共同風呂だろ?」
何をそんなに動揺しているのかと首を傾げると、翔真は口を一文字にして下を向く。それからシャンプーボトルをプッシュして荒々しく頭を擦り始めた。
「そんな強くしたら頭皮痛んで、将来ハゲんべ?」
「俺がハゲようとスキンヘッドにしようと、千春には関係ないだろう」
「何怒ってんだよ。驚かせて悪かったよ……んじゃ、詫びに千春くんが洗って差し上げようではないか」
乱雑に動く手を掴んで、彼に代わって泡立つそこを柔らかく洗っていく。
「っ、な、にやって……」
「おー、意外。髪質、結構柔らかいなぁ」
偉そうなこと言ったけれど、人様の髪の毛を洗うなんて初めてだから勝手が分からない。指圧っぽいのをすればいいのかとすると、むすっと不機嫌な声で「痛い」と言われる。
「……千春は何も分かってない」
「へーへー、そうですか。こんなことするの、初めてなんだからしょうがないだろう。お客様、お痒いところはございませんか~?」
折角だからシャワーまでかけてやる。ちょっと小憎らしい反応だったから美容師みたいなサービスじゃなく、上からザーザーかけまくる。
「はーい、終わりでーす」
シャワーノズルを元に戻し、声をかけると、翔真は顔を上げ、濡れた髪の毛を掻き上げた。
鏡越しに不機嫌そうな翔真と目が合って、空気を誤魔化すように、俺はにかっと笑う。
「さっぱりした――だ、ろ……」
ちょうど、翔真が振り返ったので、思わず語尾が弱まった。
盛り上がった胸筋、シックスパックの腹部、無駄のないライン──まるで彫刻みたいだ。
そういえば体育の着替えでも、翔真はいつも俺に背を向けていた。だから、逞しい背中しか知らなかった。
この体躯が俺と同じ年だなんて……。
「うわ、えげつな……」
思わず呟いた言葉に、翔真の額に太い血管が浮かび上がり、すぅーっと目を細めた。
――どうやら先ほどからお怒りのご様子です。
思わず脳内の呟きが敬語になってしまうくらいに、威圧感のある睨みだ。正直、その身体つきにもビビッている。
「人の身体、まじまじ見るな」
「そんなこと言ったって、風呂だし。見ないなんて難しいだろ」
「……あぁ、そう」
突然、翔真は思いっきり俺の手を掴んで引いた。
「おわっ」
あまりに強く引かれたせいで体勢を崩し、ごつい肩にしがみついてしまった。
「あ、ぶな……って、ん? なんで俺の腰をホールドしてるんだ?」
がっしり、俺の腰に太い腕が巻き付いている。
何だ?と顔の向きを変えると、翔真はボディーソープのボトルをプッシュし、ソープを手に馴染ませていた。
「えっ、何? 俺のことを洗うつもり?」
「されたらやり返す」
「ごめんって。そんなに嫌だとは思わなかったんだって――ば、わっ!?」
大きな手が、俺の腰をそっと撫でた。
それは、やけに慎重な触れ方で、ぴくんと腰が跳ねる。
なんで、そんな触れ方? ……まさか、仕返しにくすぐりを!?
「へ……。く、くすぐったいの無理っ。マ、マジで弱いんだって。脇腹をちょっとツンされるだけで、大笑いしちゃうもん――わははっ」
言っているそばから、脇腹を撫でられて、笑いが出た。
「って、早速、脇腹を狙ってくるな!」
やめてもらおうと弱点を打ち明けたのに、逆効果になってしまった。
「しょ、翔真くんってば?」
「洗わせろ」
洗わせろって? やけに意固地になっている。
けど、どうしよう。翔真にとっては、俺の抵抗なんて赤子の手をひねるようなものだ。腕の太さも俺の倍はあって、敵(かな)いっこない。
――これは、我慢して耐えるしかないのか……!?
「ソ、ソフトタッチはくすぐったいから、我慢出来ない。せめて、強めにしてっ!?」
洗い方を強めにって言っただけなのに、翔真は俺の腰をもっと強く引き寄せる。驚いてまたしがみつくと、まるで担がれているみたいな体勢になった。ぴったりと肌と肌が密着している。
「えぇ?」
一緒に風呂に入るのは嫌なのに、裸でひっつくのは平気なのか? 謎すぎるだろう!?
頭の中が疑問符だらけになっていると、大きい手が俺の足裏から洗い始める。むずがゆくて耐えられない
「ひゃははっ、足裏、無理!」
足をばたつかせると、その手が足首に移動する。
次は、ふくらはぎ、膝、太もも……。
「お、……わ」
ゆっくりと上がっていく感触に、くすぐったさとはまた違う何かを覚える。なんか──、
いやらしい……。
「……しょっ翔真! お前の手――ひゃん」
止めようとしたら、思いっきり変な声が漏れた。ひゃん、は、恥ずかしすぎるだろう。
「わあっ! 今のはナシ! 聞かなかったことにしてくれ」
「…………」
「おい、仕返しなら、もう充分すぎるだろう!?」
ほんの一瞬、翔真の手は止まった。だが、ホッとする暇もなく、また動き始める。太ももの付け根は、まずい……。
「や、べ」
ぞくぞくが止まらなくて、自分の手をぎゅっと握った。ただのおふざけなのに……!
──身体が反応しちゃった!
「……元気だな」
「……っ」
当然、密着している翔真には、俺の下半身の変化なんてバレバレだろう。
「うぅうう~。シャレになんないって」
もう一度、足をばたつかせると、翔真はあっさりとホールドしていた腕の力を弱めた。チャンス!とばかりに、勢いよくその身体から離れる。
「……え」
途端、強い視線とぶつかって、胸がぎゅっとした。
な、に?
……なんで、そんな目をして……。
それに、いつも見ている翔真とは違う? どこか切なげで、色気のような気配が漂っている。濡れた髪、ひそめた眉、熱の籠った頬……。
「千春」
「……っ」
張りのある声で自分の名を呼ばれ、息を呑む。触れられていないのに、電流みたいなものが全身を駆け抜けた。
「触ってやろうか?」
「触る? ふわっ、え!?」
翔真の手が俺の下半身に伸びてきて、その言葉の意図に気付く。──というか、翔真も興奮して反応している!? 一体、どうしてそ(・)う(・)なった!?
「ななな……なんで、翔真まで!?」
「折角だから、触り合いするか」
「触り合い!?」
──どういうこと!?
「俺はいいって、うわ!」
焦って逃げ出そうとした瞬間、石鹸でぬるついた床に足を取られ、滑りそうになった。咄嗟に翔真の腕が伸び、俺をしっかりと支えてくれる。
「あっ、ぶな……」
「気をつけろよ」
「っ!」
唇がくっつきそうな至近距離に翔真の顔があって、ぎょっとする。
すると翔真は、ひょいと俺の腰を掴み、そのまま膝の上に座らせた。そっと抱き寄せられ、彼の身体の熱さに息が詰まりそうになる。
「触らせて」
「…………っ」
さっきと違ってホールドは強くない。
なのに、俺は動けなかった。火照ったような雰囲気に包まれて、ただ、その手が俺に触れてくるのを呆然と見つめていた。
◇
ちゃぷん。触り合って互いにすっきりしたあと、俺はそそくさと、身を潜めるように湯船に身を潜めた。
「俺は先に出るけど、千春はしっかり湯船に浸かってくれ」
「――お、おう。い、や、……なんか……、うん、分かった」
「家庭の一般的な風呂に男ふたりは狭すぎるって」
なんてことを言いながら、翔真は先に浴室から出ていった。
言われた通り、俺は肩まで湯に浸かり、いつもよりもずっと長く湯船にいた。指がふやけているのを見て、そろそろ出ようと立ち上がる。
浴室のドアを開けた途端、ふと何か忘れている気がした。
あれ……、翔真を部屋に案内してない。
ハッとして、慌てて服を身につける。脱衣所を飛び出すと、廊下の壁にもたれて、翔真が立っていた。
そりゃそうだ。初めて来た家でうろつくなんて、普通はしないよな。
「す、すみません。家の中の案内を忘れておりました」
長湯したので、かなり待たせてしまった……!
「はは。なんで、敬語?」
翔真は笑いながら、俺の首にかけているタオルに手に取った。髪にそっと押し当てて、水気を吸わせる。
「雫がたれているぞ。怒らないし待ってやるのに」
「おぉ、ど、どうも」
――翔真って無骨そうなのに、意外だ。
思いがけない優しい手つきに戸惑っているあいだに、脱衣室へ戻される。
「千春って雑だよな。俺がドライヤーで乾かしてやるよ」
雑――というか、翔真の触り方が丁寧すぎるんだ。
そう感じるほど、俺の髪の毛を乾かす手つきはゆったりとして、柔らかいものだった。
「よし、ふわふわ」
丁寧なケアに、俺の髪の毛はふわ、ふわ、としている。
「ありがとうございます」
「いやなんの」
鏡越しに翔真を見ると、目も口元も柔らかく緩んでいる。風呂に入る前はむすっとしていたのに、今は鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌だ。
その様子を見ていると、胸の辺りがざわつく。
変な気分を振り払うように、「こっち」と少し大きめの声を出した。
「翔真、ついてきて。俺の部屋まで案内するから」
「あぁ」
リビング、トイレ、他の部屋の扉は開けないでと言いながら、二階自室に向かう。
「ここが千春の部屋か」
六畳の部屋には、机とベッド、それから本棚。あんまり物を置いていないので面白みがない。
「千春の匂いがする」
「俺の匂い……へぇ?」
臭かったら嫌だなと、消臭スプレーを持った。金(きん)木(もく)犀(せい)の香り。だが、スプレーを吹く前に腕を掴まれた。何故か翔真の目に力が入っている。
「金木犀の香りはいらない」
「そう? じゃ、ミント」
「消臭剤の類(たぐい)はいらないから」
何故だか強く言われる。そういえば、以前翔真は無香料派だって言っていたっけ。
「分かった。じゃ、客用布団用意するから」
そう声をかけて隣の部屋から客用布団を持ってくると、翔真は布団を敷くのを手伝ってくれる。
そうこうしていると、時刻はすっかり0時を超えていた。俺たちは大して雑談することなく翔真は布団、俺はベッドに入って横になる。
おやすみと互いに言い合って、部屋の電気を消した。
「……………………………………」
────え。
二時間遅れて、いや、実のところ、寝静まるこのタイミングまで〝ええぇぇぇえ〟の衝撃を我慢していたのだ。
目を閉じると――フラッシュバックするあれやこれ。
筋骨隆々の腕、盛り上がった肩、厚い胸板、上下する大きい手、濡れた音、肩にかかる吐息、熱い肌……。
『千春……』
まっすぐ俺を見つめる翔真の目。
思い出すだけで、心臓の奥から何かが叫び出しそうになる。
──なんで、こんなにドキドキするんだ。
ざわつく胸を手で押さえながら、こっそり眠っている翔真を見つめた。
黒い髪、黒いまつ毛、高い鼻、形のいい唇……。
寝顔だからさっきみたいにいやらしいわけじゃない。なのに─―動(どう)悸(き)が治まらない。
それどころか、胸が締め付けられるような苦しさまで覚えてしまう。
え。
七.ポップコーンはキャラメル味。
今年は値上げラッシュに、どんどんスナック菓子が内容量を減らしている。
チョコレートがかかった甘くて細くて、カリカリとしたスティック菓子。こちらも例外ではない。
「――だからさ、翔真。これは俺にあげるのではなく自分で食べなさい」
俺が飲んでいるのはブラック珈琲、この甘いスティックが何より合うことを知っているが、NOと断わった。
コンビニの新商品も去年に比べると結構値段が上がっていて、レジかごにポンポン入れていくと、三千円は軽く飛ぶ。
「そういうわけで、値上げなので。これから俺は菓子断ちをするよ」
「ひとりで一箱もいらないし、一緒に食えばいいだろ?」
「のんのん、帰りに食べなさい……」
ツンツン。
翔真はホッキーの先っちょを俺の唇にあて、軽くつつき始めた。
値上げなど全く気にしない彼は、俺の言うことなど無視だ。
――くちばし……つんつん。
ふわっと俺の脳裏に前世が思い浮かぶ。
ふくろうの俺が木の上でのんびりしているところに、エサを持ってきたふくろうの翔真がやってきて、くちばしで受け渡しするのだ。それから俺はふわふわの翔真にぴったり寄り添って……。
――まさか、ホッキーつんつんで、くちばしの感触を思い出すとは。
ふくろうの給餌っていうのは、求愛行動でもあり、前世ではそれはもうこまめに餌を持って来てくれたものだ。
「俺の指が千春の口に押し込むまであと、5、4、……」
勝手にカウントダウンを始めやがった。もし強引に突っ込まれれば、ホッキーでもかなり痛い。
「……分かったよ。一本もらうから」
手を出すと、翔真が俺の口に咥えさせたそうな雰囲気をしていた。今更ながら、その行動は前世の名(な)残(ごり)なのか?
そして、翔真は不服そうな顔をして、ホッキーを手のひらに置いてくれた。
俺は小さく口を開け、それをカリカリと小さく噛んで飲み込んでいく。一本食べ終わっただけで喉の渇きを覚えた俺は、ブラックコーヒーを一気に飲み干す。
「いつもおふたりさんは、イチャイチャしてんな」
「…………」
俺の横の席に座る木田は、さして興味なさそうに呟いた。イチャイチャ……いつもなら右から左へ流れる言葉もどこか引っ掛かりを覚える。
「……木田、そのジュース飲んだ? 俺のゴミと一緒に捨てといてやるよ」
「おー、ありがと」
木田から空き缶を受け取ったとき、翔真はジュースを一気に飲み干して、俺の手から空き缶を奪って立ち上がった。
「そういえば、職員室に来いって言われていたから、ついでに捨てといてやる」
「おう? そうか……、どうも」
翔真は三本の空き缶を片手で掴むなんて余裕で、もう片方の手で俺の頭をよしよしと撫でた。彼が動くとき、何人かの女子の視線も同じように動く。
用事がなくなった俺は脱力し、だらぁ~っと足を前に伸ばした。
「ん? 千春、なんかおかしくね?」
「心の友には分かるかい?」
木田は腕を組んだが、二秒後には「分からん」と、考えることを放棄した。
「もっと君の脳みそに俺を留めておいてはくれないかい。淋しいぜ」
「うん。やっぱりおかしいかな?」
「…………」
俺も自分のおかしさを自覚している。
いつ、どこで、なんでおかしくなったのか──それは、もう明白だった。
十日前、突然の大雨で翔真がうちに泊まった夜。
もっと言えば、翔真と風呂に入り、彼に身体を触られて、気持ちよくされてからだ。
あの日から、どうしても翔真のことが頭から離れない。
ふとしたときに、あの浴室でのことばかり脳裏に浮かぶ。生々しい肌の感触まで……。
あまりに気持ちよすぎたから? だから、頭から離れないのだろうか。
「あっ、声!」
木田が急に大声を出すので、身体が小さく飛び跳ねる。
「声って何?」
「今度、俺の推しアイドルちゃんが、アニメの声優するんだよ! 魔法少女キャラでさ、んもう俺のときめきが止まらない!」
「…………あ、そ」
声といえば――、浴室で、俺ってば、翔真に触られて変な声を出しちゃったっけ。
思い出したらげんなりする。男の低い声だし、気持ち悪くなかっただろうか。
けど、そういえば、翔真は全然萎(な)えていなかった。興奮した表情は雄度が増し、どこか怪しい色気を漂わせていた。女子ならもう色気だけで虜になってしまうんじゃないかってくらい。平常時とのギャップがまた、凄い。
『千春』
その顔で俺の名を呼ぶのは、衝撃が強すぎて、胸がずっとざわざわしている。
「――木田よ。俺は今、十代の多感な時期特有の悩みを味わっているのかもしれない」
「何その悩み方、格好いいな」
「まぁな、真似してくれてもいいぞ」
大きく溜め息を吐いていると、翔真が教室に戻ってきた。休み時間はもう残りわずかだったため、彼はこっちには来ず、自分の席に座った。ちらりと俺の方を見て頷いたので、俺も頷き返した。
◇◇◇
「いらっしゃいませ~……おう」
「おう」
今日も翔真はコンビニにやって来た。また明日のおやつの菓子を手に持つ。バター醤油味のポテトチップス。俺の好きなやつ。
レジ前に立つ翔真が、軽く微笑んだ。強(こわ)面(もて)が表情を緩めると、空気まで柔らかくなる。
一瞬、見惚れてしまって、ぎゅっと顔に力を入れる。
「何、変顔?」
「……お買い上げありがとうございます」
「いつも通り、外で待っているから」
翔真は買ったポテトチップスを持って俺に背を向けた。
自動ドアが開いたとき、外からの湿気の籠った風を感じた。
翔真は平然と店の外で立っているけれど、今日みたいな熱帯夜は、外で待つのは暑いはず。なのに、相変わらず、バイトが終わるころに迎えにくる。
落ち着かない気分で時計に目をやると、ちょうどバイトの終了時間になっていた。
俺は裏でシフト表を作っていた店長に声をかけ、スティックアイスを二本買った。
「お待たせ」
「お疲れ」
ん。っと、俺は翔真にアイスを差し出した。
「くれるのか?」
「うん。溶けないうちに食べよう」
「ありがとう。ちょうどそんな気分だった」
そう言って翔真は、アイスに豪快にかぶりつく。それを横目に、俺もアイスを口に含んだ。冷たさが舌の上で広がって、暑さを一瞬忘れてしまう。
「帰ろうか」
アイスを食べたあと、どちらからともなく言い合った。
翔真がクロスバイクのハンドルを握り、スタンドを足で軽く蹴る。カチャッという音を合図に歩き始めた。
対向車も人も誰もいない。虫の声さえ聞こえなくて、ちょっとした沈黙が気まずく感じられた。
「……なぁ翔真、映画館で食べるポップコーンは何味が好き?」
「唐突だな。……そうだな。オーソドックスな塩味がいいな」
分かると深く頷く。万人受けする塩味は勿論俺も好きだ。
「俺の一番の好みの味は、キャラメル。けど、映画館のポップコーンは量が多くてさ。アレって、ちょっと摘まめたらいいんだよね。――というわけで、買うのはチーズかバター醬油かな」
「シェアしたらいいだろ」
その言葉に、思わず眉間にシワが寄った。それは、シェアする相手がいるモテ男の発言だ。
さっさと話題を変えようと、次はおにぎりの具アンケートを取る。そうしているうちに、うちの茶色い屋根と白壁が見えて来た。
「俺は梅干し。……また明日な」
「うん、翔真。いつもありがとう」
「あぁ」
大きい手が俺の方に伸びてくる。
ぽんと柔らかく頭に乗せられた手が、軽く髪の毛を梳くように、撫でる。
「…………」
いつもと変わらない手つき。でも意識すると、こんなにも優しいことに気づいてしまう。
挿絵③
ふ……と胸の奥に温かい灯がともった。
そういえば、叔父さんが事故に遭ったとき、この手に支えられた。
混乱していたけど、ずっと翔真が背中を撫でてくれたことは覚えている。あのとき、どれほど心強かったか。
「なんか、とてつもなく、安心する……」
「ん?」
「──あっ、ごめん! 声に出た!」
ぽろっと出た言葉に動揺し、手で口を押さえる。
「千春にそう思ってもらえるなら、嬉しいよ」
「おっ、おのれ……、イケメンめ。包容力を見せつけて来るな……!」
悪口は出てこず、ただの褒め言葉を伝えると、翔真が声を上げて笑う。それから、くしゃっと俺の髪を撫で回して、その手はゆっくり離れていった。
──凄く柔らかい顔。
あれ……翔真って、俺のことをこんな風に見ていたんだ。
色々──当たり前のものとして、受け入れてしまっていた。
「千春、おやすみ」
「お――おぉ、おやすみ」
つい見つめてしまって、顔に熱が溜まっていく。それを誤魔化すように前髪を整えた。
気付けば、翔真はクロスバイクに跨っていた。彼がペタルをぐっと踏むと、あっという間に、その背が遠ざかっていく。
見えなくなった途端、我慢していたように、大きい溜め息が自分の口から漏れる。
ずっと、ドキドキしているんだけど。
ハラハラすることもエッチなこともない。
なのに、翔真が横にいるだけで動悸がする。学校でその姿が目に入るたび、落ち着かない気分になる。
今みたいに触れられたら、心臓がどうにかなりそうで――。
「俺……」
玄関先でしゃがみ込み、頭を掻いた。
「やっぱり、好きなのかなぁ」
好きと言う言葉に同意するように心臓が熱くなって、親友への恋を自覚した。
◇◇◇
みーんみんみん……。
夏の暑さにセミだって朝しか鳴けない。
まともに動ける午前中、学期末の大掃除が始まっていた。
学校の中庭を掃き掃除している最中、翔真に声をかけられた。
みんみんみん、と蝉の声がそこら中から響いて、十歩程離れた距離にいる翔真の声は搔き消される。
「え」
みんみんみんみん……。
もう一回聞き直しても、聞きとりにくい。耳に手を添え、聞こえないジャスチャーを大袈裟にみせると、翔真は大股でこちらにやってきた。彼の足なら五歩だ。目の前に立つと、さらに腰を曲げて、俺の顔を覗き込んでくる。
あ、近い。
翔真の顔を覗き込む行動はずっと以前からで、前はなんともなかったのに、今は激しく心臓が主張してくる。
「ポップコーン、シェアしよう」
翔真は一言一句はっきりと口にした。その目は妙に鋭く、睨んでいるように見える。
だけど、それが翔真の真剣な顔だと知っている俺は、やや疑問を残したまま頷いた。
「いいよ。たまには奢ってやるよ」
「じゃあ、夏休みのバイトのシフト、あとで俺にメールして」
翔真はポケットからスマホを取り出し、何かを入力し始めた。すぐに俺のスラックスのポケットに突っ込まれたスマホが震える。
スマホを手に取って確認すると、翔真が通い始めた塾の夏期講習の日程が、メールで送られていた。
翔真は受験組で、今年の夏は柔道ではなく勉強に専念するらしい。
一方の俺はというと、叔父さんの勤め先で就職の内定をもらっていて、どこか呑気なものだ。
この夏も、バイト三昧の日々を送る予定でいる――のだが。
「えーと?」
何故、俺に塾の日程を送り付けてくるのだろう。俺のバイトのシフトを聞いてくる意味も分からず、首を傾げる。すると翔真が口元を緩ませた。
「千春の仕草、ふくろうの前世を思い出す」
あぁ、ふくろうも首を傾げるからね。人間の首はあんなに傾かないけど。
「観たい作品、選んでおいて」
「…………」
「キャラメル味、シェアしよう」
観たい作品。――つまり、俺は映画館に誘われているってこと!?
まさか映画だとはつゆ知らず、安易に頷いてしまった。心臓を太鼓の棒で叩かれたくらい、ドォンと大きく鳴る。
そういえば、いつぞやのバイト帰りに、映画館のポップコーンを話題にしたっけ。
「そんなこと……よく覚えているな」
「まぁな、楽しみにしてる」
翔真が俺の頭をよしよしと撫でていると、ゴミ袋を引きずった女子が通りかかった。彼は俺から離れて駆け寄り、ゴミ袋を代わりに持って集積所へと向かった。
みんみんみんみん、と辺りが煩いのをいいことに、俺は小さく「無理でしょ」と呟いた。
手を動かせ~。と校舎から担任の声が飛んできたので、手にある竹ほうきを動かす。
――やっちゃった。
好きだと自覚したところで、男同士だ。
今まで翔真の恋人を何人も見たことがある。性格も見た目も派手めな女子が多かった。
俺が翔真と恋愛。――それが出来る要素なんてこれっぽっちもない。
実のところ、翔真と距離を置いて離れることも考えた。けど、同じクラスだし、残りの学校生活を考えると、しんどい。変な亀裂を生むくらいなら、そのままでいいと自分で自分を納得させている。
「翔真、教室へ戻ろ」
掃除道具を片付け終えると、ちょうど翔真が戻ってきたので、そう声をかけた。
「ゴミ袋持ってあげるの、紳士だねぇ」
「重そうだったから。当然だろ」
「そうね~」
へらっと笑って、たわいない会話をしながら、教室へと戻る。
扉をくぐると、翔真が「ポップコーン忘れるなよ」と声をかけてきた。
う。と声が漏れそうになるのを、苦笑いで誤魔化しながら席に座る。
スマホを持ち──七月、八月……都合を思い出しながら、予定表を見た。
バイトのシフトと翔真の夏期講習の空きを照らし合わせて、八月の第一土曜日が一番都合がいい。なら──、
【奢るから、映画へ行かない?】
困った時は木田頼み。早速彼にメールを送った。
実にいい案だ。木田と冗談を言い合っていれば、変な雰囲気にもならないはず。映画館のあと、ゲーセンや服を買いにいくのもいいな……。
「悪い。その日、推しの握手会なんだよな」
次の休み時間に、木田が俺の席に来て、そう言った。
「あ、握手会……?」
「指折り数えて楽しみにしているんだぁ」
よりによって、握手会。木田の推しアイドルへの情熱は強火なので、適うわけがない。
「何? そんなに俺のこと誘いたいわけ? あ~、でも、盛岡っちは千春に対して強引なウザいお父さんみたいになるからな。たまにひとりで反省はしているけどね。嫌なら断れば?」
「分かった。日程が合わなかったってことにするわ」
スマホを胸ポケットから取り出して、断りの文面を打とうすると──木田に手を掴まれる。
「早っ! もうちょっと真剣に迷ってやれよ!? 映画館でポップコーンをどうしても食べたい盛岡っちの気持ちも考えてやれ‼」
「え、どっちだよ」
「俺は、どっちとも友達なんだよ!」
あぁ、お名前、友一だもんね。友人想いだもんね、いい奴だよ。そりゃまぁ知っている。
「考えろ、ねぇ」
言われた通り、翔真とふたりっきりで映画を観る想像をする。
映画の上映中、翔真がポップコーンを指で摘んで俺の口元に運んでくる。俺もつい癖でそれを頬(ほお)張(ば)る。口が飽きないように、塩味とキャラメル味を交互にしてあーんしてくれるだろう。
そして、その指で彼もポップコーンを食べて……。
――映画どころじゃない。
心臓に負担がかかりすぎる。
俺は無理をしないスタイルだから、早めに決断してメールを打つ。映画はやっぱり断った。
「千春」
放課後、教室から出ようとしたら、翔真に呼び止められた。
教室ドアの前、とうせんぼ。
俺の後ろにいた木田は空気を読んで、「俺、先行くわ~」と反対側の教室ドアから手を振って出て行った。
他のクラスメイトも、俺と翔真のこういうやり取りにはすっかり慣れっこだ。木田に続いて、みんなも反対側の教室ドアから教室を後にした。
翔真は、何かあれば自然と頼られるタイプで、気づけばみんなが彼を頼っている。そんな風に周囲の信頼を集めるからこそ、些細なことは、自然と彼の融通に合わせてしまうのだ。
――些細っていうのは、俺のことなんだけどね。翔真が〝ウザいお父さん〟になるのは俺にだけだし……。
あっという間に教室の中がもぬけの殻になると、翔真は口を開いた。
「千春に日程全部合わせるから、一緒に映画館へ行こう」
「は? 日程、全部?」
それはつまり、メールで見せてもらった夏期講習の都合より、俺の都合を優先するってこと。
……夏期講習って馬鹿高いんだぞ。親御さんが泣くぞ。それとも日時に融通が利く塾なのか? 休んだら別の日に振り替えられるとか……。
「どうしても千春と行きたいんだけど、駄目か?」
「……い」
――いやって言え。
ふたりっきりで遊びに行けば、もっと友達とは思えなくなる。
言い訳ならシフト以外にもあるだろう。興味ある映画が上映されていないとか、他にやりたいことがあるとか。
なのに……翔真が、俺を優先してくれて嬉しいとか思ってしまう。
「千春、なんか顔が赤くないか」
「……っ!」
翔真が俺の頬に手を伸ばしてくるので、反射的に後ろに下がった。
「あっ、えっと……いや、顔が赤いとしたら、暑いのかなぁ、はは……大丈夫。なんでもないから」
しどろもどろに答えたからか、翔真は目を細めた。
「そういうわけで、映画はキャンセルで」
「いや、どういうわけだよ? ……千春、最近俺に対して距離があるよな」
「……う」
「それって、……風呂場で触ってから、だよな?」
どうやら、俺のポーカーフェイスはバレバレだったようだ。
当(あ)たり障(さわ)りのない返答を頭の中で必死に探す。俺が翔真のことを好きなことは隠し通さなきゃ。
……だろ。だって、翔真は女子が好きなんだから。
いつかの夕方、翔真は恋人と並んで歩いていた。あんな風に自分がなれることはないんだから。
俺はただの――……。
「俺のことが気持ち悪いか?」
翔真は声を低くして呟いた。その逆だよと心の中でツッコみして、笑顔でその場を乗り越えることにした。
「いやぁ、はは、そんなわけないでしょ! 男同士なんだからさ。翔真はなんでも気にし過ぎなんだよ」
「千春のことは気になるだろ」
「あ~、あ〜……」
真正面からみつめてくる黒い瞳。ここ最近、この瞳は揺れなくて真っすぐだ。視線の強さにじわっと手のひらが汗ばんでくる。
頬を指で掻きながら、誤魔化しきれなくて一部分だけを伝える。
嘘じゃないから、これで納得してくれ。
「き、気持ち悪いだなんて、本当に思ってないよ。翔真のことをそんな風に思うわけないだろ……ただ、俺、人に裸を触られるのとか、初めてだったんだよ。自分の声や反応とか思い出したら、恥ずかしくなって。変な態度とか取っちゃったなら、そのせい。だからさ、もうな、追求するのは勘弁して……」
自分の気持ちがバレないギリギリの範囲を探りながら言葉を選んだ。声は震え、動揺を隠しきれていない。
至近距離の視線に耐えきれず、ぎゅっと瞼(まぶた)を閉じる。
わずかな沈黙のあと、「そっか」と翔真が静かに言った。
「……ごめん。もう聞かない。顔を真っ赤にさせるようなこと、聞き出して悪かった」
「…………」
瞼を開けると、翔真が俺の前髪をサイドに流し、汗を軽く拭ってくれた。さっきの圧も、ない。
どうやら、今の俺の不自然すぎる様子が、逆に説得力を持ったみたいだ。
「あー……、今の五分間の俺ってさ、必死すぎてダサすぎるよな? 映画を断られただけでこれだよ? 恥ずかしすぎるよな」
同意を求めるような視線に「確かに」と頷く。
すると、翔真がぐしゃぐしゃと髪の毛を撫でまわしてきた。
「ダサくて悪かったな!」
翔真はじゃれついてきて笑う。空気がふっと緩み、和やかな雰囲気が広がった。
「…………」
思わず、じっと見つめてしまう。
今、気遣いの気配がした。
翔真は、わざとふざけて雰囲気を和らげてくれたんだ。強引で、自分の意見を押し通したいときは梃(て)子(こ)でも動かないくせに、ちょっと俺に気を使うところがある。
いつからか……と考えて、叔父さんが事故に遭ったときからだと思った。
それは翔真が人一倍庇護欲が強くて、困っている奴を放っておけない性分だから。もし──、
「翔真」
今、俺が翔真のことを好きだって言ったら?
「ん、何?」
「…………」
もっと気を使わせるのだろうか。それとも同情して優しくしてくれるのかもしれない。
……そんなのは、嫌だな。
「……千春、俺に文句があるって顔をしてるぞ。ちゃんと聞くから、話し……」
翔真が言い切る前に、廊下から女子の声が飛び込んできた。
「翔真くん。よかった! まだ教室にいたんだね」
教室ドアのすぐ前にいる翔真は、振り向くだけで相手が分かったが、俺は誰だと一歩身体を右側に寄せた。
そこにいるのは、二組の百(もも)瀬(せ)さんだった。
腰まで伸びた髪の毛に大きな瞳、王道の美少女。誰かが、学年一可愛いと噂していたっけ。
「あ、……こんにちは」
百瀬さんは俺がいることに気づいて、静かに頭を下げた。それから、長いまつ毛を上下に揺らしながら、翔真に視線を移す。
「私、翔真くんと一緒の大学を受けることにしたの。今日の放課後、一緒に勉強とかどうかな?」
同じ大学、一緒に勉強会? しかも、ふたりっきり?
百瀬さんはどこから見ても美少女だ。翔真に向けるはにかんだ笑顔は、さらに輝きが増す。まさに恋する女子って感じだ。
彼女が翔真のことを好きなのは、一目瞭然だった。
「百瀬さん、見れば分かると思うけど、今取り込み中だから」
「えぇ!?」
翔真の言葉に、ぎょっとする。
この甘酸っぱい空気を邪魔なんてできっこない。いたたまれない。
「いやいや、何言ってるんだよ!? 俺のことはもういいよ。百瀬さん、ごゆっくり~」
「全然、話が終わってないだろ」
「可愛い子優先だよ、ね!」
邪魔者は立ち去ろうとしたのに、翔真が俺の腕を掴む。その手を離そうとしたが、何をやっても離れない。馬鹿力め。
「えっと、確か……福地くん、ですよね? よかったら一緒に勉強しませんか?」
「いやいや、俺は邪魔するつもりないんで!」
俺が断っている横で、翔真も「俺も千春に用事があるから」と言葉を被せてくる。
すると、百瀬さんの表情はみるみる陰り、唇の端を震わせ、瞳を潤(うる)ませた。
今にもその大きな目から涙が出そう。女子を泣かせることへの拒否感からパニックになる。
「あぁっ!? え、えぇっと──そう、小テストあるって数学の先生言ってたなぁ!? 俺も復習しようかな!?」
……なんて、口走ってしまった。
ふたりも否定すればいいのに、「なら、一緒に」「そうか」と頷いて、流れるように自習室で勉強することが決まった。
――それで、四人掛けの長机の席で、翔真を真ん中にして座っている。
運がいいのか悪いのか、自習室は貸し切り状態だ。
「翔真くん、ごめんね。ここちょっと分からなくて」
百瀬さんが声を潜めて、隣の翔真に質問する。
翔真は問題を少し見て、ノートに分かりやすくメモを書き、口頭でも簡単に説明した。強面なのに、対応は親切丁寧。
「ふふ……そっかぁ、翔真くんって、やっぱり教え方凄い上手。すぐに分かっちゃった」
彼女が声を潜めるのは自習室だからっていうより、翔真だけと話したいから。
居心地の悪さに気分が沈んで、予習しようと開いた教科書を読んでも右から左に流れていく。
「福地くん、辞書を貸してくれないかな?」
その声に反応して、教科書から顔を上げると、百瀬さんとしっかり目が合った。――これは合図だ。
俺は今、辞書を持っていないことを彼女は知っている。
教室に取りに行って。そしてそのまま戻ってこないで。──その瞳が、静かにそう告げている。
「……分かった。教室から取ってくる」
「千春、それなら俺が」
「いーよ、いーよ。勉強組はしっかりやって」
ひらひらと手を振って立ち上がって、自習室を出た。
そのあとすぐに「翔真くん、私……」と百瀬さんの声が耳に入った。
その声は緊張を含んでいて、鈍感な俺でも告白が始まるのだと分かる。だから、早足でそこから離れた。
昇降口に向かっていると、C組の女子たちがぞろぞろと連なって駄弁りながら歩いている。
「あのぶりっ子、盛岡くんに告白したのかな。無駄なのにね」
「今、盛岡くんって本気の子以外は無理なんでしょ。生涯寄り添いたい相手がいる――だっけ? ギャグなのか本気なのか分からないよね」
「本気っぽいよ。盛岡くんに告白した子からそう断られたって聞いたもん。他の男子ならウケるけど、盛岡くんが言うとキュンとくるよね」
――へぇ、いいなぁ。
その話、本当か嘘かは分からないけど、心の底から羨ましい。
嫉妬と羨(せん)望(ぼう)が土砂崩れのように襲ってくる。
高校に入って、翔真のことを沢山知った。
おせっかいで、心配性で、強引で……でも困ったら、頭の中で翔真の顔を思い浮かべる。むっとするときもあるけど、今、思い浮かぶのはいいところばかり。
……知らなかった。俺って、翔真のことが、こんなにも好きだったんだ。
心の奥底に積もっていた感情が溢れ出して、居ても立っても居られなかった。
一刻も早く雑音から離れるために、廊下の角を曲がったところで全力疾走した。
「こら、廊下は走るな!」
先生に注意されたのを無視するなんて、多分小学校低学年ぶりくらいだけど、構わず、走った。靴を履き替えるためだけ、止まって、また走った。
校門を出たところで体力がつき、走るのをやめた。そこからは家までトボトボと歩く。
息を吸って吐いても苦しくて、胸いっぱいに濁り水が溜まっていくようだった。
八.一学期最後の日。
一学期最後の空には、大きなソフトクリームのような入道雲が浮かんでいた。
けれど、朝方まで降り続いた雨のせいで、運動場はぬかるみだらけ。歩くたびにぐちょ、ぐちょと不快な音が鳴った。
「おーい、最悪だったな。プリントは無事かぁ!?」
二階校舎から木田が運動場にいる俺に向かって手を振る。
担任から配られたプリントを机の上に置きっぱなしにしていたら、扇風機の強風にあおられて教室窓から飛んでいったのだ。
拾いあげたプリントにはべっちゃりと泥が付いていた。読めたものではなくて顔をしかめる。
……あとで職員室に寄って、新たに印刷してもらわないと。
「最悪」
運動場からすぐ出たところのコンクリートの地面で、足をずっ、ずっ、と擦りつけ、靴に付いた泥を落とす。でも、全然取れない。このまま靴を履き替えたら、靴箱も悲惨なことになるのは免れない。
たわしで靴裏の泥を落とそうと、中庭の水道へ向かった。
「――私、あのね」
女子の声が聞こえてきた。
青葉の下、木漏れ日がキラキラ差し込んでいる場所に、女子と翔真がいた。
朝から告白現場。昨日から連続だ。
……あーぁ。
スニーカーの汚れは、もう諦めるか。
「ごめん」
踵(きびす)を返したとき、翔真のはっきりとした声が耳に届き、思わず足が止まった。
「本気じゃなくていいの」
女子はすかさず食い下がったが、翔真のまっすぐな声がその場に響く。
「好きな人がいるんだ。その人以外は考えられない」
ふと、翔真がこちらを向いた。目が合ったような気がして、ぱっと顔を逸らす。背を向けてそそくさとその場を離れた。
逃げ込むように校舎の中に入って、自分の下駄箱に着くと、視界がゆらゆらと揺れる。
「……はぁ」
息を潜めていたことに気づき、息を吐く。
熱くなる目元を腕で擦って、靴を上履きに履き替えた。汚れた靴を靴箱に入れたら、やっぱり靴箱も汚れた。
ブブブ……。スラックスの中でスマホが震える。通知画面を見ると、翔真からの着信だった。それを親指で切り、靴箱に軽く頭をぶつけた。
「おーい」
沈んでいる俺とは対照的に、木田の明るい声が近づいてくる。
「ここにいたのか。終業式が始まるぞ。講堂へ行こうぜ」
「あぁ。……なぁ、木田」
前を歩く木田の背中をぼんやり見ながら声をかけると、「何?」と返事がくる。
「男同士の恋愛って、嫌悪感ある?」
「突然なんだよ? ないよ。好きになったら仕方ないじゃん」
「……お前はそういう子だよね。じゃあ、ネットで知り合った人と遊んだことある?」
「うん。この前SNSで仲良くなった人と一緒にライブに行った」
なんでもそのあと、同士たちで集ってオフ会をしたのだそう。充実したオタ活を聞きながら、俺は別のことを考えていた。
「ふぅん、いいな。俺も出会いを探してみようかな」
「おう、やろうぜ」
木田は深く考えることなく、ただ相槌を打った。
中庭では、生徒たちが講堂へと吸い込まれるように、次々と足を進めていく。
その流れに乗って、俺たちも講堂に足を踏み入れると、木田が「ん?」と首を傾げた。
「えーと? ……どういう意味? 千春はなんの……」
木田の言葉を掻き消すようにチャイムが鳴った。それ以上会話を続けず、さっと整列する。
そのあと翔真が講堂に入ってきた。一瞬、視線が合いそうになったけれど、気づかないふりをして顔を逸らす。
「近年SNSのトラブルが増加しています、夏休みは特に――」
壇上に立つ教師が夏休みの注意を語っているが、何ひとつ頭に入ってこない。式が終わり、講堂から出ると、外は唸るほどの暑さだった。
明日からは夏休み。
――出会いかぁ。
「はぁ、あっつい」
帰宅してすぐ、リビングの冷房をつけて、ソファに身を投げた。やる気が身体から抜け落ちたみたいで、動くのが億(おっ)劫(くう)だ。
それでも腹は空くので、スマホでレシピサイトを覗いてみる。
叔父さんは何が食べたいだろう。暑いし、さっぱりしたものがいいな。
ぼんやり献立を考えていると、玄関から「ただいま~」と叔父さんの声が響いた。
「早かったね、おかえり……」
リビングに入ってきた叔父さんの姿を見て、瞬きをする。
髪の毛をワックスで整え、リネン混のライトグレーのセットアップを品よく着こなしている。
「叔父さん、もしやデート?」
叔父さんはなかなかにイケメンだが、服には無頓着だ。普段はTシャツにスウェットパンツ。色違いをハードローテーションしている。珍しくお洒落をしているからデートだろうか。
すると、叔父さんは苦笑いして、気まずそうに頷く。
もっと堂々と惚(のろ)気(け)ていいのに、甥っ子に中年のおっさんが恋愛ではしゃいでいる姿を見せたくないらしい。
「よかったら一緒に夕食でもどうかな?」
「ううん。俺のことは気にしないでいいよ。夕食とかも適当に食べるから」
そう言うと、叔父さんは「好きなもの食べて」と俺の手にお札を握らせた。
「……いいのに。俺もひとり暮らしに慣れたいし」
握らされたのは万札だったので、驚いて呟く。けど、地雷を踏んだ。弧を描いていた叔父さんの目がすっと厳しいものに変わる。
「ひとり暮らしは許しません。昨日、話した通りだから」
「う」
ぴしゃりと言い切られる。ここで俺が「でも」と言おうものなら、小一時間はくどくどと話が続く。
以前から叔父さんとはひとり暮らしのことを話し合っているが、反対され続けていた。
『叔父さんの家なら、家賃も光熱費もいらない。想像よりずっと出て行くお金が多いんだ。ひとり暮らしを始めるのは、社会に出て充分に貯金が溜まってからにしなさい』
とつとつと諭(さと)されて、叔父さんの言い分も今ではちゃんと理解している。
本当はこの夏からひとり暮らしを始める予定だったけど、高校在学中は断念することにした。
ただ、高校卒業後はすぐに出て行くつもりだ。俺の意志は固く、それはまだ話し合いが続いている。
「とりあえず、今は叔父さんの言うことに頷いておく。彼女さんによろしくね」
「今度は三人で食べようね!」
「はいはい」
申し訳なさそうにする叔父さんを見送りながら、玄関ドアを閉めた。
「うーん、さらにやる気がなくなった」
夕食を作る予定だったけれど、ひとりだと億劫だ。デリバリーを頼む気分でもない。楽に食べられるものはないか冷凍庫を開くと、香味野菜のチャーハンが入っている。
これだけでは足りなさそうなので、もやしを茹(ゆ)で、ナンプラーとマジックソルトで軽く味付けして和(あ)えた。
簡単な夕食をテーブルに並べながら、片手で携帯を持つ。
ん~、と考えて、出会い、男同士、ゲイ、初心者と打ち込みながら、ネットサーフィンする。
「……色々あるんだなぁ」
テーブルに肘をついて、それらを眺めた。エッチ込みみたいなサイトもあるけれど、初心者というキーワードに反応してか、驚くようなサイトはヒットしなかった。
食事・デートだけとか、通話だけとか、初心者でも入りやすそうなサイトが複数ある。
失恋には新しい恋。なんて言葉を聞いたことはある。だけど、出会い系サイトに走るなんて、俺のガラじゃない。
それでも今、どうしようもなく胸が痛くて、虚しい。
恋心を自覚してから間もなくで、〝生涯寄り添いたい人がいる〟だなんて、えげつないダメージだ。追い打ちをかけるみたいに、翔真の口から『好きな人がいるんだ。その人以外は考えられない』なんて聞いて、完全にノックアウト。
このままだと夏休みが明けたときに、翔真とまともに会話なんて出来ない。きっと酷い言葉を投げつけて傷つける。
だから、俺がこういうサイトに逃げたくなるのも、まぁ分からなくもないだろう。……なんて、迷っている自分に言い聞かせながら、その中で一番初心者向けっぽいサイトを登録してみた。
操作は他のいつもやっているSNSと大差なかった。
他のユーザーはどんなプロフィール文を記載しているのか気になって、画面下に出てきたアイコンをタップしてみた。
趣味などの簡単な一文のなかに、タチとかネコとかって書いてある。――これはいわば抱く方と抱かれる方ってことだろうか。
「……う~!」
正直なところ、俺はどちらでもない。翔真を好きなだけで、男に欲情したことはない。
性的なことを考えると、後悔七割くらいあった部分がニョキッと顔を出す。
「エッチはハードルが高い。……そういうの考えたくない。木田に相談すべきだった。でも、頼りにしすぎるのもなぁ、アイツにはアイツの推し活があるし」
顔をしかめて瞼を閉じたら、瞼の裏に木田が浮かび上がり『馬鹿言え、そういうときこそ俺だろ』って言ってくる。
そして、現実の木田も大して相違なく、もっと早く言えよ!と相談に乗ってくれるに違いない。
翔真のことは伏せながら、適当に悩みを聞いてもらって流してもらおう。
年末、木田にはデッカイメロンを贈るか……なんて思いながら、メール画面を開いた。
――ピロン。
突然、メールが届く。出会い系サイトからのメッセージだ。
うぅ……と唸りながら、おそるおそる、通知をタップして──、
「──うわっ、わ、わ!?」
驚いてスマホを手から落としかける。
床に落ちる寸前、なんとかキャッチ出来て、ホッとしながら画面を改めて見た。
簡単な挨拶、それから話が合えば直接会わないか――と書かれている。
文面は丁寧だ。けれど、その添付された画像に、嫌悪感を覚える。
だって、この男、上半身裸……。
本人なのかどうかは分からないけれど、かなり筋肉質の男だ。翔真とは違い、見せるように作られた身体。いい身体だけど、完全に気持ちが萎える。
なんだよ、全然健全っぽくないじゃないか……。
画面越しでも、鳥肌が立ってしまうのに、直接出会うなんて出来そうにない。
ついこの前まで恋愛より友情脳だったんだ。きっとどんなイケメンと出会っても、木田や友達とたわいない話をした方が百倍楽しい。
やめよう。――登録して、たった二分。
早すぎる断念を決めたとき、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「ん、誰だ?」
叔父さんが宅配便を頼んでいたのかなと思い、立ち上がってインターフォンを確認する。
そこに映っていたのは、翔真だった。
「え、翔真? なんで?」
「千春? 突然ごめん。ちょっと話したいことがあって……」
そういえば、学校で翔真からの着信を切ったっけ。それから何のフォローもせず、顔も見ずに帰ってきた。
……家にまで来るなんて。もしかして、何か大事な用件だったのかも。
俺はスマホを握りしめたまま、慌てて玄関へと駆けた。
「――昼間、電話無視してごめん!」
謝罪の言葉と同時にドアを開けると、翔真は少し目を見開いた。
「いや、こっちこそ、突然来てごめん」
「いいよ、何か用事あったんだろ?」
昼間は翔真の顔を見ることが出来なかった。けど、業務連絡ならやり過ごせる。それに学校と違って自分の家だからか、ほんの少し余裕が持てた。
「まぁ、家に入れよ?」
「手土産がない」
「あは、そんなのいいよ。今日、叔父さんはいないしさ。気楽にして」
どうぞ、とスリッパを出した。だが、翔真は玄関には入って来たものの、そこに突っ立ったまま、靴を脱ごうとしない。
「聞いて欲しいことがある」
「ん? あ、ああ……」
改まった様子に疑問が浮かぶ。それに翔真の表情も、どこか緊張しているように見えた。
言いづらい話なのかと、こっちもつい身構えてしまう。
「今日の朝、千春も中庭にいたよな?」
「……いたっけ?」
朝の告白現場のことだ。
それがすぐに分かったけれど、俺はとぼけた。
話題を遠ざけたくて、「リビングに来いよ」と声をかける。なのに、翔真は微動だにしない。
「聞いて欲しい」
やめろ。今朝の中庭のことを俺なんかに話したって意味がないだろう。
「俺が好きな人は」
「いいよ! 聞きたくないから‼」
思わず、声を張り上げた。
「……ごめん」
すぐさま謝り、動揺を隠すように笑顔を作った。でも翔真の表情は硬いまま、ピクリとも動かない。
「急にデカい声出したら、驚くよな」
「…………」
「何を話していたっけ。そう、中庭だ。確かに翔真っぽい人を見かけたよ。でも、俺も急いでいたからさ、何にも聞いてないよ。もしかして、恋愛の悩み? それならさ、翔真と俺、恋愛観が違うから別の奴にしてよ。俺は興味ないかな」
俺が木田に相談したかったように、翔真も俺に悩みを打ち明けたかったのかもしれない。
けれど、翔真の好きな人のことなんて、聞く勇気はない。多分高校生のうちは無理だ。いや、社会人になっても暫く無理。
「木田が……」
「木田?」
「さっき木田から電話があった。千春が同性愛や出会い系についてどう思うかって聞いてきたから変だって」
「……え、と」
頬が引きつった。それを、翔真が見ている。
俺の下手くそなポーカーフェイスなんて、見抜かれてしまう。
じり、と少し足を引くと、彼が一歩を踏み込んできた。それだけで、俺との距離はたちまち消える。
避ける間もなく、スマホを持つ俺の右手が、彼の手に掴まれた。
「その反応、まさかなのか?」
「……っ」
図星過ぎて、言葉が詰まる。
まずい。黙っていても自分の反応が墓穴を掘っていく。
近くで見られたくなくて、右手を上に挙げて振りほどこうとしたけれど、離れない。
「腕、離せよ」
「理由を知りたい」
「こっちは言いたくないって──」
手に力が入っていたせいで、親指がスマホの認証ボタンを長押していた。ロックが外れ、顔の横で画面が点灯する。
翔真の視線が俺からスマホへと移った。その目が大きく見開かれたあと、すぅっと細まり、睨むような鋭さに変わっていく。
「それ」
その声は、今まで聞いたどの声より低かった。
「……男」
「え?」
「それ、出会い系サイトだろ」
手の中のスマホに目をやると、言い逃れようのない画面が開かれていた。
――上半身裸男のプロフィール画面だ。
「あっ! あぁ!? これは、たまたま開いて」
「たまたまで、そんなページを開くのか?」
「っ、どうでもいいだろ――あっ!」
掴んでいたスマホを翔真に奪われる。
取り返そうと手を伸ばしたが、彼は腕を高く掲げてそれをかわした。そのまま翔真は、男から届いたメッセージを読み始めてしまう。
画像に移るその男は、きっと手当たり次第に新規登録者にメールを送るような奴なのだ。
登録したけど、もうやめるつもりだった──なんて言えるはずがない。登録した理由なんか聞かれたら、自分の気持ちまで零れてしまう。
「……知らなかったよ。千春は女じゃなくて男が好きだったなんて」
「ちがっ、違う! とりあえず、それ返せっ!」
ジャンプして手を伸ばすが、それ以上にスマホを持つ手を高く挙げられてしまう。
それならばと、彼の上腕を両手で掴んで、ぐっぐっと下に体重をかけた。
だが、その硬い腕は、俺の全体重をかけてもビクともしない。それに翔真相手に自分から密着したのは失敗だった。完全にボディががら空きだ。
翔真は反対側の手で俺の腰を掴むと、手前に抱き寄せた。その腕の強さは今までと比較出来ないほど強い。
至近距離で、鋭く尖った目が詰(なじ)るように睨む。
「この男と会うつもりか?」
「なっ、なんでもいいだろ! 翔真には関係ないことだから!」
「関係ない?」
腰を掴む腕の力が強まる。ぎくりとして、俺は大きく身体を揺らした。
「……まだ会ってないよな? この男、ただのヤリ目的だ」
「なら、何? 翔真は俺の保護者なわけ? いい加減、うざいんだよ!」
思いきり厚い胸を押し返した瞬間、翔真のホールドが緩んだ。
「う、わ──」
反動で後ろに倒れかけた──が、すぐに彼の手が伸びてきて、しっかりと身体を支えられる。そのまま、玄関の框(かまち)にゆっくりと腰を下ろされた。
「…………」
俺、何やっているんだろう……。
情けなくて下を向くと、翔真が「軽い」と呟く。
「……軽いよ。千春はちっちゃいし可愛いから、嫌がっても強引にホテルに連れ込まれちまう」
「……はぁっ⁉」
ちっちゃくて、可愛い──またからかわれているのかと思い、顔を上げてキッと睨んだ瞬間、大きな影がゆらりと動いた。
肩を掴まれ、視界が反転する。
「え」
気づけば、背中に硬い床の感触。
そして、俺に覆いかぶさるように、翔真が真上にいた。
──獰(どう)猛(もう)で大きな野生動物に襲われている。
一瞬、そう思ってしまうほど、強く突き刺さるような視線が肌を刺す。
「な、なんだよ? ……退けろって」
翔真の変貌に動揺し、喉奥からか細い声が漏れた。
だけど、彼は目を細めるだけ。何も言わず、俺の腹にそっと手を置いた。
驚いて、びくんと身体が跳ねる。ひんやりしていて、翔真の手じゃないみたいだ。
「千春は、男に抱かれるってことが、どういうことか分かっていない」
「な、にを……っ!」
その手が円を描くようにくるりと腹を撫でる。その動きが妙に静かで、どこか不穏で、肌が粟立つ。
「この小さくて薄い身体で……受け止めて、揺さぶられて……」
ここに、と言うように、その手が下腹を柔らかく押す。
「っ」
「千春が男に抱かれる? なんだよそれ――想像するだけで、はらわた煮えくりかえる」
唸るような低い声。瞳の奥に、怒りが囂(ごう)々(ごう)と渦巻いているのが見えた。その目に射貫かれて、思考が止まる。
「千春」
ハッとすると、今にも俺に噛みつきそうな彼の顔が、すぐ目の前にあった。
唇が──触れそうになって、息を呑む。
けれど、触れるか触れないかのところで、彼の動きは止まった。
目が合っているはずなのに、近すぎて焦点が合わない。だけど、今、ものすごく胸が痛い。
「……なんで、抵抗しないんだ」
「なんで、って……」
言葉を詰まらせていると、翔真は視線を下げた。その顔が、ぐにゅっと歪む。
「しょ……」
「なんで……俺じゃダメなんだ」
「え」
翔真は何かを押し殺すように瞼を強く閉じた。ぎりっと奥歯を強く噛み締めた音が、彼の口元から漏れる。
すると――ふっと、覆いかぶさっていた影と体重が消え、翔真は後ろに座り込んだ。
「……翔真?」
おそるおそる上体を起こすと、彼は自分の髪をぐしゃぐしゃと乱暴に掻きむしりながら、「ごめん」と小さく呟く。
「……今の全部、謝る。俺が悪い」
「…………」
「情けなさすぎる。……こんなはずじゃなかった。本当は……千春に好きだって言いたかった。なのに……嫉妬に狂って、責めてさ。……何をやっているんだろう、俺。……本当に最低だ」
翔真は両膝を抱えて、大きな身体を小さく丸めていた。「ダサ」のあと、もう一度「ごめん」と謝る。それから、また、「ダサイ」と呟いた。
自己嫌悪に沈み込むように、その場に蹲(うずくま)っている。その声も小さく、身体は震えていた。
俺はまだ驚きの渦中にいて、呆然とその様子を見つめてしまう。
「……でも、出会い系は危ないから。千春は可愛すぎて心配なんだ。友達としてなら聞いてくれるか?」
そう言いながら、下を向く翔真の目から、ぽろ──と透明の雫が零れた。
「……っ」
「暫くしたら、出て行くから」
ずっ、と彼の鼻を啜る音が、その場に響く。
「…………」
──俺……自分ばかりで、何も見えてなかった。
泣いている翔真を見て、ようやく気付くなんて。
ズキズキと痛む胸を服の上から掴んだあと──俺は思いきり自分の両頬を叩いた。
パンッという音に反応するように、翔真がわずかに顔を上げる。
「翔真」
俺はそっと彼に近寄り、Tシャツの裾でその目元をゴシゴシと拭いた。それから、乱れた髪の毛を手(て)櫛(ぐし)で整え、男前に戻ったことを確認してから、「ごめんなさい」と謝る。
「……傷口に塩。千春は結構えげつない」
「そうじゃなく! ちゃんと告白聞かずにごめん。泣かせて、ごめんなさい!」
「…………」
「ずっと翔真の好きな人は別にいると思っていたんだ。それに恋愛話なら聞きたくないなって。その理由は……、それは」
それまで勢いよく言ったが、肝心な告白では口ごもる。でも、こんな風に翔真を傷つけたのは自分自身だ。
自分を叱(しっ)咤(た)しながら、彼を見つめる。
「翔真のことが、好き……です」
――親友に告白って、照れが凄まじい。
そのせいで、すぐに下を向いてしまう。
だけどいつまで経っても翔真から何も返事がない。長い沈黙に耐え切れなくて、ほんの少し顔を上げると、翔真が飛びかかるような勢いで俺の身体に抱きついてきた。
ぐえっと潰れるような声が、自分の喉から漏れた。なのに、もっと強く抱きしめられる。感激の抱擁なのかと思いきや……、
「え?」
翔真の言葉から驚愕の声が出る。どうやら、反射的に俺を捕獲したようだ。
「ち、はるが……好き? 俺を?」
翔真は確かめるように呟いたあと、「幻聴?」と疑問を口にした。けれど、抱き締める腕の力は少しも緩まない。
状況は飲み込めないのに、離したくないという彼の気持ちが伝わってくる。そっとその背中に手を回す。
疑われるのは嫌だった。だから今度は、はっきりと強く言った。
「俺、翔真が好きなんだ」
「……っ」
すんなり伝えられたことに安堵していると、密着したその身体から、心臓の強い鼓動が伝わってきた。
俺と同じくらいうるさい音……。それが嬉しくて、ほわほわしていられたのは、ほんの数十秒ほど。
ますます強くなっていく腕の力でそれどころじゃなくなる。「ギブ、ギブ」と横腹を叩くと、若干腕の力は緩まった。若干ね……。
まぁ、赤くなった顔を見られなくていいか――と、暫くそのままでいた。
「ずっと千春だけが特別だった」
俺を抱き締めたまま、翔真がそう呟く。
それからは、堰(せ)き止(と)めていたものを一気に放出するみたいに「凄く、好きで。離したくないくらい好きで。もう本当に好きで」「本当は離れようとしたけど、無理だった」と言葉を続ける。
先ほどまで親友だった男の好きの大パレードに身体がむず痒くなってくる。
「……う」
――俺、そんなにすぐに恋愛脳へチェンジ出来ない。
いたたまれなくなってきて、身体を捩(よじ)り、翔真の口を手で塞いだ。
「翔真よ。気づいているか、ここは玄関土間だ」
「……気づいてはいるけど、この機を逃すわけにはいかないので」
「逃? ……いや、部屋に入れよ」
「…………」
翔真はちょっと考えて「それも、そうだな」と今度は素直に頷いた。ようやく立ち上がり、リビングに通す。
「リビングではなく、千春の部屋で話したい」
「いいけど、なんで?」
「……リビングは共同空間だし」
部屋に行きたいと言う翔真は、先程と違い、すっかりいつもの様子だ。
「ん~? まぁ、いいけど。じゃ、ジュース持って行こう。ちょっと待ってて」
俺は食べかけの夕食にラップをさっとかけて冷蔵庫に入れた。それからコップに注いだジュースを手に持って、翔真とともに二階の自室へと向かう。
「久しぶりの千春の部屋だ」
部屋に入ると、翔真はしみじみと呟いた。深く息を吸っている彼を横目に見つつ、ジュースを机に置いた。この部屋にはそんなに変わった匂いがするのだろうか。
「適当に座って――」
机にある読みかけの本をざっと片付けて、振り返った。
その瞬間、背後から翔真が身を寄せてきて唇を奪われた。軽く、ちゅっとするやつ。
突然のことで、ぱち、ぱち……とまばたきをする。
「え、はや……流石、ヤリチン」
「……ヤリ……千春と初めてのキスをしたあとに言われたのが、その言葉か。ショック」
翔真ははぁ~と溜め息を吐いて、大袈裟に肩を落とす。
申し訳ないが、なんせ俺は恋愛経験ゼロ。
「翔真さん、でも今の、俺のファーストキスですよ。いかがですか」
「……テンションが上がります」
「それはよかったです」
だけど、それを伝えるべきではなかったのかもしれない。
どうやら、彼のテンションを上げすぎてしまったようだ。二回目のキスは数秒後にやってきた。
しかも濃いやつだった。唇とか甘噛みされて、舌が口の中でいっぱい動くやつ。離れても、またすぐにくっつく。今度はなかなかに離れない。
――これは初心者用じゃないだろう!?
パンパンと厚い胸を手で叩いて休憩を挟もうとしたが、口の中を動く舌に翻(ほん)弄(ろう)される。
そして、叩いていた手は、胸元を弱く掴むだけになった。
そのうち足に力が入らなくなり、ガクガク震えてくる。すると、ふわっと足が床から離れた。縦抱っこされてのキス。
ますますくらくらしていると、急に体勢が楽になった。なんてことはない、ベッドに押し倒されたのだ。
シャツに忍びこむ手の熱さに、うっとりしていた意識が少し起き上がる。
首を横に振れば、自分たちの口元から唾液の糸が引く。なんて卑猥なんだと翔真の口を手で押さえて止めた。
「はぁはぁ……ヤリチンめ。手が早い……」
彼の口元に置いていた手は力が入っていなくて、すぐに退かされる。
「なら、キスだけ。もう一回」
すかさず三度目のキスを強請ってくる男の目が血走っている。息も荒いし、初心者の俺を気遣う余裕もない。
「キス、だけ?」
「もう一回、頼む」
滅茶苦茶、必死な様子に胸がぐっとくる。おねだりはずるい。
「まぁ……俺はケチじゃないから、いいけど」
俺の方から、翔真の頬に唇を押し当てて音を立ててキスする。遊び半分のやつだったのに、目の前にある目がギラギラし始める。
「やり返す」
「……え、へ? たかがほっぺチュー……」
わしっと両頬を掴まれて、これまた息を荒くした翔真に唇を奪われる。
ほっぺチューは千倍になって返って来た。濃厚で激しくて、意識全てがキスに持っていかれる。
「うう~」
やばい、キスってこんなに気持ちいいのか。
文句を忘れるほど、キスの気持ちよさに流されていると、自分の身体が興奮して反応してしまう。
「気持ちよくなってきた?」
はふ、はふ、と息をしながら、至近距離の翔真を睨む。
おのれ、コイツ。確信犯だろう。恐ろしいヤリチンだ。
呆れて物も言えないでいると、「どうしようか?」と選択肢を与えられる。にまにましていて腹が立つ。けれど、とりあえず今は……、
「……優しくしてくれ」
そう、お願いするのがベストに思えた。
「善処します」
翔真は満足気にそう答えたあと、ふっと笑顔が消えた。
肌がぴりっとするほどの真剣な表情。翔真はハッとして一度、笑おうとしたけれど、口元が歪んで苦笑いになった。
そのまま、また真顔に戻って、俺の服を性急に剥(は)ぎ取(と)っていく。顎や首筋に這う唇はやけに熱い。
唇だけじゃない、手も身体も視線も全部熱くて、変になりそうだ。
「……はっ」
翔真は俺の身体のあちこちに触れていく。背中やふともも、膝裏、それこそ、自分では全く触らない身体の内側まで。
性急だけど、とても優しい触れ方だった。きっと手加減をしてくれているのだろう。その証拠にあっさりと彼の手は止まった。
「ごめん。これ以上は進まないから」
言っていることと、欲望を孕んだ表情が合わない。
飢えた獣みたいな荒々しい息が頬に当たって、ぞくっとする。
「けど、いつか、抱きたい」
「……っ」
ぐっと息が詰まる。
「俺、千春が好きすぎて、ずっとおかしいんだ」
興奮して真っ赤になっている目で見つめられて、破裂しそうな胸の音がした。
翔真を好きだと自覚したきっかけは、この熱視線だ。
それに射貫かれて、ときめいたら、あとは数(じゅ)珠(ず)つなぎのようにあれもこれも気になって、友達から好きな人に変わるのは、すぐだった。
けど、俺、今まで――こんな翔真は、知らなかった。
「千春、好きだ」
切なげな表情に、ぎゅん、と全身が高まる。
電流が身体に走るみたいな快感が一気にのぼり詰めて、果ててしまった。
◇
「風呂……、入る?」
「……あぁ。借りてもいいか?」
互いにすっきりしたあと、室内にはどこかぎこちない照れが残っていた。
そそくさと風呂場に向かうと、翔真は前回と違ってあっさりと一緒に入った。
俺は湯船に浸かり、翔真は身体を洗う。
目の前にある筋肉隆々の逞しい身体をじっと見つめていると、最中の翔真を思い出す。
雄々しい雰囲気で、情熱的だった。翻弄されて実感が持てずにいたけど、じわじわと自分の痴(ち)態(たい)を思い出す。
――俺、変な声を出していなかったか?
恥ずかしくなってきた。翔真に気持ち悪く思われていないだろうか。なんだか、不安になってくる。
「千春、前に寄って」
身体を洗い終えた翔真が、そう言って後ろから湯船に入ってきた。
振り返ると、彼は鼻の下を伸ばして、デレデレしている。
あ。これ、大丈夫なやつだ。
見たことないくらい上機嫌な翔真を前に、呆気に取られていると──彼はキス待ちだとでも思ったのか、俺の唇を、パクリと食べた。
……湯船の中でするディープキスはのぼせることが分かった。
「――じゃあ、またな」
「うん……また」
翔真が帰り支度を終えたのを見届けて、玄関先まで送り出す。
風呂場でもずっと、ぎゅうぎゅうと抱きしめられていたせいか、俺の顔にはまだ熱が籠っている気がする。
それに、翔真の甘い雰囲気が、いつまで経っても抜けない。なんというか、シロップでもぶっかけたんじゃってくらい、甘い。
落ち着かなくて、ぐぬぅっと顔を歪めてしまう。
「……千春」
玄関ドアを半分開けたところで、翔真は振り返った。
「何? なんか忘れ物?」
「現世でもよろしくお願いします」
「…………」
至って真剣な表情でそう言う翔真に、照れが出てふざけたくなる。が――、
「こちらこそよろしくお願いします」
と、真面目に返事をした。
◇◇◇
「木田、こっち!」
新学期が始まる前、俺と翔真は木田を喫茶店に呼び出した。
俺たちは少し早めに店内に入り席についていた。あとから来た木田に手を振ると、外の唸るような暑さにやられたのか、彼は席に着くなりメニュー表で顔を仰ぎ始めた。
「あちー……ん?」
木田はソファ席に横並びに座る俺たちを交互に見る。
「ん~距離感、空気感……どういうこと?」
俺には空気感やらは分からないけど、木田はいつもと違う雰囲気を察したようだ。元々、その報告をしたくて呼び出したから、話を切り出しやすくて助かった。
「千春と付き合い始めた」
翔真の方から伝えると、木田は目を細めて大層不愉快そうな顔をした。ケッと言いながら口元を歪ませる。
「リア充撲(ぼく)滅(めつ)!」
「俺は、木田のこと好きだけど」
「俺は大好きだけど」
「……総愛され目指しています。おふたりさん、よかったね」
木田は不(ふ)貞(て)腐(くさ)れながら言っているけど、翔真の相談係を務めていたのだそう。
俺の鈍感さに板挟みになっていた――とか。
そんな感謝の気持ちもあってか、翔真は木田に一番高いパフェを奢っていた。メロンがのっているやつだ。
「御馳走様! いやぁ、メロン旨かったなぁ」
店から出て、しっかり食べた木田の機嫌は、俺たちに笑顔を向けるまでに回復した。
「じゃあね、また新学期にな」
「うん」
手を振って木田の背を見送っていると、その目の前で、おばあちゃんが食材が入ったエコバッグを落とした。
木田はすぐに反応して、道端に転がった野菜を追いかける。
俺も手伝おうとした、そのとき──、
おばあちゃんの近くにいた茶髪の青年が、すっとしゃがみ込む。そしてふたりは手際よく、落ちた野菜をエコバックに詰め直し、おばあちゃんに手渡した。
「おばあちゃん、これで全部かな? 気をつけてね~」
ほっこりする光景に目を細めていると──突然、青年が木田の手を握った。
「あの……どこかで、会ったことありませんか?」
「ふえ? えぇ、いやあ、人違いですよ?」
「僕が分かりませんか?」
木田は首を左右に振って、握られている手を離そうとする。だけど、男の方は声を明るくして言った。
「前世でお会いしましたよね」
まさかの前世。
木田は「気のせいです! 会っていませんから!」と全力疾走で、その場を去っていく。
あっという間に小さくなる背中を見ながら、俺と翔真は顔を見合わせた。
九.翔真から見た千春。
「現世でもよろしくお願いします」
千春との交際が始まって、たった二時間。この言葉を出す俺は、なかなかに重い。
醜態を晒しまくった告白のあとで、するりと本音が出た。焦った。けど──、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
千春から返事をもらえた。
そして、福地家から数歩離れたところで、その場にしゃがみ込む。
明日からも続く関係だと思うと、ぐあああ~と言いようのない何かが込み上げてきて、髪の毛をぐっちゃぐちゃに掻く。
うっれしい。
恋人。……千春が、俺の。
その実感を早く感じたくて、キスもしたし、抱き締めて、触った。ずっと千春が欲しくて我慢していたから、自分でも驚くほど手が早かった。
俺はそういう意味で千春が好きだって、それを千春は分かっているのかって、確認したかった。
どこまでなら、俺が触れてもいいのか……。
「……っ」
蹲りながら、唇の端にきゅっと力を込める。
……千春は、俺が触っても嫌がっていなかった。
心臓がまだ強烈に跳ねていて、口から出そうだ。
『こちらこそ』『よろしくお願いします』そう言ってくれる千春を脳内で何度もリピートしてしまう。
余韻に、身体の奥がじんじん震える。
ふ──、突然、付近の光が消えた。動かなくなったせいで、家前のセンサーが反応しなくなったらしい。立ち上がると、また灯りが点く。
……流石に人ン家の前で蹲っているのは不信すぎる。
足早にその場から離れようとしたら、ジーンズに入れっぱなしのスマホが揺れた。
それは数分前に別れたばかりの千春からのメールだった。
「珍しい……」
思わず声に出るほど、な(・)い(・)ことだった。
千春は連絡が全くまめじゃない。既読スルーは当たり前。次の日で間に合う用件なら、送らなくてもいいと思っているところがある。「昨日くれたメールのことなんだけど」ってちゃんと忘れず次の日に声をかけてくれるところは、変に律儀。
そんな面倒くさがり屋が、メール……?
まさか……恋人になるとマメになるパターン?
恋人になると、こんな特典もついてくるのか?
たった一通のメール。でも、千春からとなると、浮かれまくってしまう。落ち着かない気持ちで、スマホを覗いた。
【翔真、財布忘れているぞ】
「…………」
本当に必要な用事だった。服を脱いだときに、千春の部屋に置きっぱなしにしてしまった。
幸い、彼の家からまだ数分の距離にいる。
取りに戻ると打とうとして、やめた。
【明日、取りに行く】
そう打つと、すぐに返事がある。
【今くらいの時間でもいい?】
【うん。また明日】
よしっと内心で叫ぶ。
予定表に千春の名前がある。それだけでも猛烈に浮かれてしまう。
「……ははっ」
きっと、飛び跳ねそうに浮かれるくらい、俺が千春のことが好きだなんて──千春は気づいていないだろうな。
俺が千春を好きになったのは──、
『どうも、前世でツガイだった者です』
千春にそう声をかけられる前、講堂に入る手前のクラス発表の掲示板だった。あのとき──俺は千春に見惚れていた。
後になって、それが一目惚れだったと分かった。
そうとも気づかない当時の俺は、ただ千春と仲良くなりたくて、友達になった。
くったくのない笑顔も、冗談ばかり言っているところも、素直なところも、何気ない仕草も──全部が気になって、好きになって、気づけば、ずぶずぶと彼に嵌っていた。
千春に視線が縫い付けられたように、彼ばかり追いかけてしまう。
日に日に、胸が締め付けられるような切なさが募っていく。それだけなら、見ているだけでよかったなら……傍にいられると思った。
けど、俺は性欲まで一緒に覚えるようになった。
友達なのに。
千春が俺のことを意識していないのは手に取るように分かった。だとしたら、俺の存在は恐怖でしかないだろう。友達に性的に見られるなんて、おぞましすぎる。
頭では分かっているのに、どうしても彼が欲しい。抱き締めて、キスして、自分だけを見て欲しい。
そんなことばかり考える自分が何かのバケモノみたいに思えた。
だから、気持ちを瓶に詰めて蓋をして、必死に誰かを好きになろうとした。千春を傷つけないために、遠ざかったつもりだった。
けど、分かったのは……。
「ずっと、千春が忘れられなかった」
手をぎゅっと握りしめた。
あのとき俺は──諦めないことを決めた。
◇◇◇
――千春が、ひとり暮らしをする。
それを聞いたのは、高校二年の二学期が始まってすぐの頃だった。
千春と木田とはクラスが離れてしまったけれど、顔を合わせれば自然と寄り合って喋る。
その日も、たまたま購買の前ですれ違い、「久しぶりに三人で昼食食べない?」と誘われて、三人で屋上へ向かった。
昼飯を頬張りながら、三人でたわいない話で盛り上がる。
コンビニの新商品、バイトの話──そして、千春が溜め息交じりに呟いた。
「ひとり暮らしをするには、金が足りない」
その言い方には、前々から決めていたような響きがあり、木田は既に知っていたらしい。
よく働くとは思っていた。でも、まさかひとり暮らしを考えていたなんて……。
「千春、ずっとひとり暮らしするって言ってたもんな。何? 盛岡っちは初耳?」
なんとも言えない焦燥感が、じわりと胸に広がり、そして──、
「ひとり暮らしなんて、危なすぎるって言ったんだよ! 物騒なことに巻き込まれるかもしれないだろう。何かあったらどうするんだ!」
気付けば、声を荒げていた。
案の定、千春はきょとんとしている。俺の反応が意外だったらしく、目を丸くして、首をかしげた。
それを見て、頭から冷たい水を浴びせられたような気分になった。
――そうか。千春の、ほんの少し先の未来に、俺はいないんだ。
幼馴染で休日も遊ぶ木田と違って、俺は学校以外での接触を避けていた。必要以上に連絡も取らない。
際限なく好きになりそうで、それが怖かったから。
だけど、今のまま高校を卒業したら、千春とは滅多に会えなくなるだろう。その事実が、胸にのしかかって、背筋が凍り付く。
「盛岡っち、本当はどうしたいわけ?」
木田の言葉は、迷いのど真ん中に突き刺さった。
傷つけないように離れたい。でも、離したくない。その矛盾を、ずっと抱えていた。
けれど──答えを出すどころではなくなった。
「福地の叔父さんが交通事故に遭ったそうだ」
慌ただしく屋上にやってきた教師が、そう言った。事故の言葉に、その場が凍り付く。
ハッとして千春の方を見ると、彼はただ呆然と立ち尽くしていた。
みるみるうちに顔から血の気が引いていき、その手を取ると、異様なほど冷たくなっている。
こちらの問いかけにも反応せず、明らかに、いつもの彼じゃない。
こんな状態の千春をひとりで病院に行かせるわけにはいかず、俺と木田は午後の授業をサボった。
タクシーの中、千春は全身を震わせながら、恐怖と戦っていた。
そして、病院前で我慢の限界を超えたように、彼は動けなくなってしまった。また呼びかけにも応じなくなって、人形のように顔から感情が消える。急ぎベンチに座らせ、硬くなった身体を解すように背中を撫でた。
――千春の両親は、事故で亡くなった。
以前、スーパーで会った時に千春の口からそれを聞いた。辛い過去があるのに、表面上、影は全く見えなかった。いつだって、千春は飄々として、明るい。
けど、大口開けたあの満面の笑みが出るようになるまで、どれだけの辛いことを乗り越えてきたんだろう。周囲の助けもあっただろうけど、きっと千春自身が頑張っていたんだ。じゃなきゃ、あんな風に笑えない。
乗り越えてちゃんと前を向いている千春に、どうして追い打ちをかけるみたいに酷いことが起きるんだ。
『俺、叔父さんと仲いいんだよ』
千春が言った言葉を思い出す。俺は必死で会ったこともない人の無事を祈った。
「千春……」
何度も名前を呼び続けていると、ふいに彼と目が合った。──途端、千春の顔がくしゃっと崩れる。
苦しいのは千春なのに、まるで自分のことのように、ズキンと胸が痛んだ。
なんとかしたい、支えたい──頭の中がそれ一色になった瞬間、千春のスマホが震えた。
着信に千春は過剰なくらい怯えていて、俺は彼の代わりに電話を取った。
「もしもし──」
耳に当てると、穏やかな男の人の声が聞こえてきた。それは、事故に遭ったという千春の叔父さんだった。
俺の脱力した表情は、千春にも伝わったのだろう。唇の端を震わせながら、目を潤ませる。
電話を千春に代わると、彼はうん、うん……と相槌を打つ。みるみるうちに顔色がよくなっていく。そして、電話のあと、ほうっと息を吐き、立ち上がった。
「ごめん。いってくるね」
早く、叔父さんの無事を目にしたい。そんな感じで彼は足早に病院の中へと入っていった。
「…………」
俺は外のベンチで、彼が戻ってくるのを待っていた。
自分の手の中にまだ千春の身体の震えがあった。初めて見た彼の泣き顔が脳裏にこびり付いて離れない。
――千春をぬくぬくにさせる役目を、自分が欲しい。
唐突にそう思った瞬間、身体の奥がぐっと引きしまるような感覚がした。その時だ――。
「――盛岡っちぃ! 千春は大丈夫か!?」
物凄い形(ぎょう)相(そう)で木田が叫びながらやってきた。乗っている自転車から変な音がしている。それに学校から病院はかなり距離があって、こんなに早く着いたのはよっぽど心配していたからだろう。
無事を伝えると、木田は「あぁあ、マジか! よかったぁああ!」と叫んで安堵した。
そんな木田だから、病院から出てきた千春は、真っ先に抱きついて感謝を伝えた。そこにやきもちめいた感情は一切なく、俺は木田という人間をリスペクトしていた。
木田はパンクした自転車を押しながら「自転車屋へ行くよ」と言って、その場を離れた。
その背を見送ったあと、千春は俺の方を向く。律儀にタクシー代を返してくれながら、手をぎゅっぎゅっと握ってきた。
「大好き。翔真がいてくれてよかった」
「──っ!」
大好き。
雷がズドーンと落ちたような衝撃が走った。全身がびりびりする。
「へへ」
そのあと照れたようにはにかんだ笑顔の破壊力に、心臓を打ち抜かれた。
――どうして、何もせずに諦めることしか考えなかったんだろう。
初めから、こんなにも千春の隣が欲しくて堪らなかったのに。
……俺の方こそ、大好きだ。
溢れる感情に我慢できなくて、ぎゅっと千春を抱き締めた。
焦ったように、彼は腕の中でもがく。けれど、しばらくすると、その身体は諦めたように力を抜いた。
「見守るだけなんて……、そんなのとっくに無理だった」
溢れ出す想いを呟きながら、俺は心の中で、はっきりと決めた。
──千春を諦めない。
もう逃げるのをやめよう。
みっともない自分をさらけ出す覚悟は、出来た。
◇◇◇
「……とはいえ、みっともなさすぎる」
あのとき決めた覚悟を思い浮かべていると、さっきの最低最悪な自分が浮かんでくる。
嫉妬に狂って、千春を責めてしまった。
大切にする。そのはずだったのに、あの告白は理想とは程遠い。
自己嫌悪に溜め息が出たとき、スマホ画面がふっと灯った。千春からのメールだ。
【出会い系アプリは消したから。勘違いするなよ】
「…………」
出会い系の文字に、思わず眉間にシワが寄る。
けれど、明日言えばいいことを報告してくれることが嬉しかった。そういう立場になれたことに安堵する。嫉妬の炎は、あっという間に鎮火して、残ったのは圧倒的な嬉しさだけだった。
絶対、今度は間違えない。大事にするから──。
「俺でぬくぬくになってくれたら、いいな」
十.付き合い始めたふたり
放課後、掃除道具を片付けていると、翔真がちょいちょいと俺のことを手招きする。
なんだ?と思いながら、掃除道具を指定の場所に置いて、物置き倉庫のドアも閉めて、ちょいちょいしている翔真の元に近寄った。
「何?」
「校舎裏へ行こう」
「校舎裏? なんで?」
俺が首を傾げると、翔真は言いにくそうな顔をした。
「……最近、ふたりで話していないから」
「そうだっけ? よく話している気がするけどな」
──夏休みに入る直前、俺たちは付き合い始めた。
映画館でポップコーンをシェアしよう。今度は俺から誘おう──そう思った矢先、知り合いに短期のバイトを頼まれてしまった。
俺はバイトの掛け持ち、翔真の夏期講習。
結局、予定が合わず、夏休みは終わってしまった。
けれど、学校が始まれば毎日会っているわけで、……あぁ、でも木田と三人で話すことも多いか。
聞かれたくないことでもあるのだろうと頷いて、校舎裏へ向かう翔真の後ろを付いていく。
九月も後半になると、日差しの強さも随分マシになってきた。やや暗い校舎裏に足を踏み入れると、すっと涼しい風が頬を撫でる。
「で、何? 悩みでもあるの?」
「……今、凄く悩んでいる」
「今? ってことは俺? なんかしたっけ?」
すると、翔真が挙手するので「はい、盛岡くんどうぞ」と発言を許可する。
「先生、恋人に恋人扱いをしてもらえないので悩んでいます」
「……っ!?」
そう言いながら翔真は俺に一歩近づくので、俺は二歩後ろに下がる。すると建物に背が当たった。建物と翔真に挟まれて圧迫感が凄い。
見上げると、真剣な眼差しがそこにあった。
「友達のときと全然態度が変わらないのは、どうしてでしょう。教えてください」
「……へ」
「俺がメールを送れば五回に一度の返事。しかも疑問文しか返事がこない。電話も俺から。休日は基本バイト。態度とか友達の時と全く変わらない。こっちが必死にムードを作っても気づきもしない。見つめてもニコッて笑うだけ、それは可愛いけど。デートに誘えば『あ、木田も行く?』と声をかける」
「いや……えっと」
翔真のメールは、おはようとかおやすみとかそんな挨拶も入っているし、毎回返信すると、家事が進まないからであって。あと、基本的に土日はバイトなのだ。木田を誘えば楽しさ二倍……これに関しては俺が悪い。
まだまだ彼の口から俺への不満が出てきそうなので、苦笑いする。
「しょ……翔真って重いんだな?」
「…………」
あからさまに翔真の表情がどんより曇る。
すぐに言葉を間違えたと謝ったが、ズーンという漫画効果音がピッタリな程、沈み始めた。
「ほ、本当にごめん。……ただ、そう言われても……」
友達と恋人で態度を変えるなんて、恋愛IQが低い俺には難しい。
そもそも急に態度が変わったら、変じゃないか? 巷(ちまた)でよく見るカップルみたいに腕組んでべったりするなんてハードルが高すぎて出来やしない。
「……分かった」
悶々と考えていると、翔真が呟く。
「俺は重い、分かっている」
「い、いや……だから、失言でした、ん?」
翔真が俺の脇腹に手を添える。何をするつもりだろうと見ていたら、俺の足が地面からふっと離れた。
「うわっ!」
何を!?と思っていると、背後の校舎の壁にある腰かけるには心もとない段差にちょこんと尻を下ろされた。狭くて、すぐ落ちちゃうところを、すかさず彼が身体を寄せてくる。建物と翔真にサンドされて、身動きが取れない。
あ、翔真と視線の高さが同じだ……。
「俺はもっと意識してもらいたい」
「……意識って」
「キスしたい、いい?」
一応聞いてくれるけれど、この距離はする気満々だろう。いや、聞いてくれるだけ親切なのかもしれない。ちゃんと人が来ないところに呼んでくれたのもありがたい。
でも、改まって言われると、気恥ずかしい。
「…………どうぞ」
「どうも」
瞼を閉じる前に、ちょんっと唇同士がくっついた。
唇の先を軽く触れ合って、すぐに離れる。
前みたいにがっついたキスを想像していたから、拍子抜けしていると、また唇がくっついた。
今度は下唇だけ。次は上唇。それから唇の端、軽めのバードキスが降り注ぐ。
頬や顎、鼻、瞼、顔全体、たまに首筋。
「……っ」
そして、唇の端に彼の唇が触れるので、次は唇へのキスが来るのだとやや顎を上げて瞼を閉じた――。
が、唇にはキスが来ず、また頬に戻る。
挿絵④
「う……」
今、キス待ちの顔をしてしまった!
羞恥に悶えていると、翔真の唇が、唇に触れるかどうかのぎりぎりに唇を押し当てる。吐息が口元をくすぐり、何故だか、キスしているときよりも唇の感触をリアルに感じた。
焦らされて……?
翔真のシャツを引っ張って、薄目を開けて睨んだ。
「っ、ヤリチン……、卑(ひ)猥(わい)だ……」
「ヤリ……」
ヤリチンと言ったせいか、彼は眉間にシワを寄せ、大きく長い溜め息を吐いた。恋人がいたのは一年も前のことなのに、モテ男の印象が強くて、つい口に出してしまう。
「……あのな、とびっきり大事な奴に手を出すって、かなり葛(かっ)藤(とう)があるんだよ。ずっと見守っていられる親友か、怖がらせて終わりにするか――はぁ、結局親友のままではいられなかったんだけど。……前も言っただろ」
「……はい、聞きました」
実のところ、翔真は俺に一目惚れしていたらしい。
翔真は友達のままでいようと二年の中頃まで葛藤していたそうだ。関係を壊すより、心に秘めて俺のことを親友として長く支えようと思ってくれていた――とか。
「だから、まごころ込めてキスしております」
「なんと、まごころが」
「はい、入っています。続けても?」
改まると気恥ずかしさが浮き上がってくるが、返事の代わりに目を伏せた。
そのまま、1、2、3……で唇に柔らかい感触と体温。ちゅっと静かにリップ音。
今度はすぐには唇が離れなくて、上唇を柔らかく挟まれる。下唇も同様に。
少しだけくっついている唇がはむ、はむ……と動く、まるで俺の唇の感触を確かめているようだ。
微かな触れ合いだというのに、身体が火照ってくるような気がするのはどうしてだろうか。
薄目を開けてみても、至近距離すぎて彼がどんな表情をしているのか分からない。けれど、閉じられたまつ毛が、微かに揺れている。
唇が角度を変えながら、くっついて、離れて、今度は強めにくっつく。
無意識に、きゅっと翔真の胸元を掴むと、ぎゅっと腰を掴む腕の力も強まった。
翔真とキスしているな、ってちゃんと分かる。
「……き、もち……いい」
胸のうちで、ぽこん、ぽこんとあぶくのように、彼への気持ちが浮き上がってくる。
もしかして、まごころが入っているからかもしれない。
まごころキスって呼ぼう。
ちゅ、ちゅ……って軽めで多くのキスが降ってくる。まごころ大サービスを感じながら、こんな体勢だというのに、身体の力が抜け、唇が開いてくる。
唇を挟む力も強まり、もっと口が開いてしまう。
舌が出そうになる。足りなくなるような感覚。……ディープキスになってしまう理由が今分かった。
軽いキスは気持ちがいい。でも、もっと深く触れ合いたいと自然に思ってしまう。
唇の内側、その粘膜部分の熱さや、舌がどう動くのか知っている。
したいなと思っていると、大きな手が俺の頬に添えられた。深まる合図……?
その予感は的中し、にゅるっとした熱い舌が口の中に入ってきた。
その感触を想像していたから、すごく口の中が敏感になっている気がする。
彼の舌先が俺の舌を優しくツンツンして、柔らかく巻き付いてくる。
――あ。
ツンっと脳みその奥に気持ちよさが流れたとき、彼の唇が離れた。
「千春……」
翔真は余(よ)裕(ゆう)綽(しゃく)々(しゃく)という感じでなく、どちらかと言えば、余裕がなさげ。
そんな彼を見つめながら、俺は静かにまばたきをした。
「……ん、気持ちよかった。したくなるの、よく分かる」
それに癖になるのも分かると素直に言うと、翔真は満足気に口角を上げた。
「求めてもらえるように、ゆっくり俺のこと意識させていくから」
とはいっても、付き合って初日で俺をベッドに押し倒した男だ。虎(こ)視(し)眈(たん)々(たん)とチャンスを窺(うかが)っているはず。でも、今日までキスひとつ我慢するところもある。
「……お手柔らかにお願いします」
◇◇◇
「ん……」
屋上、校舎裏、バイト帰りの路地。
誰もいない場所で、翔真とこっそりキスする。
ゆっくり俺のことを意識させていく――その言葉の通り、キスするたびに徐々に翔真を意識するようになった。
最近、ふたりっきりになると、翔真の口元を直視できない。
今日はキスするのか、その先にも進むだろうか。そう思うと、心臓が速くなって、緊張して上手く喋れないこともある。
けど、いつまで経っても、キス以上のことは何もない。
「盛岡くん、荷物持ってくれてありがとう」
放課後、帰り支度をしていると、廊下からクラスの女子と一緒に翔真が教室に入ってきた。
まるで背中にも目がついているかのように気が利くところが、翔真がモテる理由なのだろう。
「重い物を持つときは、俺みたいな体育会系に任せればいいから」
「うん……」
ちょっと女子の顔が赤くて、胸の中がもやっとする。
俺もそうだけど、翔真はゲイじゃない。なのに、互いに恋愛的に好きになるって──改めて考えると、奇跡みたいなものだよな。
「……木田、帰ろっか」
嫉妬めいた感情をさっと打ち消して、隣にいる木田に声をかけた。リュックを背負って、教室を出る。
「千春さん」
――千春さん?
その声に立ち止まると、翔真が慌てて追いかけてきた。でも、なぜ〝さん〟付けなのだろう。
「はい、何の御用でしょうか」
俺も敬語で返事すると、翔真もその口調のまま続ける。
「俺の家に遊びに来ませんか?」
「い、え?」
俺がオウム返しをすると、真横にいた木田は口をへの字にして変な表情を浮かべた。それからゆっくり頷いて、そそくさとひとり帰ってしまう。
いつもの俺なら、変な奴、と思うだけだが、ピンときた。
――彼氏の家へ誘われる、イコール、エッチなお誘い……ってことなのか。
付き合って約四か月。初エッチは早いのか、遅いのか、正直俺には分からない。けれど、この誘いを断る程、野暮じゃないつもりだ。
「いい、よ」
周囲には分からないだろうけど、学校で〝エッチオッケーだよー!〟なんて返事していると思うと、いたたまれない。
身体を小さく竦めると、頬に熱が滲んだ。おそるおそる翔真を見上げると、彼はどこか照れくさそうに、安堵したような苦笑いを浮かべていた。
「よかった。千春の好きなお菓子を用意しているから」
「おう。それは……楽しみ、だね」
「じゃあ、行こう」
促されるままに教室を出て、翔真の家に向かった。
道中は緊張を誤魔化すように、ひらすらしゃべり続けた。動画サブスクで観れる映画やドラマ、あれこれと一方的にまくしたてているうちに、気づけば翔真の家に着いてしまう。
ベージュの外壁に茶色の瓦屋根。玄関前の赤いポストと、小さな花壇が目に入る。全体的になんだか可愛らしい印象の家だ。
「あの、親御さんは……?」
「今日は遅くなるって」
……てことは、やっぱりエロいことを。
心臓の音が口から出そうになりながら、そっと敷居をまたいだ。
「どうぞ」
二階にある翔真の部屋に入ると、壁一面にずらりと並んだトロフィーが目に飛び込んでくる。
「おぉ!」
きょろきょろとしていると、翔真が俺のリュックをひょいと奪う。そして、自分のバッグと並べてラックの上に置いてくれた。
……そのすぐ隣には、ベッドだ。
「飲み物取ってくるから、適当に座って」
「お、おぉ」
頷いてみたものの、適当って?
どこに座れば正しいのかさっぱり分からない。この場合はやっぱりベッドか? ベッドでいい……よな?
「……よし」
小声で呟き、ベッドの端っこにちょこんと座った。
……まずいまずい。緊張してきた。口から心臓が出てきそうだ。
こんな状態でうまくやれるのか、心配になっていると、翔真がトレイを持って部屋に戻ってきた。
「おまたせ」
「う、うん……なんかいっぱいだな」
トレイの上には、しゃかりこ、キャラメル味の高そうなポップコーン(百貨店とかで売られているやつ)、バター醤油のポテトチップス、ホッキー……などなどがこんもりと乗っていた。
俺が百パーセント好きなお菓子を用意しているところ――なんというか前世だ。
前世の翔真(ふくろう)ってば、俺(ふくろう)が好きなものばかり持ってきてさ、気を引こうとするんだ。
現世でもその癖が出ている。……ていうか、それにキュンする俺もどうなの。餌付けされちゃっているじゃん。
翔真は俺が座っている前に簡易的な折り畳みテーブルを広げ、その上にお菓子のトレイを置いた。それから、ペットボトルのコーラを手渡してくれる。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
もらったペットボトルをぎゅっと両手で握りしめる。
――それで、ここから先、どうしたらいいの!?
恋人っぽい雰囲気を醸し出す? 甘い言葉でも吐けばいいのか。きりっとした顔で「翔真、いつも格好いいな。そんなお前が好きだぜ」とか? あぁあああ、駄目だ。俺、まだそういうことを言える自信がないよ! 思いっきり冗談に振り切ってしまいそうだ。
動揺していると、テレビ画面がパッと点いた。
「千春がさっき語っていた映画ってどれ? サブスクで配信しているんだよな?」
「……映画? あ、あぁ。リモコン貸して」
翔真からリモコンを受け取って、さっき一方的にオススメした映画を改めて説明し直す。画面を操作しながら、「アクションならコレ、ホラーならコレ」と順に作品を紹介していく。
「千春がもう一度観てもいいって思えるやつ、どれ? それ観よう」
「じゃあ……これかな」
俺と翔真はベッドの上で肩を並べ、壁にもたれて座った。
画面がゆっくりと暗転し、有名なイントロが流れ始める。
――映画、か。……なるほど。部屋に入ってすぐエッチするのは、情緒がないものな。
つまり、映画を観るのは、雰囲気づくりのためなんだな。
……きっと、頃合いを見計らって、押し倒されるんだ。
ごくりと唾液を飲む。その音がやけに大きく室内に響いた。
肩と肩が、ほんの少し触れ合う距離に翔真の体温がある。そんな状況で始まった映画は冒頭からまるで頭に入ってこない。
緊張して口の中に唾液が溜まってきて、またごくりとする。呼吸すら上手くできなくて、時折「はぁあぁ」と大きな息が漏れて、気まずさが増す。
「──ふっ!?」
ちょんと、翔真の小指が自分の小指に当たったので、ついに来る!? と肩が飛び跳ねた。そのあと、膝を折って三角に縮こまった。
まごころの方? 初めからディープな方? どっち?
身構えていたが――。
映画一本観終わってしまった。
「アクションシーンが迫力あったな。結構面白かった」
「は……え?」
映画の内容なんて、頭に入ってこなかった。覚えているのは、やたら派手な車の爆破シーンだけ。
……どういうこと?
きょとんとしながら翔真から視線を逸らすと、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。一本の映画をまるごと観たら、そりゃあ日も暮れる。
ちょうどそのとき、一階から「ただいま」という誰かの声と、生活音が聞こえてきた。
「ちょっと待ってて」
そう言って翔真は立ち上がり、部屋を出て行く。ポツンと待っていると、すぐに彼が戻ってきた。
「おふくろが、夕飯食べていくかって」
「夕食――あっ、俺も夕食作らないとな! そろそろ帰るな!?」
エッチどころか、キスすらなかった。……本当に、ただ遊ぶだけのつもりで誘われただけだった。
完全な勘違いだったことに気づき、赤面しながら慌てて上着を羽織り、リュックを背負った。
「翔真のお母さんにお誘いありがとうって、伝えてから――」
そう言いながら部屋のドアノブに手をかけた瞬間、後ろから翔真が俺の腕を掴んだ。
「バイトのシフト教えて。千春との時間を確保させてほしい」
「…………」
「俺の勉強とか気遣ってくれているのは分かっているけどさ、再来週から冬休みだろう? 恋人なのに長期間会わないとか、ありえない」
ありえないって言うとき、その視線がぐっと強まったので、俺はぽりっと頬を掻いた。
キスもエッチもしなかったけど、めちゃくちゃ好かれている。
「……いいけど」
俺もスマホを取り出して、シフト表をそのまま翔真に送った。すぐに翔真が予定をすり合わせてくる。月曜、火曜……バイト以外の予定も聞いてくれる。
すると、〝バイトか翔真の家〟というスケジュールになってしまい、流石にストップをかける。
「おい、受験生でしょうが!」
「……短時間でいいんだ」
「駄目……あっ、でも待てよ? そうか。俺が一緒に勉強すればいいってことか」
俺の提案に、翔真はパッと目を輝かせる。
「名案。千春がいると、勉強と遊びにメリハリつく」
「よし、分かった! 問題いっぱい出してやるよ」
「本当にいいのか?」
「うん! 千春さんが手伝って差し上げようじゃん」
「やった」
小さくガッツポーズを作る翔真があまりに嬉しそうなので、思わず俺も顔が緩んだ。
◇◇◇
冬休み。約束した通り、俺は翔真の家に通っている。
冬期講習は、日にちが選べる塾らしく、俺のシフトに合わせて入れているのだそうだ。
家でも、翔真はずっと勉強漬け。
休み前に、手伝うよと言ったものの、国立を目指す翔真に、俺がしてやれることなんて何もなかった。
正直、俺が傍にいる意味はない。でも翔真が、絶対に来てほしいと言うから、その通りにしている。
特にかまわれるわけじゃないけれど、好きな食べ物は絶対用意されている。居心地がいいから、俺も読書なんかをして静かに過ごす。
「ん~~」
年が明けた今日も、俺は午前中から翔真の部屋に来ていた。読書に飽きて背伸びをする。
真後ろにあるベッドにもたれかかりながら、天井を眺めた。チクタクと鳴る時計の秒針と翔真がページをめくる音を聞いていると、なんだか眠くなってくる。
「ねぇ翔真、ベッド借りていい? ちょっと横になりたい」
「ん、ベッド? ……あぁ、どうぞ」
「ありがとう」
許可を得たあと、ベッドにうつ伏せに寝転んだ。
ベッドフレームには、ふくろうのマスコット〝ふくちゃん〟がちょこんと置いてある。
――本当に気に入っているんだな。
小さなそれに触れようとして、以前翔真が〝自分のモノに触れられるのが嫌〟だと言っていたことを思い出した。
伸ばした手を引っ込めて、ぬぼうっとしたふくちゃんを眺める。
その顔を見ていると、本格的に眠くなってきて、瞼が閉じたときだ。ぬっと俺の身体を覆う影が出来て、のしりと背中が重くなった。
「――……へ?」
やや手加減した体重のかけ方。
その重さにドキリとしながら、上半身を後ろに捻ると、翔真の唇が軽く降ってきた。
「しよ、千春」
「しよって――そんな素振り今まで……ひ、ぇ」
尻に硬く反応しているモノを押し付けられた。
どこで興奮するところがあったのだろう。
ただベッドに寝転んだだけなのに。
「ずっと我慢していたんだ。でもガッチガチに緊張している好きな子に手は出せないだろう?」
「がま……ん、え?」
「千春さんのことエロイ目で見ているから、理性が擦り切れそうだった」
だから翔真は、俺以外の違うことで頭を埋めようとして、勉強だけに集中していたそうだ。俺がそばにいると、ひとりで勉強する倍以上捗(はかど)るのは、そういうことらしい。
挿絵⑤
「緊張する前に脱ごうな」
「へ!?」
翔真はそう言って、俺のジーンズを下着ごと取っ払う。次いで、身体を起こされてパーカーも剥ぎ取られた。
身に付けているのは靴下だけ――そんな俺を見て、翔真は舌なめずりする。〝俺のことをいやらしく見ています〟ってモロに分かって、ぎょっとする。
「俺の部屋に馴染んでくれるのを待ってた」
翔真が息を荒くしながら、とんでもないことを言った。
つまり、それって、俺が緊張しなくなるタイミングを虎視眈々と狙っていたということか。
「千春が裸でベッドに寝ているのに、止めたくない」
「おかしな言い方するな! 裸にしたのはそっちだろう」
「うん、今、俺は頭が湧いてる。だって、自分のテリトリー(領域)に千春がいるってだけで、ずっとグッときててさ。ようやく寛いでくれたのを見たら、囲いたくなる」
「えっ、囲い!? うわっ!」
すると、翔真が俺の首筋をぱくりと食べた。
噛みつくような強いものではなく、甘噛み程度だ。そのあとぺろぺろと舌で舐めてくる。じゃれつくような動きがくすぐったくて肩を竦めると、さらにでかい手が、俺の脇腹を撫でてきた。
「ふっ、く……はっふ、くっ、くすぐったい……っ、ひゃはは」
笑い声をあげると、翔真は首から顔を離した。
「…………」
無言でにっこりされると、笑いは引っ込んだ。はい、雰囲気を壊してごめんなさい。
ゆっくり近づいてくる唇にキスを予感して、俺は瞼を閉じる。
翔真のベッドでするキスは、いつも以上にドキドキした。
ちゅっちゅっと軽い口づけから始まって、徐々に濃厚になっていく。
腹に置かれた手が撫でるように移動して、平たい胸にある突起を親指と人差し指で軽く摘まんだ。
その瞬間、びりっと身体に気持ちよさが走る。何度もそうされると、もどかしさに身体を捩ってしまう。
すると、翔真は俺から唇を離し、デレッとしただらしない表情をした。思わず、眉間にシワが寄る。
「手加減してくれ」
「勿論です」
即答。やる気満々。ウキウキな男を見つめて、口を尖らせながら言う。
「一言文句言いたくなるな。けどまぁ、文句(それ)は置いておいて。あの――……そのだな、えぇっと、……アレはある?」
「何?」
「だからその、アレの話だよ。――翔真のことなら抜かりないと思うけど。……なければ、俺の財布の中に――ゴムが入っているから、……使って?」
自分の顔に熱が籠っていくのを感じながら、床に置いている鞄を指さした。
前に薬局でこっそり買っておいたんだ。財布の中に入れっぱなしにして、今日の今まで忘れていた。
「え?」
「ん?」
何故か、翔真の顔が真っ赤になる。目が合うと、パッと両手で顔を押さえた。
「どうし……」
「ああぁああ~! 嘘だろう。やばい! しよって言ったのは、互いの身体を手で触り合うだけのつもりだったんだけど。え、準備って……鈍感な千春が? 俺との行為のために? ――萌え死ぬ! 心臓が爆発する! くっそ、破壊力がやばすぎる」
突然、翔真が悶絶し始めた。
そのキャラ崩壊しまくっている言葉に「え?」と首を傾げる。
「ちょっと待って。え? 手で触りっこってこと? 入れないの?」
「触りっこって言い方も可愛い。……入れるとか、入れないとか……千春の口から……」
今、俺が何を言っても翔真のツボに入ってしまうのか、呼吸困難に陥っている。
疑問を通り越して呆れていると、はぁあ~っと翔真は大きく長い息を吐き、服を脱いで裸になった。
盛り上がった筋肉を目の前にして、胸がざわつく。
同じ男なのに、翔真に対しては見惚れてしまいそうになるから不思議だ。
ただ……もの凄く、興奮しているな。ソレは大丈夫なのか?
俺の物言いたげな視線が伝わったのか、翔真は気まずそうな表情をする。
「今(・)は最後までしない。慣らしても多分痛いだろうから。千春ちっちゃいし」
「……お、おう。そうだな……」
ちっちゃいと言われても、今だけは素直に頷いた。
するとまた、大きい身体がぬっと俺の上に覆いかぶさり、ぎゅうぎゅうと力強く抱きついてくる。
「ぐえっ、しょ……」
喉が潰されそうになりながら、その背中をポンポン叩いて、力を弱める合図を送る。
腕の締め付けはほんの少しだけ緩んだものの、次の瞬間には、俺の顔中にぶちゅぶちゅとキスの大雨が降り注いだ。
でも、まぁ……本番なしか。
そう思うと、自然と身体の力が抜けていく。
「──千春。嬉しくしてもらったお礼に、とっておきに気持ちよくしてやるよ」
「ん?」
翔真は意味深にニヤリとし、俺の膝をぱっかりと左右に開いた。
「ぎゃっ、な……何するつもりだよ」
ちゅっ、と内腿にキスが落ちる。
「まぁまぁ」
「まぁまぁって――ひゃぁ!?」
引いた腰をぐっと掴まれた。この手の力は、本気だ。
するとまた、同じ個所に唇が触れ、今後は強く吸い上げられる。
そこに真っ赤な痕が付いた。それを見て、翔真は満足気に微笑み、反対側の内腿にも口づける。
どんどん……痕が、増えていく。
「千春は肌が白いから、分かりやすくていいな」
「翔、真……っ」
なんて嬉しそうな顔をしているんだよ……。
そして――〝気持ちよくしてやる〟その言葉の意味を、身をもって知った。
身体中を手や唇で撫でられて、気持ちいい箇所が次々と翔真に暴かれていく。
真冬なのに、身体が熱い。
「……っ」
快感の沼にぐいぐいと引きずり込まれそうになって、シーツを必死に掴んだ。堪えようとした。でも、どうしても我慢出来なくて──。
気持ちいい大波に呑まれて、流されてしまった。
◇
「ふぅ……」
翔真の家を一緒に出て、肩を並べて歩く。
真っ白な雪が、ぽつり、ぽつりと空から降ってきた。火照った身体が冷えてちょうどいい。
「ごめん」
上を見上げていると、翔真が謝ってきた。
「なんのこと?」
「千春の身体、あちこち舐めて、キスマーク付けまくったこと」
「あー……さっきの話ね」
正直、食べられるのかと思った。
身体全部に口づけられて、目がぐるぐる回るくらい気持ちよかった。
けど、それだけ。俺ばかり。
ちらっと横を見ると、彼は肩を落としていた。それに俺の反応をうかがうような視線を向けてくる。
――あぁ、いつもより俺の口数が少ないからか。
ん~っと考えたあと、そうか。と自分の気持ちに納得する。
「翔真って、俺ばかり気持ちよくするじゃん?」
「それは、したいし、みたいし」
したいのか。
「けど、それだとお前ひとりだけレベル高いままだろ。それで、ちょっと不貞腐れているのかも。本当は俺だって、翔真を気持ちよくさせたい。けど、上手くいかない。触られると、気持ちよくなりすぎて……難しいよ」
ずっと前、住宅街で女子と歩いている翔真を見かけた。怪しげでエッチな雰囲気だった。
多分、俺と翔真には、まだそんな雰囲気は出ていないと思う。
自分も早くその関係までいきたい――とそこまでは考えていなかったけど、無意識に張り合っていたことに気が付いた。
「色々ライバル視している、と思う。多分」
「…………」
横で静かに聞いていた翔真は、赤い自販機の前で急に足を止めた。無言のまま、自販機に手を伸ばし、ピッ、とボタンを押す。
そして、彼は勢いよく頭を下げながら、ホットの缶コーヒーを俺に差し出してきた。
俺は甘党だけど、コーヒーは無糖派。
ちゃっかり俺がよく飲むメーカーの缶コーヒーだ。
「千春! 大事にしますから、高校卒業したら俺と一緒に暮らしてください!」
「突然何? やだけど」
「……っ!?」
好意は物凄く感じるから、缶コーヒーだけはその手から受け取った。差し出された手が下がらないので、掴んで下ろしてあげる。
すると翔真は、うつむいて肩を震わせた。激しく落ち込んでいる。
丸まった背をぽんぽんと叩いて、帰ろうと声をかけた。
「俺は、諦めない。ひとり暮らしをする千春の隣の部屋に住む……!!」
顔を上げた翔真は、ちょっと半泣きになっている。俺に対してナイーブすぎる。
「おいおい、学業に専念しなさいよ」
「絶対に諦めない」
しつこく宣言を続ける彼の横で、俺も缶コーヒーを買い、そっと手渡した。
それを飲むわけでなく手を温めるために使って、歩き始める。
「こんな寒い日は鍋かおでんをつつくのがいいですよね。一人前の材料って揃えるのが面倒ですよね」
「うん?」
「今年の四月、また食品値上がりするらしいです。割り勘って、いいですよね」
急に翔真がやたらふたりぐらしを推し始める。俺は軽く流しながら、相槌を打った。
「……くっついて寝たい」
家前でネタが尽きたのか、翔真の口からとうとう欲望が出てきた。
くっつく──その言葉に、前世の記憶が脳裏をよぎる。
そういえば、前世でも俺たちは、ずっとくっついていたっけ。
あの毛並みは今はないのに、相変わらず彼の傍は居心地よくて、ぬくぬくな気分になる。
ふはっと笑って、俺は相槌を打った。
「確かに」
おわり


