コポリ、と泡が海面に向けて浮上する。深海の世界は暗く、太陽の光が僅かに届く程度。天を仰ぎ見ればゆらゆら海面が光を浴びてきらきら揺れる。尾びれを器用に使い、全身の筋肉で海中を泳ぎ、慣れた様にサンゴ礁の美しい浅瀬へ向かう。そこは食料でもある小魚たちの楽園で、何より明るくそして好きだった。海藻を編んで作った網で小魚の群れにそれを放ると中に何匹もの小魚が入る、それを勢いよく引っ張り海藻の紐で確りと封をすれば今晩の食糧となるのだ。今日は何となく気分が良くて海面に顔を出した。満ち引きする波、そして広い砂浜、弧を描く水平線。何もかもが深海に住む自分には眩く綺麗だった。
今日の上々の収穫に笑みを浮かべて暫くぷかぷかと海面を背に泳ぎ、日光浴をしていると不意に人の気配を感じた。人魚とは異なる人間、ずっと興味はあったが考えてみればまじまじと見るのは初めてかもしれない。砂浜に現われ思い詰めたような表情で前髪を潮風に揺らす男性は人魚の尾びれとは異なる"脚"と呼ばれるものを保護するなにかを脱いで波打ち際まで歩いて来た。バレない様にと岩場に隠れ様子を伺うと、その男性にしては愛らしいかんばせが見えた。急にどきりと胸が高鳴る。こんな気持ちは初めてだった。
そんな感情に困惑していると彼は次第に浅瀬から深い所へ向けて迷い無く歩み、ちゃぷちゃぷとその身を海に投じようとしていた。人間は泳ぐ事も可能だが人魚の様に海の中を自由に動けはしない筈、だというのに彼は泳ぐ気配もなくただ海に飲み込まれようとしている。岩陰から海に潜ると丁度脚のつかない深くまで辿り着いた彼の口からこぽこぽと大きく泡が漏れ出す。一向に泳ぐ気配の無い彼にこれはいけない、溺れてしまうと逸る気持ちでそちらへ急いで泳ぎ向かうとその身体を掬い上げて浅瀬へと送り届ける。確か昔母上が溺れた人を助けた事があると言っていた。その時の話を思い出し、海水を派手に飲み込んだだろう彼を砂浜まで助け出すと肺を押し唇を重ねて必死に呼吸を送り込む。次第に海水を吐き出しカハッと噎せ息を吹き返した彼に良かった、まだ生きていると安堵した。次第に意識を取り戻した彼が自分を見て複雑な表情をした。
「……なん、で」
「それはこっちの台詞な?何でこんな事したの」
海水を飲み込んだ所為で掠れた声が何故と問う、しかしそれは逆に此方が問いたかった。あのまま放置していれば危うく死ぬところだったのではないだろうか。心配する様に彼の顔を覗き込み、次の答えを伺う。
「……しにたかった」
「どうして……」
「なんかもう、いやになって」
彼の頬を伝うのは海水なのか涙なのか、それは分からなかった。それでも、彼を救いたいと思ってしまった自分の行いは間違っていなかったと信じたかった。何より、彼を見ているとどきどきと鼓動が高鳴り形容しがたい感情が溢れて来る。その答えもまた分からなかった。
「じゃあ俺と友達になろ。それじゃだめ?しんどい時も海を見る度、ひとりじゃないって思えるでしょ」
「お前、人魚……?」
ようやく意識がはっきりしてきたのか、此方の正体に気付くと大層驚いた顔をしていた。両親にもきつく言われているが、人の世では人魚の肉は永遠の命が手に入るなどという迷信がある。故に軽率に人の前に姿を見せてはいけないという暗黙のルールがあった。しかしそれでも助けたかったのだ。どうにかして生かしたかった。
「本当はこんな風に人間と会うのヤバいんだけどさ……」
「……ともだち」
「え?」
「友達になってくれるんでしょ?」
それまで悲し気な表情だった彼はやっと少しだけ頬を綻ばせほんの少しだけ笑んだ、その笑顔に完全に虜になってしまったのが自分で分かる。どんなにきらきらした太陽を浴びる海面よりも美しく、小魚が舞い踊る色とりどりのサンゴ礁よりも綺麗だった。
「うん、言った」
「また会える?」
「いつもこの時間には此処に居る」
「また必ず、会いに来るから」
そう言った彼はそっと片手を此方に差し出し、小指だけを伸ばして拳を握った。真似する様に小指を伸ばして拳を握ると小指同士が絡められ、約束ね、と改めて噛み締める様に言われその暖かな小指の感触を心に刻み込んだ。
その翌日、いつもと同じ様に海藻を編んだ網で小魚を獲り、そのついでに海面へと顔を出す。すると昨日の彼が海を眺めていた。急いで砂浜の方へと泳いで行き、浅瀬で上半身を海から陽の元に晒す。するとすぐに彼が此方に気付き走り寄って来た。その顔は昨日と違い明るく安心した。
「本当に会えた……」
「約束したしな」
身に纏った物を捲り上げ、波打ち際から少しだけ浅瀬に足を付けた彼はそれだけで大層嬉しそうだった。どうやら彼は永遠の命には興味は無さそうで安堵する。そもそも迷信でしかないのだがそんな事はそれを信じる人間達は知り得はしないだろう。
「お前、名前は?」
「リュカ」
「俺はレオン。一応王子ってやつ」
「王子様にはあんまり見えなかっ……」
「一番言われたくないわそれ」
「ごめんて」
確かに身に纏っている服という物は煌びやかなものに見える。人魚にとってその価値は良く分からないが、王子というのが偉い身分であることは知っていた。深海の世界にも秩序を守り統べる王は居る為だ。故にきっとこんな風にこっそり人と会っているなどとはとてもではないが言えない。揺られる波にちゃぷちゃぷと尾びれを動かして体勢を整える。人魚と言うのは人間と同じく肺呼吸も出来、海の中では鰓呼吸も可能な為こうして半身を海から出していても問題はない。人魚の起源はそもそも人と海の生物の愛から始まったもの、その生まれの名残があるのが人魚だ。半分は人間である。
「歳は?」
「17」
「じゃあ同い年か」
きっと今まで周りにこうして気兼ねなく話せる友も居なかったのだろう。つい昨日、海に命を投げ出そうとしていた等とは思えない程には彼は様々な表情を見せてくれる。出会ってからまだたった数時間の相手にこうも気を許して貰えるというのはなんとも嬉しくむず痒い。ザァザァと波が彼の裸足の足元を濡らしては引いて行く。このもどかしい距離感は高鳴る胸をより実感させた。この気持ちは一体何だろう、ふわふわしたような、それでいて胸が締め付けられる様な気持ち。答えを知りたくとも今は知り得ることは無い。
「人魚の友達が出来るとは思いもしてなかった」
「俺も人間の友達は流石に初めて」
お互いにクスクスと笑い合う、その後も深海での生活を聞かれたり、逆に王子としての暮らしを聞いたり……実に様々な話をした。食べるものも主に魚や貝類のみの自分達とは違い肉や野菜も食べるらしい事、毎日衣服をちゃんと着る事など多岐に渡る。どの話も新鮮で、今まで人間は怖いものと思わされてきた自分には眩しく感じた。
尽きない話は西に陽が沈み始める頃まで続き、そろそろ互いに帰らなければという所で今日の秘密の会話は終わりを迎えた。こんな風にきっと何度も彼に会える、そう思うと心が温かく満たされた。
「それじゃ、リュカ」
「またね」
帰って行く背を見届け、小魚を捕まえた海藻の網を握り締めて自分もまた深海へと帰って行く。全身を使いうねる様に尾びれを動かし、滑らかに海中を泳いで帰路を辿る。
様々な海藻が茂る深海は既に薄暗く、他の人魚達もそれぞれ捕まえて来た夕飯を準備していた。そんな中で友の姿を見かけて泳いで行くとやれやれといった顔で迎えられた。戦利品である小魚が大量に入った海藻の網籠を手に此方は笑んで返す。
「ただいま」
「リュカ随分ゆっくりだったじゃん」
「俺も俺で忙しいんですー」
「他の皆もう帰って来てる」
まぁ少し喋り過ぎたかもなぁと反省しつつふと思い立ち、こいつなら大丈夫かと姿勢を正して友に気になる事を尋ねる事にした。
「……なぁ」
「何、どしたの改まって」
「……なんつーかさぁ、ある人を見ると、胸が苦しくなったり、ふわふわしたような気持ちになんの」
「考えるまでも無く恋じゃん」
自分の胸を押さえ、レオンを見た時に感じた不思議な感覚をそのまま口にして尋ねる。恋、そうか、これが恋というものなのかとようやく合点がいった。しかしよもや初恋が同性の……まして人間になるなどとは思いもよらなかった。これは言っても良いものなのか、と思考が揺らぐ。が、きっとこの友達ならば聞き入れてくれるだろうとこっそり内緒話をする様に近付く。
「そのさ、相手が……人間なんだよ」
「……マジで言ってる?」
「大マジ。因みに滅茶苦茶かわいい」
「惚気は良いよ。それで、どうする気?」
「告白、するかぁ」
「あーあ、俺聞かなかった事にするわ」
完全に呆れ顔ではありつつも話に乗ってくれる柔太朗は良い奴だと思っている。きっと言いふらす様な事もしないだろう。
しかし肝心の彼とはまだ出会ったばかりの友達だ。淡い片思い、それも人魚と人間との間の。それは正しく一目惚れだった。何度も会う内、きっといつか……叶わなくても、結ばれなくてもこの想いを伝えようとそう思った。
波打ち際に素足で立つ彼と、浅瀬で上半身を海面から出す自分。陽の光を浴びてきらきら輝く波が満ちては引いてを繰り返し、その縮められない距離感の切なさを思わせる。自分も陸に上がれたら……彼にまた触れてみたい……会う度、その顔を見る度にそんな欲求がふつふつと沸き上がって来る。友達という関係は恋を自覚した自分にはとてももどかしいものだった。
「リュカ、聞いてる?」
「うん、聞いてる。レオン話すの上手いから楽しいし」
「海の世界の話だって俺にはさっぱりだったからまぁ……楽しいっちゃ楽しい」
今日は寝る時の話をした、海藻を体に巻き付けて流されない様に眠ると言ったらレオンは驚いていた。陸の生活では考えも付かない事だろう。人間はふかふかなベッドというものに身体を横たえ眠るらしい。経験の無い世界の話はどれも聞いていて飽きない。初めて触れ合った人間がレオンでもあるからか、どの話も興味深くより陸の上に対する興味が勝っていった。
「そうだ、今日はレオンに真珠を持ってきた。プレゼント」
「真珠?高価なものじゃん」
「そっちの価値は良く分かんないけどさ、まぁ人魚の世界でも人気」
掌に握り締めていた一粒の真珠、プレゼントを何か贈りたくて自分でとってきたものだ。それをそっとレオンに投げ渡すときらりと光りを受けて煌き、そして彼の手の中に納まる。それを摘まみ上げて太陽に翳す彼がその虹色に輝く美しさにほう、と感激していた。
思った通り、彼に美しく光り輝く真珠は良く似合った。真珠、別名を人魚の涙と呼ぶらしい。愛を知らない彼にそっと寄り添えるように、真珠ならばアクセサリーにでも加工出来るだろうと思ってのプレゼントだった。
「それがあれば寂しくないでしょ?」
「ありがと。……大切にする」
レオンが照れ臭そうに少しだけはにかむ。その表情を見てああよかったと安堵した。このもどかしい距離が少しだけ縮まった様な錯覚をする。大切そうに一粒の美しい真珠を握り締めた彼は沈み行く西日を少し残念そうに見ていた。
「今日もそろそろ時間じゃない?」
「明日も来る」
「じゃあ約束」
「陸に上がれたらさ、レオンともっと居られるのに」
「……何言ってんだか」
ちゃぷちゃぷ、と人間が身に纏う衣服なるものを捲り上げながら波打ち際から浅瀬に仁人が近付いて来る、それでも触れ合えるほど近くはない。どうか願いが叶うなら、彼と共に陸を自由に歩きたい。そしてこの気持ちをいつか伝えたい。そう小さな恋心が密かに奇跡を願った。同じ人間であったなら、或いは同じ人魚であったなら。こんな切ない思いはしなかったかもしれない。それでも恋をしてしまった、この気持ちに嘘は吐けない。せめて、こうして会える内はこの心を秘めてでも友達で在り続けよう。そう思った。
「服濡れちゃうから、ほら戻って」
「……別に良いよこれ位」
「明日また会お?」
「……分かった」
少しだけ寂しそうに眉を下げながら、レオンが陸に戻って行く。濡れた足を布で拭い靴と呼ばれる足を保護する物を履いて此方へ向き直ると大きく手を振られた。それに応える様に手を振り、小魚をいっぱい捕えた網籠を持ち尾びれと全身の筋肉を使って一度海面に飛び上がると一気に海の底へと潜って行く。陽が徐々に沈んで行くのが分かる。薄暗い海の底に居る皆の元へと戻る中、誰も居ないと分かっていても不意に後ろを向いてしまう。揺らぐ海面に向かって手を伸ばし、そして何も掴めない掌をそっと握り締めた。
人魚達の中でも噂、というものは様々存在する。例えば人間の涙を飲むと幸せになるだとか、そして陸に上がった人魚が居ただとか。今までであればそんな噂信じもしなかった。だが今はどうだろう、喉から手が出る程そんな噂話の真相が知りたかった。陸に上がりたい、彼ともっと一緒に居たい、そんな気持ちが噂程度の話でも真に受ける程彼を恋しくさせていた。様々な人魚達に聞いた噂はこうだった、要約すると人間の魔法使いによって尾びれを脚に変えさせるというもの。魔法、そんなものがあるのかと小魚をぱくりと食べながら唸る。しかし人間との接触は禁忌とされている為噂は噂でしかなかった。でもこいつはどうだろう、とそう思い至りすぐ傍で同じく小魚を食す友に顔を向ける。
「なぁ」
「なに?リュカ」
「……人間になれる噂知ってる?お前」
「まぁ噂位はね」
「人間には魔法使いが居るとかどうとかさ」
唐突な質問だとは分かっている、所詮噂だという事も。だがそれでも海藻にもすがる思いで尋ねた。すると友はうーんと迷う様に顔を顰めた後、此方を向き直った。その目は真剣な眼差しだった。
「リュカはさ、どうしても陸に上がりたいの?」
「レオンと一緒に居たい」
「確かに魔法使いは存在するって話ではある。でもすぐに会えるようなものじゃないって」
「そう、だろうなぁ」
「……ま、例えば王族の血を引く人間とかなら使えるかもしれないけど」
「王族……?」
その時ふと思った、彼は――レオンは自分の身分を王子であると名乗って居なかっただろうか?彼もこの噂を知らないだけでもし魔法が使えるとしたら……もし本当に魔法で人魚が陸に上がれる様になるとしたら……そんなもしもが浮かぶ。それが本当であるのならなんたる偶然、いや奇跡なのだろうか。この事を彼に伝えればもしかすれば人間になれるかもしれない。そう思うと期待に胸が高鳴った。
「王族に心当たりあるわ」
「まさか王族に惚れたとか言う?」
「お前変なとこ鋭いな」
「都合良いんだか悪いんだか」
なるほどと友が否定も反対もしないでくれる。それが救いだった。
「人間になっちゃったらもうこっち側には戻って来れないよ」
「勿論分かってる」
「そ、じゃあお幸せに?」
「サンキュな」
確かにそうだ、もしも本当に一度人間になってしまえばもう此処には戻って来られないだろう。それでも、やはり彼の傍で彼を癒し、彼を支え救いたかった。迷いは無い、たとえ恋心が実っても実らなくても、彼の傍に居られるのならば何でも良かった。生まれ育った海に感謝を捧げて高鳴る鼓動を胸に明日を待った。
太陽の光が水面を輝かせる、コポリと泡が浮かんでいく。いつもの様にサンゴ礁を通り抜け、浅瀬に出ると顔を出した瞬間彼――レオンと目が合う。昨日プレゼントした真珠はどうやらすぐにペンダントに加工されたらしく服の上から胸元をきらりと控え目に、しかし華やかに飾っていた。それを見て思わず嬉しさに頬が綻ぶ。
「リュカ」
「お待たせ」
人魚の世界の、人魚が陸に上がった事があるという噂、それを友は暗に真実と裏付けてくれた。それが本当に可能かどうかは分からない、けれど可能性が1パーセントでもあるのならば試さずには居られなかった。浅瀬のギリギリまで泳ぎ、上体を起こしてレオンに近付くと彼もまた靴を脱いで服を捲り上げ寄って来る。
「レオン、お前に確認したい事があんだけどさ」
「何、唐突に?」
「レオンは、魔法使えたり……する?」
「……何で知ってんの」
どうやら魔法が使えるのは本当の様だった、だがそれを忌み嫌っている様にも受け取れる表情を不思議に思うが出会いを思い出せば何かやはり訳アリなのだろう。悲しそうな顔になるレオンを励ましたくて手を伸ばすがまだ届かない、もどかしい。
「人魚の間で噂があってさ。人間の魔法使いに頼めば人魚が人間になれるって」
「そんな噂あんの?」
「レオンが本当に魔法を使えるのなら、頼みがあるんだよね」
切実な想いだった。今までの全てをなげうってでも陸に上がりたいという願い。それは彼と出会ったから、彼に恋をしてしまったから。もっと近付きたい、傍に居たい。そう心が叫んでいる。真剣な眼差しでレオンを見詰め、そして願いを口にする。
「レオンと一緒に居る為に……俺をさ、人間にしてくれない?」
「……やれる、とは言い切れないしどうなるか分からない。それでも良いなら、まぁ……」
ちゃぷちゃぷとレオンが服が濡れるのも構わずに浅瀬に足を踏み入れる。やっと触れられる距離に近付いた。俺を抱き締める様にして腕を伸ばしその手が身体に触れると眩く暖かい光に包まれた。互いの強い願いが魔法によって尾びれの形状を変えていく。じわじわと二又に別れ、背びれも鱗も消え去り人間のそれと変わらない脚を形作る。種族を変えられるというのは不思議な感覚だった。痛みや苦しみは無いが、下半身の感覚が変わって行くのはありありと分かる。今までと完全に異なる感触がする。尾びれだけだった神経が二つに別たれたのはどうにも変な感じだ。
「痛くないの?」
「変な感じはする……」
眩い光が収束すると試しに脚を動かしてみる、がまだなんとも難しい。同時に動きそうになる脚は尾びれだった頃の名残だろうか、レオンと同じく立ち上がろうとするが縺れて上手く動けない。これは参ったと苦虫を嚙み潰した様な顔をしてしまう。そんな様子に漸くレオンが少し笑い出した。
「まずは着替えの用意と歩く練習からしないとじゃない?」
「ごめんこれは想定してなかった」
「少し待ってて、服適当に持ってくるから」
そう言って浅瀬から走り布で足を拭って靴を履き、レオンが駆け出して行った。本当に人間になったのか確かめる意味も含めて浅瀬を泳いでみる、しかし普段の感覚では呼吸が続かずああなるほど人間はこんな風になるのかと痛感した。そして彼が戻って来るまでのその間に少しでも、と岩場に手を掛けて震える脚を立たせてみる。まだ感覚が慣れない、が見れば確かに人間のそれに変わっている。本当に人間になった大きな証明だった。脚だけでなく人魚の頃と違い剝き出しの性器にも違和感が凄く、人間とはこんな感覚なのかと感心する。そうして岩場で一人起ち上がる訓練をしていると仁人が駆け足で服を抱え戻って来た。
「流石に人間が裸で出歩くのはヤバい」
「サンキュ」
「一応大きめ選んで来たけど大丈夫そうか」
再び靴を脱いだレオンに手を引かれ、何とか浅瀬から波打ち際まで脚を動かす。左右順番に動かすというのは尾びれだけの生活に慣れていた自分には非常に不思議なものだ。しかし神経も確りと左右に枝分かれしそれぞれにちゃんと感覚がある。これがまたより不思議な感覚をより深めた。途中足を滑らせてバシャンと二人で転んだりもしたが、笑い合いながら砂浜までどうにかこうにか辿り着く。すると布で身体を拭き用意して貰った服を渡され、着用の仕方を教えて貰いながら着始める。大きいものを用意したと言っていたがサイズ感は丁度良かった。全て着終えるとようやく歩く訓練の開始だとばかりに手を伸ばされ、その手を取って立ち上がる。
「ちょっ、待ってまじむずい」
「今日は一日歩行訓練になりそうだわ」
「そこまで考えてなくて悪いって」
「まぁ歩けさえすればどうとでもなるし」
砂浜で手を取り合いながら一歩、二歩とゆっくりゆっくり歩く。段々と脚を左右別に動かす事にも慣れて来た。足場の悪い砂浜でとなればあとはバランス良く立ち覚束なくとも自力で歩ければ上々の成果だろう。次第にレオンの支え無しでしっかりと踏み出せるようになり、その早い成長ぶりに彼が我が事の様に喜ぶ。
「慣れるの速いじゃん」
「レオンのお陰」
そう、レオンのお陰だ。今こうして陸に上がり彼と触れ合える距離に居るのも、何もかも。彼に一目惚れをしてからずっと願った夢がひとつ叶ったのだ。これ以上彼の手を煩わせる訳にはいかない、と一息吐いてまた歩み始める。我ながら多少は様になって来たのではないかと思えた。
「上々なんじゃない?」
「俺なんとかなってる?」
「それなりに。んー……王子の従者が一人増えたくらいなら問題ないだろうし、何より住む場所も必要でしょ?形だけでも従者として来て貰うけど良い?」
「俺、人間になった後の事ぜんっぜん考えてなかったわ……」
「でしょうね」
すっかり一人で歩き立てるようになった頃、陽がじわじわと西に沈んで行く。オレンジに染まる海辺は静かに波の音だけが響いている。いつもならば別れの時間だ。しかしそれももうその必要はなくなった。手を取り合い、レオンの住む城へと二人でゆっくりと歩いて進む。彼の首に掛けられた朱色に染まる一粒の真珠が煌いていた。
それから幾許が経っただろうか、レオン直々の従者として侍女や他の従者に快く迎えられた後、レオンから聞いていた以外の陸の事を必死に勉強をしながらすっかり従者としての仕事にも慣れていった。ほぼずっとレオンと居られる事が何より嬉しく、彼にいつでも付き添い孤独を癒せる事が何より喜ばしかったのだ。それと共に、淡い恋心も人知れず育っていた。
あれからもうおよそ一年が経ったのかと感慨深くなる。今でも仁人は大切に真珠のペンダントを首から下げている。まるでお守りの様に。窓から見える美しい海は時折少しだけ寂しさも感じるがもうこの生活に慣れてしまった。この選択に未練は無い。まだ陽の高い昼過ぎ、以前ならばこっそり海辺で二人会っていた頃の時間だ。
「リュカ、久々に海行かない?」
「海?じゃ準備するわ」
海へ行くならば濡れてもいい様にと軽めの着替え一式を持ち畳んで鞄に詰め込む。それを持ちドアノブを捻って部屋の扉を開けるとレオンが外に向けて歩み始める。それに付き従い後ろ手に扉を閉めて絨毯の敷かれた廊下を歩いて行く。長い廊下を進むと城の大きな扉の前に出る。それを開くと立派な鉄格子の門が見えた。レオンが通り抜けるのを確認してから扉を閉めて門番に挨拶すればすぐにその門は開かれる。それを通り抜けてしまえば海はそう遠くない。坂を下って行けば砂浜と波が揺らめききらきら輝く水平線がすぐに見えた。
「あれからもう一年だけど、すっかり慣れたんじゃないリュカ?」
「お陰様で」
二人だけの秘密を共有する様に、クスクスと笑い合いながら尚も坂を海方面へと下る。暫くして砂浜に辿り着くとザァザァという波の音と共に懐かしい香りがした。
「初めて出会った時、リュカが居なかったら死んでた」
「あの時はマジ必死だった、どうなる事かと思ったし」
「救われて無かったらこんな未来も無かった訳だ」
波打ち際まで近付きながら懐かしむ様にレオンが双眸を細める。今でも鮮明に思い出せる、彼に一目惚れしたのも正しくその時だったのだから。その時からずっと彼に恋をし続けている。今だって、溢れ出そうになる感情を抑えるのに必死なのだ。
「海辺で毎日こっそり会うのも悪くなかったね」
「ああ、まぁまさか人魚と友達になったなんて誰も信じないだろうけど」
友達、その言葉に少しだけ胸がつきりと痛む。過去の自分から言い出した事だが、もっと近付きたいという気持ちはもう隠し通せなかった。レオンが靴を脱ぎちゃぷりと波打ち際に立つ、引いて満ちてを繰り返す波が彼の足元を濡らした。
「レオン」
「うん?何改まって」
「……レオンの事がずっと好きでした」
初めて見た時の様に、そのまま波に連れていかれてしまいそうな儚さを感じて思わず手を伸ばし手を掴む。例え結ばれなくてもいいとずっと思っていた。傍に居られるだけでいいとそう思っていた。だが胸の内は正直だ、一度出てしまった胸中は胸の痞えが取り払われたようにするりと言葉になっていた。
「過去形、なの?」
「ううん、今でも……俺レオンの事がどうしようもなく好き」
「……俺もリュカが好きだった」
「過去形……なの?」
「いや?今でも」
何を思ったのか、楽し気に笑うレオンに手を引かれ海にざぶざぶと入って行く。服が濡れるのも構わず浅瀬まで連れていかれるとまるで溺れる様に口付けられた。波の飛沫がその髪をしっとりと濡らす。ああ、好きだ……と思いが溢れ出して止まらない。少しだけ潮の味がする思いが通った口付けは頬を紅潮させた。海の中で不慣れながらに何度も何度もキスをして、掌で互いに頬を撫で合う。額を重ね合わせて、また吸い寄せられる様にキスを重ねる。まるで初めて会った時の様に、しかしあの頃とは全く違う想いを胸に、ずぶ濡れになりながら重ねた唇はとても暖かかった。
今日の上々の収穫に笑みを浮かべて暫くぷかぷかと海面を背に泳ぎ、日光浴をしていると不意に人の気配を感じた。人魚とは異なる人間、ずっと興味はあったが考えてみればまじまじと見るのは初めてかもしれない。砂浜に現われ思い詰めたような表情で前髪を潮風に揺らす男性は人魚の尾びれとは異なる"脚"と呼ばれるものを保護するなにかを脱いで波打ち際まで歩いて来た。バレない様にと岩場に隠れ様子を伺うと、その男性にしては愛らしいかんばせが見えた。急にどきりと胸が高鳴る。こんな気持ちは初めてだった。
そんな感情に困惑していると彼は次第に浅瀬から深い所へ向けて迷い無く歩み、ちゃぷちゃぷとその身を海に投じようとしていた。人間は泳ぐ事も可能だが人魚の様に海の中を自由に動けはしない筈、だというのに彼は泳ぐ気配もなくただ海に飲み込まれようとしている。岩陰から海に潜ると丁度脚のつかない深くまで辿り着いた彼の口からこぽこぽと大きく泡が漏れ出す。一向に泳ぐ気配の無い彼にこれはいけない、溺れてしまうと逸る気持ちでそちらへ急いで泳ぎ向かうとその身体を掬い上げて浅瀬へと送り届ける。確か昔母上が溺れた人を助けた事があると言っていた。その時の話を思い出し、海水を派手に飲み込んだだろう彼を砂浜まで助け出すと肺を押し唇を重ねて必死に呼吸を送り込む。次第に海水を吐き出しカハッと噎せ息を吹き返した彼に良かった、まだ生きていると安堵した。次第に意識を取り戻した彼が自分を見て複雑な表情をした。
「……なん、で」
「それはこっちの台詞な?何でこんな事したの」
海水を飲み込んだ所為で掠れた声が何故と問う、しかしそれは逆に此方が問いたかった。あのまま放置していれば危うく死ぬところだったのではないだろうか。心配する様に彼の顔を覗き込み、次の答えを伺う。
「……しにたかった」
「どうして……」
「なんかもう、いやになって」
彼の頬を伝うのは海水なのか涙なのか、それは分からなかった。それでも、彼を救いたいと思ってしまった自分の行いは間違っていなかったと信じたかった。何より、彼を見ているとどきどきと鼓動が高鳴り形容しがたい感情が溢れて来る。その答えもまた分からなかった。
「じゃあ俺と友達になろ。それじゃだめ?しんどい時も海を見る度、ひとりじゃないって思えるでしょ」
「お前、人魚……?」
ようやく意識がはっきりしてきたのか、此方の正体に気付くと大層驚いた顔をしていた。両親にもきつく言われているが、人の世では人魚の肉は永遠の命が手に入るなどという迷信がある。故に軽率に人の前に姿を見せてはいけないという暗黙のルールがあった。しかしそれでも助けたかったのだ。どうにかして生かしたかった。
「本当はこんな風に人間と会うのヤバいんだけどさ……」
「……ともだち」
「え?」
「友達になってくれるんでしょ?」
それまで悲し気な表情だった彼はやっと少しだけ頬を綻ばせほんの少しだけ笑んだ、その笑顔に完全に虜になってしまったのが自分で分かる。どんなにきらきらした太陽を浴びる海面よりも美しく、小魚が舞い踊る色とりどりのサンゴ礁よりも綺麗だった。
「うん、言った」
「また会える?」
「いつもこの時間には此処に居る」
「また必ず、会いに来るから」
そう言った彼はそっと片手を此方に差し出し、小指だけを伸ばして拳を握った。真似する様に小指を伸ばして拳を握ると小指同士が絡められ、約束ね、と改めて噛み締める様に言われその暖かな小指の感触を心に刻み込んだ。
その翌日、いつもと同じ様に海藻を編んだ網で小魚を獲り、そのついでに海面へと顔を出す。すると昨日の彼が海を眺めていた。急いで砂浜の方へと泳いで行き、浅瀬で上半身を海から陽の元に晒す。するとすぐに彼が此方に気付き走り寄って来た。その顔は昨日と違い明るく安心した。
「本当に会えた……」
「約束したしな」
身に纏った物を捲り上げ、波打ち際から少しだけ浅瀬に足を付けた彼はそれだけで大層嬉しそうだった。どうやら彼は永遠の命には興味は無さそうで安堵する。そもそも迷信でしかないのだがそんな事はそれを信じる人間達は知り得はしないだろう。
「お前、名前は?」
「リュカ」
「俺はレオン。一応王子ってやつ」
「王子様にはあんまり見えなかっ……」
「一番言われたくないわそれ」
「ごめんて」
確かに身に纏っている服という物は煌びやかなものに見える。人魚にとってその価値は良く分からないが、王子というのが偉い身分であることは知っていた。深海の世界にも秩序を守り統べる王は居る為だ。故にきっとこんな風にこっそり人と会っているなどとはとてもではないが言えない。揺られる波にちゃぷちゃぷと尾びれを動かして体勢を整える。人魚と言うのは人間と同じく肺呼吸も出来、海の中では鰓呼吸も可能な為こうして半身を海から出していても問題はない。人魚の起源はそもそも人と海の生物の愛から始まったもの、その生まれの名残があるのが人魚だ。半分は人間である。
「歳は?」
「17」
「じゃあ同い年か」
きっと今まで周りにこうして気兼ねなく話せる友も居なかったのだろう。つい昨日、海に命を投げ出そうとしていた等とは思えない程には彼は様々な表情を見せてくれる。出会ってからまだたった数時間の相手にこうも気を許して貰えるというのはなんとも嬉しくむず痒い。ザァザァと波が彼の裸足の足元を濡らしては引いて行く。このもどかしい距離感は高鳴る胸をより実感させた。この気持ちは一体何だろう、ふわふわしたような、それでいて胸が締め付けられる様な気持ち。答えを知りたくとも今は知り得ることは無い。
「人魚の友達が出来るとは思いもしてなかった」
「俺も人間の友達は流石に初めて」
お互いにクスクスと笑い合う、その後も深海での生活を聞かれたり、逆に王子としての暮らしを聞いたり……実に様々な話をした。食べるものも主に魚や貝類のみの自分達とは違い肉や野菜も食べるらしい事、毎日衣服をちゃんと着る事など多岐に渡る。どの話も新鮮で、今まで人間は怖いものと思わされてきた自分には眩しく感じた。
尽きない話は西に陽が沈み始める頃まで続き、そろそろ互いに帰らなければという所で今日の秘密の会話は終わりを迎えた。こんな風にきっと何度も彼に会える、そう思うと心が温かく満たされた。
「それじゃ、リュカ」
「またね」
帰って行く背を見届け、小魚を捕まえた海藻の網を握り締めて自分もまた深海へと帰って行く。全身を使いうねる様に尾びれを動かし、滑らかに海中を泳いで帰路を辿る。
様々な海藻が茂る深海は既に薄暗く、他の人魚達もそれぞれ捕まえて来た夕飯を準備していた。そんな中で友の姿を見かけて泳いで行くとやれやれといった顔で迎えられた。戦利品である小魚が大量に入った海藻の網籠を手に此方は笑んで返す。
「ただいま」
「リュカ随分ゆっくりだったじゃん」
「俺も俺で忙しいんですー」
「他の皆もう帰って来てる」
まぁ少し喋り過ぎたかもなぁと反省しつつふと思い立ち、こいつなら大丈夫かと姿勢を正して友に気になる事を尋ねる事にした。
「……なぁ」
「何、どしたの改まって」
「……なんつーかさぁ、ある人を見ると、胸が苦しくなったり、ふわふわしたような気持ちになんの」
「考えるまでも無く恋じゃん」
自分の胸を押さえ、レオンを見た時に感じた不思議な感覚をそのまま口にして尋ねる。恋、そうか、これが恋というものなのかとようやく合点がいった。しかしよもや初恋が同性の……まして人間になるなどとは思いもよらなかった。これは言っても良いものなのか、と思考が揺らぐ。が、きっとこの友達ならば聞き入れてくれるだろうとこっそり内緒話をする様に近付く。
「そのさ、相手が……人間なんだよ」
「……マジで言ってる?」
「大マジ。因みに滅茶苦茶かわいい」
「惚気は良いよ。それで、どうする気?」
「告白、するかぁ」
「あーあ、俺聞かなかった事にするわ」
完全に呆れ顔ではありつつも話に乗ってくれる柔太朗は良い奴だと思っている。きっと言いふらす様な事もしないだろう。
しかし肝心の彼とはまだ出会ったばかりの友達だ。淡い片思い、それも人魚と人間との間の。それは正しく一目惚れだった。何度も会う内、きっといつか……叶わなくても、結ばれなくてもこの想いを伝えようとそう思った。
波打ち際に素足で立つ彼と、浅瀬で上半身を海面から出す自分。陽の光を浴びてきらきら輝く波が満ちては引いてを繰り返し、その縮められない距離感の切なさを思わせる。自分も陸に上がれたら……彼にまた触れてみたい……会う度、その顔を見る度にそんな欲求がふつふつと沸き上がって来る。友達という関係は恋を自覚した自分にはとてももどかしいものだった。
「リュカ、聞いてる?」
「うん、聞いてる。レオン話すの上手いから楽しいし」
「海の世界の話だって俺にはさっぱりだったからまぁ……楽しいっちゃ楽しい」
今日は寝る時の話をした、海藻を体に巻き付けて流されない様に眠ると言ったらレオンは驚いていた。陸の生活では考えも付かない事だろう。人間はふかふかなベッドというものに身体を横たえ眠るらしい。経験の無い世界の話はどれも聞いていて飽きない。初めて触れ合った人間がレオンでもあるからか、どの話も興味深くより陸の上に対する興味が勝っていった。
「そうだ、今日はレオンに真珠を持ってきた。プレゼント」
「真珠?高価なものじゃん」
「そっちの価値は良く分かんないけどさ、まぁ人魚の世界でも人気」
掌に握り締めていた一粒の真珠、プレゼントを何か贈りたくて自分でとってきたものだ。それをそっとレオンに投げ渡すときらりと光りを受けて煌き、そして彼の手の中に納まる。それを摘まみ上げて太陽に翳す彼がその虹色に輝く美しさにほう、と感激していた。
思った通り、彼に美しく光り輝く真珠は良く似合った。真珠、別名を人魚の涙と呼ぶらしい。愛を知らない彼にそっと寄り添えるように、真珠ならばアクセサリーにでも加工出来るだろうと思ってのプレゼントだった。
「それがあれば寂しくないでしょ?」
「ありがと。……大切にする」
レオンが照れ臭そうに少しだけはにかむ。その表情を見てああよかったと安堵した。このもどかしい距離が少しだけ縮まった様な錯覚をする。大切そうに一粒の美しい真珠を握り締めた彼は沈み行く西日を少し残念そうに見ていた。
「今日もそろそろ時間じゃない?」
「明日も来る」
「じゃあ約束」
「陸に上がれたらさ、レオンともっと居られるのに」
「……何言ってんだか」
ちゃぷちゃぷ、と人間が身に纏う衣服なるものを捲り上げながら波打ち際から浅瀬に仁人が近付いて来る、それでも触れ合えるほど近くはない。どうか願いが叶うなら、彼と共に陸を自由に歩きたい。そしてこの気持ちをいつか伝えたい。そう小さな恋心が密かに奇跡を願った。同じ人間であったなら、或いは同じ人魚であったなら。こんな切ない思いはしなかったかもしれない。それでも恋をしてしまった、この気持ちに嘘は吐けない。せめて、こうして会える内はこの心を秘めてでも友達で在り続けよう。そう思った。
「服濡れちゃうから、ほら戻って」
「……別に良いよこれ位」
「明日また会お?」
「……分かった」
少しだけ寂しそうに眉を下げながら、レオンが陸に戻って行く。濡れた足を布で拭い靴と呼ばれる足を保護する物を履いて此方へ向き直ると大きく手を振られた。それに応える様に手を振り、小魚をいっぱい捕えた網籠を持ち尾びれと全身の筋肉を使って一度海面に飛び上がると一気に海の底へと潜って行く。陽が徐々に沈んで行くのが分かる。薄暗い海の底に居る皆の元へと戻る中、誰も居ないと分かっていても不意に後ろを向いてしまう。揺らぐ海面に向かって手を伸ばし、そして何も掴めない掌をそっと握り締めた。
人魚達の中でも噂、というものは様々存在する。例えば人間の涙を飲むと幸せになるだとか、そして陸に上がった人魚が居ただとか。今までであればそんな噂信じもしなかった。だが今はどうだろう、喉から手が出る程そんな噂話の真相が知りたかった。陸に上がりたい、彼ともっと一緒に居たい、そんな気持ちが噂程度の話でも真に受ける程彼を恋しくさせていた。様々な人魚達に聞いた噂はこうだった、要約すると人間の魔法使いによって尾びれを脚に変えさせるというもの。魔法、そんなものがあるのかと小魚をぱくりと食べながら唸る。しかし人間との接触は禁忌とされている為噂は噂でしかなかった。でもこいつはどうだろう、とそう思い至りすぐ傍で同じく小魚を食す友に顔を向ける。
「なぁ」
「なに?リュカ」
「……人間になれる噂知ってる?お前」
「まぁ噂位はね」
「人間には魔法使いが居るとかどうとかさ」
唐突な質問だとは分かっている、所詮噂だという事も。だがそれでも海藻にもすがる思いで尋ねた。すると友はうーんと迷う様に顔を顰めた後、此方を向き直った。その目は真剣な眼差しだった。
「リュカはさ、どうしても陸に上がりたいの?」
「レオンと一緒に居たい」
「確かに魔法使いは存在するって話ではある。でもすぐに会えるようなものじゃないって」
「そう、だろうなぁ」
「……ま、例えば王族の血を引く人間とかなら使えるかもしれないけど」
「王族……?」
その時ふと思った、彼は――レオンは自分の身分を王子であると名乗って居なかっただろうか?彼もこの噂を知らないだけでもし魔法が使えるとしたら……もし本当に魔法で人魚が陸に上がれる様になるとしたら……そんなもしもが浮かぶ。それが本当であるのならなんたる偶然、いや奇跡なのだろうか。この事を彼に伝えればもしかすれば人間になれるかもしれない。そう思うと期待に胸が高鳴った。
「王族に心当たりあるわ」
「まさか王族に惚れたとか言う?」
「お前変なとこ鋭いな」
「都合良いんだか悪いんだか」
なるほどと友が否定も反対もしないでくれる。それが救いだった。
「人間になっちゃったらもうこっち側には戻って来れないよ」
「勿論分かってる」
「そ、じゃあお幸せに?」
「サンキュな」
確かにそうだ、もしも本当に一度人間になってしまえばもう此処には戻って来られないだろう。それでも、やはり彼の傍で彼を癒し、彼を支え救いたかった。迷いは無い、たとえ恋心が実っても実らなくても、彼の傍に居られるのならば何でも良かった。生まれ育った海に感謝を捧げて高鳴る鼓動を胸に明日を待った。
太陽の光が水面を輝かせる、コポリと泡が浮かんでいく。いつもの様にサンゴ礁を通り抜け、浅瀬に出ると顔を出した瞬間彼――レオンと目が合う。昨日プレゼントした真珠はどうやらすぐにペンダントに加工されたらしく服の上から胸元をきらりと控え目に、しかし華やかに飾っていた。それを見て思わず嬉しさに頬が綻ぶ。
「リュカ」
「お待たせ」
人魚の世界の、人魚が陸に上がった事があるという噂、それを友は暗に真実と裏付けてくれた。それが本当に可能かどうかは分からない、けれど可能性が1パーセントでもあるのならば試さずには居られなかった。浅瀬のギリギリまで泳ぎ、上体を起こしてレオンに近付くと彼もまた靴を脱いで服を捲り上げ寄って来る。
「レオン、お前に確認したい事があんだけどさ」
「何、唐突に?」
「レオンは、魔法使えたり……する?」
「……何で知ってんの」
どうやら魔法が使えるのは本当の様だった、だがそれを忌み嫌っている様にも受け取れる表情を不思議に思うが出会いを思い出せば何かやはり訳アリなのだろう。悲しそうな顔になるレオンを励ましたくて手を伸ばすがまだ届かない、もどかしい。
「人魚の間で噂があってさ。人間の魔法使いに頼めば人魚が人間になれるって」
「そんな噂あんの?」
「レオンが本当に魔法を使えるのなら、頼みがあるんだよね」
切実な想いだった。今までの全てをなげうってでも陸に上がりたいという願い。それは彼と出会ったから、彼に恋をしてしまったから。もっと近付きたい、傍に居たい。そう心が叫んでいる。真剣な眼差しでレオンを見詰め、そして願いを口にする。
「レオンと一緒に居る為に……俺をさ、人間にしてくれない?」
「……やれる、とは言い切れないしどうなるか分からない。それでも良いなら、まぁ……」
ちゃぷちゃぷとレオンが服が濡れるのも構わずに浅瀬に足を踏み入れる。やっと触れられる距離に近付いた。俺を抱き締める様にして腕を伸ばしその手が身体に触れると眩く暖かい光に包まれた。互いの強い願いが魔法によって尾びれの形状を変えていく。じわじわと二又に別れ、背びれも鱗も消え去り人間のそれと変わらない脚を形作る。種族を変えられるというのは不思議な感覚だった。痛みや苦しみは無いが、下半身の感覚が変わって行くのはありありと分かる。今までと完全に異なる感触がする。尾びれだけだった神経が二つに別たれたのはどうにも変な感じだ。
「痛くないの?」
「変な感じはする……」
眩い光が収束すると試しに脚を動かしてみる、がまだなんとも難しい。同時に動きそうになる脚は尾びれだった頃の名残だろうか、レオンと同じく立ち上がろうとするが縺れて上手く動けない。これは参ったと苦虫を嚙み潰した様な顔をしてしまう。そんな様子に漸くレオンが少し笑い出した。
「まずは着替えの用意と歩く練習からしないとじゃない?」
「ごめんこれは想定してなかった」
「少し待ってて、服適当に持ってくるから」
そう言って浅瀬から走り布で足を拭って靴を履き、レオンが駆け出して行った。本当に人間になったのか確かめる意味も含めて浅瀬を泳いでみる、しかし普段の感覚では呼吸が続かずああなるほど人間はこんな風になるのかと痛感した。そして彼が戻って来るまでのその間に少しでも、と岩場に手を掛けて震える脚を立たせてみる。まだ感覚が慣れない、が見れば確かに人間のそれに変わっている。本当に人間になった大きな証明だった。脚だけでなく人魚の頃と違い剝き出しの性器にも違和感が凄く、人間とはこんな感覚なのかと感心する。そうして岩場で一人起ち上がる訓練をしていると仁人が駆け足で服を抱え戻って来た。
「流石に人間が裸で出歩くのはヤバい」
「サンキュ」
「一応大きめ選んで来たけど大丈夫そうか」
再び靴を脱いだレオンに手を引かれ、何とか浅瀬から波打ち際まで脚を動かす。左右順番に動かすというのは尾びれだけの生活に慣れていた自分には非常に不思議なものだ。しかし神経も確りと左右に枝分かれしそれぞれにちゃんと感覚がある。これがまたより不思議な感覚をより深めた。途中足を滑らせてバシャンと二人で転んだりもしたが、笑い合いながら砂浜までどうにかこうにか辿り着く。すると布で身体を拭き用意して貰った服を渡され、着用の仕方を教えて貰いながら着始める。大きいものを用意したと言っていたがサイズ感は丁度良かった。全て着終えるとようやく歩く訓練の開始だとばかりに手を伸ばされ、その手を取って立ち上がる。
「ちょっ、待ってまじむずい」
「今日は一日歩行訓練になりそうだわ」
「そこまで考えてなくて悪いって」
「まぁ歩けさえすればどうとでもなるし」
砂浜で手を取り合いながら一歩、二歩とゆっくりゆっくり歩く。段々と脚を左右別に動かす事にも慣れて来た。足場の悪い砂浜でとなればあとはバランス良く立ち覚束なくとも自力で歩ければ上々の成果だろう。次第にレオンの支え無しでしっかりと踏み出せるようになり、その早い成長ぶりに彼が我が事の様に喜ぶ。
「慣れるの速いじゃん」
「レオンのお陰」
そう、レオンのお陰だ。今こうして陸に上がり彼と触れ合える距離に居るのも、何もかも。彼に一目惚れをしてからずっと願った夢がひとつ叶ったのだ。これ以上彼の手を煩わせる訳にはいかない、と一息吐いてまた歩み始める。我ながら多少は様になって来たのではないかと思えた。
「上々なんじゃない?」
「俺なんとかなってる?」
「それなりに。んー……王子の従者が一人増えたくらいなら問題ないだろうし、何より住む場所も必要でしょ?形だけでも従者として来て貰うけど良い?」
「俺、人間になった後の事ぜんっぜん考えてなかったわ……」
「でしょうね」
すっかり一人で歩き立てるようになった頃、陽がじわじわと西に沈んで行く。オレンジに染まる海辺は静かに波の音だけが響いている。いつもならば別れの時間だ。しかしそれももうその必要はなくなった。手を取り合い、レオンの住む城へと二人でゆっくりと歩いて進む。彼の首に掛けられた朱色に染まる一粒の真珠が煌いていた。
それから幾許が経っただろうか、レオン直々の従者として侍女や他の従者に快く迎えられた後、レオンから聞いていた以外の陸の事を必死に勉強をしながらすっかり従者としての仕事にも慣れていった。ほぼずっとレオンと居られる事が何より嬉しく、彼にいつでも付き添い孤独を癒せる事が何より喜ばしかったのだ。それと共に、淡い恋心も人知れず育っていた。
あれからもうおよそ一年が経ったのかと感慨深くなる。今でも仁人は大切に真珠のペンダントを首から下げている。まるでお守りの様に。窓から見える美しい海は時折少しだけ寂しさも感じるがもうこの生活に慣れてしまった。この選択に未練は無い。まだ陽の高い昼過ぎ、以前ならばこっそり海辺で二人会っていた頃の時間だ。
「リュカ、久々に海行かない?」
「海?じゃ準備するわ」
海へ行くならば濡れてもいい様にと軽めの着替え一式を持ち畳んで鞄に詰め込む。それを持ちドアノブを捻って部屋の扉を開けるとレオンが外に向けて歩み始める。それに付き従い後ろ手に扉を閉めて絨毯の敷かれた廊下を歩いて行く。長い廊下を進むと城の大きな扉の前に出る。それを開くと立派な鉄格子の門が見えた。レオンが通り抜けるのを確認してから扉を閉めて門番に挨拶すればすぐにその門は開かれる。それを通り抜けてしまえば海はそう遠くない。坂を下って行けば砂浜と波が揺らめききらきら輝く水平線がすぐに見えた。
「あれからもう一年だけど、すっかり慣れたんじゃないリュカ?」
「お陰様で」
二人だけの秘密を共有する様に、クスクスと笑い合いながら尚も坂を海方面へと下る。暫くして砂浜に辿り着くとザァザァという波の音と共に懐かしい香りがした。
「初めて出会った時、リュカが居なかったら死んでた」
「あの時はマジ必死だった、どうなる事かと思ったし」
「救われて無かったらこんな未来も無かった訳だ」
波打ち際まで近付きながら懐かしむ様にレオンが双眸を細める。今でも鮮明に思い出せる、彼に一目惚れしたのも正しくその時だったのだから。その時からずっと彼に恋をし続けている。今だって、溢れ出そうになる感情を抑えるのに必死なのだ。
「海辺で毎日こっそり会うのも悪くなかったね」
「ああ、まぁまさか人魚と友達になったなんて誰も信じないだろうけど」
友達、その言葉に少しだけ胸がつきりと痛む。過去の自分から言い出した事だが、もっと近付きたいという気持ちはもう隠し通せなかった。レオンが靴を脱ぎちゃぷりと波打ち際に立つ、引いて満ちてを繰り返す波が彼の足元を濡らした。
「レオン」
「うん?何改まって」
「……レオンの事がずっと好きでした」
初めて見た時の様に、そのまま波に連れていかれてしまいそうな儚さを感じて思わず手を伸ばし手を掴む。例え結ばれなくてもいいとずっと思っていた。傍に居られるだけでいいとそう思っていた。だが胸の内は正直だ、一度出てしまった胸中は胸の痞えが取り払われたようにするりと言葉になっていた。
「過去形、なの?」
「ううん、今でも……俺レオンの事がどうしようもなく好き」
「……俺もリュカが好きだった」
「過去形……なの?」
「いや?今でも」
何を思ったのか、楽し気に笑うレオンに手を引かれ海にざぶざぶと入って行く。服が濡れるのも構わず浅瀬まで連れていかれるとまるで溺れる様に口付けられた。波の飛沫がその髪をしっとりと濡らす。ああ、好きだ……と思いが溢れ出して止まらない。少しだけ潮の味がする思いが通った口付けは頬を紅潮させた。海の中で不慣れながらに何度も何度もキスをして、掌で互いに頬を撫で合う。額を重ね合わせて、また吸い寄せられる様にキスを重ねる。まるで初めて会った時の様に、しかしあの頃とは全く違う想いを胸に、ずぶ濡れになりながら重ねた唇はとても暖かかった。
