「お姉さん、旅行者の方?」

 チリン……鈴の音が聞こえた。
 視界に白い影が映る。
 
「大丈夫?」

「えっ、あっ……」

 目の前に立ち並ぶ青々とした山をぼんやり眺めていたため、予期せぬ方向から声をかけられ、はっとした。
 まるでわたしが気付くのを待っていたかのようにジリジリと鳴き続けるセミの声が突然大合唱を始める。

(あっ……)

 額に浮かぶ汗を拭い、声の方に目を向けた。
 この場所で誰かに声をかけられるとは思ってもみなかったため、反応に遅れてしまった。
 少し前までいた空間とずいぶん違うこの場所はまるで別世界に迷い込んだようで、思考が追いつかない。どうやらわたしは灰色の空の下、そこに置かれたベンチにただひたすら座り込んでいた。

『西賀茂車庫前』

 そう書かれたこの土地はあまりに静かな空間だった。
 ここは名前の通りバスの車庫なのだろう。幾度となくバスが行き交うものの、人の乗り入れが少ないところを見るとずいぶん遠くまで来てしまったようだ。

「迷ってしまったの?」

 驚いたのは、その人がなんとなくうちの母親に似ていたからだ。
 白い日傘を差し、柔らかそうな長いスカートが風に揺れる。よくよく見ると母とはちょっと違うのだけど、なぜかそう思ってしまった。
 その足元でふてぶてしい顔をした白い猫が気持ち良さそうにくつろいでいる。先ほどの鈴の音の主である。
 
「あ、えっと……」

 迷ったわけではない……と言いたいところだけど、こんなところに見慣れない人間が座っているのだ。怪しさこの上ないのは事実だ。

「ね、眠っちゃったみたいで」

 素直に白状すると、少しずつ感覚が体内に戻ってくるのを感じた。何をやっているのだわたしは、と同時に恥ずかしくなる。

「やっぱり」

 ごめんなさいね、と言いながらその人はわたしの隣に腰掛ける。
 ふんわり甘い香りがした。
 良いところの御婦人なのだろうか。
 物腰がゆったりと穏やかで不思議な魅力がある。

「実はわたし、行きのバスであなたを見かけたのよ。ぐっすり眠っているようだったから気にはなっていたのだけど」

 行きのバスから見られていたなんて……考えただけでも消えたくなる。
 のそのそとその足元に近づき、大あくびをした白猫が羨ましくてたまらない。

「どこかに行く予定だったの?」

 もしよかったらお手伝いをするわ、と言ってくれる御婦人。

「あっ、いえ……」

 どこか、適当な場所を伝えるべきだったのだろう。だけど現在地さえも正確に把握していないため、嘘をつくわけにはいかなかった。
 目に入る景色も聞こえてくる音も何もかもわたしの知る京都の街とは違っていて、どうやらいつの間にか京の最果ての地まで来てしまったのだと薄々勘付いていた。

「……特になくて」

 変な女だと思われただろうな、と思いつつも正直に告げていた。

「行き先もなくバスに乗り込んだんです」

 わたしの住む街から京都までは新幹線で三十分もあれば訪れることができた。
 旅行会社の旅行パックで申し込めばホテルと新幹線代がセットになってずいぶんお得な価格で旅行をすることが可能だった。社会人になったばかりの頃から定期的に予定を立てて京都へ訪れるようになり、自然とこの地へやってくることが増えた。
 学生の頃のような時間はないけどわずかな贅沢をするだけの自由なお金はある。
 学生の頃には叶わなかった生活が叶い、社会人になりたてのころは、大人とはなんて素晴らしいものなのだろうと何度思ったことか。
 その反面、一人前の人間として扱われる年齢になり、わたしは毎日がむしゃらに働くようになった。
 失敗続きで頭を下げ続けることもあったし、理不尽なことで怒られ、最終電車に駅員さんに注意を受けながらギリギリ走り込む日も増えていった。いつもいつも頭を下げていた。ただただ慌ただしく毎日は過ぎていき、そんな中での唯一の楽しみは定期的に訪れる京都の街の散策となった。
 生活環境が変わってしまったからか、少しずつ友人たちとも疎遠になってしまったため、この旅路に自分なりの贅沢をするようになっていった。
 それは二十八歳になった今でも変わらない。
 ただひとつ変わってしまったのは、何を見て何をしてもわたしの心の奥深くでぱぁんと何かが弾けるような感覚がなくなったということ。
 京都の街を訪れることにずいぶん慣れてしまって、SNSで見つけた可愛いカフェに行くことも季節ごとに色合いを変える観光スポットへも足を運ばなくなった。
 一日乗車券を購入し、ただただ市内をバスに乗ってぐるぐる宛もなく回る。手荷物はお財布とスマホ、それから書籍だけが入っているバックだ。できるだけ遠くへ向かうバスに乗り、乗車時間を利用して本を開くのがわたしの京都の街を訪れた時の過ごし方となった。
 いつも嵐山に向かうバスに乗るのがほとんどで、基本的に荷物も少ないのでそのまま読書旅に入ることが多かった。京都タワーの写真を撮ることがなくなってずいぶん経つ。そしてだんだん人が多いエリアも避けるようになり、最近は嵐山方面よりも静けさを好み、下鴨神社や植物園へ向かうバスへ乗り込むことが増えた。
 なんとなく降りた先で食事をしたり、そこで次のバスへ宛もなく乗り換えたり。ゆったり流れる景色を眺めつつ、わたしの読書の旅は続く。それは唯一の心の拠り所となった。
 この地は誰でも受け入れてくれる。
 実家にだって足が遠退き出したというのに、この地に来るためには無意識のうちに計画をたててやってくる。
 不思議なものだった。
 ただし、今回はいつもと違っていた。
 いつも以上に仕事が立て込み、睡眠時間も削って働いていたため、今回は旅行を見送ろうかとも考えるほどだった。とはいえ、リフレッシュも必要だと予定の変更はせず、仕事脳から切り替えもできないまま新幹線に飛び乗り、変わらない古都の街へ足を踏み入れたのだ。
 唯一の楽しみだった京都ひとり旅も最近では義務的に行っている気がしてならなかった。行きたい場所ももうないくせに、ただ恒例のように予約を行う。いつの頃からかときめきは減り、キラキラ輝いて見えたこの場所から色が消えた気がした。まるでわたしの毎日のように。
 バスの中でいつものように本を開くものの、文字が霞んで見えない。そう思った時、ひどい睡魔に襲われた。
 ああ、ダメだな。
 窓の外を眺め、ふと思う。
 結婚ラッシュという言葉を耳にするようになってずいぶん経った。恋人ができたとか、結婚するだとか、プレ花嫁期間だとか、友人たちと集まった際には今までになかった会話が増えた。大学時代から付き合っていた恋人と別れてもう四年以上経っているわたしには無縁の話で、焦りも羨ましささえもいつの間にか消えていた。
 下鴨神社に向かうバスの中でぶつかった男性は首から大きな一眼レフのカメラを下げて目をキラキラとさせていた。窓ガラスに写ったわたしの瞳とは正反対で、彼に比べてわたしは、これからもどんどん心が枯れていくのだろうと思うと悲しくなった。
 大好きだった街、京都でもまた、わたしから大切なものが奪われつつある。
 抗えない睡魔に意識が遠のくのを感じながら、忙しかったから仕方ないと自分に言い聞かせ、目覚めた時には前向きになれるよう願い、瞳を閉じた。
 『お客さん、終点ですよ』と言われて目を開けた時、知らない車庫前にいて驚いたものだった。
 ここは、どこなのだろうか?
 寝ぼけた頭で何度か自問自答を繰り返した。
 あんなにも観光客で賑わっていた京都の街とは思えないくらいほとんど人が歩いていない。歴史ある古都の街というよりも、わたしの地元に雰囲気が似ている。目の前には山々が広がり、穏やかな空間の中に小さな畑やビニールハウスも見かけられた。
 異空間に迷い込んでしまった気がした。
 ぼんやりした頭で位置情報を検索するとどうやらここは京都市内の北区に位置しているらしく、同じ市内にいることに衝撃を受けた。
 そうして、次はどこへ向かおうかと考えているうちに、いつの間にかただベンチに座り込むという状況に陥っていた。というよりもこの空間にいることは苦痛ではなかった。
 白猫は、当たり前のようにその場に現れた。
 だけどわたしは、現実を受け止めたくなくて空を見上げた。

「宛もないバスの旅を?」

 なぜ知らない御婦人にそんな話をしてしまったのだろうか。隣に座る彼女は柔らかく頬を緩める。
 いつの間にか彼女の膝元で丸くなる白猫に『あら、かわいい』と微笑む。
 見えるのか……と思いつつも、自然と目をそらせていた。

「わたしも若い頃に同じようなことをしていたわよ」

「え?」

 そうなんですか?とそらした目を再び彼女に向けると、優しい瞳と目があった。やっぱり、母親に似ていてどきりとさせられる。

「そんな時に旦那さんに出会ってこの街に越してきて、もう数十年になるけど、あの頃はまさかこの土地で暮らすなんて思ってもみなかったのよ」

「もとは京都の人じゃないんですね」

 そういえば京都弁じゃないことに今さら気付かされる。

「今日も宛もない旅の途中なの?」

「え? あ、はい……まぁ……」

 残念ながらそのとおりだ。
 いつになったらこの暮らしから抜け出せるのだろうか。わたしにもわからない。
 まるで永遠に続く迷路のようだ。

「それならここからのほんの少しのお時間をおばあさんに付き合ってもらえないかしら? あなたが良かったら、だけど」

 そう言うなり、彼女は頬を緩めた。
 それはとても親しみがあって、乾ききったわたしの心を照らす一縷の光のようだった。


◇◇◇


「お、おいしい……」

 表面はこんがりと中は柔らかく、上から白味噌を垂らして串にさされたお餅、香ばしい香りに包まれたあぶり餅を口に含み、眉尻を下げる。

「わたしにも案内のできる場所があってよかったわぁ」

 御婦人は優雅に微笑む。
 あのあと、わたしは彼女に連れられて『今宮神社前』と書かれたバス停に向かい、今宮神社を参拝のあと、神社の参道の両側に建ち並ぶ古い木造造りの『あぶり餅』が食べられるお店へ連れてきてもらった。
 今宮神社の門前菓子として、あぶった餅を奉納された斎串を使って提供されたお餅があまりにもおいしくて感嘆の声をあげていた。
 一度は見失った白猫もちゃっかりこの場所までついてきたようで、同じく縁側に腰かけて気持ち良さそうな顔をしていた。
 店内は懐かしい香りが漂っている。
 ゆっくりと回る扇風機の音が耳に届く。

「おいしいですね」

 じわじわと体に染み渡るどこか懐かしいその味と食感に何度目かになる台詞をもらす。
 ほんのり苦いお茶が優しい甘さのあぶり餅の美味しさを引き立てている。
 意識を戻すと大きな蝉の声があちこちで聞こえるけど、それほど気にはならなくなった。あれほど暑い暑いと思っていたのが嘘のようだ。
 この場所は本当に静かで都会の喧騒を忘れ、とてもとても心地良かった。

「この子は、何て名前なの?」

 ふてぶてしい顔をした白猫が顔を上げたとき、御婦人はこちらに優しい目を向けてくる。

「み、ミミです」

 ああ、わかっていたのかと同時に思う。

「見えるんですね」

「この時期は、特にね」

 意味深に答え、白猫……いや、ミミに手を差しのべる。そのしぐさは随分慣れたもので、人差し指をくいっと曲げてミミを呼ぶ姿はやはり母の姿と重なって見えた。
 もちろん、対するミミは聞こえていないかのようにふいっと顔をそらせ、もう一歩先に足を延ばし、また日の当たる床にたどり着き、体を丸めた。

「うちで飼ってた猫です」

 言うべきか悩んだけど、思わず声に出ていた。

「ミミ……だと思うんです。そっくりだし」

 おかしなことを言っているという自覚はある。
 それでもこの御婦人があまりにも親身になって聞いてくれるものだから、ついつい言葉にしてしまっていた。

「ここまで、一緒にきたの?」

 不思議ね、と目を丸くして御婦人は笑う。
 驚いている割に、どこか楽しそうである。

「違うんです」

 少しずつ、声が小さくなっていく。
 違う……ただそれだけは伝えなくてはならない。
 そう思ったら少しずつ、言葉に自信が持てなくなっていった。

「ミミは、わたしのことを怒ってるんだと思います」

 ミミが我が家にやってきたのは、わたしが子どものころだった。
 お兄ちゃんが裏庭で見つけて、そのまま我が家に住み着いていった。
 最初は灰色だったミミもお風呂にいれると透き通るような白猫に変身してわたしたちを驚かせた。
 水が嫌いだったから、なかなか白猫姿は見せてはくれなかったけど。だけど、本当に透き通っていて美しいと思えた。
 ふてぶてしい顔つきは今と変わらず、話しかけても応答することもなく、ただ気まぐれにそばにやってきてはつまらなさそうに大きなあくびをしていた。
 そんなミミが家から姿を消したというのは、三年ほど前のことだ。
 忙しいことを言い分けに実家に帰らなくなってはや数年。
 ミミがいなくなったと母から連絡が入った。
 帰ったら変わることなくいてくれる。そんな存在だと思っていただけにひどく動揺し、ますます家に帰れなくなった。
 見たくない現実から目を背けたのだ。
 そんなとき、ふらりと訪れた京都の街で、ミミとよく似た白猫がついてくることに気がついた。

「ミミは、最後の最後に顔を見せなくなったわたしのことを怒ってるんじゃないかなって」

 なぜミミがここにいるのかはわからない。
 なぜついてくるのかもわからない。
 でも、バスに乗っていたり電車に乗っていたり……信じられなかった。
 どうしてミミがここに?
 幾度か浮かんだ疑問だったが、この地へ来るたび目にするミミの姿は周りの人にも見えていないようだったため、この猫はもうこの世のものではないのだと言われた気がして涙が出たし、自分自身に絶望した。
 ごめんね、それさえも言えなくなった。

「ミミちゃんはあなたのそばにいたいんじゃないかしら」

 そう言って笑った御婦人はなにか見透かしたような目をしていた。
 そうであればいいのに、と願い、ミミに瞳を向ける。
 チリン、と鳴るミミの首もとに付けられた鈴は、おじいちゃんと一緒に縁日で購入してわたしがつけたものだ。
 自由気ままなミミの居場所をいつもいち早く教えてくれた。

「なんで京都にいるのか、わからないんです」

 なぜ、縁もゆかりもない京都にいて、そこにやってきたわたしのそばに現れるのか。
 呼び掛けてもこちらを振り返ってくれるわけでもないのに、ただそこに居続ける。

「ミミ……」

 最初のころはそう呼び続けていた。
 でも、全くこちらを見てくれない様子にこちらも呼び掛けることをやめていた。
 すべてのことに期待をするのにやめたのと同じように、ミミに話しかけることさえ諦めてしまった。

「会いにも帰らず、のんきに旅行にだけは行くわたしに怒ってるのかなって……」

 そう思えてたまらなくなった。

「ミミちゃんはあなたと観光ができて嬉しいんじゃないかしら」

「え?」

「つまらなかったらずっとここにはいないでしょう?」

 小さなころ、家族旅行へ行くとき、ミミもつれていってほしいと泣いたことがある。
 それは難しいと聞き入れてもらえなかったし、ミミは隣の家のスミばあさんのところへ預けていくことが常だった。
 きっとミミは聞いてくれないけど、いろんな場所を一緒に見て、そのときの感想をミミに伝えたかった。

「せっかく素敵なところなんだもの。楽しんでいって」

 御婦人は船岡山という、今宮神社からまっすぐ南に向かった先にあるところに住んでいてこのあたりは日頃の散歩コースなのだそうだ。旦那さんとは、ちょうどこのあたりで出会ったのだという。不思議なご縁だと自分でも言っていた。

「船岡山はバスでは通ったことがあります! 降りたことはないんですけど」

 北大路バスターミナルに直結している北大路ビブレにはトイレ休憩も兼ねて立ち寄ることが多々あり、その後すぐに聞こえるバス停名は耳に残っていた。

「素敵なところよ。ビブ……イオンモールからは大徳寺だったり建勲神社だったり、いろんなところへ行くことができるのよ」

「イオンモールもあるんですね?」

 思ったよりもいろいろなものがありそうだ。
 検索しようとスマホを取り出すわたしに、そうね、と微笑む御婦人。

「今日は新しいことがひとつ叶ったわ」

「新しいこと?」

 カバンから取り出したメモ帳を眺め目を細める御婦人に思わず聞き返す。

「あなたとお話をすることで、普段にはない刺激がたくさんもらえたのよ」

 ほら、やりたいことリストをつけているの、と彼女は楽しそうだ。その姿に、わたしは目を見開いた。

「刺激……?」

 わたしと話したことで?
 そんなふうに思ってもらえたことが驚きで、言葉を失う。

「わたしからしたら、なんでも自由にできるあなたが羨ましいのよ」

「え?」

「わたしくらいの歳になるとね、今まで当たり前にできていたことが難しくなるのよ。だけど、一日のやりたいことを達成できたときはとても嬉しいものよ。新しい自分を見つけられた気持ちになるの」

 なんて行動力に溢れているのだろうか。
 休めるものなら家の中にいたい。
 そう思っていたわたしには信じられない言葉だった。

「疲れた時には、休みなさい」

 あなたも、と御婦人は頬を緩める。

「え?」

「来るべきときに、そのときは来るのだから」

 言っている意味がわからない。まるで呪文のようだ。

「肩の力を抜いて」

 誰に対して、何を言っているのだろうか?
 だけど、その言葉は胸にずしりと響いて、頭の中をぐるぐると回る。

「ミミちゃんも心配しているわ」

「えっ……」

 そう告げられたとき、視界がぼんやり揺れて、何かが頬を伝ったのがわかった。

「あれ……」

 なぜだかわからないけど、わたしは泣いていた。

「なっ……どうして……」

 拭っても拭っても溢れてくる。

「ご、ごめんなさ……」

 なぜだろう。
 乾ききったわたしの心に、まだこんなにも水分が残されていたのかとしみじみ考える。
 この人が母親に似ているからだろうか。
 話している途中なのに、突然顔を覆ってしまった。

『疲れたときには、休みなさい』

 その言葉がすっと体内に染み込んだからだ。

「大丈夫よ」

 柔らかな声は優しい音をしていた。
 
「大丈夫。あなたとわたしは似ているから」

 御婦人は笑う。
 涙をぬぐって笑顔を返そうとしたけど、できなかった。

 諦めた方が楽だった。
 自分をいろんな呪縛で雁字搦めにして動けなくしていたのは自分自身だったのに、前に進むことを拒絶していた。

「いいことを教えてあげるわ」

 御婦人の声は心地よい。
 瞳を閉じるとじわじわと胸があたたかく包まれていく。
 ふんわり広がるあぶり餅の甘さとどこか似ている気がした。


◇◇◇


 次に目を開けた時、目の前にいたはずの御婦人の姿はなく、冷え切った湯呑と手の付けられていないあぶり餅だけが残されていた。
 眠っている間に帰ってしまったのだろうか。このタイミングで睡魔に負けた自分が情けない。
 あと五分で閉店です、と告げてくるお店の人の言葉に驚いて空を見上げると、青々とした空が広がっていて、そこには入道雲がかかっていた。その鮮明な色合いに目を奪われつつ、誰に尋ねても来店した時からわたしはずっとひとりでこの場所にいたと言われ、言葉を失った。
 ミミの姿もいつの間にかなくなっていた。

「もう閉店時間なんです」

 すぐそこで男性が残念です、とお店の人に頭を下げたところだった。かなり息が上がっている。
 考える間もなかった。

「あ、あの……」

 どうして声をかけたのかわからない。
 今までのわたしだったら絶対にしないのに。

「冷めてますけど、良かったら」

 驚きの連続だ。
 自分の言葉に驚き、頭を上げて唖然としてわたしに視線を向ける男性にも驚いた。
 胸に下げたカメラが揺れる。

「「あっ!」」

 声を上げたのは、同時だった。

『わたしは今、とっても幸せよ』

 チリン、という音がして、どこからともなくあの声が優しい聞こえた気がした。