僕の名前

 僕は、いつからここにいるのか分からない。
 気づいた時には、この場所にいた。

 そこは、比べ物にならないくらい大きな箱が、綺麗に整列した場所。
 いわゆる住宅街という場所らしい。
 とある人が話していた。
 
 僕には、お気に入りの場所があった。
 それは、美しく整列した家たちの前にある道路。
 日の光が当たり、黒く冷たい地面が温かくなるこの場所は、僕のお昼寝スポットだ。
 
 吹く風が暖かく包み込み、淡く桃に色づいた花弁が舞う季節。
 初めて人に触れた。いや、触れられた。

 それは、薄汚れたグレーの服をまとっている。
 ほんのり、鼻腔に幕が張るような香り。
 これはのちに、油だと分かった。
 大きくてかたい手が、僕の頭に手を伸ばす。
 僕よりも大きな存在に驚き、恐怖で思わず爪を立てた。

「おっと。驚かせてすまない。」
 怖さを感じさせる巨人とは裏腹に、低く優しい声がする。
 身体は動けない。
 すると、僕が怖がっているのを感じたのか。ゆっくり大きな手を、僕の鼻に近づけてきた。

「怖くないよ。」
 僕に挨拶をしているらしい。
 ゆっくり確かめるように、差し出された手を嗅いだ。
 服から香る油の匂い。だが、かすかに鼻に突く香りもした。
 この匂いはなんだ?
 僕は、探求心が抑えられなくなり、服の香りや持っていた黒い袋まで念入りに確かめた。
 同じ匂いが、袋の中からする。思わず手をのばす。

「お、これが気になったのか?」
 そう言って、袋から一束取り出した。
 薄いひらひらしたものが束になり、折り重なっている。そこには、大小さまざまな黒い斑点。

「これは、新聞。たくさんの知ってほしい情報が詰まっているもの。毎朝本業(仕事)へ行く前に、配っているんだ。」
 その人は、新聞を僕の差し出す。僕が気になっていたもの。匂いの正体はこれだった。

「明日も来るから、またお話しよう。」
 新聞を袋にしまうと、今度はゆっくり僕の頭に手をのばす。
 次は、流れに身を任せた。大きくかたい手。歩き回っていたのだろうか。優しく、暖かかった。
 そして、人は僕の顔をじっと見つめてくる。なんだか恥ずかしくなり、思わずそっぽを向いてしまった。
 「アハハ、ごめん。また怖がらせたな。」
 咄嗟に、手を引いてしまった。その行動が、なんだか寂しく感じる。
 もう少しいてほしいと、欲が湧く。だが、その思いも虚しくその人は立ち上がってしまった。
「じゃあ、また。ん~、そうだな……。よし!」
 袋を持ち直し、手を腰に当てる。そして満面の笑みでこう答えた。

「また明日!みけ。」
 
 僕は、いつからこの場所にいるか分からない。
 そんな僕に、「みけ」と名付けた男がいた。
 それが、僕の初めての名だった。

 それから暫く経ち、朝から太陽の光が元気が良すぎるほど輝き、どこにいても暑さを感じる季節。
 その人は、ある人物を連れて顔を出した。
「みけ、おはよう。今日は、娘を連れて来たよ。」
 僕は、隣に立つ一人の女の子を見る。その姿に驚いた。なぜなら、そこには眠たそうな顔をした、ゆうちゃんがいたからだ。
「あれ?ねこさん。おはよう。」
 ゆうちゃんは、寝ぼけながら僕に挨拶をしてくれる。
「なんだ、もう顔見知りだったのか。」
 新聞を運ぶ人は、少し残念そうにしながらも、優しく微笑む。
「今日は、夏休みの宿題とはいえ、新聞配達の手伝いをしてくれて、ありがとう。」
 そう言って、ゆうちゃんの頭を撫でた。僕は、少し羨ましくなり、その人にねだるように足に頭を擦り付ける。
「お!なんだ、今日はサービス精神旺盛だな。ゆうのおかげかな?」
 アハハと笑いながら、僕の頭にも手を伸ばす。いつものように、油とほのかな新聞の香り。不思議と安心する。
 僕に初めて名をつけた人は、ゆうちゃんの父親だった。