血の気(き)が多い下級妃ですが、吸血鬼な冷徹皇帝に過保護に溺愛されています

 毎晩血を吸ってもらえているおかげでわざわざ人目を忍んで瀉血する必要がなくなり、ある意味気楽に過ごしていた明玉だったが、ひとたび宮から出ると以前にも増して悪意の視線に晒されるようになっていた。
「あれが穢れをまき散らすという林賢妃?」
「自分で血を流すのでしょう? おぞましい」
「陛下はなぜあのような娘を賢妃にしたのかしら?」
 四夫人という地位故に面と向かって言ってくる者はいないが、皆が皆同じようなことしか言わないので耳に届く声も多かった。
 元々の明玉の噂もさることながら、偉龍が直々に四夫人へと召し上げたことが彼女たちには特に気に入らないのだろう。
 冷血皇帝と恐れられる偉龍だが、彼の寵姫となればこの後宮で最上の栄華を得られることには変わりはない。その可能性のある明玉を妬ましいと思うのは自然なことなのだ。
「宦官から聞いたのだけど、陛下は毎夜林賢妃の宮を訪ねているそうよ?」
「でも朝までは過ごさないとも聞いたわ。寵をいただいているというわけではないのかしら?」
「寵姫であるなら、取り入る価値はあるというものだけれど……」
 嫌悪の言葉の数々が少し落ち着いたかと思うと、今度は明玉の価値を探るような声が聞こえてくる。妬ましいとは思っていても、そのそばで甘い汁を吸いたいと考える輩はいつどんなときでも現れるようだ。
 そんな彼女たちの囁きを耳にしながら、明玉は緊張の面持ちで足を運んでいた。
「……あの、詩夏? そろそろ宮に戻ってもいいかしら?」
 上品に見えるよう微笑みながら小首を傾げ、後ろを歩く詩夏を振り返る。
 だが、詩夏はにこりともせず淡々と告げた。
「まだです。やはり賢妃様には緊張感が足りなかったのでしょう、宮で引きこもって練習するよりも歩き方が美しいです」
「……そう、ですか」
 引きつりそうになり、笑顔を崩さないように気をつけながら明玉はまた前を向き歩き出した。
 そう、この悪意や品定めの視線に晒されても共用の庭園を散策しているのは、詩夏に教養を身に着ける練習だと宮を追い立てられたからだ。
 引きこもってばかりもよくないから、と散歩に誘われたが、詩夏はまるで試験でもするように外を歩く明玉の所作を指摘してくる。
(気分転換に、という意味でのお誘いかと思ったのに)
 心の中で少々半泣きになりながら、明玉は足運びに気をつけながら進む。
 そんな明玉の心の内に気づいてか気づかないでか。詩夏はふぅ、と軽く息を吐き助言をしてきた。
「周りの声をお気になされているならば、軽く睨んでやればよいのです。ああやって小さく囀っているだけで、賢妃様にたてつこうとまでは考えていない者たちなのですから」
 冷たく言い放つ詩夏の言葉には、陰口を囀っている周囲の妃嬪たちへの嫌悪が表れている。
 真面目な印象だった詩夏は、公正でもあるようだ。
 だが、明玉は周囲の声に関してはそれほど気にしていなかった。
「別にいいわよ。彼女たちは噂しているだけで、私に実害はないもの」
 基本的には物事に対して“まあいっか”で済ませてしまう明玉にとって、妃嬪たちの陰口は大したことではない。
 寧ろ、この共用の場に長くいることで、苦手としている人物に会ってしまう方を危惧している。
 だからそろそろ宮へ戻ろうかと提案したのだが……。
「あーら! この場には合わぬ貧相な娘がいるわ!」
 少し離れたところから、わざわざ明玉へ聞こえるように声を大きく上げたのは柔らかそうな焦げ茶の髪を複雑に結い上げた美女だった。その身体は細身ながら豊かな曲線美を描いており、しっかりと施された化粧は彼女自身の気の強さを際立たせているように見える。この美女――(リェン)徳妃が明玉が会いたくなかった人物その人だ。
 任徳妃は、明玉を嘲るような笑みを浮かべ近づいて来る。
(ああ……会っちゃった)
 げんなりとして笑みを崩しそうになったが、背後で小さく「賢妃様?」と圧を感じる声が聞こえ引き締める。上級妃らしい仕草を身に着けるための練習は続いているということだろう。
 だが、詩夏は後ろにいるというのに、なぜ前にいる明玉の表情が分かったのだろうか。状況を見て予測しただけかもしれないが、それだけ自分のことを把握されていることにある種の恐ろしさを感じた。
(詩夏って、もしかしてものすごく優秀な女官なのでは?)
 そんな女官が自分についてくれたことに疑問を持っているうちに、任徳妃が目の前に来ていた。
「相変わらず地味な格好をしているのね。お顔も身体も貧相なのだから、せめて装飾品で飾ればいいのに」
 可哀想なものを見るような目で見下ろしてくる徳妃だが、よく見れば袖で隠している口元には笑みが浮かんでいる。わざわざ声を掛けてくるところを見ても、明らかに下の身分である明玉を嘲笑い見下すことを楽しんでいるようだった。
 思えば、任徳妃は初めからそうだった。
 賢妃として宮へ移動した初日に、彼女はわざわざ明玉の宮を訪ねてきたのだ。
 挨拶だと言っていたが、皇帝が直々に召し上げた妃とはどんな娘なのかを品定めするためなのは明らかだった。
 任徳妃は明玉の姿を見た途端、嘲笑を隠す様子もなく「ふんっ!」と盛大に鼻で笑ったのだ。
『美しくもなければ子を産めそうな身体つきでもないのね、安心したわ。陛下直々に召し上げたと聞いたけれど、きっと何か事情がおありなのね』
 と、明玉が何かを言う前に盛大に嘲られ、そのまま去っていってしまった。
 それからというもの、宮城内で顔を合わせるたびに任徳妃はこうしてわざわざ明玉を嘲笑しに来るのだ。
 芝居のように大げさな仕草で口にするの蔑みの言葉はある意味清々しいが、毎回付き合わされるのはごめんこうむりたい。
「ああ、飾る程の宝飾品がないのかしら? そうよね、あなたはつい最近まで何の後ろ盾もない貧乏下級妃でしたし、毎夜通ってくださっているという陛下からも贈り物などはないようですし」
 薄青の鳥の羽をあしらった扇で口元を隠しているが、目元だけでも蔑みの感情が表れているので隠している意味はあるのだろうかと明玉は思う。
 夜を共にした妃に皇帝が贈り物をするのは、恩寵(おんちょう)の証でもある。それがないということは、毎夜通っていたとしても寵があるわけではないということだ。
 任徳妃は暗に、明玉が偉龍の寵愛を受けているわけではないことを周囲にも知らせているのだろう。
 偉龍は明玉を食糧としか思っていないはずなので、あながち間違いではないのだが……。
「それならそれで宮に籠られていればよろしいのに。わざわざ人目のある庭園に出てくるなんて……ああ、もしかして健康のためかしら? ですがそれならお散歩より食事に気を遣った方がよろしいのではなくて? 今のままではあまりにも貧相で……」
 と、今度は哀れみの目で明玉を上から下まで見回す彼女は、なおも囀った。
「陛下がなんの目的であなたを召し上げたかは存じませんけれど、せっかくの寵を得られる機会もこれでは活用しようがありませんわね」
「……そうですね。でもよいのです、私はあくまで陛下にとって必要だからと召し上げられただけなので」
 黙っていても任徳妃の話は終わりそうにないと判断し、あくまで自分は偉龍に必要だから四夫人になったのだと告げる。言外に寵を望んでいるわけではないということも含めたつもりなのだが、それは伝わらなかったようだ。
 明玉の言葉を聞いた周囲の者が、皆息を呑む音が聞こえる。そして目の前の任徳妃の目尻がつり上がったことで、自分が言葉選びを失敗したことに気づいた。
「ま、まあ! それはつまり、どのようなあなたでも陛下は必要となさっているということ? なんという不遜な自信かしら!」
「あ、いえ。そうではなく……」
 真意が伝わらなかったので改めてちゃんと伝えようとしたが、任徳妃はわなわなと肩を震わせたあと、持っていた扇を閉じその腕を振り上げる。
「陛下の御心を語るなど、驕り高ぶるのもいい加減になさい!」
(叩かれるっ!?)
 振り下ろされた扇を打ち付けられると予測した明玉は、身構える。だが、その痛みが明玉に届くことはなかった。
「何をしている?」
 静かで、感情のこもらない低い声が庭園に落とされた。荒げているわけでもないのによく響く重厚な声に、任徳妃の腕がぴたりと止まる。
 聞き覚えのある声の方を見ると、毎夜見ている鬼の面をつけた男性が庭園の端に佇んでいた。
 皇帝・王偉龍の突然の出現に、庭園にいた者たちはすぐに地に伏せ頭を下げる。
「へ、陛下……」
 今まさに暴力を振るおうとしていた任徳妃も気まずそうに腕を下ろし礼を取ったので、明玉も同じように頭を下げた。
 下げながら少し首を横に向け任徳妃の様子を窺うと、その顔は真っ青で……みっともないところを見られて恥じ入っているというよりも、偉龍自体を恐れているように見える。
「何をしている? と聞いたのだが?」
 庭園の空気が張り詰める中で、偉龍はさらに重力を増した声でもう一度問いかける。
 仮面のせいで視線は分からなかったが、頭を下げる前彼は明らかに任徳妃の方を向いていた。問われた任徳妃は、震える声で答える。
「あ、あのっ……その、む、虫がおりまして! 払っていただけでございます」
 明らかに明玉に向かって扇を振り下ろしていたというのに、彼女は必死で言い逃れをする。その顔はやはり青く、かなり偉龍のことを恐れているのだと分かった。
 視界の端に見える任徳妃の女官たちも、ひれ伏しながら背を震わせている。
 おそらく、この庭園にいる妃嬪も、宮女も、宦官も。皆が偉龍を恐れているのだろう。噂のような、不興を買えばすぐに首を落とすような冷徹な人物だと思っているようだ。
(それほどに恐ろしい方かしら?)
 少なくとも、明玉自身は偉龍の恐ろしさを強く感じたことがないため、皆がここまで恐れる理由が分からなかった。
 内心首をひねっていると、一際低い声が庭園に響く。
「俺は、嘘は嫌いだが?」
 唸るような声音には、明らかな怒りが込められている。明玉も、恐れはせずとも流石に怖いと感じた。
 偉龍は、嘘をつかれることを殊更嫌っているようだ。
(え? だとすると、私も嘘をついているような……)
 血が多く作られてしまう原因について話をしたとき、昔助けてくれた相手を方士だと偽った。あとは話していないだけだが、血が霊薬であることも黙っている。
 正確には明玉の血が霊薬だということを秘密にするための嘘だが、この嘘も知られてしまったら偉龍の怒りを買ってしまうのだろうか。
 偉龍自身を恐ろしいと思ったことはなくとも、今任徳妃へ向けられている怒りが自分に向けられるかもしれないと思うと、普通に恐怖だった。
(で、でも、方士が蟠龍だったという違いだけだし……それほど怒りを買うような嘘ではないわよね? ……多分)
 偉龍の怒りが自分に向けられないことを願っていると、明玉の隣で頭を下げていた任徳妃が震えた声を発する。
「しっ! 失礼いたしました。ご寵姫様に手を上げようとしたこと、まことに申し訳ございません」
 寵を得てはいないのだろうと先ほど同じ口で言っていたというのに、ここで明玉のことを『ご寵姫様』と呼ぶとは。恐怖の前では矜持も何もなくなってしまうのだろうかと明玉は少々呆れる。
 だがそれより、事実として明玉は寵姫ではない。なのでその勘違いを偉龍が不快に思ってしまうのではないかと憂慮していたのだが、偉龍は「ふん」と鼻を鳴らしただけで特に否定することはなかった。
 なぜだろうと思っていると、怒りが治まったのか普段の声音になった偉龍が「林賢妃、来い」と短く命じる。
「え? あ、はい!」
 まさか呼ばれるとは思わなかった明玉は一拍遅れてその言葉を理解した。
(もしかして、私に何かご用事があって後宮へいらしたのかしら?)
 なんの用事なのかはまったく見当がつかないが、今自分を呼ぶということはそういうことなのだろう。
 頭を上げ、詩夏を伴いながら偉龍のもとへ行く途中、他の妃嬪たちの囁きが耳に届く。
「……今、徳妃様が賢妃様のことを『ご寵姫様』と言ったのに、陛下は否定なさらなかったわ」
「ということは、やはり賢妃様は陛下の寵をいただいているということ?」
 聞こえてきた会話に、明玉はまさか、と思いながらも胸の奥が僅かに喜びで震えたのを感じた。