祖母は読書家だった。毎日飽きることなく本を読んで、好きなのは太宰治と繰り返し唱えていた。そう唱えなくては健康に差し障りがあるのだとでもいうくらい、私に太宰と、太宰の本のことを話してくれた。その影響で私も本を読むようになった。
ダス・ゲマイネだとか、斜陽だとか、人間失格だとか、彼の本には暗くて陰鬱な作品が多い。祖母はこんなものを好んで読んでいたのかと、いつか眉をひそめたことがある。今でも彼の作品はあまり読まない。
かつての祖母が読んでいた本。作家の名前や作品名をいくつか思い浮かべながら、私は窓に近寄った。ブラインドもカーテンも引かれていないのは、私の判断だ。元々かかっていたカーテンにカビが生えて、こんなの呼吸に悪いかもしれないと引き剥がした。どうして綺麗好きな祖母がカーテンだけ同じものを使用していたのか、私には知る由もない。
窓に近寄って初めて、部屋に差し込んでいた光の正体を知った。街灯だ。田圃に囲まれた土地ではあるものの、人家がいくつかあるのだから夜道に困らないようにと街灯が設置されている。そのうちの一つを、私は月明かりと感違っていたらしい。
なんとも恥ずかしい大人だと、窓のそばに立って外を眺めながら思った。こんなもの、よくよく見れば光の差し込み具合から月明かりでもなんでもないとすぐにわかったはずだろう。我ながら情けない。
そして部屋には、やはり泥棒のいた痕跡はなかった。見間違いだったかと胸を撫で下ろし、振り返って部屋を抜けようとした時だ。今度は一冊の本が目に飛び込んできた。
その本は、まるで私がここへ、この時に来るのを待ち受けていたかのようにすっと本棚から抜け出して、床に音立てて落下した。文庫本で、背表紙が床面に当たって硬い音が鳴った。
私はまたしても、その場に立ち尽くした。ほんの一瞬のことではあったが、本はしっかりと収められた状態から糸で引かれたみたいに不自然に落ちたのだ。
瞬間、私の身も心も、祖母の寝室に釘付けになった。すぐにでも部屋を脱出したい、奇妙でおぞましい気配がするのに、ここを出るためには本の前を通っていかなくてはいけない。そんなのとてもじゃないができない。
五分か、一〇分か、私は本と対峙して動かなかった。天敵を見つけた小動物のように、動かなかった。あわよくばこの奇怪な一連の出来事が、視界の右から左に流れていって、気のついた時には消えて無くなってくれないものかと願った。けれど現実は、そんなものではない。現実は、動かない。
いくら待っても無駄だと良い加減に理解した私は、抜き足差し足で本へと近づき、極力音を立てないよう努めて屈んだ。気は進まなかったが、床に落ちた文庫本をそっと拾い上げた。
文庫本は、どうやらエッセイのようであった。誰かが書いた本。著者の名前を私は知らない。初めて見る名前だった。
ダス・ゲマイネだとか、斜陽だとか、人間失格だとか、彼の本には暗くて陰鬱な作品が多い。祖母はこんなものを好んで読んでいたのかと、いつか眉をひそめたことがある。今でも彼の作品はあまり読まない。
かつての祖母が読んでいた本。作家の名前や作品名をいくつか思い浮かべながら、私は窓に近寄った。ブラインドもカーテンも引かれていないのは、私の判断だ。元々かかっていたカーテンにカビが生えて、こんなの呼吸に悪いかもしれないと引き剥がした。どうして綺麗好きな祖母がカーテンだけ同じものを使用していたのか、私には知る由もない。
窓に近寄って初めて、部屋に差し込んでいた光の正体を知った。街灯だ。田圃に囲まれた土地ではあるものの、人家がいくつかあるのだから夜道に困らないようにと街灯が設置されている。そのうちの一つを、私は月明かりと感違っていたらしい。
なんとも恥ずかしい大人だと、窓のそばに立って外を眺めながら思った。こんなもの、よくよく見れば光の差し込み具合から月明かりでもなんでもないとすぐにわかったはずだろう。我ながら情けない。
そして部屋には、やはり泥棒のいた痕跡はなかった。見間違いだったかと胸を撫で下ろし、振り返って部屋を抜けようとした時だ。今度は一冊の本が目に飛び込んできた。
その本は、まるで私がここへ、この時に来るのを待ち受けていたかのようにすっと本棚から抜け出して、床に音立てて落下した。文庫本で、背表紙が床面に当たって硬い音が鳴った。
私はまたしても、その場に立ち尽くした。ほんの一瞬のことではあったが、本はしっかりと収められた状態から糸で引かれたみたいに不自然に落ちたのだ。
瞬間、私の身も心も、祖母の寝室に釘付けになった。すぐにでも部屋を脱出したい、奇妙でおぞましい気配がするのに、ここを出るためには本の前を通っていかなくてはいけない。そんなのとてもじゃないができない。
五分か、一〇分か、私は本と対峙して動かなかった。天敵を見つけた小動物のように、動かなかった。あわよくばこの奇怪な一連の出来事が、視界の右から左に流れていって、気のついた時には消えて無くなってくれないものかと願った。けれど現実は、そんなものではない。現実は、動かない。
いくら待っても無駄だと良い加減に理解した私は、抜き足差し足で本へと近づき、極力音を立てないよう努めて屈んだ。気は進まなかったが、床に落ちた文庫本をそっと拾い上げた。
文庫本は、どうやらエッセイのようであった。誰かが書いた本。著者の名前を私は知らない。初めて見る名前だった。
