私は慎重に靴を脱いで玄関に置き、足跡を忍ばせて廊下を進んだ。暗い廊下はまるで見覚えのない、全く知らない場所のように思えた。これまで何度もここには泊まっていったことがある。家中を飽きることなく歩いて回ってきた。だがこの暗闇に沈んだ風景には耐え難い何かがある。何かを私の内側に呼び寄せるものがあるのだ。私としては、それは恐怖心なのではないかと考えている。
 小学生の頃から、この家の夜中を迎えた不気味さにはとても打ち勝てそうにない。三二という年齢になっても、これには一切の変更が加えられない。こちらを飲み込もうとしてくるのだ、宵闇に沈んだこの家は。
 階段を上がり、問題の二階の部屋の前に立った。ここは生前、祖母が寝室として使っていた部屋で、私も引越しの作業やその後の物品整理のために何度か立ち入っている。祖母が存命の頃は、厳しく言いつけられて入った試しはなかった。
 今となっては、このドアの重みは少しかもしれないけれど軽減されていた。このドアを、私は開けることができる。あの時とは違って。
 あるいは部屋の中にはまだ泥棒がいるかもしれない。心の内にはやはり恐怖心があった。発生した竜巻のように、恐怖は刻一刻と規模を大きくしているような感じがある。竜巻は大きくなり、辺りを荒らして回る大きなうねりとなりつつあった。
 私は頭の中に、赤黒い風を纏う竜巻の姿を想像した。どうしても、イメージしてみるのを止められなかった。荒れ狂う竜巻は私を内面からぼろぼろにしていくのだろう。これに飲み込まれないためには、心を強く持たなくてはいけない。
 固ク武装セシ胸持テ。この言葉を、私はどこかで聞いた覚えがある。
 気を取り直して、ドアの取手に手を置き、そっと開いてみた。ドアはなんの抵抗も示さず私を部屋の中へと通してくれた。
 窓から微かに光が差し込んでいるのがすぐにわかった。月明かりが、部屋の中の本棚を淡く照らしている。妙に白い光は、それ自信が不吉なものの象徴かのように音もなく部屋に居座っていた。
 ドアの影から恐る恐る室内を窺っていた私だったが、ついにドアを全開にして姿を晒した。どれだけ恐ろしいものが突っ立っていたとしても負けないつもりであったが、そんな勇気はちっとも役に立たなかった。
 部屋の中には、誰もいなかったのだ。
 呆気に取られ、私はため息をひとつついた。それから鳴き声とも、落胆とも取れるよく訳のわからない声を漏らした。情けない生き物の鳴き声であった。
 部屋は相変わらずに整頓が行き届いている。床に散らばっているものは何もない。埃すら床に落ちることを禁止されているようだ。
 メイクされたベッドと、小さな丸テーブルと椅子、そして本棚。クロゼットを別にすれば、この他部屋に置かれているものといえば枕元のライトくらいのものだ。とてもシンプルで、とても機能的で、快適そうな空間だ。