玄関で短く声をあげ、気合を入れてから私は車庫に停めてある車に乗り込む。車庫は家の中から通路で繋がっているわけではないから、一旦は外へと出なくてはいけない。祖父母はこの家を建てるにあたり、どうしてこんな手間のかかる設計にしたのかとため息が出てくる。
 そのため息は曇り空の下、白く形を帯びてすぐに消えた。
 もう六年ほど使い続けている車のエンジンを点けると、どこかいつもと調子が違った。もう少ししたら点検しなくてはいけないのかもしれない。
 私が勤めているのは地元の自動車整備工場であった。友人の紹介により、三一という年齢で再就職できた。元々車いじりが好きというわけではなかったが、いよいよ齢が三〇を過ぎて職を探すとなれば贅沢も言っていられないと、妥協して選んだ職場だった。
 いやそれどころか、私はずっと車やバイクといった工業からは離れたところで仕事をしたいと望んでいた。騒音の鳴る環境では、とてもじゃないが集中力を持続させづらい。昔から気づいていたことだ。しかし状況が状況だけに、そうも言っていられなくなったのだ。
 前の就職先は、己の意思で退職することに決めた。職場内での人間関係に不破が生じ、耐えきれなくなって辞めた。その後はちょっとした人間不信のような気持ちになって、貯金を崩しながらの生活をしていたのだが、安月給で働いていたせいでお金はすぐに、目に見えて無くなっていった。このままではマズイと、友人を頼った結果が今の職場だ。
 創業者はもう亡くなっているが、その息子が跡を継いで存続している小さな整備工業だった。最初のうち、どのような人間が勤務しているのか恐ろしくてたまらず、表面上では笑顔を取り繕いながらも内心怯えて出社していた。だが半年も経つと、ここの人たちがとても親切であるというのがわかってきた。
 皆一様に、私に優しく接してくれたのだ。はじめはやはり、勤務してまだ間もないからという理由だけであるのだと合点していたのだがどうにも違っているらしかった。
 私が電話番を買って出て、二、三ほど電話口の客と話を交えてふとため息をつくと、待っていたとばかり年下の男が休憩を挟みましょうと言って一〇分間の小休憩が入る。
 またある時には、休憩所として従業員が利用できる部屋の一角の机に小さなカゴが置いてあり、そこから菓子をとって手渡してくれる年上の男もいた。彼らはいつまでもこのような接待じみたことをし、またそれは全くの善意からなる行動であるらしく互いに接待をしあっていた。私はこのような行為を、もはや接待ではないと感じていた。
 整備工場には私よりも若い男が何人かいて、受付や事務を担当する若い女性も私より年下である。整備を担当するにあたって私を教育した男は四〇半ばという年頃だった。これが皆、優しいのであった。