「あ、おかえりなさい」
カタンと音がして振り向けば、橙士先輩が部屋に入ってきたところだった。スーツケースと共に、両手にはぱんぱんに膨らんだビニール袋が二つ握られている。
「ただいま。これお土産」
「えっ……もしかしてこれ全部、俺に?」
「帰省してたときもらったから、お返し」
あろうことか二つとも俺に押し付けられたので、驚きつつ受け取ると、ずしっとした重みが両手に伝わった。
きっと持って帰ってくるのですら大変だっただろう。わざわざ俺のために先輩が選んでくれたと思うと、嬉しさが込み上げる。
「ありがとうございます、嬉しい」
頬が緩んでしまう。最近はすっかり橙士先輩の前では表情筋が仕事しなくなってきた。
「紅茶淹れるんで先輩も一緒に食べませんか?」
久しぶりに同じ部屋にいる先輩が新鮮で、無駄にそわそわしてしまって落ち着かない。荷物を整理している先輩に声を掛けると、その目が静かに俺の方に向けられた。
「……風呂行ってくる」
「あ、はい」
それだけ言うと、先輩はすたすたと早足で部屋を出て行ってしまった。取り残された俺は、呆気にとられつつ先輩のいなくなったドアの方に視線を送り続ける。
(……いや、俺の気のせいだよな。きっと旅行から帰ってきたばっかで疲れてたんだろ)
いつになくなにを考えているのかわからない目が気になったが、そんな風に思い直した俺は、先輩が帰ってくるまで予習でもしていようと机に向かうことにした。
しかし違和感はその夜だけでは終わらなかった。
「先輩おはようございます」
「……はよ」
いつもならふわっと微笑んでくれるはずの先輩は、ちらっと俺を一瞥するとすぐに目を逸らして、かろうじて挨拶を返してくれるだけだった。
「先輩、お昼……」
「ごめん。今日日直だから」
昼食に誘おうと教室まで会いに行くと、いつもなら手を繋いで連れてってくれるはずが、今日はまさかのお断り。
「先輩このあと」
「ガッキーの部屋で課題してくる」
極め付けには授業を終えて部屋に戻ってきた夕方。俺はまだ最後まで用件を言い終えてすらいないのに、言葉を遮られた挙句、俺を置いて足早に部屋を出て行かれてしまう。
(…………全然気のせいじゃなかった。これ、避けられてるわ)
ここまで露骨な対応をされればさすがに気付く。風呂で冷静になった俺は、状況をゆっくり整理することにした。
今までこんな風に先輩に素っ気なく当たられたことはない。そう思っていたが、あの冷たい目には一度だけ見覚えがある。
……そうだ、あの夏祭りの日。
俺が先輩のお友達に一緒にまわることを承諾してしまったあのときも、同じような目をしていた。あの後先輩はなんて言ってたっけ。確か……。
──琉生が慣れない愛想笑いなんかして勝手にOKするから、拗ねてヤケクソになってた。
不機嫌そうな声でそう言っていた先輩をはたと思い出す。もし今も、なにかに拗ねているとしたら?
「……俺、やっぱり今までうざかったかな」
思い当たる節といえば、これまで散々しつこく橙士先輩の世話を焼いてきたことぐらいしか浮かばない。
最近急に先輩の行動が変わったのも前兆だったのかもしれない。自立しようと思ったのも、俺に世話を焼かれるのがいい加減鬱陶しくなったからとか。
考えれば考えるほど嫌な想像ばかりしてしまって落ち込む。むしゃくしゃした俺はシャワーを冷水に切り替えて、頭から直接浴びた。
風呂から出ると、部屋には橙士先輩が戻っていた。
タオルを首に掛けている彼の髪からは、水滴が滴り落ちている。先輩は俺の姿を見るなり、手に持っていたマグカップを机の上に置いて、ベッドを上ろうと梯子に足を掛けた。
「……あの!」
咄嗟に身体が動いた。先輩の服の裾を後ろから引っ張ると、その足が止まる。
「俺なんかしましたか」
「……」
「うざいんなら言ってください。急に無視されても、なにも伝えられないと直しようがないし」
先輩が理由もなしに俺を拒絶するわけがない。俺に原因があるんだとすれば、いくらでも直すのに。
「……俺はもう、先輩にとって必要ないですか」
自分で言ってからハッとした。なにを言ってるんだろう。
これじゃまるで、『必要としてほしい』って言ってるみたいなもんじゃないか。
そうしてやっと腑に落ちた。変わっていく橙士先輩を見て、ずっとモヤモヤとしていた理由。
俺は橙士先輩に、変わってほしくなかったんだ。
「ごめん、大人げなかった」
声がして顔を上げた。いつのまにか俺の方に身体を向けていた先輩が、どこかしょんぼりとした顔で俺を見下ろしていた。
「琉生はなにも悪くない。俺の気持ちの問題」
「やっぱりおせっかいな俺に嫌気が差して……」
「違う。……本当に気付いてない?」
「何にですか?」
先輩の言っている意味がわからない。世話を焼きすぎる俺が嫌になったというわけじゃないんだとしたら、一体他にどんな理由があるというのだろう。
言葉の続きを待つ俺の視線の先には、気まずそうに口を尖らせる先輩がいた。
「嫉妬しただけ。写真送ってきただろ、一昨日の夜」
「……あ、もしかして」
思い当たるのは、こっちも写真を送った方がいいと唆されて撮った岡本と西村とのスリーショット。
確かにあのとき、いつもはそんなこと絶対しないのに、あの二人はやけに俺に密着して写真に映ってきた。
「俺はきみのことが好きなので、めちゃくちゃ嫉妬しました」
「っ、……ただのクラスメイトです」
「知ってる。でもイヤだった」
こんなに子どもっぽい顔をする橙士先輩は滅多に見ない。
まさか俺の送ったあんな写真一枚で、先輩がこんな風になってしまうなんて。
むすっとした顔をしながら、先輩が言葉を続ける。
「できれば俺以外の男の部屋に行くのは今後やめてほしい」
とんでもない発言が降ってきて、一瞬時が止まった。
「……それってこの部屋以外だめってことですか」
「そうなる」
「それはちょっと……」
別に行かないと決めたらそうできるとは思うけど、この前訪れた岡本たちの部屋は案外居心地がよかった。
おそらく友達の部屋に遊びに行くなんて経験は初めてだったから、特別な感じがして楽しかったのかもしれない。
すぐに頷くことができなかったのはそんな理由だ。
「なんで。前までは俺がいればそれでいいみたいな顔してたじゃん」
「え?」
「……ごめん、今のナシ」
やっぱり今日の橙士先輩はおかしい。なんていうか、いつもみたいな余裕さを感じられない。
早々に発言を撤回した先輩は、横を向いたまま黙り込んでしまった。
「俺ね、最低なんだ」
やがて自らを嘲るような声が耳に届いた。
「琉生がクラスメイトと喋ったって嬉しそうに報告してくるたびに、心の底から喜んであげられないの」
「……どういう」
「琉生が俺以外の男に触れられてると思うと、息吸えない」
橙士先輩の耳は赤く染まっていた。それに気付いてしまった途端に、馬鹿みたいに心臓が激しく動き出す。
……なんで。俺なんか必要ないって、そう思われてると思ってたのに。
実際の先輩は俺のせいでいつもの余裕を失っていて、とんでもない発言まで繰り出してきて、そんなの──。
(本当に俺のこと、好きなんだなぁ……)
先輩の好きという言葉もそれに伴った行動も、今までは全部右から左に流してきた。
俺は多分、無意識に『先輩が俺を好きなこと』から目を背けて、逃げようとしていたのかもしれない。
でもこんな先輩の姿を見てしまったら、もう目を逸らすことなんかできない。
「先輩は、なんで俺を好きになったの」
こっちを向かせたくて橙士先輩の腕を引きながら言うと、先輩は僅かに肩を跳ね上がらせた。驚いたようなその目を直視することができなくて、今度は俺の方が目を逸らしてしまう。
「……俺が高校一年の頃、琉生が受験でこっちにきたとき、ちょうど遭遇したことがあったんだ」
先輩がいつかのように、座布団を二つ並べて床に敷いてくれる。腕を引かれて、俺たちはそこに向かい合わせに腰を下ろした。
「その日俺はサッカーの試合に出る予定だったんだけど、朝から具合が悪くて……かなりキツかったけどなんとかバスの集合場所に向かってた」
淡々と語る先輩の顔は、随分と落ち着きを取り戻したように感じられた。一方の俺はやっぱりどうにもその目を直視することができなくて、おろおろと視線を泳がせながら黙って耳を傾ける。
「でもあと少しってところで目の前が真っ白になって、気付いたら地面に転がってた。起き上がろうにも身体の自由が効かなくて……そのときたまたま、琉生が通りかかって──」
──大丈夫ですか。ちょっと起こしますね。
──……ごめん、ありがとう。
──うわ、あっつい。お兄さん熱あるでしょ。その格好、部活とかですか?帰った方がいいですよ。
──でもこれから試合があるから。薬飲めば多分平気。
「俺がそう言ったら、『はあ!?』って琉生が急に顔しかめ始めてさ」
──こんな高熱で試合に出る気ですか? 薬飲んだって下がりきらないし辛いままですよ。無理して身体に支障をきたしたらどうするんですか。そもそもこんなにフラフラしてる人が試合に出たって、使い物にならないと思いますけど。行ったって絶対出してもらえませんよ。
──……。
──時には休む勇気も大切です。ほら病院まで連れていくんで……ちょっと待ってくださいね。
──……病院はあっちの交差点越えたところ。
──あ、ありがとうございます。じゃあ行きましょう。
話を聞くうちにゆっくりと記憶の蓋が開いて、みるみるうちに思い出が溢れ出す。受験当日でかなりテンパっていたあの日、確かに試験の前に、道端に倒れていた誰かを助けたような記憶があった。
「……あーっ! あのときの!」
「思い出した?」
「あれ橙士先輩だったのか……いまと雰囲気違うから全然結びつかなかった」
あのとき助けた男の人は黒髪で、マスクをしていたから全く顔がわからなかった。それ以前に緊急事態で、顔なんか見る余裕もなかったはずだ。
「で、そのあと聞いたら『このあと受験本番なんですよ』とか言うから、慌てて追い払ったんだよね。俺なんかに構ってないで早く行けって。結局琉生は聞いてくれなくて、病院まで着いてきたんだけど」
「そりゃあ病人置いてなんて行けませんよ。絶対後から気になって仕方ないし」
「ずっと心配してたから、ちゃんと間に合って合格してて本当に安心した」
「あはは……だいぶ時間に余裕もって出てたんで、全然間に合いました」
確かあの後、試験に手応えを感じられなかった俺は、絶望の気持ちで地元に帰っていったのだ。だから誰かを助けた記憶など、とうの昔にすっかり抜け落ちてしまっていた。
「帰り際に名前だけ聞いてたから、新入生名簿みてすぐにわかった。それで、同じ部屋になるように仕向けたんだ」
穏やかな表情で、まるで宝物に触れるように大切そうに語る橙士先輩。彼の表情を見ていた俺の頭を、一つの疑問が駆け巡る。
「……っていうか今の、好きになる要素ありました?」
「え? あっただろ」
「ただひたすら俺が病人にくどくど説教垂れてただけに思うんですけど……」
なんなら他の人にそれをしたらきっと嫌がられるだろうし、今までみたいに敬遠される原因になっていたことだろう。
ましてや病人相手になにを説き伏せようとしてるんだ。自分で自分を叩きたくなってしまうようなエピソードだったけど……。
「嬉しかったんだ」
俺のそんな考えを一蹴したのは、橙士先輩の柔らかい声だった。
「誰かにあんな風にまっすぐ叱ってもらうの、初めてだったから。見も知らずの俺のことを案じて、物怖じせずにぶつかってきてくれるきみをかっこいいと思った」
視線がぶつかる。すると先輩は優しく目尻を下げた。
俺はずっと以前の自分を悔やんでいた。自分が正しいと思い込んで、他人の気持ちを考えることもせずに正論で殴りつけていたあの頃。
その結果周囲の人間は離れていったし、それでもいいと自分を曲げずに強がってばかりいた。
だけど──。
(俺が切り捨てた俺を、橙士先輩はずっと大切に思ってくれていたのか)
過去の自分は思い出したくもないような黒歴史ばかりだと思っていた。だけど先輩がそんな風に優しい顔をして語るから、当時の俺が救われたような気がする。
あの頃はあの頃で、確かに俺は一生懸命に生きていた。間違いを反省することはあっても、全てを否定する必要はないのかもしれない。
「……そろそろ消灯時間だ。寝よっか」
先輩が時計を見遣って言う。
「あの、橙士先輩」
「ん?」
立ち上がって伸びをする先輩に、俺は少しの緊張を胸に言葉を掛けた。
「明日は俺が先輩のこと、起こしてもいいですか」
先輩は目を丸くしていた。
「その、一人で頑張ろうとしてるのはわかってはいるんですけど、なんか落ち着かなくて……」
慌てて言い訳みたいな言葉を続けてしまう。こんなことを言うのは迷惑に違いないって、わかってるのに。
俯いて返事を待っていると、頭上からクスクスと笑い声が降ってきた。
「いいよ。俺も琉生に起こしてもらう朝の方が好き」
笑い混じりに楽しそうに言いながら、先輩は大きな手のひらでナデナデと俺の頭を優しく撫でる。
「……っ」
その瞬間に、心臓が一際激しく脈を打つのがわかった。
(あれ……? なんだよこれ。俺、なんでこんなに緊張してんの……?)
どきどきと鼓動がうるさくて、顔に熱が集まって、指先がぶるっと震える。立っているのもやっとなぐらい息が詰まって、この場から逃げ出したくなるような、得も言われぬ焦燥感。
この気持ちは一体──。
「どうした?」
無言のまま立ち尽くす俺の異変に気付いたのか、先輩が腰を屈めて不思議そうに顔を覗き込んでくる。
途端に近くなった距離に驚いて、「なんでもないです」と返した声は上擦ってしまった。
変だ。まだ心臓が鳴りやまない。ここ数日先輩のことばっかり考えすぎて、どっかおかしくなってしまったのだろうか。
部屋の明かりを消して、一人ベッドの上に寝転がる。布団を被って目を瞑ってもまだ、先輩の声が頭の中に反響していた。
(……俺って最低かも。このまま先輩がちゃんとしないままでいいって、思っちゃった)
明日の朝も、その次の朝も、橙士先輩を起こすのは先輩じゃなくて俺でありたい。
そんな風に思ってしまう理由を俺が知るまで、あと少し。
カタンと音がして振り向けば、橙士先輩が部屋に入ってきたところだった。スーツケースと共に、両手にはぱんぱんに膨らんだビニール袋が二つ握られている。
「ただいま。これお土産」
「えっ……もしかしてこれ全部、俺に?」
「帰省してたときもらったから、お返し」
あろうことか二つとも俺に押し付けられたので、驚きつつ受け取ると、ずしっとした重みが両手に伝わった。
きっと持って帰ってくるのですら大変だっただろう。わざわざ俺のために先輩が選んでくれたと思うと、嬉しさが込み上げる。
「ありがとうございます、嬉しい」
頬が緩んでしまう。最近はすっかり橙士先輩の前では表情筋が仕事しなくなってきた。
「紅茶淹れるんで先輩も一緒に食べませんか?」
久しぶりに同じ部屋にいる先輩が新鮮で、無駄にそわそわしてしまって落ち着かない。荷物を整理している先輩に声を掛けると、その目が静かに俺の方に向けられた。
「……風呂行ってくる」
「あ、はい」
それだけ言うと、先輩はすたすたと早足で部屋を出て行ってしまった。取り残された俺は、呆気にとられつつ先輩のいなくなったドアの方に視線を送り続ける。
(……いや、俺の気のせいだよな。きっと旅行から帰ってきたばっかで疲れてたんだろ)
いつになくなにを考えているのかわからない目が気になったが、そんな風に思い直した俺は、先輩が帰ってくるまで予習でもしていようと机に向かうことにした。
しかし違和感はその夜だけでは終わらなかった。
「先輩おはようございます」
「……はよ」
いつもならふわっと微笑んでくれるはずの先輩は、ちらっと俺を一瞥するとすぐに目を逸らして、かろうじて挨拶を返してくれるだけだった。
「先輩、お昼……」
「ごめん。今日日直だから」
昼食に誘おうと教室まで会いに行くと、いつもなら手を繋いで連れてってくれるはずが、今日はまさかのお断り。
「先輩このあと」
「ガッキーの部屋で課題してくる」
極め付けには授業を終えて部屋に戻ってきた夕方。俺はまだ最後まで用件を言い終えてすらいないのに、言葉を遮られた挙句、俺を置いて足早に部屋を出て行かれてしまう。
(…………全然気のせいじゃなかった。これ、避けられてるわ)
ここまで露骨な対応をされればさすがに気付く。風呂で冷静になった俺は、状況をゆっくり整理することにした。
今までこんな風に先輩に素っ気なく当たられたことはない。そう思っていたが、あの冷たい目には一度だけ見覚えがある。
……そうだ、あの夏祭りの日。
俺が先輩のお友達に一緒にまわることを承諾してしまったあのときも、同じような目をしていた。あの後先輩はなんて言ってたっけ。確か……。
──琉生が慣れない愛想笑いなんかして勝手にOKするから、拗ねてヤケクソになってた。
不機嫌そうな声でそう言っていた先輩をはたと思い出す。もし今も、なにかに拗ねているとしたら?
「……俺、やっぱり今までうざかったかな」
思い当たる節といえば、これまで散々しつこく橙士先輩の世話を焼いてきたことぐらいしか浮かばない。
最近急に先輩の行動が変わったのも前兆だったのかもしれない。自立しようと思ったのも、俺に世話を焼かれるのがいい加減鬱陶しくなったからとか。
考えれば考えるほど嫌な想像ばかりしてしまって落ち込む。むしゃくしゃした俺はシャワーを冷水に切り替えて、頭から直接浴びた。
風呂から出ると、部屋には橙士先輩が戻っていた。
タオルを首に掛けている彼の髪からは、水滴が滴り落ちている。先輩は俺の姿を見るなり、手に持っていたマグカップを机の上に置いて、ベッドを上ろうと梯子に足を掛けた。
「……あの!」
咄嗟に身体が動いた。先輩の服の裾を後ろから引っ張ると、その足が止まる。
「俺なんかしましたか」
「……」
「うざいんなら言ってください。急に無視されても、なにも伝えられないと直しようがないし」
先輩が理由もなしに俺を拒絶するわけがない。俺に原因があるんだとすれば、いくらでも直すのに。
「……俺はもう、先輩にとって必要ないですか」
自分で言ってからハッとした。なにを言ってるんだろう。
これじゃまるで、『必要としてほしい』って言ってるみたいなもんじゃないか。
そうしてやっと腑に落ちた。変わっていく橙士先輩を見て、ずっとモヤモヤとしていた理由。
俺は橙士先輩に、変わってほしくなかったんだ。
「ごめん、大人げなかった」
声がして顔を上げた。いつのまにか俺の方に身体を向けていた先輩が、どこかしょんぼりとした顔で俺を見下ろしていた。
「琉生はなにも悪くない。俺の気持ちの問題」
「やっぱりおせっかいな俺に嫌気が差して……」
「違う。……本当に気付いてない?」
「何にですか?」
先輩の言っている意味がわからない。世話を焼きすぎる俺が嫌になったというわけじゃないんだとしたら、一体他にどんな理由があるというのだろう。
言葉の続きを待つ俺の視線の先には、気まずそうに口を尖らせる先輩がいた。
「嫉妬しただけ。写真送ってきただろ、一昨日の夜」
「……あ、もしかして」
思い当たるのは、こっちも写真を送った方がいいと唆されて撮った岡本と西村とのスリーショット。
確かにあのとき、いつもはそんなこと絶対しないのに、あの二人はやけに俺に密着して写真に映ってきた。
「俺はきみのことが好きなので、めちゃくちゃ嫉妬しました」
「っ、……ただのクラスメイトです」
「知ってる。でもイヤだった」
こんなに子どもっぽい顔をする橙士先輩は滅多に見ない。
まさか俺の送ったあんな写真一枚で、先輩がこんな風になってしまうなんて。
むすっとした顔をしながら、先輩が言葉を続ける。
「できれば俺以外の男の部屋に行くのは今後やめてほしい」
とんでもない発言が降ってきて、一瞬時が止まった。
「……それってこの部屋以外だめってことですか」
「そうなる」
「それはちょっと……」
別に行かないと決めたらそうできるとは思うけど、この前訪れた岡本たちの部屋は案外居心地がよかった。
おそらく友達の部屋に遊びに行くなんて経験は初めてだったから、特別な感じがして楽しかったのかもしれない。
すぐに頷くことができなかったのはそんな理由だ。
「なんで。前までは俺がいればそれでいいみたいな顔してたじゃん」
「え?」
「……ごめん、今のナシ」
やっぱり今日の橙士先輩はおかしい。なんていうか、いつもみたいな余裕さを感じられない。
早々に発言を撤回した先輩は、横を向いたまま黙り込んでしまった。
「俺ね、最低なんだ」
やがて自らを嘲るような声が耳に届いた。
「琉生がクラスメイトと喋ったって嬉しそうに報告してくるたびに、心の底から喜んであげられないの」
「……どういう」
「琉生が俺以外の男に触れられてると思うと、息吸えない」
橙士先輩の耳は赤く染まっていた。それに気付いてしまった途端に、馬鹿みたいに心臓が激しく動き出す。
……なんで。俺なんか必要ないって、そう思われてると思ってたのに。
実際の先輩は俺のせいでいつもの余裕を失っていて、とんでもない発言まで繰り出してきて、そんなの──。
(本当に俺のこと、好きなんだなぁ……)
先輩の好きという言葉もそれに伴った行動も、今までは全部右から左に流してきた。
俺は多分、無意識に『先輩が俺を好きなこと』から目を背けて、逃げようとしていたのかもしれない。
でもこんな先輩の姿を見てしまったら、もう目を逸らすことなんかできない。
「先輩は、なんで俺を好きになったの」
こっちを向かせたくて橙士先輩の腕を引きながら言うと、先輩は僅かに肩を跳ね上がらせた。驚いたようなその目を直視することができなくて、今度は俺の方が目を逸らしてしまう。
「……俺が高校一年の頃、琉生が受験でこっちにきたとき、ちょうど遭遇したことがあったんだ」
先輩がいつかのように、座布団を二つ並べて床に敷いてくれる。腕を引かれて、俺たちはそこに向かい合わせに腰を下ろした。
「その日俺はサッカーの試合に出る予定だったんだけど、朝から具合が悪くて……かなりキツかったけどなんとかバスの集合場所に向かってた」
淡々と語る先輩の顔は、随分と落ち着きを取り戻したように感じられた。一方の俺はやっぱりどうにもその目を直視することができなくて、おろおろと視線を泳がせながら黙って耳を傾ける。
「でもあと少しってところで目の前が真っ白になって、気付いたら地面に転がってた。起き上がろうにも身体の自由が効かなくて……そのときたまたま、琉生が通りかかって──」
──大丈夫ですか。ちょっと起こしますね。
──……ごめん、ありがとう。
──うわ、あっつい。お兄さん熱あるでしょ。その格好、部活とかですか?帰った方がいいですよ。
──でもこれから試合があるから。薬飲めば多分平気。
「俺がそう言ったら、『はあ!?』って琉生が急に顔しかめ始めてさ」
──こんな高熱で試合に出る気ですか? 薬飲んだって下がりきらないし辛いままですよ。無理して身体に支障をきたしたらどうするんですか。そもそもこんなにフラフラしてる人が試合に出たって、使い物にならないと思いますけど。行ったって絶対出してもらえませんよ。
──……。
──時には休む勇気も大切です。ほら病院まで連れていくんで……ちょっと待ってくださいね。
──……病院はあっちの交差点越えたところ。
──あ、ありがとうございます。じゃあ行きましょう。
話を聞くうちにゆっくりと記憶の蓋が開いて、みるみるうちに思い出が溢れ出す。受験当日でかなりテンパっていたあの日、確かに試験の前に、道端に倒れていた誰かを助けたような記憶があった。
「……あーっ! あのときの!」
「思い出した?」
「あれ橙士先輩だったのか……いまと雰囲気違うから全然結びつかなかった」
あのとき助けた男の人は黒髪で、マスクをしていたから全く顔がわからなかった。それ以前に緊急事態で、顔なんか見る余裕もなかったはずだ。
「で、そのあと聞いたら『このあと受験本番なんですよ』とか言うから、慌てて追い払ったんだよね。俺なんかに構ってないで早く行けって。結局琉生は聞いてくれなくて、病院まで着いてきたんだけど」
「そりゃあ病人置いてなんて行けませんよ。絶対後から気になって仕方ないし」
「ずっと心配してたから、ちゃんと間に合って合格してて本当に安心した」
「あはは……だいぶ時間に余裕もって出てたんで、全然間に合いました」
確かあの後、試験に手応えを感じられなかった俺は、絶望の気持ちで地元に帰っていったのだ。だから誰かを助けた記憶など、とうの昔にすっかり抜け落ちてしまっていた。
「帰り際に名前だけ聞いてたから、新入生名簿みてすぐにわかった。それで、同じ部屋になるように仕向けたんだ」
穏やかな表情で、まるで宝物に触れるように大切そうに語る橙士先輩。彼の表情を見ていた俺の頭を、一つの疑問が駆け巡る。
「……っていうか今の、好きになる要素ありました?」
「え? あっただろ」
「ただひたすら俺が病人にくどくど説教垂れてただけに思うんですけど……」
なんなら他の人にそれをしたらきっと嫌がられるだろうし、今までみたいに敬遠される原因になっていたことだろう。
ましてや病人相手になにを説き伏せようとしてるんだ。自分で自分を叩きたくなってしまうようなエピソードだったけど……。
「嬉しかったんだ」
俺のそんな考えを一蹴したのは、橙士先輩の柔らかい声だった。
「誰かにあんな風にまっすぐ叱ってもらうの、初めてだったから。見も知らずの俺のことを案じて、物怖じせずにぶつかってきてくれるきみをかっこいいと思った」
視線がぶつかる。すると先輩は優しく目尻を下げた。
俺はずっと以前の自分を悔やんでいた。自分が正しいと思い込んで、他人の気持ちを考えることもせずに正論で殴りつけていたあの頃。
その結果周囲の人間は離れていったし、それでもいいと自分を曲げずに強がってばかりいた。
だけど──。
(俺が切り捨てた俺を、橙士先輩はずっと大切に思ってくれていたのか)
過去の自分は思い出したくもないような黒歴史ばかりだと思っていた。だけど先輩がそんな風に優しい顔をして語るから、当時の俺が救われたような気がする。
あの頃はあの頃で、確かに俺は一生懸命に生きていた。間違いを反省することはあっても、全てを否定する必要はないのかもしれない。
「……そろそろ消灯時間だ。寝よっか」
先輩が時計を見遣って言う。
「あの、橙士先輩」
「ん?」
立ち上がって伸びをする先輩に、俺は少しの緊張を胸に言葉を掛けた。
「明日は俺が先輩のこと、起こしてもいいですか」
先輩は目を丸くしていた。
「その、一人で頑張ろうとしてるのはわかってはいるんですけど、なんか落ち着かなくて……」
慌てて言い訳みたいな言葉を続けてしまう。こんなことを言うのは迷惑に違いないって、わかってるのに。
俯いて返事を待っていると、頭上からクスクスと笑い声が降ってきた。
「いいよ。俺も琉生に起こしてもらう朝の方が好き」
笑い混じりに楽しそうに言いながら、先輩は大きな手のひらでナデナデと俺の頭を優しく撫でる。
「……っ」
その瞬間に、心臓が一際激しく脈を打つのがわかった。
(あれ……? なんだよこれ。俺、なんでこんなに緊張してんの……?)
どきどきと鼓動がうるさくて、顔に熱が集まって、指先がぶるっと震える。立っているのもやっとなぐらい息が詰まって、この場から逃げ出したくなるような、得も言われぬ焦燥感。
この気持ちは一体──。
「どうした?」
無言のまま立ち尽くす俺の異変に気付いたのか、先輩が腰を屈めて不思議そうに顔を覗き込んでくる。
途端に近くなった距離に驚いて、「なんでもないです」と返した声は上擦ってしまった。
変だ。まだ心臓が鳴りやまない。ここ数日先輩のことばっかり考えすぎて、どっかおかしくなってしまったのだろうか。
部屋の明かりを消して、一人ベッドの上に寝転がる。布団を被って目を瞑ってもまだ、先輩の声が頭の中に反響していた。
(……俺って最低かも。このまま先輩がちゃんとしないままでいいって、思っちゃった)
明日の朝も、その次の朝も、橙士先輩を起こすのは先輩じゃなくて俺でありたい。
そんな風に思ってしまう理由を俺が知るまで、あと少し。

