その日から橙士先輩は、また一段と俺を甘やかすようになった。
「おいしい?」
騒々しい昼休みの食堂。その一角で、俺は先輩と向かい合って座っていた。
「おいしいです」
「よかったね。いっぱい食べな」
エビフライを頬張る俺を観察しながら、橙士先輩はふわりと目元を綻ばせた。
「自分が作ったみたいな顔するじゃないですか」
「うん、この辺の付け合わせ俺が作った」
「嘘ばっか」
今日も相変わらず、先輩は雰囲気で会話をしているみたいだ。頬杖をついて楽しそうに俺が食事をするところを眺めている先輩の机の上には、パックに入ったままの小さなおにぎりが一つだけ置かれている。
「ていうか先輩こそいっぱい食べてくださいよ。なんですかその量。とうとうおにぎり一つだし」
「チョコ食べる?」
「……食べるけど」
どこから取り出したのか小分けのチョコレートを手にした先輩が、長い指先でピリッと包装紙を破る。
「はい、あーん」
中のチョコを掴むと、そんなことを言いながら俺の口元に寄せてきた。反射的に口を開くと、するりとチョコレートが放り込まれていく。
途端に口内に広がる甘ったるい風味。大人しくもぐもぐと咀嚼していた俺は、ハッとして顔を上げた。
「っ、自分で食べれますから!」
「上手に食べれてえらーい。よしよし」
「撫でるな!」
手を伸ばして頭を撫でられて、かっと顔が熱くなる。最近は何かにつけてこうだ。頭は撫でるし、先輩の手から俺に食べ物を与えたがるし、相変わらず少しの移動にも手を繋いでくる。
様子のおかしい先輩の言動にも順応してきた──なんてすましていたのは遠い過去の話。最近の俺は、どうにも様子がおかしかった。
「もう一個あげる」
「太るんでいいです」
執拗にチョコを俺に押し付けようとしてくる先輩から逃れるように、ぶんぶんと顔を横に振る。
しかし俺が先輩を拒めるはずもない。そもそも先輩の執念は俺が思う以上に深く……言い換えればしつこい。
結局俺は恥ずかしさでいっぱいになりながら、二回目のチョコを先輩の指先から受け取ったのであった。
「琉生さぁ、ちょっと痩せたよ。もっと食ってもっと太れ?」
「なんか昔父さんにも同じこと言われたなって、それ聞いて思い出しました」
「俺が父さんなら、琉生はおかんだもんね」
「違うし。まだ覚えてたんですかそれ」
変なところで記憶力がいい先輩に苦笑する。橙士先輩は基本的に、俺が一度言ったことは絶対に覚えている。そのくせ明日の提出物とか用意するものに関しては抜け落ちていることが多く、クラスでは『忘却の神』と言われているらしい。
本当なのか嘘なのかは定かではないが、先輩が自慢げに語っていたから本当なのかもしれない。
「琉生、やっぱ黒い方が似合う」
再び先輩の長い腕が伸びてきて、黒く染めたばかりの俺の髪に触れる。
「……っ」
それだけで動揺していることを悟られたくなくて、咄嗟に息を止めた。先輩はそんな俺の気も知らず、俺の髪を自分の指に絡めるようにくるくると弄んでいる。
(おかしいな、前はこういうの何とも思わなかったのに……)
そう、最近の俺は橙士先輩の一挙手一投足に振り回されている。
スキンシップが激しいなんて今に始まったことではないし、甘い言葉や笑顔だって散々与えられてきたはずだ。それなのに今になって、まるで遅効性の毒のようにじわじわと身体に異常をきたし始めた。
「黒染めぐらいなら俺がやってあげたのに」
「寮だと大浴場しかないし、美容院予約するしかなかったんですよ」
「言ってくれれば俺が着いていったのに」
「なんで髪染めるのに先輩同行させるんですか。恥ずかしいでしょ」
先輩が寝ている隙に俺が勝手に外出したことにへそを曲げている先輩は、ことあるごとに俺の髪を見てはこの話題を持ち出してくる。勝手にっていうか、別に外出に先輩の許可なんかいらないんだけど。
それにこの黒染めは、俺の中では咲真先輩との決別を意味していた。咲真先輩に憧れて選んだ、先輩と同じ髪色を捨てて、ありのままで自分らしく生きるという決意をも込めている。
「先輩はそれ、何色って言うんですか。よく似合ってますよね」
まだぶつぶつとうるさいので、話題を変えようと先輩の髪を指さした。黒髪マッシュの俺とは違って、ゆるゆるとパーマが施された金色に近い茶髪をしている。先輩はぱちぱちと瞬きを繰り返すと、真顔のまま口を開く。
「ペリカンベージュ」
「……本当に?」
「って、たったいま俺が命名した」
「はー……本当テキトーな人……」
なんでこんな人相手にいちいち動揺しているんだろう。咲真先輩のこともあったばかりだし、きっとまだ気持ちが落ち着かないだけだ。
「てか来週から七月か。はやいな」
ようやくおにぎりを頬張り始めた先輩がそんなことを呟くのを聞いて、俺はあることを思い出した。
……そうだ、夏祭り。
以前見かけたチラシによれば、七月の一週目の土曜日に学校の近くの商店街で開催されるらしい。つまり来週の土曜日だ。
少し前までの俺ならば、絶対にスルーしていたであろうイベント。何故なら友達がいないと楽しめないから。
だけど今の俺には橙士先輩がいる。なにより先輩と一緒に夏の風物詩を楽しみたいという思いが日に日に強くなっていて、そんな自分の気持ちの変化に驚いていた。
(どうしよう、誘ってみようか。でももしガッキーさんとかと先約があったら……)
先輩がおにぎりを食べ終わるまで静かに思考を巡らせていた俺は、先輩が食べ終わったのを確認すると、意を決して口を開いた。
「あの先輩、来週なんですけど」
「──あ、いたいた。城所~!」
遠くの方から橙士先輩の名前を呼ぶ声がして、反射的に顔を向ける。声を掛けてきた人は、おそらく先輩なのだろうが知らない顔だった。
「おまえ今日日直だろ? 昼休み職員室呼び出されてたじゃん!」
「……あれ、そうだっけ」
「そうだよ! カトセンもうカンカンだから早く来いって!」
ぐいぐいと腕を引かれて、橙士先輩が面倒臭そうに立ち上がる。
「ごめん琉生。また夜ね」
「気にしないでください」
申し訳なさそうに俺と目を合わせてから連行されていく先輩を見送ってから、はあと一人溜息を吐く。
完全にタイミングが悪かった。そう思う一方で、どこかでほっとしている自分もいる。
(誰かを誘うのって、こんなに緊張するのか)
来週なんですけど、と言って先輩の顔を見た途端に、頭が真っ白になった。あんな経験は初めてだ。
冷静に考えると、誰かを何かに誘うという行為は、あなたと行きたいという気持ちを受け渡すようなものだ。必要以上に緊張するのはそのせいかもしれない。
「……俺ってこんなにビビリだったのか」
たかが夏祭りに誘うぐらいでうじうじ悩むなんてらしくない。再び深い溜息を吐いた俺は、ずるずると頭を下げて一人唸るばかりだった。
「じゃあ各班に分かれて調べてプリントに記入して。終わったら順番に発表してもらうからなー」
気分は最悪だった。何せ五限目は苦手なグループワークだ。しかもなんの因縁か、正面にいるのが──。
「なあ昨日合コン行ったんだけど、話聞きたい?」
「は〜!? なんで誘ってくんなかったんだよ! 抜け駆けずりーぞ岡本おめえ!」
「急だったんだもん仕方ないでしょ。相手南女の女子だったんだけどさ……」
机の上に積んである文献そっちのけで、全く関係のない話題で早速盛り上がり始める岡本と西村。
(なんでよりによってこいつらと同じ班なんだ。全く懲りてないみたいだし……)
先日のクラスマッチで険悪な雰囲気になってしまって以降、彼らとは会話を交わす機会がなかった。
相変わらず真面目にやるのが得意ではないらしい。彼らを視線に入れないように、静かに分厚い本を捲る。
「マジ〜っ!? 彼氏いたの!? 冷やかしかよ、だりーなそれ」
「いや本当に。お帰りくださーいって感じだったんだけど、よりによって俺だけ余ってその子と話すことになっちゃって」
「ヒャハハ! おまえ本当に運ねえなぁ!」
場をわきまえず話し続ける岡本と、耳障りな笑い声を響かせる西村。同じ班の他のクラスメイトたちも苦笑いをし始める。
……いや、やっぱり無理だ。黙っていようと思っていたけど、さすがに看過できない。
「──おい」
「あ?」
まるでデジャヴだ。俺が声を掛けると、二つの視線が同時に俺の方に向けられた。
「はいはい、でたでた」
「なんすか小木曽さん」
ニヤニヤと笑いながら、俺の言葉の続きを待つ二人。きっと俺が投げかけた言葉を受けて、揚げ足をとるつもりなのだろう。
いつもみたいに正論で押し通そうと口を開きかけたが、少し考えて一度閉口する。
(……いやダメだ。一方的に自分の意見を押し付けたって、きっとまた聞き入れてもらえない)
軽い気持ちで言葉を発すれば、神経を逆撫でするかもしれない。俺が彼らに注意をしたあのクラスマッチのときだって、俺は対応を間違えた。
じゃあどうすればいいのか。
俯きながら少し考えた挙句、腹を括った俺はゆっくりと視線を正面に向けた。
「……盛り上がってるところ悪いんだけど、一瞬でいいから集中してくれない?」
「…………は?」
「早く終わらせたらまた話しててもいいから。提出する分だけとりあえず終わらせよう」
なるべく圧が強いと思われないように、できるだけゆっくりと柔らかい口調でそう述べた。
橙士先輩の喋り方を真似してみたのに、実際はそう上手くはできないみたいだ。でもこの前は怒りに任せて睨み付けてしまったが、今回は意識して表情を変えないようにすることができたはずだ。
二人は俺の様子を見てあんぐりと口を開けていたが、やがて岡本の方が身を乗り出して俺の顔をまじまじと凝視してきた。
「…………なんか悪いものでも食った?」
「は?」
「偉そうじゃない小木曽とかこわいんだけど。もしかして頭打って誰かと中身入れ替わった?」
「なに意味わかんないこと言ってんだ……いいから真面目にやってくれよ」
なにを言い出すかと思えば、そんなくだらないことを考えていたのか。幽霊でも見たかのような驚き様からして、以前の俺の言い回しは相当目に余るものがあったのだろう。
岡本と西村にだけじゃない。中学の同級生にも今のクラスメイトにも、きっとたくさん嫌な思いをさせてきた。
「……今まで悪かった」
心の思うままに口にすれば、自然と前を向くことができた。
「岡本たちの言う通り、言い方キツくて空気悪くしてたと思う。全部は無理かもしれないけど、意識して直すから」
言い終わった後にどうにも恥ずかしさが込み上げて、少し笑って誤魔化した。
きっとすぐには受け入れてもらえないかもしれない。だけどもう、頭ごなしにものを言って、誰かに不快な思いをさせるのは嫌だ。
しばらく黙り込んでいた二人だが、最初に口を開いたのは西村だった。
「いいよ別に。つーか俺もこの前ヤなこと言ってごめんな。注意されてついカッとなった」
「……いや、いいよ。結構刺さったけど」
「刺さってるやん。別にぼっちが悪いわけじゃないんだから自信持てよ」
「傷を抉り返すなよ……」
素直な言葉が返ってきたことに驚いた。西村の顔にはいつものふざけたような色はない。もしかしたらうるさいだけで、案外悪いヤツではないのかもしれない。
ずっと黙り込んでいる隣の岡本に視線を移した。岡本は眉間にしわを寄せたまま、なにかを言いたそうに俺にガンを飛ばしている。
「全部は無理ってなに。そこは全部直しなよ。小さい男だな」
「……今何て言った?」
最後にぼそりと付け足された言葉が引っかかって、思わず椅子から立ち上がる。すると岡本も同じく席を立ち、挑発するように顔を寄せながら「あれ〜?」と口端を吊り上げた。
「聞こえなかった? もう一回言ってあげるよ。自分に自信の持てない情けない男だなって言ったんですー」
「は? そっちこそ靴下生乾きで履いたとか聞きたくもない話垂れ流してただろ。そんなんだからまともな女子が寄り付かないんだよ」
「はああ? 盗み聞きしてんなよ変態。だいたい昨日の合コンは俺が悪いんじゃなくて席が最悪だったの! 俺だけなぜか誕生日席に通されて──」
岡本がなにかを言いかけたそのとき、ゴツンと何者かによって頭を叩かれる。振り向けば、いつのまにか隣に般若のような顔をした先生が立っていた。
「おまえらうるさい」
「すんません……」
同時に肩を竦める岡本と目が合う。ふてぶてしく口を尖らせる彼の目からは、もう俺に対する憎しみは感じられなかった。
「──それでそのあと結局、なんだかんだ発表までちゃんとやってくれたんですよね。最後までしょうがない口喧嘩ばっかりしてましたけど」
食事と風呂を済ませて、消灯時間までの自由時間。座布団の上に正座をする俺の膝の上には、橙士先輩が頭を乗せている。
「終わってからも絡まれて、入学してから初めてクラスメイトと休み時間を過ごしたんです。とっつきにくいと思ってたんですけど、喋ってみると意外と普通で拍子抜けしたっていうか」
ずっと教室で一人で過ごすことが当たり前だったから、誰かと過ごす休み時間があんなに一瞬で過ぎていくことを初めて知った。次の授業の準備すら忘れて会話に没頭するなんて、以前までの俺ならありえなかったことだ。
「……あっ、ごめんなさい、俺ばっかり喋って。退屈でしたよね」
橙士先輩は俺の膝を枕にしたまま、じっと俺の目を見上げている。徐にその手が伸びてきて手招きをするので、俺はぎこちなく頭を下げた。
「がんばったね」
甘やかすような声で言われ、なでなでと優しい手つきで頭を撫でられる。寒い日に温かいココアを飲んだみたいに、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。
「琉生が嬉しいと俺も嬉しくなる」
「……」
「どした?」
黙り込む俺を見て、先輩が不思議そうな顔をしている。
「先輩に褒めてほしいなって思ってたから、満たされました」
「……ふは、かわいー。他の人と喋った後も、俺のこと思い出してくれたんだ?」
「あ……っ別に、深い意味はなくて」
橙士先輩のことを思い出していたのは図星だ。っていうか、最近はずっとそうだ。
主に嬉しいことがあったときに、なにかにつけて『あとで先輩に話そう』と考えてしまう。そうすることで喜びが一層膨れ上がるような気がする。先輩に話せば、俺と同じように喜んでくれるのがわかっているから。
(あれ、俺はなんで焦って言い訳みたいなこと言ってるんだっけ)
別に素直に認めればよかったのに。頭と身体がちぐはぐで、自分でも自分の言動が理解できないときが多々ある。
「頑張った琉生にご褒美をあげよう」
先輩はそう言うと、俺の膝から頭を浮かせて起き上がった。自分の机に向かっていった先輩は、なにかを手にして戻ってくる。
「なんですか?」
「じゃーん」
どばどばと俺の膝の上に次々に落とされるのは、個包装された大量のチョコレートだった。ざっと見ただけでも三十個はありそうだ。先輩はさらに降らせようとしていたので、さすがにストップをかけた。
「なんですかこの量」
「放課後駄菓子屋に行ったので童心に返り箱買いしました」
「……っあはは、しばらくおやつに困りませんね」
無駄にドヤ顔で腰に手を当てる先輩がおかしくて笑ってしまう。
「琉生甘いもの好きでしょ。ぜんぶあげる」
「俺に? 一緒に食べましょうよ、せっかくなら。……あ、そうだ」
立ち上がった俺は、自分の机の引き出しからファンシーな柄のクッキー缶を引っ張り出した。その中にさっき先輩にもらった小さなチョコレートをどんどん詰め込んでいく。
「前に親から送られてきたテーマパークのお土産なんですけど、これに入れておきましょう。先輩と俺の共用お菓子ボックス的な」
「いいね」
「好きに取っていっていいですからね」
「はい、あーん」
先輩は早速一つ手に取って袋を開けると、俺の顔の前で裸のチョコレートを揺らした。困惑しつつも唇にぐいぐいと無理やり押し付けられるので、渋々小さく口を開ける。するりと放り込まれたチョコレートは、いつもより甘ったるい味がした。
「……もう、だから自分で食べれますって」
「可愛い。その顔が見たかった」
「なに言ってるんですか」
慈しむような顔で微笑むので、戸惑ってしまって視線を逸らす。
相変わらず突然変なスイッチが入るから、心臓に悪い。
「……あの、先輩。もう一つご褒美欲しいんですけど」
でも今なら自然にお願いできるかもしれない。ごくりと息を呑んでから、言葉を続けた。
「もう一度、頭撫でてくれませんか」
俺が言うと、先輩の腕がゆっくりと持ち上がる。そして骨ばった手が、ぽんと優しく俺の頭に載せられた。まるで壊れ物に触るみたいに丁寧に撫でられて、頭の形を確かめるように何度も頭の上を往復する。
時折髪の中に手を差し込まれると、ほんの少しのくすぐったさに目を細めた。
(……橙士先輩の撫で方、咲真先輩と全然違うんだよなぁ)
わしゃわしゃと掻き混ぜられて、乱れた髪を自分で直していた頃を思い出す。一方で橙士先輩は真逆の触れ方をしてくるから、大事にされているみたいで胸がむず痒い。
「よしよーし、琉生はいいこで頑張り屋さん」
「嬉しいけど、子ども扱いするのはやめてください」
「でろでろに甘やかしてるだけ。子どもなんて思ったことないよ」
「ええ、本当かな」
笑いながら先輩の顔を見上げる。すると想像していたよりも真剣な瞳がそこにあった。
「ずるいな、俺の気持ち知ってるくせに」
「……っ」
頭を撫でていた手が降りてきて、そっと頬をなぞる。僅かに目を見開けば、先輩はクスっと笑って手を離した。
(すっかり油断してたけど、先輩って俺のことそういう意味で好きなんだよな……?)
付き合ってほしいと言われたときは、考えるまでもなくお断りを入れてしまったけど。そもそも先輩は俺と付き合って、どんなことをしたいんだろう。
俺の許可なしにガンガン手は繋いでくるし、同じ部屋だから一緒にいる時間も長い。仮に先輩と付き合っても今とほとんど変わらないのでは?
「そういえば昼間なんか言いかけなかった?」
「……あっ」
……そうだ、先輩を夏祭りに誘おうとしていたんだ!
岡本たちのこともあって、すっかり忘れていた。
言うか言うまいか一瞬迷ったけど、どうせ誤魔化しても口を割るまでしつこく聞き出されるに違いない。腹を括った俺は、再び座布団の正座をした。
「来週の土曜日、夏祭りがあるらしいんですけど。よかったら一緒に行きませんか?」
少しの緊張を胸にその顔を見上げながら言うと、先輩の顔が驚きに満ちていく。
「俺でいいの?」
「先輩がいいです」
間髪入れずに答えれば、先輩は唐突に両手で顔を覆ってしまった。
「まじか。うわー……まじか」
うわ言のようにそう呟きながら、先輩はとうとうしゃがみ込んでしまう。基本的に落ち着いている先輩の、初めて見るようなそのリアクションは、どういう心境なのか全く想像がつかない。
「嫌なら全然断ってください」
「違う、逆。幸せすぎて言葉にならないので、ちょっと待って」
……どうやら喜んでくれていたみたいだ。
しばらくの間、壊れた機械のように「まじか」を連呼していた先輩は、やがて指の隙間から片目を覗かせた。
「……俺でよければ、お願いします」
夏祭りに誘っただけでこんなに喜ばれるなんて、先輩ってそんなに俺のことが好きなのかな。そう思うとやっぱり胸がくすぐったくなる。
「こちらこそ」と小さく返した俺の方までなんだか照れてしまって、先輩の顔を見ることができなかった。
「おいしい?」
騒々しい昼休みの食堂。その一角で、俺は先輩と向かい合って座っていた。
「おいしいです」
「よかったね。いっぱい食べな」
エビフライを頬張る俺を観察しながら、橙士先輩はふわりと目元を綻ばせた。
「自分が作ったみたいな顔するじゃないですか」
「うん、この辺の付け合わせ俺が作った」
「嘘ばっか」
今日も相変わらず、先輩は雰囲気で会話をしているみたいだ。頬杖をついて楽しそうに俺が食事をするところを眺めている先輩の机の上には、パックに入ったままの小さなおにぎりが一つだけ置かれている。
「ていうか先輩こそいっぱい食べてくださいよ。なんですかその量。とうとうおにぎり一つだし」
「チョコ食べる?」
「……食べるけど」
どこから取り出したのか小分けのチョコレートを手にした先輩が、長い指先でピリッと包装紙を破る。
「はい、あーん」
中のチョコを掴むと、そんなことを言いながら俺の口元に寄せてきた。反射的に口を開くと、するりとチョコレートが放り込まれていく。
途端に口内に広がる甘ったるい風味。大人しくもぐもぐと咀嚼していた俺は、ハッとして顔を上げた。
「っ、自分で食べれますから!」
「上手に食べれてえらーい。よしよし」
「撫でるな!」
手を伸ばして頭を撫でられて、かっと顔が熱くなる。最近は何かにつけてこうだ。頭は撫でるし、先輩の手から俺に食べ物を与えたがるし、相変わらず少しの移動にも手を繋いでくる。
様子のおかしい先輩の言動にも順応してきた──なんてすましていたのは遠い過去の話。最近の俺は、どうにも様子がおかしかった。
「もう一個あげる」
「太るんでいいです」
執拗にチョコを俺に押し付けようとしてくる先輩から逃れるように、ぶんぶんと顔を横に振る。
しかし俺が先輩を拒めるはずもない。そもそも先輩の執念は俺が思う以上に深く……言い換えればしつこい。
結局俺は恥ずかしさでいっぱいになりながら、二回目のチョコを先輩の指先から受け取ったのであった。
「琉生さぁ、ちょっと痩せたよ。もっと食ってもっと太れ?」
「なんか昔父さんにも同じこと言われたなって、それ聞いて思い出しました」
「俺が父さんなら、琉生はおかんだもんね」
「違うし。まだ覚えてたんですかそれ」
変なところで記憶力がいい先輩に苦笑する。橙士先輩は基本的に、俺が一度言ったことは絶対に覚えている。そのくせ明日の提出物とか用意するものに関しては抜け落ちていることが多く、クラスでは『忘却の神』と言われているらしい。
本当なのか嘘なのかは定かではないが、先輩が自慢げに語っていたから本当なのかもしれない。
「琉生、やっぱ黒い方が似合う」
再び先輩の長い腕が伸びてきて、黒く染めたばかりの俺の髪に触れる。
「……っ」
それだけで動揺していることを悟られたくなくて、咄嗟に息を止めた。先輩はそんな俺の気も知らず、俺の髪を自分の指に絡めるようにくるくると弄んでいる。
(おかしいな、前はこういうの何とも思わなかったのに……)
そう、最近の俺は橙士先輩の一挙手一投足に振り回されている。
スキンシップが激しいなんて今に始まったことではないし、甘い言葉や笑顔だって散々与えられてきたはずだ。それなのに今になって、まるで遅効性の毒のようにじわじわと身体に異常をきたし始めた。
「黒染めぐらいなら俺がやってあげたのに」
「寮だと大浴場しかないし、美容院予約するしかなかったんですよ」
「言ってくれれば俺が着いていったのに」
「なんで髪染めるのに先輩同行させるんですか。恥ずかしいでしょ」
先輩が寝ている隙に俺が勝手に外出したことにへそを曲げている先輩は、ことあるごとに俺の髪を見てはこの話題を持ち出してくる。勝手にっていうか、別に外出に先輩の許可なんかいらないんだけど。
それにこの黒染めは、俺の中では咲真先輩との決別を意味していた。咲真先輩に憧れて選んだ、先輩と同じ髪色を捨てて、ありのままで自分らしく生きるという決意をも込めている。
「先輩はそれ、何色って言うんですか。よく似合ってますよね」
まだぶつぶつとうるさいので、話題を変えようと先輩の髪を指さした。黒髪マッシュの俺とは違って、ゆるゆるとパーマが施された金色に近い茶髪をしている。先輩はぱちぱちと瞬きを繰り返すと、真顔のまま口を開く。
「ペリカンベージュ」
「……本当に?」
「って、たったいま俺が命名した」
「はー……本当テキトーな人……」
なんでこんな人相手にいちいち動揺しているんだろう。咲真先輩のこともあったばかりだし、きっとまだ気持ちが落ち着かないだけだ。
「てか来週から七月か。はやいな」
ようやくおにぎりを頬張り始めた先輩がそんなことを呟くのを聞いて、俺はあることを思い出した。
……そうだ、夏祭り。
以前見かけたチラシによれば、七月の一週目の土曜日に学校の近くの商店街で開催されるらしい。つまり来週の土曜日だ。
少し前までの俺ならば、絶対にスルーしていたであろうイベント。何故なら友達がいないと楽しめないから。
だけど今の俺には橙士先輩がいる。なにより先輩と一緒に夏の風物詩を楽しみたいという思いが日に日に強くなっていて、そんな自分の気持ちの変化に驚いていた。
(どうしよう、誘ってみようか。でももしガッキーさんとかと先約があったら……)
先輩がおにぎりを食べ終わるまで静かに思考を巡らせていた俺は、先輩が食べ終わったのを確認すると、意を決して口を開いた。
「あの先輩、来週なんですけど」
「──あ、いたいた。城所~!」
遠くの方から橙士先輩の名前を呼ぶ声がして、反射的に顔を向ける。声を掛けてきた人は、おそらく先輩なのだろうが知らない顔だった。
「おまえ今日日直だろ? 昼休み職員室呼び出されてたじゃん!」
「……あれ、そうだっけ」
「そうだよ! カトセンもうカンカンだから早く来いって!」
ぐいぐいと腕を引かれて、橙士先輩が面倒臭そうに立ち上がる。
「ごめん琉生。また夜ね」
「気にしないでください」
申し訳なさそうに俺と目を合わせてから連行されていく先輩を見送ってから、はあと一人溜息を吐く。
完全にタイミングが悪かった。そう思う一方で、どこかでほっとしている自分もいる。
(誰かを誘うのって、こんなに緊張するのか)
来週なんですけど、と言って先輩の顔を見た途端に、頭が真っ白になった。あんな経験は初めてだ。
冷静に考えると、誰かを何かに誘うという行為は、あなたと行きたいという気持ちを受け渡すようなものだ。必要以上に緊張するのはそのせいかもしれない。
「……俺ってこんなにビビリだったのか」
たかが夏祭りに誘うぐらいでうじうじ悩むなんてらしくない。再び深い溜息を吐いた俺は、ずるずると頭を下げて一人唸るばかりだった。
「じゃあ各班に分かれて調べてプリントに記入して。終わったら順番に発表してもらうからなー」
気分は最悪だった。何せ五限目は苦手なグループワークだ。しかもなんの因縁か、正面にいるのが──。
「なあ昨日合コン行ったんだけど、話聞きたい?」
「は〜!? なんで誘ってくんなかったんだよ! 抜け駆けずりーぞ岡本おめえ!」
「急だったんだもん仕方ないでしょ。相手南女の女子だったんだけどさ……」
机の上に積んである文献そっちのけで、全く関係のない話題で早速盛り上がり始める岡本と西村。
(なんでよりによってこいつらと同じ班なんだ。全く懲りてないみたいだし……)
先日のクラスマッチで険悪な雰囲気になってしまって以降、彼らとは会話を交わす機会がなかった。
相変わらず真面目にやるのが得意ではないらしい。彼らを視線に入れないように、静かに分厚い本を捲る。
「マジ〜っ!? 彼氏いたの!? 冷やかしかよ、だりーなそれ」
「いや本当に。お帰りくださーいって感じだったんだけど、よりによって俺だけ余ってその子と話すことになっちゃって」
「ヒャハハ! おまえ本当に運ねえなぁ!」
場をわきまえず話し続ける岡本と、耳障りな笑い声を響かせる西村。同じ班の他のクラスメイトたちも苦笑いをし始める。
……いや、やっぱり無理だ。黙っていようと思っていたけど、さすがに看過できない。
「──おい」
「あ?」
まるでデジャヴだ。俺が声を掛けると、二つの視線が同時に俺の方に向けられた。
「はいはい、でたでた」
「なんすか小木曽さん」
ニヤニヤと笑いながら、俺の言葉の続きを待つ二人。きっと俺が投げかけた言葉を受けて、揚げ足をとるつもりなのだろう。
いつもみたいに正論で押し通そうと口を開きかけたが、少し考えて一度閉口する。
(……いやダメだ。一方的に自分の意見を押し付けたって、きっとまた聞き入れてもらえない)
軽い気持ちで言葉を発すれば、神経を逆撫でするかもしれない。俺が彼らに注意をしたあのクラスマッチのときだって、俺は対応を間違えた。
じゃあどうすればいいのか。
俯きながら少し考えた挙句、腹を括った俺はゆっくりと視線を正面に向けた。
「……盛り上がってるところ悪いんだけど、一瞬でいいから集中してくれない?」
「…………は?」
「早く終わらせたらまた話しててもいいから。提出する分だけとりあえず終わらせよう」
なるべく圧が強いと思われないように、できるだけゆっくりと柔らかい口調でそう述べた。
橙士先輩の喋り方を真似してみたのに、実際はそう上手くはできないみたいだ。でもこの前は怒りに任せて睨み付けてしまったが、今回は意識して表情を変えないようにすることができたはずだ。
二人は俺の様子を見てあんぐりと口を開けていたが、やがて岡本の方が身を乗り出して俺の顔をまじまじと凝視してきた。
「…………なんか悪いものでも食った?」
「は?」
「偉そうじゃない小木曽とかこわいんだけど。もしかして頭打って誰かと中身入れ替わった?」
「なに意味わかんないこと言ってんだ……いいから真面目にやってくれよ」
なにを言い出すかと思えば、そんなくだらないことを考えていたのか。幽霊でも見たかのような驚き様からして、以前の俺の言い回しは相当目に余るものがあったのだろう。
岡本と西村にだけじゃない。中学の同級生にも今のクラスメイトにも、きっとたくさん嫌な思いをさせてきた。
「……今まで悪かった」
心の思うままに口にすれば、自然と前を向くことができた。
「岡本たちの言う通り、言い方キツくて空気悪くしてたと思う。全部は無理かもしれないけど、意識して直すから」
言い終わった後にどうにも恥ずかしさが込み上げて、少し笑って誤魔化した。
きっとすぐには受け入れてもらえないかもしれない。だけどもう、頭ごなしにものを言って、誰かに不快な思いをさせるのは嫌だ。
しばらく黙り込んでいた二人だが、最初に口を開いたのは西村だった。
「いいよ別に。つーか俺もこの前ヤなこと言ってごめんな。注意されてついカッとなった」
「……いや、いいよ。結構刺さったけど」
「刺さってるやん。別にぼっちが悪いわけじゃないんだから自信持てよ」
「傷を抉り返すなよ……」
素直な言葉が返ってきたことに驚いた。西村の顔にはいつものふざけたような色はない。もしかしたらうるさいだけで、案外悪いヤツではないのかもしれない。
ずっと黙り込んでいる隣の岡本に視線を移した。岡本は眉間にしわを寄せたまま、なにかを言いたそうに俺にガンを飛ばしている。
「全部は無理ってなに。そこは全部直しなよ。小さい男だな」
「……今何て言った?」
最後にぼそりと付け足された言葉が引っかかって、思わず椅子から立ち上がる。すると岡本も同じく席を立ち、挑発するように顔を寄せながら「あれ〜?」と口端を吊り上げた。
「聞こえなかった? もう一回言ってあげるよ。自分に自信の持てない情けない男だなって言ったんですー」
「は? そっちこそ靴下生乾きで履いたとか聞きたくもない話垂れ流してただろ。そんなんだからまともな女子が寄り付かないんだよ」
「はああ? 盗み聞きしてんなよ変態。だいたい昨日の合コンは俺が悪いんじゃなくて席が最悪だったの! 俺だけなぜか誕生日席に通されて──」
岡本がなにかを言いかけたそのとき、ゴツンと何者かによって頭を叩かれる。振り向けば、いつのまにか隣に般若のような顔をした先生が立っていた。
「おまえらうるさい」
「すんません……」
同時に肩を竦める岡本と目が合う。ふてぶてしく口を尖らせる彼の目からは、もう俺に対する憎しみは感じられなかった。
「──それでそのあと結局、なんだかんだ発表までちゃんとやってくれたんですよね。最後までしょうがない口喧嘩ばっかりしてましたけど」
食事と風呂を済ませて、消灯時間までの自由時間。座布団の上に正座をする俺の膝の上には、橙士先輩が頭を乗せている。
「終わってからも絡まれて、入学してから初めてクラスメイトと休み時間を過ごしたんです。とっつきにくいと思ってたんですけど、喋ってみると意外と普通で拍子抜けしたっていうか」
ずっと教室で一人で過ごすことが当たり前だったから、誰かと過ごす休み時間があんなに一瞬で過ぎていくことを初めて知った。次の授業の準備すら忘れて会話に没頭するなんて、以前までの俺ならありえなかったことだ。
「……あっ、ごめんなさい、俺ばっかり喋って。退屈でしたよね」
橙士先輩は俺の膝を枕にしたまま、じっと俺の目を見上げている。徐にその手が伸びてきて手招きをするので、俺はぎこちなく頭を下げた。
「がんばったね」
甘やかすような声で言われ、なでなでと優しい手つきで頭を撫でられる。寒い日に温かいココアを飲んだみたいに、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。
「琉生が嬉しいと俺も嬉しくなる」
「……」
「どした?」
黙り込む俺を見て、先輩が不思議そうな顔をしている。
「先輩に褒めてほしいなって思ってたから、満たされました」
「……ふは、かわいー。他の人と喋った後も、俺のこと思い出してくれたんだ?」
「あ……っ別に、深い意味はなくて」
橙士先輩のことを思い出していたのは図星だ。っていうか、最近はずっとそうだ。
主に嬉しいことがあったときに、なにかにつけて『あとで先輩に話そう』と考えてしまう。そうすることで喜びが一層膨れ上がるような気がする。先輩に話せば、俺と同じように喜んでくれるのがわかっているから。
(あれ、俺はなんで焦って言い訳みたいなこと言ってるんだっけ)
別に素直に認めればよかったのに。頭と身体がちぐはぐで、自分でも自分の言動が理解できないときが多々ある。
「頑張った琉生にご褒美をあげよう」
先輩はそう言うと、俺の膝から頭を浮かせて起き上がった。自分の机に向かっていった先輩は、なにかを手にして戻ってくる。
「なんですか?」
「じゃーん」
どばどばと俺の膝の上に次々に落とされるのは、個包装された大量のチョコレートだった。ざっと見ただけでも三十個はありそうだ。先輩はさらに降らせようとしていたので、さすがにストップをかけた。
「なんですかこの量」
「放課後駄菓子屋に行ったので童心に返り箱買いしました」
「……っあはは、しばらくおやつに困りませんね」
無駄にドヤ顔で腰に手を当てる先輩がおかしくて笑ってしまう。
「琉生甘いもの好きでしょ。ぜんぶあげる」
「俺に? 一緒に食べましょうよ、せっかくなら。……あ、そうだ」
立ち上がった俺は、自分の机の引き出しからファンシーな柄のクッキー缶を引っ張り出した。その中にさっき先輩にもらった小さなチョコレートをどんどん詰め込んでいく。
「前に親から送られてきたテーマパークのお土産なんですけど、これに入れておきましょう。先輩と俺の共用お菓子ボックス的な」
「いいね」
「好きに取っていっていいですからね」
「はい、あーん」
先輩は早速一つ手に取って袋を開けると、俺の顔の前で裸のチョコレートを揺らした。困惑しつつも唇にぐいぐいと無理やり押し付けられるので、渋々小さく口を開ける。するりと放り込まれたチョコレートは、いつもより甘ったるい味がした。
「……もう、だから自分で食べれますって」
「可愛い。その顔が見たかった」
「なに言ってるんですか」
慈しむような顔で微笑むので、戸惑ってしまって視線を逸らす。
相変わらず突然変なスイッチが入るから、心臓に悪い。
「……あの、先輩。もう一つご褒美欲しいんですけど」
でも今なら自然にお願いできるかもしれない。ごくりと息を呑んでから、言葉を続けた。
「もう一度、頭撫でてくれませんか」
俺が言うと、先輩の腕がゆっくりと持ち上がる。そして骨ばった手が、ぽんと優しく俺の頭に載せられた。まるで壊れ物に触るみたいに丁寧に撫でられて、頭の形を確かめるように何度も頭の上を往復する。
時折髪の中に手を差し込まれると、ほんの少しのくすぐったさに目を細めた。
(……橙士先輩の撫で方、咲真先輩と全然違うんだよなぁ)
わしゃわしゃと掻き混ぜられて、乱れた髪を自分で直していた頃を思い出す。一方で橙士先輩は真逆の触れ方をしてくるから、大事にされているみたいで胸がむず痒い。
「よしよーし、琉生はいいこで頑張り屋さん」
「嬉しいけど、子ども扱いするのはやめてください」
「でろでろに甘やかしてるだけ。子どもなんて思ったことないよ」
「ええ、本当かな」
笑いながら先輩の顔を見上げる。すると想像していたよりも真剣な瞳がそこにあった。
「ずるいな、俺の気持ち知ってるくせに」
「……っ」
頭を撫でていた手が降りてきて、そっと頬をなぞる。僅かに目を見開けば、先輩はクスっと笑って手を離した。
(すっかり油断してたけど、先輩って俺のことそういう意味で好きなんだよな……?)
付き合ってほしいと言われたときは、考えるまでもなくお断りを入れてしまったけど。そもそも先輩は俺と付き合って、どんなことをしたいんだろう。
俺の許可なしにガンガン手は繋いでくるし、同じ部屋だから一緒にいる時間も長い。仮に先輩と付き合っても今とほとんど変わらないのでは?
「そういえば昼間なんか言いかけなかった?」
「……あっ」
……そうだ、先輩を夏祭りに誘おうとしていたんだ!
岡本たちのこともあって、すっかり忘れていた。
言うか言うまいか一瞬迷ったけど、どうせ誤魔化しても口を割るまでしつこく聞き出されるに違いない。腹を括った俺は、再び座布団の正座をした。
「来週の土曜日、夏祭りがあるらしいんですけど。よかったら一緒に行きませんか?」
少しの緊張を胸にその顔を見上げながら言うと、先輩の顔が驚きに満ちていく。
「俺でいいの?」
「先輩がいいです」
間髪入れずに答えれば、先輩は唐突に両手で顔を覆ってしまった。
「まじか。うわー……まじか」
うわ言のようにそう呟きながら、先輩はとうとうしゃがみ込んでしまう。基本的に落ち着いている先輩の、初めて見るようなそのリアクションは、どういう心境なのか全く想像がつかない。
「嫌なら全然断ってください」
「違う、逆。幸せすぎて言葉にならないので、ちょっと待って」
……どうやら喜んでくれていたみたいだ。
しばらくの間、壊れた機械のように「まじか」を連呼していた先輩は、やがて指の隙間から片目を覗かせた。
「……俺でよければ、お願いします」
夏祭りに誘っただけでこんなに喜ばれるなんて、先輩ってそんなに俺のことが好きなのかな。そう思うとやっぱり胸がくすぐったくなる。
「こちらこそ」と小さく返した俺の方までなんだか照れてしまって、先輩の顔を見ることができなかった。

