ゆるあまな先輩が俺だけに本気なのは反則です

才條(さいじょう)地区 夏祭りのご案内》
 校内の掲示板に貼られている一枚のチラシが、通りがかりに目についた。
 夏祭りか……。
 遥か昔に親と行ったことがあるが、友達同士で楽しそうな同世代の子どもたちを見かけては、羨ましくなっていた苦い思い出が蘇る。
(橙士先輩ってこういうの行ったことあるのかな。あるよなそりゃ。友達多いし、あれでも陽側の人だし)
 真っ先に浮かんだのは橙士先輩の顔だった。きっと最近、本格的に橙士先輩としか喋っていないからだろう。
 あの人、袴とか似合いそうだな。とびきり変なお面を選んで喜んで被ってそうだし、誰も買わないような変わったドリンクに手を出して周りにげんなりされてそう。
 想像に容易くて、自然と頬が緩んでしまう。だがすぐにここが廊下だと思い出して、ハッと気を引き締めた。
「あ、ルイくん」
 不意に前から名前を呼ばれて振り向くと、鮮やかなピンク色の髪が視界に飛び込んできた。
 橙士先輩とよく一緒にいる派手な先輩だ。声を掛けられるのはこれが初めてだったので、驚いて足を止めてしまう。
「あ……えっと」
新垣侑吾(にいがきゆうご)。みんなにはガッキーって呼ばれとるよ」
「ガッキーさん」
「うん、新鮮でいいなぁ」
 ガッキーさんは満足そうに腕を組んで、うんうんと大きく頷いている。
 陽の人がいったい俺に何の用なんだろう。
 無意識に顔が強張っていたらしい俺を見て、「そんなに警戒しんといてやぁ」とガッキーさんは眉を下げて笑った。
「今更やけど謝りたくて。あのとき、橙士の部屋で嫌な話聞かせてまったやろ」
「あのとき……?」
 一瞬なんのことかわからなかったが、すぐに思い出した。
 橙士先輩が俺と同部屋になるためのアレコレしていたという話を、俺に聞かれてしまったことか。
 俺の表情の変化に気付いたガッキーさんが、申し訳なさそうに肩を竦める。
「ずっと言う機会窺っとったんやけどタイミングなくて。同部屋の先輩があんな後輩狂いの変人なんて知りたくなかったよな。ほんまごめんなぁ」
「いや、どうせ知るなら早い方がダメージ少なかったんで。それに吹っ切れた後の先輩も面白いから、全然問題ないです」
「そうか? 自分変わってるな。あそこまで執着されるの嫌やないん?」
「嫌ではないです。たまに少し驚かされますけど、優しくしてくれるので救われてます」
 なにごとも適当に自分本位に生きているように見えて、些細な俺の行動まで見逃さない橙士先輩。
 ずっと一人で抱えてきた小さな傷や痛みも、先輩のそばにいると自然と和らいでしまう。
 先輩がとっても優しい人だっていうことを、俺は知っている。
「……どうかしました?」
「いや、橙士が知ったら喜びそうやなぁって」
 ガッキーさんはまるで自分が褒められたみたいに、満面の笑みを浮かべていた。
 一見派手だがあの橙士先輩が一緒にいる人なのだから、ガッキーさんも悪い人ではなさそうだ。
「そういえば橙士に聞いたんやけど、咲真のこと慕ってんだって?」
「はい。ご存じですか?」
「うん。俺咲真と一年のときから同じクラスなんやけどさ。あいつ結構いい性格してるっつーか……」
「そうですよね。本当に優しくて」
「いや、そうじゃなくて」
 続けようとした俺の言葉を、ガッキーさんは何か言いたげに遮った。
「……あんまりあいつとは、関わんない方がいいかも」
「え?」
 続けて連ねられた言葉に、どきっと心臓が跳ねる。
 困り顔で俺の目を見るその目は、何かを口にするのを堪えるかのように揺らいでいた。
「おーいガッキー、移動遅れんぞ」
「あ、呼ばれた。ごめんな呼び止めて。じゃあまた、橙士のことよろしくなぁ」
「……はい」
 律儀に何度も振り返って俺に手を振るガッキーさんに手を振り返しながら、俺は胸に大きなわだかまりが残るのを感じていた。
(……今の、どういう意味だったんだろ)
 さっきのガッキーさんの表情がどうにも引っかかる。
 何かを訴えかけるようなあの目。あの人は俺に、なにを伝えたかったんだろう。


《久しぶり!二限の後、下駄箱の前で会える?》
 咲真先輩からそんなメッセージが来たのは、ガッキーさんに廊下で会ったほんの数日後のことだった。
「ごめんな急に。移動教室とか大丈夫?」
「はい。三限は普通に教室なので」
「それならよかった」
 咲真先輩は朗らかに笑う。いつもなら癒されるその笑顔も、今日の俺は上手く受け取ることができずにいた。
 ガッキーさんの発言が原因なのは言うまでもない。
 結局あの後ガッキーさんに遭遇することはできなくて、言葉の続きは聞けずじまいだったし。
「どうよ高校生活は。さすがにもう慣れた?」
「はい、おかげさまで」
「寮暮らしだと最初は寂しいよな。なんかあったらいつでも相談しろよ」
「……ありがとうございます」
 先輩がぐしゃぐしゃと俺の頭を掻き混ぜる。
 ……やっぱりおかしい。先輩じゃなくて俺がだ。
 嬉しかったはずの言葉も行動も、全く響いてくれない。相談しろと言ってくれるけど、メッセージを送ってもたまにしか返ってこないし、あれから数回昼飯に誘ってみたが、やっぱり理由をつけて断られてしまった。
 だからだろうか。先輩の言動が全部上辺だけのものに感じてしまうのは。 
 俺は愛想笑いを浮かべながら、乱れた自分の髪を整えた。
「ところでさ……ちょっと琉生にお願いがあって」
 気まずそうな様子で切り出した咲真先輩に、やっぱりかと思う自分がいることにも驚いた。
 だってそうでもなければ、先輩は俺をわざわざ呼び出したりしないだろう。
「琉生の教室って購買から一番近いだろ? 今日の昼から発売の限定パンが食いたくてさあ……」
「限定十食のやつですか?」
「そうそう。悪いんだけど代わりに買ってきてくれないかな」
「構いませんよ」
 俺がそう返すと、「マジ!? ありがとう~助かる!」と先輩は大袈裟に声を弾ませて喜んだ。
「ダチの分もあるから三つお願いしていい? 買えたら教室まで持ってきてくれると助かる。二年A組な」
「……わかりました」
 俺は俺の気持ちも対応もいつもと違うことを、はっきりと自覚していた。
 でも咲真先輩はちっとも気付いていないみたいだった。先輩からしたらいつも通りの俺なのだろう。
 吹っ切れた俺は、先輩に向かってできる限りの愛想笑いを作ってみせた。


「まじか、後輩パシらせてんの」
「おう待ってろよ、もうすぐ来るから」
 二年A組の教室の前。俺は締まり切った扉の前で買ったばかりのパンを三つ両手に抱えたまま、中から聞こえてくる聞き慣れた声に足を止めていた。
「持つべきものは購買に近い位置にいる後輩だな。俺らの分もちゃんとあんの?」
「頼んどいたからたぶん大丈夫。おまえら俺のおかげなんだから、跪いて感謝しろよ」
「あはは、持って来んのは咲真じゃねーだろ。懐いてくれてる後輩顎で使っといてよく言うわ。メッセも返してあげてねーんだろ?」
 薄々感じていたことだった。でも疑いたくなかった。好きだったはずの咲真先輩の笑顔が、作り物かもしれないなんてこと、信じたくもなかった。
「だって挨拶だけの中身のねえ内容に返す価値ないじゃん。既読つけてやってるだけ偉くね」
「何も言ってこねーの?」
「言わねえよ、従順な犬だから。俺のこと追いかけて地元から遥々上京してきたんだって」
「泣けるわ~~、悪い先輩に騙されてかわいそうに。コイツがこんな性格だって知ったら泣いちゃうんじゃね」
 身に覚えのある話が教室内に飛び交っている。おそらくこの扉を一枚隔てたすぐそばに咲真先輩たちはいるのだろう。
 勘付いてはいたし、そういうものだと割り切ろうとはしていた。だけど実際に先輩の気持ちを耳に入れてしまうと、なかなかくるものがある。
 心臓がギュッと締め付けられるみたいに痛い。飛び交う言葉は鋭利な刃物のようだ。グサグサと俺の心の柔らかいところを刺して、次々に血が漏れ出て止まらない。
 岡本と西村に心ない言葉を投げかけられたときよりも、よっぽどキツかった。
 それほど俺は先輩に対して、理想を抱きすぎていたんだ。
「俺に憧れてるって言うから理想の先輩を演じてあげてんだよ。優しいだろ?」
「パシってるくせにな。どうせ色々都合よく使いたいからキープしてるだけだろ。それに──」
 これ以上聞くのはキツいな。先輩の気持ちは痛いほどわかったし、パンだけ渡して後腐れなく立ち去ろうか。
 扉に手を掛けたそのとき、制止するようにその手を誰かに掴まれた。
「……なんで行こうとするの」
 次いで咎めるような声が落ちてくる。後ろから手を回されているせいで、その胸が俺の背中にぴったりとくっついている。激しい心音に、僅かに乱れた息。
 俺を見つけて走ってきてくれたのだろう。だって橙士先輩は、そういう人だから。
「パン、渡してこようかなって。せっかく買いましたし」
「その辺に捨てておけばいいよ」
「お金もったいないですもん」
 先輩にも聞かれてたのかな。情けない姿を見られてしまって恥ずかしい。
 心配をかけたくなくて、先輩のほうに顔を向けた俺は精一杯の笑顔を作った。
「そんな顔して笑うなよ」
 だけど先輩は笑い返してくれなかった。いつもは俺が笑うと、優しく微笑み返してくれるのに。
 いつになく苦しそうな顔をした先輩は、俺の手を上からぎゅっと力強く握った。
「先輩、離してください」
「嫌だ」
「大丈夫です。自分で区切りをつけたいんです」
 俺がそう言えば、ほんの少しの間をおいてゆっくりと手が離れていく。それを確認した俺はひとつ深呼吸をしてから、勢いよく目の前の扉を開いた。
「……おー! 琉生!」
 予想通り、咲真先輩はすぐそばにある廊下側の窓際の席にいた。周囲にいた二人の先輩の目が、楽しそうにこちらに向けられる。
 机にどっかりと腰掛けていた先輩は、俺の存在に気付くと爽やかな笑顔を作り、立ち上がってそばに寄ってきた。
「ごめんなわざわざ呼んじゃって。ありがとな、助かったよ」
「いえ」
 端的に返事をしてパンを渡し終えた俺は、覚悟を決めて先輩の目を見上げた。
「あの、先輩」
「ん?」
「しつこく連絡してすみませんでした。もうしませんから安心してください」
 真面目な顔をして言えば、咲真先輩は笑顔のまま固まった。
「それから、勝手に理想を押し付けてごめんなさい。先輩に望まない役をさせてしまったみたいで」
「えっと、琉生? さっきからなにを……」
「もう先輩を追いかけるのはやめます」
 きっと咲真先輩と話すのは、これが最後になるだろう。中学の頃からずっと、先輩と話すことを生き甲斐にしてきた。全ての日々が走馬灯のように蘇る。
「俺の希望になってくれて、ありがとうございました」
 咲真先輩の言動が嘘だったとしても、先輩の存在に支えられたのは紛れもない事実だ。感謝の気持ちが込み上げて最後に一度笑いかけてから、俺は先輩に背を向けた。
「……橙士先輩、行きましょう」
 俺の背後で控えていた橙士先輩に呼び掛けるが、先輩は無言のまま教室の中に視線を向けている。
「先輩?」
 その目にははっきりと怒りが滲んでいた。おそらく視線の先には、咲真先輩がいるに違いない。
「琉生が許しても、俺はあんたを許さない」
 橙士先輩が怒る姿を見たのは初めてだった。静かに落とされた声はいつになく低く、そんな声を出せるのかと息を呑んでしまう。
 普段はほとんど表情を変えない先輩だから、ただでさえ少し目を細めただけでも雰囲気が変わる。そんな先輩が鋭い眼光で睨み付ければ、その場の空気を一瞬で支配したのは明らかだった。
「せいぜい可愛い後輩を失ったことを一生かけて悔やんでろ、バーカ」
 吐き捨てるようにそう言った橙士先輩は、俺の手を取って廊下の先へと早足で歩き出した。


 橙士先輩に連れて来られた場所は、以前俺がひとりで昼飯を食っていた中庭だった。
「……っふは、バーカって。子どもですか先輩」
「己の語彙力のなさを恥じるべきだよね、俺は」
 先輩が呆れたように苦笑する。彼と向き合う形で立ち止まり、クスクスと笑いを漏らした。
「でも嬉しかったです。ちょっとスッキリした。ありがとうございます」
 すぐそばに橙士先輩がいてくれたから、勇気を振り絞ることができた。あのとき自分よりも傷付いた顔をしていた先輩を見て、踏ん張ることができたのだ。
「俺のこともバカだって笑っていいんですよ。ずっと咲真先輩の本心を見抜けなかった。きっと今までも裏で色々言われてたんだろうな」
 他人の気持ちを汲み取るのは得意ではない。よく空気を読めだとか右向け右だとか、この世界には色んな暗黙の了解があるけど、そんなもの理解しなくたって生きていけると思い上がっていた。
「今まで俺、みんなに言い方がキツイとか言われるたびに、俺は普通に話してるだけなのになんで勝手に曲解するんだって思ってたんですけど……さっき初めてわかりました。言葉を投げる方はそんなつもりなくても、受け取る側は言葉ひとつで致命傷になることもあるんだって」
 先輩が放った何気ない言葉は、忘れようと思ってもきっとしばらくは忘れることができないだろう。
 心臓に突き刺さったままの刃物みたいに、今でも血を流し続けている。
 俺がよかれと思って正論をぶん投げた人たちもそうだったのかもしれない。悪意のない言葉だったとはいえ、無意識に誰かの心を踏み荒らしていたかもしれない。
 自分が傷付いて初めてそんなことに気付くなんて、本当にどうしようもない。
「いい勉強になりました。だから、多分この痛みは無駄じゃなかった」
 痛みを誤魔化すように、無理やり笑顔を作ってみせた。
 咲真先輩を追いかけてこんなところまできた俺は、肝心の咲真先輩という軸を失ってしまった。そうして初めて、俺は俺という人間の薄っぺらさに気付いた。
 誰かに憧れることは、誰かに人生を預けることじゃない。俺はずっと、その意味を履き違えていた。
「無理に笑わなくていい」
「んむっ」
 唐突にびよーんと両側から頬を引き伸ばされて、間抜けな顔を橙士先輩の前に晒してしまう。
「はひすふんでふか」
「俺の前で見栄張るの禁止」
 先輩はむっとした顔をしている。
「元気なふりもしないで。琉生の笑った顔好きだけど、こういうときにまで見たいわけじゃない」
 やっぱり橙士先輩の前では、俺の強がりなんて簡単に見抜かれてしまうみたいだ。
 喉が震えて、言葉が詰まる。そんな俺に気付いたらしい橙士先輩は、ふっと優しく目元を緩めた。
「大丈夫。何も考えられなくなるぐらい、俺がめちゃくちゃに甘やかしてあげる」
 息を呑んだ。弱っているせいかわからないけど、たまらなく魅力的な提案に聞こえてしまう。
 甘えるってなんだろう。物心ついてから誰かに甘えたことなんか一度もないから、とっくの昔に忘れてしまった。
 だけどとりあえず先輩の言うように、無理に笑うのをやめてみた。そうしたらやっと先輩が、俺の顔から手を離してくれた。
「……先輩、いますごく歳上っぽい」
「これでも歳上ですからね」
「かっこいいです」
「本当? やった、琉生に褒められた」
 先輩がゆるゆると笑う。俺の気に入っている、いつもの先輩の笑顔だ。それを見た途端、胸の奥でぱちぱちと何かが弾けるような音がした。
「橙士先輩」
「んー?」
 緊張で名前を呼ぶ声が上擦る。先輩に一歩近付くと、俺はその胸に自分の顔を押し付けた。加減がわからなくて、ごつんと勢いよく鼻がぶつかってしまう。
 考えるより先に身体が動いた。先輩に寄りかかりたいと、後から感情がついてきた。
「……お言葉に甘えて、甘やかしてもらってもいいですか」
 赤くなっているであろう間抜けな鼻のまま顔を上に向ける。先輩は穏やかな眼差しを俺に向けてくれた。
「うん。琉生が満足するまで、こうしててあげる」
 先輩の長い腕が両方とも俺の背中に回って、ぎゅっと力強く彼のもとに抱き寄せられる。
 耳に当てた胸元から、橙士先輩の心臓の音が聞こえる。聞き間違いかと思うほど鼓動が速くて、先輩も緊張しているのだとわかった。
 ぶら下がっていたままの手を、おずおずとその背中に回してみる。ぎゅっと縋るようにしがみつくと、「よくできました」とでも言うように、優しく頭の上に手が置かれた。
 結局そのあと予鈴がなるまでずっと、先輩は俺を抱き締めながら、頭を撫で続けてくれた。