ゆるあまな先輩が俺だけに本気なのは反則です

「ほら先輩、アラームずっと鳴ってますって」
「んー……」
「毎朝うるさいしそろそろ隣の部屋からクレームきますよ」
 小鳥の囀る声が朝の訪れを告げる。二段ベッドの梯子を上った俺は、シーツの上に転がっている橙士先輩のスマホを掴むと、勝手にスヌーズを解除した。
 こんなに起きないのに五分おきに設定する意味はあるのかといつも思うが、もしかしたら明日は自分で起きるかもしれないという希望も捨てきれないので、あえてそのままにしている。
 一方でスマホの持ち主はというと、だるそうに眉間にしわを寄せたまま「うう……」と唸り声をあげ、ベッドの上で芋虫のように丸くなっている。
 一度開きかけた瞼が再び閉じていくのを確認した俺は、先輩の身体に掛かっているタオルケットを容赦なく取り上げた。
「もう、毎朝毎朝進歩のない人だな……!」
 こんなに連日迷惑を掛けられているのだから、多少悪態を吐くぐらい許されるだろう。
 橙士先輩は寝起きがすこぶる悪い。あまりにも起きないので一度心配になって血圧を測らせたが、別に数値は正常だった。つまりは彼自身の問題なのだろう。
 タオルケットを取り上げるのは最終手段。身に纏うものがなくなった先輩は、肌寒くなって渋々身体を起こし始めるのだ。
「朝?」
「いつまで寝惚けてるんすか。五分以内に出発しないと朝食食い損ねますよ」
「うん」
 先輩はのそのそと梯子から降りてくると、欠伸をしながら洗面所に入っていった。
 扉が開いたままだったので、後ろからその姿を確認すると、片手でスマホを触りながら歯磨きをしているところだった。
(いつも通りの橙士先輩だ……)
 あまりにも普段通りなので拍子抜けしてしまう。
 昨夜あんな宣言をされたものだから、一体どんなアクションを起こしてくるのかと警戒していたのに。
 ──俺、琉生のこと好きなんだよね。
 ──この際だから言うけど、俺と付き合ってくれない?
 あの告白の後、俺は半ば放心状態のままベッドに入り、明かりを消した部屋の中で冷静に先輩の言動を分析していた。
 偶然同じ部屋になったと思っていたのに、実は先輩が裏で手を回していて。先輩は俺のことが好きで、俺と付き合いたいと思っている。
 ……どう考えても一晩で処理できる量ではない。考えることを放棄した俺はひとまず睡眠を優先したのだった。
(だけど朝の橙士先輩の様子を見るに、そこまで強く警戒する必要もなさそうだな。よかった……)
「琉生」
 壁にもたれかかりながら先輩の支度が終わるのを待っていると、洗面所から出てきた彼に声を掛けられた。
「終わりましたか」
「うん」
 顔を上げると、すぐに目の前が影で覆われていることに気が付く。顔の横に伸びている先輩の長い腕を横目で見てから、正面にいる先輩の顔を見上げた。
 飴色の瞳と視線が絡まる。さっきまでの寝ぼけ眼はどこへやら──すっかり覚醒したらしい先輩が、緩やかに口元に弧を描いた。
「起こしてくれてありがと。琉生のおかげでいつも助かってる」
「……そうですか、よかったです」
 ……俺は知っている。これがいわゆる壁ドンと呼ばれる状態だってことを。
 外から見る分には「ふーん」という感じだったが、実際に自分がされる身になるとこんなに困惑するんだ。
 先輩が肘を曲げているせいでやたらと距離が近い。俺の目線がちょうど先輩の鎖骨の高さだから、彼の方がずっと背が高いことをまざまざと突き付けられる。
「あの、遅れちゃうんで」
「うん、行こ」
 俺がそう言えば、先輩はあっさりと離れてくれた。てっきりまだ何かされるんじゃと思っていた俺は、ほっと胸を撫で下ろす。
 しかしそれもほんの束の間のことだった。橙士先輩は流れるような動作で俺の右手をさらうと、ぎゅっと力強く握ったのだ。俺は絶句して、再び肩を強張らせた。
「…………先輩、これは何ですか」
「手を繋いでます」
 そんなことは見ればわかる。俺が聞きたいのは、明らかに普通とはいえないこの状況がどうして起きているのかということだ。
「なぜ。食堂に行くだけですよね」
「まずは物理的に攻めようかと思って」
「なんの話……」
 言いかけた俺は昨夜の記憶が頭をよぎりハッとした。
 さっきからベタベタの恋愛ドラマに出てきそうな行動ばかりしてくる橙士先輩。
 俺は多分今、昨日までの橙士先輩とは明確に違うということをわざと認識させられている。
「思い出した? 琉生いま、俺に狙われてるんだよ」
 振り向いて目を細めて笑う先輩の顔は、いつものゆるゆるとした雰囲気とはまるで違った。獲物を狩るような獰猛さが滲むのを見て、ごくりと息を呑む。
「ちゃんと自覚してね」
 「わかった?」とでも言うように、繋がれた手を一瞬力強く握り込まれた。先輩は俺の手を引いて部屋の外に出ると、当たり前のように手を繋いだまま廊下を歩いていく。
 なんで俺なんかに。全然いつも通りじゃないし。どんなリアクションすればいいのこれ。
 言いたいことは山ほどあるが、どれも言葉にするにははっきりしなくて、ぐっと言葉を飲み込んでしまう。
 様子のおかしい先輩を相手に手を振り解くこともできず、黙ってその後をついて歩くしかできなかった。


(つかれた……まだ昼休みだっていうのにこの疲労感……)
 寮の食堂で朝食を済ませた後も橙士先輩が手を繋いできたせいで、校舎に向かうまでの間に色んな人たちに訝し気な目を向けられてしまった。教室まで着いていくと言われたときはさすがに断ったけど。
 まさか本気で俺のことが好きなのか?
 自分で言うのもなんだが、好きになられるような要素なんてどこにもないはずだ。
(からかわれてる……とかはなさそうだよな。先輩ってそういう冗談は言わないし)
 この一ヶ月間橙士先輩と過ごしてみてわかったこと。先輩は基本的に適当人間だしホラ吹きだが、人を傷付けるような嘘は言わない。
 今回のことだって、本心からの発言や行動であるに違いない。だからこそ俺は困っていた。
 男と付き合うことに抵抗があるわけじゃない。でも昨夜先輩に言ったように、誰かと付き合うことのメリットを感じないのだ。
 だけど橙士先輩が本当に俺を好きだというのなら、再度答えを出す前に、しっかり熟考しないと失礼に当たる。
 今のところは申し訳ないが、NOに気持ちが傾いているのが事実だけど。
「……あっ」
 悶々と考えながら渡り廊下を歩いていた俺は、前を歩く見覚えのある後ろ姿を見つけた。
 その瞬間に一気に心が喜びに満ちていく。
「咲真先輩!」
 思わず声を掛けると、赤茶色の髪の彼がゆっくりとこちらを振り向いた。今日の咲真先輩は肩につくほどの長さの髪をハーフアップにしていて、一段と大人っぽく見える。
 一年と二年の教室は同じ校舎内にあるが、階が違うせいで普段はほとんど先輩の姿を見る機会はない。
 今日だってこうやって遭遇したのは実に一週間ぶりのことだった。
「おー琉生。こんなところで偶然だな」
「会えて嬉しいです」
「あはは、素直で可愛いなおまえ~」
 先輩は大きく口を開けて笑うと、俺の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜるようにして撫でてくれた。
 高校に入ってがらっと雰囲気が変わった先輩だが、中身は中学の頃と同じ優しいままだ。
「しかしビックリしたなぁ、まさか琉生まで北高(きたこう)受けるなんて。合格したって連絡きたときは俺まで嬉しかったよ」
「あのときは興奮して、咄嗟に電話しちゃってすみませんでした」
「いや全然。むしろ感動を共有してもらえて幸せな気持ちになれたわ」
「真っ先に祝ってもらえて、俺も嬉しかったです」
 先に上京していった先輩を寂しく思いながらも、同じ高校に通うことを目標に頑張ってきた受験期。あの苦行を乗り越えて、ようやく同じ高校に通うことができた今──もうこれ以上に望むことは何もない。
 そう思っていたのだが、久しぶりに会えた先輩を前にすると別れるのが惜しい。
「……あの、先輩。これからお昼ですか?」
「ああ、うん。どうした?」
「よかったら一緒に食べませんか」
 勇気を振り絞って聞いてみると、先輩は困ったように眉を下げた。
「あー……ごめんな、今日部活で呼び出し食らっててさ、部室でメシ食うことになってんだよね」
「そうですか。気にしないでください」
「また今度な」
 にかっと爽やかな笑顔を振り撒いて、先輩は去っていってしまった。
 遠ざかっていく後ろ姿が見えなくなるまで、ぼんやりと見つめてしまう。
(やっぱりかっこいいな。姿を見るだけで十分だけど、言葉も交わせるなんて。今日はいい日になりそうだ……)
 じわじわと実感が湧いてきて気持ちが弾む。
 気を抜いたら表情が緩んでしまいそうになって、そんな自分を戒めるように両手で頬をぱちんと叩いた。 
「あれが咲真先輩?」
「うわっ」
 背後から突然声を掛けられたのは、そんなタイミングだった。耳元に言葉を吹き込まれて、びくっと肩が跳ね上がる。
 驚いて振り向けば、すぐ近くに腰を屈めた橙士先輩がいて、俺の顔を横から覗き込んでいた。
「びっくりした。急に出てくるのやめてくださいよ」
「だって琉生、ずっとあの人に視線送ってて気付かないんだもん」
「だからって心臓に悪いです」
 恐怖と驚きでまだばくばくと心臓が鳴っている。
 目を白黒させる俺とは対照的に、眉一つ動かさない橙士先輩は、その綺麗な顔をずいっと近付けてくる。
「なに喋ってたの?」
「一緒に食事誘ったんですけど、断られちゃいました」
 答えると、先輩は僅かに目を輝かせた。
「そっかあ、残念だね」
「本当に思ってます?」
「もちろん。てかちょうどいいや、それなら俺と食べよ」
 橙士先輩は自分なりに必死に真顔を取り繕っているらしいが、口元が緩みそうになっているのが丸わかりだ。
 俺を誘えるのがそんなに嬉しいのか……。
 こんな風に他人の好意を感じ取ったことはなかったので、どんな顔をしていいかわからなくなる。
 こんなにわかりやすい先輩と一緒にいたのに、どうして俺は今まで先輩の気持ちに気付かなかったんだろう。
 いや多分、俺に気持ちがバレたから、先輩のリミッターが外れてしまったのかもしれない。
「橙士~~! おまえ急に走り出してどうしたんや、足速すぎて見失うかと思ったわ」
 返事を口にするより前に、先輩の後ろの方からピンク色の髪の先輩がこちらに向かって走ってきた。
 昨夜寮の部屋で橙士先輩と話していた人だ。
 すぐ近くで立ち止まると、膝に手を置いてぜえはあと荒い息を整えている。
「ねえ琉生。俺でもいいよね?」
「先輩。後ろでお友達が呼んでます」
「いーの、気にしないで。学食にする? それとも購買で買ってどっかで二人で食べる?」
「学食でいいですけど、お友達が」
 俺が必死に後ろにいるピンク髪の先輩を指さしているというのに、橙士先輩は無視して俺の手を握ると、そのまま振り向くことなく食堂の方へ向かっていく。
 いつになく押しの強い橙士先輩の様子に、俺はされるがままの状態で足を動かすだけだった。


 食堂に到着した俺たちは、偶然二人分空いていたカウンターの席に並んで腰掛けた。
「よかったんですか、さっきの」
 俺が神妙な面持ちで問い掛けると、先輩はきょとんとした顔で振り向く。
「なにが?」
「お友達、いつも一緒に食べてるんじゃないんですか」
「いいよ別に。俺以外にも友達多いし。その辺にいるんじゃない」
 きょろきょろと軽く辺りを見渡した先輩が、「ほらいた」と声を漏らす。
 その視線の先には確かにさっきのピンク髪の先輩がいた。たくさんのお友達に混ざって、楽しそうに手を叩きながら笑っている。
 ……(よう)の人って凄い。俺には絶対に真似できない。
 そもそも友達の作り方すら、この歳になっても未だにわからないし。
「琉生めっちゃ食うね」
「よく言われます」
 橙士先輩は俺の食事を見て目を丸くしている。
 Bランチである焼き魚定食に、だし巻き玉子と肉じゃがを追加。更にはこの後も白米のおかわりは欠かせない。
「逆に先輩それだけですか」
「昼あんまり腹減らない。これでも多いぐらい」
 一方で先輩のトレイの上には、そんなメニューがあったんだと驚くほどのこじんまりとしたサイズのうどん。
 俺ならあんなの三口で食べ終わってしまう。こんなに食べないのに、どうやってここまで身長を伸ばしたんだこの人。
「ちゃんと食わなきゃだめですよ、育ち盛りなんですから。睡眠にもカロリー使うんですからね。しっかりエネルギー補給しないと、いつか倒れますよ」
 ぐちぐちと言いながら、先輩のために取り皿に少量ずつおかずを取り分けた。
 「これだけは最低限食べてくださいね」とトレイの上に無理やり乗せてから、呆気にとられる先輩の顔を見てハッと息を呑む。
(……あ、まずい。またやってしまった)
 今のはさすがにうざかったか。
 ついズケズケと自分の意見を連ねてしまうのは、俺の悪い癖だと自覚している。
 そのせいで昔から仲良くなった相手にも距離を置かれたり、陰口を言われることも少なくなかった。
「……あの、要らなかったら俺が」
 同部屋の先輩と気まずくなるのはできれば避けたい。
 発言を撤回しようと、先輩のトレイの上に置いた取り皿を、再び自分のもとへ引き寄せる。するとそれを拒むように、その手の上から先輩の手が重ねられた。
「琉生ってさぁ」
 薄く開いた唇からこぼれ落ちた言葉に、どきっとして肩を揺らす。
 ──本当にうるせぇよな。何様のつもりだよ。
 ──あーあ、おまえのせいで気分台無し。あっち行こうぜ。
 今まで掛けられた言葉が呪いのように頭をよぎる。
 今度はなにを言われるのか。言葉の続きが怖くなって、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「おかんみたい」
「…………は?」
 気を張っていた俺のもとに掛けられたのは、予想外に間抜けな感想だった。
 思いがけず、ぐりんと顔だけ先輩の方に向けると、先輩は顔色ひとつ変えずに俺と目を合わせた。
「よく言われない? おかんって」
「……そこはおとんじゃないんですか」
「いや~? おとんとはちょっと違うんだよな。世話焼きなところがうちのおかんに似てる。だからといって琉生の方が百倍可愛いんだけどさ」
「なにを話してるんですか、あんたは……」
 てっきり罵られるか、拒絶されると思っていたのに。
 口うるさい俺のことを「可愛い」なんて言う人間は、今までに一人だっていなかった。
 言葉を詰まらせる俺の隣で、先輩が緩やかに相好を崩す。
「っふ、嘘だよ。ありがとーね、琉生に餌付けしてもらえんの嬉しい」
 俺よりもほんの少し大きな手が、重なっている俺の手を優しく撫でていく。
 まるで心の傷にそっと絆創膏を貼られたような気持ちになった。 
「そういえば一個聞いていい?」
「はい」
「なんで琉生はそんなに咲真先輩に懐いてるの?」
 橙士先輩がそんなことを聞いてきたのは、俺が白米をちょうど三杯分平らげ終えた頃だった。
「俺、昔から人付き合いが苦手なんです」
 思えば誰かに咲真先輩のことを話すのは、橙士先輩が初めてかもしれない。
 すっかり満腹になった俺は、麦茶を一気に飲み干してから言葉を続けた。
「中学の時もクラスに馴染めなくて、一人でもいいやって割り切って過ごしてたんですけど、たまたま委員会が一緒になった咲真先輩が声掛けてくれて……」
 ──図書委員? 俺も俺も。隣座っていい?
 ──名前なんて言うの? 俺は萩原咲真。咲真でいいよ。
「それから校内で会うと、いつも気さくに話しかけてくれるようになったんです。太陽みたいな先輩の存在に救われることが多くて、ずっと憧れてます」
 いつも明るく、誰に対しても平等に振り撒かれる爽やかな笑顔。それは暗かった俺の毎日を照らしてくれる唯一の光だった。
 幸いにも先輩と後輩という絶妙な距離感のおかげで、俺は先輩に対してボロを見せることもなく、良好な関係を築くことができた。
「……なんですかその顔」
 俺の話を静かに聞いてくれていたと思っていた橙士先輩は、気付けば眉間にしわを寄せて怖い顔をしている。
「別に羨ましくなんかない」
「なんの話?」
 先輩の怒るポイントがさっぱりわからない。
 さっき俺が口うるさくしてしまったときは、ちっとも気にしてなさそうだったのに。
「俺が琉生の中学にいたら、絶対俺は琉生をひとりにしなかったから」
「そうですか。ありがとうございます」
「なにその態度。俺本気で言ってるのに」
「っふは、わかってますって。なんでムキになってるんですか」
 いつもより子どもっぽい先輩がおかしくて、堪え切れず笑ってしまった。目が合うと、不自然に視線を逸らされてしまう。
「……結構ずるいよね、琉生」
 かと思いきや、独り言のようにぽつりと小さな声が聞こえてきた。よく見ると先輩の耳はほんのり赤い。
 その言葉の意味を聞こうと口を開きかけたが、先輩は逃げるように立ち上がってしまう。
「そろそろ時間だし、返しに行こ」
「はい」
 そう言われてしまえば仕方がなく、俺も立ち上がって先輩の後を追った。
(……あれ?)
 食器を返すためにトレイを運んでいる途中、不意に視界の端に見覚えのある赤茶色の頭が見えた。
 俺が見間違えるはずがない。あれは咲真先輩だ。 
 隅の方にあるボックス席に座りながら、楽しそうに会話に花を咲かせている様子の先輩。その机の上には、食堂のトレイと空になった皿が置かれている。
(どうしてここに? 今日は部室で食べるはずじゃ……?)
「琉生?」
「あ、はい。今行きます」
 橙士先輩の声にハッと我に返って、慌てて彼の方に足を進める。
 一瞬もやっとした違和感を感じたが、すぐに疑念は拭い去ることにした。きっと部活の用事が早く終わって、食堂で食べることになったのだろう。自分の中でそう結論付けた俺は、午後の授業が終わる頃にはもう、そんなことはすっかりと忘れていた。


 大浴場で風呂を済ませて戻ってくると、なぜか橙士先輩がラグの上で大の字になって転がっていた。
 いつもはギリギリまでベッドの上で転がっている先輩は、今日は珍しく俺より先に風呂を済ませたらしい。その証拠に彼が部屋でしか着ることのない、変な英文字の入ったTシャツを着ている。
 俺が部屋に入ると、「おかえりー」と悠長な声が返ってきた。
「何でこんな所で転がってるんですか」
「二段ベッドの上って暑すぎるんだよ。ここが一番クーラー当たる」
「邪魔なんですけど。踏みそうでこわい」
 無駄に手も足も長い先輩だから、狭い室内では足の踏み場に困る。おそるおそる先輩を踏まないように避けながら、部屋の奥にある勉強机の前まで辿り着いた。
「ていうか先輩髪濡れてません? また乾かすのサボったでしょ」
「夏だし放っとけば乾く」
「だめですよ。ちゃんと乾かさなきゃ。折角綺麗な髪してるんだから、痛んだらどうするんですか。風邪だって引いたらいけないし」
 大浴場の脱衣所にあるドライヤーはパワーが弱く、乾くのが遅いため、先輩はよくドライヤーをサボって帰ってくる。
 そのたびに俺はこうして説得しているのだが、なかなか聞き入れてもらえない。
「じゃあ琉生が乾かして」
「はあ?」
 しかし何度も注意しているものの、こんな返しをされたのは初めてだった。
「まあいいですけど」
「いいのか」
 先輩が苦笑する。そっちから言ってきたくせに、やっぱり先輩は変な人だ。
 俺はクローゼットから自分の荷物を取り出すと、念のためと実家から持ってきたドライヤーを引っ張り出した。
「なんだ。持ってるならはやく言ってよ」
「寮にあるのにわざわざ自分のもの使わないじゃないですか。出番がなかったんで眠らせてただけです」
 俺はコンセントにドライヤーのコードを差し込むと、先輩を自分の前に座らせた。
 俺より背が高いせいで乾かしにくい。少し屈辱的な気持ちになりながらも、仕方なく膝立ちをして乾かし始める。
「やっぱり髪サラサラですね。あんなに乾かすのサボってるのに」
「遺伝かも。姉ちゃんも何回ブリーチしても髪傷まない」
「お姉さんがいるんですか」
「うん。年子でちょーうるさい」
 橙士先輩の柔らかい髪の中に手を差し込むと、俺と同じシャンプーの匂いが香ってくる。
 他人の頭を触る機会なんて人生の中でもそう多くはない。
 ましてやあの橙士先輩の髪にこんな風に無遠慮に触れているなんて、なんだか悪いことをしているような気分になる。
「琉生、────」
「なんて?」
 ドライヤーがうるさいせいで声が聞こえづらい。
 俺は背後から先輩の横に顔を出すと、その口元に耳を寄せた。
「好きだよ」
 耳に直接送り込まれた言葉に驚いて、大袈裟に肩が跳ねる。
 その拍子に手に持っていたドライヤーがずれて、先輩の髪に絡まってしまった。
「痛い」
 スイッチを切ると、全然痛そうじゃない顔で先輩が俺を見上げる。
「先輩が変なこと言うからでしょうが」
「だって無防備に耳なんか近付けてくるから、魔が差しました」
「次そういうことしたら、もう乾かすのやめますからね」
 じとりとした目を向けてから、絡まってしまった髪を慎重に解いてやった。
 少しだけ縮れてしまった髪をもったいなく思いつつも、再び乾かすのを再開する。
(……昨日の今日で、俺もかなり順応してきたな)
 昨日はそこそこ衝撃を受けて、すぐには慣れないかもしれないと思っていた先輩の言葉も、少しずつ当たり前のように受け入れられるようになってきた自分がいる。
 手を繋がれることも、好きだと言われている相手の髪に、こんな風に触れていることも──普通はもっと嫌悪感があるものなんじゃないか?
 だけど橙士先輩に対してはマイナスな感情は初めから一切なかった。
 ただ先輩と俺の関係性の中に、一つだけ新しい情報が追加されたみたいな、ほんのそれだけのこと。
 それが恋愛に繋がるかどうかについては、今のところは簡単にはYESとは言えないけど。
「ていうか、琉生って髪染めてるの意外」
 髪を乾かし終わると、先輩は背を向けて座ったまま、顔だけ上に向けてきた。
 近くなった顔に僅かに驚く。伸びてきた手がそっと俺の髪に触れた。
「真面目だからそういうのしなそうなのに」
 飴色の瞳が、何かを見透かすようにじっと俺の目を見つめる。
 もしかしたら動機は筒抜けなのかもしれない。
「咲真先輩が」
 俺がその名前を口にすると、橙士先輩はほんの少し目を細めた。
「中学卒業してすぐにこの色にしてたので、かっこいいなって思って」
「へー、これ咲真先輩の色なんだ」
「そうなんです。今は先輩、違う色になってましたけど」
 思えば俺の行動基準は至って単純だと、我ながら少しだけ恥ずかしくなる。
「今のも似合ってるけど、黒も似合ってたよ」
「? ああ、受験のときに俺に会ったんでしたっけ」
「うん。あのときは結構幼く見えたから、茶髪でこの部屋に現れたとき、大人っぽくなってて驚いたな」
 当時の俺を懐かしむように話してくれるのに、俺の方はどうにも先輩のことを思い出せないのは癪だった。
 先輩は相変わらずラグに後ろに手をついたまま、もう片方の手で俺の髪をふわふわと触っている。
「あのとき先輩、普通の顔してたのに」
「かっこつけてただけだよ。琉生来るから朝からそわそわしてたし」
「『新入生?』とか白々しく聞いてきませんでした?」
「うん、ねえやめて。必死に知らないふりしててダサいのバレるから」 
 そんな風に言いながら、恥ずかしそうに片手で自分の目元を覆い隠すので、おかしくなって吹き出してしまった。
「全然そう見えなかった。結構演技派なんですね、橙士先輩」
「そうだよ。だから気を付けてね」
「何を?」
 聞き返せば顔を隠していた先輩の手が、再び俺の髪に伸びてきた。
 長い指が、するっと髪を一束掬い上げる。
「今こうして喋ってる間も、ずっと琉生に触りたいって思ってるかもしれないから」
 息をするように自然にそんなことを言ってのけた先輩は、目を見張る俺を見て満足そうに頬を緩めると、「よいしょ」と言って身体を起こした。
 歯を磨くと言った先輩が、洗面所の扉を開ける。中から歯を磨く音が聞こえてきても、俺はまだ動けないままだった。
 先輩の言動に順応してきたなんて、ただの思い上がりだったと思い知らされる。だってこんなの、慣れるわけがない。
 普通の会話の途中に挿し込まれる突然の一撃は心臓に悪い。
 決してときめいているとかそういうわけじゃないはずだ。ただ、真面目な顔をしてあまりにもストレートに物を言うものだから、変に動揺してしまう。
「……ずるいのはそっちだと思う」
 次から次に攻撃を受けて、思考が纏まる気がしない。
 そうして結局今夜も俺は、考えることを放棄して眠ることを優先するのだった。