「小木曽くん、ちょっといいかな」
時は流れ、五月上旬のとある朝。満開だった桜もとうに散り、窓の外では新緑が生い茂っている。
席に着いて一限目の支度をしていると、後ろから誰かに声を掛けられた。
「数学係って小木曽くんだよね。昨日までって言われてた提出物、すっかり忘れてたんだけど、まだ間に合ったりしない?」
ヘラヘラと笑う彼は、確かクラスメイトの加藤といっただろうか。その手にはA4サイズのノートが握られている。
昨日の帰りにきちんと連絡事項として伝えたはずなのに。大方誰かと話していて聞いていなかったとか、そんな感じだろう。
「遅れたのは自分なんだから直接先生に出すべきだろ。俺に聞いてくる時点で代わりに出しておいてほしい魂胆が透けて見えるけど、あんたの代わりに頭を下げる義理はないから」
溜息混じりに淡々とそう告げると、その笑顔がみるみるうちに崩れていく。最後まで言い終えると、彼は気まずそうに視線を泳がせた。
「あー……そうだよね。ごめんね、自分で出します」
急に申し訳なさそうに態度を変えた彼は、ぱたぱたと小走りで教室を出て行く。
彼が去った後も、居心地が悪そうな表情がまだ目に焼き付いていた。
「……別に怒ってないのに」
誰に言うわけでもなく独り言ちてから、やるせない気持ちで窓の外を見遣る。
入学してから一ヶ月が経つが、未だに俺は教室の中で一人きりだった。
「おかえり、琉生」
授業を終えて寮の部屋に戻ると、ゆったりとした声が降ってきた。
見上げれば、いつものように二段ベッドの上段から先輩が顔を覗かせている。
「橙士先輩、早かったですね」
「今日はなにもなかったからね」
「それ昨日も言ってませんでした? ついでに言うなら一昨日も、なんなら毎日」
「はいはい、どうせ俺はサッカー部の幽霊部員ですよ」
先輩は自虐するようにそう言うと、ベッドの柵から手を伸ばして、ぶらぶらと小さく揺らしてみせた。
よく見るとその手にはスマホが握られている。
「琉生、一緒にホラー実況観ようよ」
「観ません。これから課題をやるので」
「そっかー」
自分から誘ってきたくせに、然程残念でもなさそうな声が返ってくる。
その様子を視界の端に入れながら、制服のジャケットをハンガーに引っ掛けた俺は、部屋の奥にある勉強机の前に腰を下ろした。
全寮制の男子校というのが売りのこの高校の学生寮は、三つの建物に分かれている。
学年ごとに分かれているので、本来であれば俺は一年寮になるはずだが、人数調整のために二年寮に住まわせてもらうことになった。
同部屋になった橙士先輩は変わった人だ。いつも眠そうにしている(自称)クールな人。ポーカーフェイスというのだろうか、ゆったりとした口調でよく喋る割には笑った顔は滅多に見ない。
「俺も課題やる」
「今日は夕飯前に仮眠しないんですか?」
「もうした。十分で起きた。今日から俺は生まれ変わる」
「四日前にも同じようなこと言ってましたね。次の日には一時間寝こけて、俺に叩き起こされてたのに」
おまけにホラ吹きで自信過剰。以前どうしてそんなに適当なことばっかり言うのかと聞いたら、会話は雰囲気だと真顔で豪語していた。
狭い部屋の中に、ぴったりとくっついて並んでいる二つの勉強机。その左側の方で課題に向かう俺の隣に腰を下ろした橙士先輩は、教科書を広げるわけでもなく頬杖をついて、俺の方に顔を向けた。
「よく覚えてるね。俺マニア?」
「先輩としか喋らないから記憶が濃く残ってるだけです」
ノートに文字を書き記しながら答えると、先輩が何かを察したように口を閉ざした。
「まだ友達できないのか。かわいそうに」
「別にいいんです。一人の方が楽だし」
「うんまあ、それはわからなくもない」
とか言うくせに、先輩には俺と違って友達がたくさんいることを俺は知っている。
以前飲み物を買いに行ったとき、自販機の前に数人の先輩たちが屯していたことがあって、その中に橙士先輩がいるのを見かけたからだ。
「やっぱ寝る。課題終わったら起こして」
「ええ……有言不実行すぎる。一分も経たずに覆ってるじゃないですか」
橙士先輩はそう言うなり、机の上に置いた両腕の中に顔を突っ込んで黙り込んでしまった。
「もう寝てるし」
しばらくすると本当にすうすうと寝息が聞こえてきたので、呆れて視線を向けた。
あっさりした性格で、いつも表情の変わらない橙士先輩。だからこそ一つ上の学年であるにも関わらず、一緒にいて苦ではない。
クラスメイトと折り合いが悪い俺は、最近は橙士先輩以外と日常的な会話をすることはなくなっていた。
「そういえば琉生はなんでウチにきたんだっけ」
あれから一時間ほど経って橙士先輩を起こした俺は、まだ眠たそうな顔をする先輩と連れ立って食堂に来ていた。
先輩はいつも決まって同じメニューしか頼まない。そんな彼は今日もお気に入りのロコモコ丼を食べている。
「なんですか急に、面接みたいなこと言い出して」
「聞いてなかったなあと思って。地元にも高校たくさんあるだろ。うちの高校別に偏差値高いわけでもないじゃん」
俺に興味があるのかないのかわからないような口調で、スプーンを動かしながら先輩が言う。その器用に避けられたアボカドに視線を落としながら、俺は初めて誰かに自分がここにきた理由を打ち明けた。
「憧れてる人がここに進学したんです。だから後を追ってきました」
言うや否や、先輩が顔を上げた。何を考えているのかわからない目と視線が交わって、少しの沈黙が生まれる。
「……ダレ?」
「萩原咲真さん。先輩と同学年なんですけど知ってますか?」
「へー。知らない」
一学年には二百人近くいるし、知らなくてもおかしくはないだろう。答え終わったのに、橙士先輩はまだ何か言いたそうな顔をして、珍しくじっと俺の顔を見つめている。
「その人と一緒の部屋がよかった?」
「はい」
即答すれば、先輩は僅かに目を見開いた。
「……琉生はほんと、素直だなー」
ふっと微笑んだ先輩を見て、今度は俺の方が目を見張った。いつもはクールな印象の彼は、少し目尻を下げただけで柔らかい印象に変わる。
橙士先輩の笑った顔を見るのはこれが初めてだった。
「先輩、笑った顔もかっこいいですね」
「そう?」
「はい」
「どうも」
橙士先輩は特に喜ぶわけでもなく、再び丼の中でアボカドを避け始めた。きっと言われ慣れているのだろう。
(でも、橙士先輩が同部屋でよかったな。この適当さに救われるっていうか)
昔から人付き合いが苦手な俺は、思っていることを全て口にしてしまう性格で、関わる人を萎縮させてしまうことが多かった。
高校に入ってからも周囲とどう接していいかわからず、クラスで浮いていることも自覚している。
橙士先輩は友達がたくさんいるはずなのに、いつも夕飯は一緒に食べてくれるし、俺がズケズケとものを言っても顔色ひとつ変えずに、適当なことを言いながら流してくれる。
だからなんだかんだ言いつつ、俺は橙士先輩のことをそれなりに気に入っている。
結局俺は先輩がゆっくりとロコモコ丼を食べている間に、米と味噌汁をそれぞれ三杯ずつお代わりした。
その夜。大浴場で風呂を済ませた俺は部屋着に着替えて、自室に戻るべく廊下を歩いていた。
三〇六号室に近付くにつれて、なにやら誰かの話し声が聞こえてくる。部屋のそばまでくると、部屋の扉が開いていることに気が付いた。
「なにしに来たんだよ、帰れ」
「別にいいやろ〜? 元ルームメイトなんだからさぁ」
「早くしないと琉生が戻ってくるだろ」
室内から聞こえてくるのは橙士先輩の声と、もう一人の知らない男の人の声。中に入ろうとしたが自分の名前が聞こえたので、咄嗟に足を止めてしまう。
「つーかおまえもっと俺になんかないんか。ありがとうございますって誠心誠意感謝するべきやろ」
「感謝ならしてる」
「だからぁ、伝わってこやんの!」
どうしよう、やっぱり入ってもいいだろうか。
すれ違う他の先輩たちが、部屋の前で不自然に固まる俺を不思議そうに見ては通り過ぎていくのが居た堪れない。
まだまだ続きそうな気配のある二人のやりとりに痺れを切らした俺は、そろそろ割って入ろうと足を動かした。
「おまえが突然出てけとか言うから、のんびりできるはずやったのに荷物纏める羽目になったんやからな。『ルイくん』と一緒の部屋になりたいからってさぁ」
そんな言葉が聞こえたのは、そんなタイミングだった。
……今なんて?
聞き間違いでなければ、とんでもない話が聞こえた気がする。
「何度も言うけど、それ絶対に誰にも言うなよ」
「はいはい、わかってるって。橙士がオキニの後輩と同部屋になりたいからって俺を部屋から追い出したなんてこと、誰にも言わんよ〜」
「わざわざ言い直すな」
橙士先輩は特に否定することもなく、ただ頻りに釘を刺すだけだ。
一年の部屋が足りないからという理由でこの部屋に割り当てられたときに俺は、たまたま一人部屋になっていた橙士先輩の部屋にお邪魔させてもらうことになっていたと聞かされていた。
だけど今の話を聞く感じだと、先輩が俺と同じ部屋になりたくてわざと一人部屋になっていたという風に捉えられる。
「今の、どういうことですか」
「……あっ」
一歩前に出た俺が声を掛けると、入口付近で背を向けて立っていたピンクの髪の先輩がそんな声をあげて振り返る。その顔にははっきりと「やばい」と書いてある。
その後ろの方。勉強机を背に腰掛けていた橙士先輩は、珍しく目を見開いたまま硬直していた。
(ああ先輩って、ちゃんとそんな顔もするんだ)
こんな状況なのに、頭のどこかで冷静に別の意味で驚く自分がいて、なんだかおかしかった。
「……だからごめん。琉生と同じ部屋になりたくて、ちょっと色々いじりました」
いつもの俺と橙士先輩の部屋。いつもと違うのは、ラグの上に二人で向き合って正座しているということ。
ピンクの髪の先輩が出て行ってから、橙士先輩は気まずそうな顔をしたまま、「ちょっと話そ」とその辺にあったクッションを二つ並べてくれた。
常になく甲斐甲斐しいその姿から、先輩の動揺と後ろめたいという気持ちが窺える。
「俺は別にいいですけど、なんでそんなことを? そもそも入学前から俺のこと知ってたんですか?」
先輩の地元はこっちの方だったはずだ。愛知出身でもあるまいし、接点があったとは思えない。
歩いているだけで目立つようなこんなかっこいい人なら、地元にいたらさすがに目につくはずだろうし。
「言ってもいいの?」
「そんなにやばい理由なんですか?」
「捉え方によるかも」
橙士先輩は苦笑した。膝の上に両手を置いて肩を竦めている彼の視線が、不自然に俺から遠ざかっていく。
「俺、琉生のこと好きなんだよね」
顔を横に逸らしたまま、俺の目も見ずにそんなことを言うものだから、俺は混乱してしまった。
まるで母さんが昔観ていた恋愛ドラマのイケメンがいう台詞そのものだ。でも相手は俺なんだけど。
先輩の反応からしてもきっと恋愛的な意味ではないだろう。俺は平常心を保ちながら、先輩の話の続きを待った。
「琉生、受験のときにこっちに来たことあっただろ。そのときに喋ったことあって……覚えてる?」
「……すいません、記憶ないです」
「だよね。とにかくそのときに好きになって、絶対同じ部屋になりたいと思って勝手に仕組みました」
こんなに饒舌に語る先輩は初めて見た。いつもは眠たそうな瞳が、今は言葉を探すように忙しなく揺れている。
高校受験のときはとにかく緊張していて、最初から最後まであまり記憶がない。
こんなにかっこいい人と話したことなんてあったっけ。
記憶を遡っていると、ずっと明後日の方向を眺めていた先輩の目が、急に俺の顔を捉えた。
「この際だから言うけど、俺と付き合ってくれない?」
「……はい?」
さっきありえないと一蹴したはずの仮説が再び浮上して、俺は初めて声を上擦らせてしまった。
「好きなんだよね」からの「付き合ってくれない?」から導き出される答え。それは橙士先輩が俺のことを恋愛的な意味で好きだという、天と地がひっくり返ってもありえないような話。
「……俺男ですよ?」
「知ってるよ」
確認のために自分を指差しながら問い掛けると、先輩は真顔のまま小さく頷いた。
「付き合うのは、無理です」
ひとまずこの状況を一旦現実だと受け入れた俺は、先輩の目をまっすぐ見ながら丁重にお断りを入れた。
考える時間を貰って変に期待を持たせても仕方がないと判断しての結論だった。
「理由聞いてもいい?」
「付き合うとかよくわからないし。現時点で恋人をつくる必要性を感じないです」
「俺が男だからって言わないんだ」
「先輩が女の人でも答えは変わらないです」
そもそも先輩の方が、俺みたいな絵に描いたような平凡な男よりも、可愛い女の子を彼女にした方が断然似合うのに。
どうして俺なんだろう。
受験のとき、一体俺は先輩になにを言ったんだ?
「……俺、琉生のそういうとこ好き」
ずっと気まずそうな顔をしていた先輩は、途端に嬉しそうに目尻を下げた。
やっぱり笑った顔はかっこいい。恋愛ドラマに出てくるイケメン役に先輩が出演していても、全く違和感がないことだろう。
「俺のこと引いた? 嫌いになった?」
「なってません。なんですかそのメンヘラみたいな質問」
「じゃあちょっとは脈ある?」
「どういうことですか?」
俺は眉根を寄せて首を傾げる。
「実は今までずっと遠慮してたんだ。警戒されたら困るし、なるべく距離を置こうと思って我慢してた」
「なにを?」
聞くや否や、橙士先輩が僅かに腰を浮かせる。次の瞬間、肩を押された俺は仰向けに倒れ込んだ。
真っ白になる頭の中で認識できるのは、背中に感じる痛みと、視界いっぱいに広がる先輩の顔だけ。
(……もしかして俺は今、押し倒されてる?)
返す言葉も見つからず唖然としていると、先輩と視線が交わった。
俺を見下ろして薄く微笑むその顔はやたらと色気を纏っていて、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになる。
いつもの眠そうな先輩はどうした。何事にもやる気がなさそうな、後輩の俺に文句を垂れながら叩き起こされるような情けない先輩は──どこにいった?
「俺のこと意識してもらえるように、がんばるね」
形のいい唇から、いつもより低い声がこぼれ落ちる。なにも言えなくなった俺を見て、先輩は楽しそうな目をして笑うだけだった。
時は流れ、五月上旬のとある朝。満開だった桜もとうに散り、窓の外では新緑が生い茂っている。
席に着いて一限目の支度をしていると、後ろから誰かに声を掛けられた。
「数学係って小木曽くんだよね。昨日までって言われてた提出物、すっかり忘れてたんだけど、まだ間に合ったりしない?」
ヘラヘラと笑う彼は、確かクラスメイトの加藤といっただろうか。その手にはA4サイズのノートが握られている。
昨日の帰りにきちんと連絡事項として伝えたはずなのに。大方誰かと話していて聞いていなかったとか、そんな感じだろう。
「遅れたのは自分なんだから直接先生に出すべきだろ。俺に聞いてくる時点で代わりに出しておいてほしい魂胆が透けて見えるけど、あんたの代わりに頭を下げる義理はないから」
溜息混じりに淡々とそう告げると、その笑顔がみるみるうちに崩れていく。最後まで言い終えると、彼は気まずそうに視線を泳がせた。
「あー……そうだよね。ごめんね、自分で出します」
急に申し訳なさそうに態度を変えた彼は、ぱたぱたと小走りで教室を出て行く。
彼が去った後も、居心地が悪そうな表情がまだ目に焼き付いていた。
「……別に怒ってないのに」
誰に言うわけでもなく独り言ちてから、やるせない気持ちで窓の外を見遣る。
入学してから一ヶ月が経つが、未だに俺は教室の中で一人きりだった。
「おかえり、琉生」
授業を終えて寮の部屋に戻ると、ゆったりとした声が降ってきた。
見上げれば、いつものように二段ベッドの上段から先輩が顔を覗かせている。
「橙士先輩、早かったですね」
「今日はなにもなかったからね」
「それ昨日も言ってませんでした? ついでに言うなら一昨日も、なんなら毎日」
「はいはい、どうせ俺はサッカー部の幽霊部員ですよ」
先輩は自虐するようにそう言うと、ベッドの柵から手を伸ばして、ぶらぶらと小さく揺らしてみせた。
よく見るとその手にはスマホが握られている。
「琉生、一緒にホラー実況観ようよ」
「観ません。これから課題をやるので」
「そっかー」
自分から誘ってきたくせに、然程残念でもなさそうな声が返ってくる。
その様子を視界の端に入れながら、制服のジャケットをハンガーに引っ掛けた俺は、部屋の奥にある勉強机の前に腰を下ろした。
全寮制の男子校というのが売りのこの高校の学生寮は、三つの建物に分かれている。
学年ごとに分かれているので、本来であれば俺は一年寮になるはずだが、人数調整のために二年寮に住まわせてもらうことになった。
同部屋になった橙士先輩は変わった人だ。いつも眠そうにしている(自称)クールな人。ポーカーフェイスというのだろうか、ゆったりとした口調でよく喋る割には笑った顔は滅多に見ない。
「俺も課題やる」
「今日は夕飯前に仮眠しないんですか?」
「もうした。十分で起きた。今日から俺は生まれ変わる」
「四日前にも同じようなこと言ってましたね。次の日には一時間寝こけて、俺に叩き起こされてたのに」
おまけにホラ吹きで自信過剰。以前どうしてそんなに適当なことばっかり言うのかと聞いたら、会話は雰囲気だと真顔で豪語していた。
狭い部屋の中に、ぴったりとくっついて並んでいる二つの勉強机。その左側の方で課題に向かう俺の隣に腰を下ろした橙士先輩は、教科書を広げるわけでもなく頬杖をついて、俺の方に顔を向けた。
「よく覚えてるね。俺マニア?」
「先輩としか喋らないから記憶が濃く残ってるだけです」
ノートに文字を書き記しながら答えると、先輩が何かを察したように口を閉ざした。
「まだ友達できないのか。かわいそうに」
「別にいいんです。一人の方が楽だし」
「うんまあ、それはわからなくもない」
とか言うくせに、先輩には俺と違って友達がたくさんいることを俺は知っている。
以前飲み物を買いに行ったとき、自販機の前に数人の先輩たちが屯していたことがあって、その中に橙士先輩がいるのを見かけたからだ。
「やっぱ寝る。課題終わったら起こして」
「ええ……有言不実行すぎる。一分も経たずに覆ってるじゃないですか」
橙士先輩はそう言うなり、机の上に置いた両腕の中に顔を突っ込んで黙り込んでしまった。
「もう寝てるし」
しばらくすると本当にすうすうと寝息が聞こえてきたので、呆れて視線を向けた。
あっさりした性格で、いつも表情の変わらない橙士先輩。だからこそ一つ上の学年であるにも関わらず、一緒にいて苦ではない。
クラスメイトと折り合いが悪い俺は、最近は橙士先輩以外と日常的な会話をすることはなくなっていた。
「そういえば琉生はなんでウチにきたんだっけ」
あれから一時間ほど経って橙士先輩を起こした俺は、まだ眠たそうな顔をする先輩と連れ立って食堂に来ていた。
先輩はいつも決まって同じメニューしか頼まない。そんな彼は今日もお気に入りのロコモコ丼を食べている。
「なんですか急に、面接みたいなこと言い出して」
「聞いてなかったなあと思って。地元にも高校たくさんあるだろ。うちの高校別に偏差値高いわけでもないじゃん」
俺に興味があるのかないのかわからないような口調で、スプーンを動かしながら先輩が言う。その器用に避けられたアボカドに視線を落としながら、俺は初めて誰かに自分がここにきた理由を打ち明けた。
「憧れてる人がここに進学したんです。だから後を追ってきました」
言うや否や、先輩が顔を上げた。何を考えているのかわからない目と視線が交わって、少しの沈黙が生まれる。
「……ダレ?」
「萩原咲真さん。先輩と同学年なんですけど知ってますか?」
「へー。知らない」
一学年には二百人近くいるし、知らなくてもおかしくはないだろう。答え終わったのに、橙士先輩はまだ何か言いたそうな顔をして、珍しくじっと俺の顔を見つめている。
「その人と一緒の部屋がよかった?」
「はい」
即答すれば、先輩は僅かに目を見開いた。
「……琉生はほんと、素直だなー」
ふっと微笑んだ先輩を見て、今度は俺の方が目を見張った。いつもはクールな印象の彼は、少し目尻を下げただけで柔らかい印象に変わる。
橙士先輩の笑った顔を見るのはこれが初めてだった。
「先輩、笑った顔もかっこいいですね」
「そう?」
「はい」
「どうも」
橙士先輩は特に喜ぶわけでもなく、再び丼の中でアボカドを避け始めた。きっと言われ慣れているのだろう。
(でも、橙士先輩が同部屋でよかったな。この適当さに救われるっていうか)
昔から人付き合いが苦手な俺は、思っていることを全て口にしてしまう性格で、関わる人を萎縮させてしまうことが多かった。
高校に入ってからも周囲とどう接していいかわからず、クラスで浮いていることも自覚している。
橙士先輩は友達がたくさんいるはずなのに、いつも夕飯は一緒に食べてくれるし、俺がズケズケとものを言っても顔色ひとつ変えずに、適当なことを言いながら流してくれる。
だからなんだかんだ言いつつ、俺は橙士先輩のことをそれなりに気に入っている。
結局俺は先輩がゆっくりとロコモコ丼を食べている間に、米と味噌汁をそれぞれ三杯ずつお代わりした。
その夜。大浴場で風呂を済ませた俺は部屋着に着替えて、自室に戻るべく廊下を歩いていた。
三〇六号室に近付くにつれて、なにやら誰かの話し声が聞こえてくる。部屋のそばまでくると、部屋の扉が開いていることに気が付いた。
「なにしに来たんだよ、帰れ」
「別にいいやろ〜? 元ルームメイトなんだからさぁ」
「早くしないと琉生が戻ってくるだろ」
室内から聞こえてくるのは橙士先輩の声と、もう一人の知らない男の人の声。中に入ろうとしたが自分の名前が聞こえたので、咄嗟に足を止めてしまう。
「つーかおまえもっと俺になんかないんか。ありがとうございますって誠心誠意感謝するべきやろ」
「感謝ならしてる」
「だからぁ、伝わってこやんの!」
どうしよう、やっぱり入ってもいいだろうか。
すれ違う他の先輩たちが、部屋の前で不自然に固まる俺を不思議そうに見ては通り過ぎていくのが居た堪れない。
まだまだ続きそうな気配のある二人のやりとりに痺れを切らした俺は、そろそろ割って入ろうと足を動かした。
「おまえが突然出てけとか言うから、のんびりできるはずやったのに荷物纏める羽目になったんやからな。『ルイくん』と一緒の部屋になりたいからってさぁ」
そんな言葉が聞こえたのは、そんなタイミングだった。
……今なんて?
聞き間違いでなければ、とんでもない話が聞こえた気がする。
「何度も言うけど、それ絶対に誰にも言うなよ」
「はいはい、わかってるって。橙士がオキニの後輩と同部屋になりたいからって俺を部屋から追い出したなんてこと、誰にも言わんよ〜」
「わざわざ言い直すな」
橙士先輩は特に否定することもなく、ただ頻りに釘を刺すだけだ。
一年の部屋が足りないからという理由でこの部屋に割り当てられたときに俺は、たまたま一人部屋になっていた橙士先輩の部屋にお邪魔させてもらうことになっていたと聞かされていた。
だけど今の話を聞く感じだと、先輩が俺と同じ部屋になりたくてわざと一人部屋になっていたという風に捉えられる。
「今の、どういうことですか」
「……あっ」
一歩前に出た俺が声を掛けると、入口付近で背を向けて立っていたピンクの髪の先輩がそんな声をあげて振り返る。その顔にははっきりと「やばい」と書いてある。
その後ろの方。勉強机を背に腰掛けていた橙士先輩は、珍しく目を見開いたまま硬直していた。
(ああ先輩って、ちゃんとそんな顔もするんだ)
こんな状況なのに、頭のどこかで冷静に別の意味で驚く自分がいて、なんだかおかしかった。
「……だからごめん。琉生と同じ部屋になりたくて、ちょっと色々いじりました」
いつもの俺と橙士先輩の部屋。いつもと違うのは、ラグの上に二人で向き合って正座しているということ。
ピンクの髪の先輩が出て行ってから、橙士先輩は気まずそうな顔をしたまま、「ちょっと話そ」とその辺にあったクッションを二つ並べてくれた。
常になく甲斐甲斐しいその姿から、先輩の動揺と後ろめたいという気持ちが窺える。
「俺は別にいいですけど、なんでそんなことを? そもそも入学前から俺のこと知ってたんですか?」
先輩の地元はこっちの方だったはずだ。愛知出身でもあるまいし、接点があったとは思えない。
歩いているだけで目立つようなこんなかっこいい人なら、地元にいたらさすがに目につくはずだろうし。
「言ってもいいの?」
「そんなにやばい理由なんですか?」
「捉え方によるかも」
橙士先輩は苦笑した。膝の上に両手を置いて肩を竦めている彼の視線が、不自然に俺から遠ざかっていく。
「俺、琉生のこと好きなんだよね」
顔を横に逸らしたまま、俺の目も見ずにそんなことを言うものだから、俺は混乱してしまった。
まるで母さんが昔観ていた恋愛ドラマのイケメンがいう台詞そのものだ。でも相手は俺なんだけど。
先輩の反応からしてもきっと恋愛的な意味ではないだろう。俺は平常心を保ちながら、先輩の話の続きを待った。
「琉生、受験のときにこっちに来たことあっただろ。そのときに喋ったことあって……覚えてる?」
「……すいません、記憶ないです」
「だよね。とにかくそのときに好きになって、絶対同じ部屋になりたいと思って勝手に仕組みました」
こんなに饒舌に語る先輩は初めて見た。いつもは眠たそうな瞳が、今は言葉を探すように忙しなく揺れている。
高校受験のときはとにかく緊張していて、最初から最後まであまり記憶がない。
こんなにかっこいい人と話したことなんてあったっけ。
記憶を遡っていると、ずっと明後日の方向を眺めていた先輩の目が、急に俺の顔を捉えた。
「この際だから言うけど、俺と付き合ってくれない?」
「……はい?」
さっきありえないと一蹴したはずの仮説が再び浮上して、俺は初めて声を上擦らせてしまった。
「好きなんだよね」からの「付き合ってくれない?」から導き出される答え。それは橙士先輩が俺のことを恋愛的な意味で好きだという、天と地がひっくり返ってもありえないような話。
「……俺男ですよ?」
「知ってるよ」
確認のために自分を指差しながら問い掛けると、先輩は真顔のまま小さく頷いた。
「付き合うのは、無理です」
ひとまずこの状況を一旦現実だと受け入れた俺は、先輩の目をまっすぐ見ながら丁重にお断りを入れた。
考える時間を貰って変に期待を持たせても仕方がないと判断しての結論だった。
「理由聞いてもいい?」
「付き合うとかよくわからないし。現時点で恋人をつくる必要性を感じないです」
「俺が男だからって言わないんだ」
「先輩が女の人でも答えは変わらないです」
そもそも先輩の方が、俺みたいな絵に描いたような平凡な男よりも、可愛い女の子を彼女にした方が断然似合うのに。
どうして俺なんだろう。
受験のとき、一体俺は先輩になにを言ったんだ?
「……俺、琉生のそういうとこ好き」
ずっと気まずそうな顔をしていた先輩は、途端に嬉しそうに目尻を下げた。
やっぱり笑った顔はかっこいい。恋愛ドラマに出てくるイケメン役に先輩が出演していても、全く違和感がないことだろう。
「俺のこと引いた? 嫌いになった?」
「なってません。なんですかそのメンヘラみたいな質問」
「じゃあちょっとは脈ある?」
「どういうことですか?」
俺は眉根を寄せて首を傾げる。
「実は今までずっと遠慮してたんだ。警戒されたら困るし、なるべく距離を置こうと思って我慢してた」
「なにを?」
聞くや否や、橙士先輩が僅かに腰を浮かせる。次の瞬間、肩を押された俺は仰向けに倒れ込んだ。
真っ白になる頭の中で認識できるのは、背中に感じる痛みと、視界いっぱいに広がる先輩の顔だけ。
(……もしかして俺は今、押し倒されてる?)
返す言葉も見つからず唖然としていると、先輩と視線が交わった。
俺を見下ろして薄く微笑むその顔はやたらと色気を纏っていて、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになる。
いつもの眠そうな先輩はどうした。何事にもやる気がなさそうな、後輩の俺に文句を垂れながら叩き起こされるような情けない先輩は──どこにいった?
「俺のこと意識してもらえるように、がんばるね」
形のいい唇から、いつもより低い声がこぼれ落ちる。なにも言えなくなった俺を見て、先輩は楽しそうな目をして笑うだけだった。

