恋愛なんて俺には無縁だと思っていた。少し前まで人と付き合うのが苦手で、友達すらいなかったんだから当たり前だろう。
そんな俺がルームメイトで一つ年上の橙士先輩を好きになったとはっきり自覚してから、数日が経った。
「琉生〜」
授業を全て終えた教室の中で、ぼんやりと窓の外を眺めていた俺は、自分の名前を呼ぶ橙士先輩の声を聞いた。
……幻聴だろうか。
正直なところ、好きだと自覚してからたまにこういうことがある。目を瞑っていても橙士先輩の顔が浮かぶし、俺の名前を呼ぶ声だとか、好きだと言われたときの響きがいつまでも頭に残って──。
「琉生。聞いてる?」
「えっ……? 本物?」
「逆に俺の偽物とかいるの?」
「いや、そういう意味じゃ……」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。俺の机の前にしゃがみ込んで、俺の顔をじっと見上げるその人は、間違いなく本物の橙士先輩だ。
(……幻聴でも幻覚でもなかった! 嬉しい!)
一瞬で気持ちが明るくなるが、顔に出すわけにはいかない。ゴホンと咳払いを一つした俺は、なんでもない風を装って先輩の目を見つめ返した。
「お疲れ様です。教室まで迎えにきてくれたんですか?」
「うん。はやく琉生に会いたかった」
「えっ」
にこりと微笑む橙士先輩。その台詞と表情をもろに浴びてしまった俺は、情けない声を出したまま固まってしまう。
……いやいや、「えっ」ってなんだよ。もっと良い返しがあるだろ他に!
自分に苛立ちながら頭をフル回転してみるが、残念ながら先輩の微笑みにやられてしまって何にも思いつかない。
なんて情けない。恋をすると人はこんなにも情けなくなってしまうなんて、つい最近まで知る由もなかった。
「行こ。またドーナツ売り切れちゃうし」
「……っそうですよね。行きましょう」
先輩に促されて、俺はいそいそと立ち上がる。引いた椅子を俺が戻すのを確認すると、先輩は当たり前のように俺の手を取った。するすると指が動いて、あっという間に互いの指先が絡まる。
「……っや!」
「……や?」
驚きのあまり反射的に大きな声をあげてしまった。まだ教室に残っていたクラスメイトからのじろじろとした視線を感じる。
(うわ〜〜やらかした。急に恋人繋ぎなんかしてくるから変な声出た……!)
最近の俺には悩みがあった。恋心を自覚したばかりのひよこみたいな俺に、橙士先輩の過度なスキンシップが心臓に悪すぎることだ。
「手、手はちょっと、やめませんか」
「なんで? いつも繋いでるじゃん」
俺はさりげなく繋がれた手を解いた。訝しげに眉根をひそめる先輩を見て、俺の方が困惑してしまう。いくらなんでもそのアプローチの仕方は上級者すぎると思うんだけど。
今まで俺がなんとも思ってなかったからまだよかったものの、今の俺にはちょっと刺激が強すぎる。
「そもそもおかしいですもん。普通は先輩後輩でこういうことしないっていうか。先輩の距離感がバグりすぎなんですって」
「ええー……? 今更? バグっててもいいから繋ごうよ」
どんだけ俺と手を繋ぎたいんだろう。そりゃ俺だって繋ぎたいけど、いま繋いだら手汗で軽く温泉が一つできる気がする。
そんな事態は絶対に防がなければならない。
「嫌です!」
そう堅く決意をして発した言葉は、想像以上に強い口調となって口から出てきた。思っていたよりキツい言い方になってしまった気がして、慌てて先輩の顔を見る。
先輩は案の定ぽかんとした顔をしていた。
「ごめんなさい。……えと、とりあえず行きましょう」
「……うん、おっけー」
なにを言っても言い訳にしかならないから、あえてスルーを選んだ。先輩もなにかを察してくれたのか、それ以上はなにも踏み込んでこなかったし、手を繋いでこようともしなかった。
駅前のドーナツ屋には、俺たちみたいな学校帰りの学生が多く並んでいた。
「今日はあってよかったね、新作ドーナツ」
「はい。もう至福です……めっちゃ楽しみにしてたんで」
混んでいたがなんとか席をとることができた。俺の手には、この間は売り切れていたさつまいものドーナツがある。胸を弾ませながら早速齧りつくと、甘い芋と香ばしい生地の味が口の中にじんわりと広がった。
「……っ! 美味しい。最近で一番かも」
「そんなに?」
「苦めなチョコかと思ったら意外と甘いんで、多分橙士先輩も好きですよこれ。よかったら……」
言いかけた俺は橙士先輩の顔を見て、笑顔のまま一時停止をした。
(…………ってこれって、間接キスになるんじゃ……)
今までも何度かドリンクの回し飲みだってしてきたし、なにを今更って感じだけど、俺からしたら意味合いが全く違う。
俺が口にしたものを先輩が口に入れるとか、それはちょっとだめなんじゃないか。主に俺の心臓が。
しかし先輩はそんな俺の葛藤など知るわけもなく、躊躇いなく身を乗り出すと、俺のドーナツにぱくっと齧り付いた。
「うん、おいしい」
「〜〜っ、よ、よかったです」
先輩の赤い舌が小さく覗いて、自らの唇をぺろっとなぞる。それだけで見てはいけないものを見てしまったような気になって、俺はわなわなと震えながらさりげなく目を逸らした。
(なんでドーナツ食べるだけでそんなに色っぽいんだ……!?)
もはやわざとやってるんじゃないかってぐらい刺激が強い。
橙士先輩ってもとからこんな感じだっけ?
こんなに生きてるだけで色気ダダ漏れな感じだっけ……?
以前までは眠そうだとか気怠げだと思っていた垂れ目すら、妙に胸がざわついて仕方がない。
「……琉生」
悶々と脳内をピンク色で染め上げていた俺は、橙士先輩に声を掛けられていることに直前まで気が付かなかった。
いつのまにか伸ばされていた先輩の手が、俺の唇の端に触れる。
「……っ!」
思わず息を呑む。大袈裟に反応して、その手から逃れるように顔を背けてしまった。表情だってきっと強張っていただろう。
「……チョコついてた」
「あ、ありがとうございます」
先輩の親指には確かにチョコレートが付いている。取ってくれただけなのに変な反応をしてしまったことが申し訳なくなった。
(俺のバカ! さすがに意識しすぎだろ……)
こうして向かい合ってドーナツを食べているだけなのに、無駄にドキドキしてばかりで会話なんて全然頭に入ってこないし、味なんかこれっぽっちもわからない。
とっくに俺の頭の中は、橙士先輩のことだけで埋め尽くされている。無意識に溜息が漏れそうになって、慌てて水を飲んで誤魔化した。
「すごい、イチョウ並木だ」
すっかりお腹を膨らませた俺たちは、散歩がてら少し遠回りをしてから帰寮することにした。
歩道に沿うようにして植えられたイチョウの木は満開で、葉っぱが落ちている地面はまるで檸檬色の絨毯だ。
「暦的にはもう秋なのに、まだ全然蒸し暑くて実感ないな」
「そうですね。こういう季節の風物詩を見かけて、やっと秋を感じるっていう」
「今日も芋とか栗系のドーナツばっかり食べてたよね」
「俺好きなんですよね、秋の味覚。実家にいるときはきのことか南瓜もよく食べたなぁ」
言いながら隣を歩く先輩の顔を盗み見る。なんだかこうして二人で歩いていると、放課後デートをしているみたいだ。
(……やばい。手、繋ぎたくなってきた)
あんなに散々手を繋がれてきたから、隣を歩いているのに手を繋いでいないことに逆に違和感があった。
先輩の手は柔らかそうに見えて意外に硬くて、しなやかそうに見えてゴツゴツしている。自分より大人っぽくて、男らしい先輩の手を思い出して、じわじわと顔が熱くなる。
こんなときになにを考えているんだろう。せっかくの先輩との時間なんだから、もっと集中しないと。
「そ、そういう先輩は珍しくオーソドックスなの頼んでましたね。てっきりいつもみたいにチャレンジするのかと」
「チャレンジするようなメニューなかったもん」
「そういうこと?」
つまりゲテモノメニューにあったらチャレンジしていたということか。さらっと言い切る先輩がおかしくて、自然と笑いがこぼれた。
しばらく歩くと、小さな広場に辿り着いた。噴水の周りに沿うようにベンチが並べられていて、あとは街灯と時計が立っているだけのこじんまりとした場所。
「琉生と同部屋になってもう半年かー」
自販機でドリンクを買って、ベンチに並んで座って飲んだ。先輩は隣で、懐かしむようなそうでないようなよくわからないトーンで言いながら、ボール遊びをしている小学生たちを眺めている。
「どうですか、俺と過ごしてみて」
「えー? 最高だよ。毎日好きな人と過ごせるんだもん」
「……先輩ってほんと、恥ずかしげなく言いますよね」
さらっと吐き出される先輩の言葉に、こんなに心をかき乱されている男が隣にいるというのに。
恨めしい気持ちになってじとりとした目で先輩を見た。
「いや全然。俺だって余裕がないですよ毎日」
「どこが。……っていうか、先輩が好きになった俺って、受験のときの俺ですよね」
「そうだけど、どうかした?」
「実際に俺と接してみて、印象変わったりしました?」
先輩は受験のときに俺と話して、同じ部屋になるように仕組んだと言っていた。だけど実際に俺とルームメイトになって、思ってたのと違うと思われていたら結構悲しい。
自分で聞いておきながら返ってくる言葉がどんなものか不安になって、無駄に視線を泳がせてしまう。しばらく「うーん」と空を見上げていた先輩は、やがて口を開いた。
「結構変わったかも。もっと正直なタイプかと思ったけど、意外と繊細で気遣うだろ、琉生は」
「……俺が?」
「自分に厳しくて自分に課する合格点がすんごく高い。だから多分いろいろ考えすぎて、我慢しちゃうことも多いんじゃないかなって」
じっと見透かすような目が、俺の目を覗き込む。まるで占い師のようだ。俺でも気付かなかった俺のことをあっさりと言い当ててくるので、言われてから「確かにそうだな」と腑に落ちた。
「そういう不器用なところも好きだよ、俺は」
息を吐くように、流れるようにそう告げた先輩は、優しい眼差しをして微笑む。慈しむような柔らかい表情に、息を呑んだ。
堂々と「好きだ」と言える先輩はすごい。俺なんてまだ、先輩の言動と目まぐるしく変わる自分の気持ちに振り回されて、この気持ちを打ち明ける勇気なんか持ち合わせていない。
もしも俺がこの気持ちを伝えたら、俺と先輩は付き合うのかな。以前先輩は、付き合ったら「恥ずかしいこと」もしたいと話してくれた。
(……いやいやいや、控えめに言っても無理。そんなの、耐えられる自信ない。心臓爆発する)
少し想像しただけでこんなに頭が沸騰するんだから、付き合うにはきっとまだ早すぎる。
もう少し俺が橙士先輩に耐性をつけてから、順を追って段階を踏んでから、然るべきときに告白の返事を──。
「琉生」
「はいっ?」
また俺はぐるぐると考え込んでしまっていたらしい。突然声を掛けられて、声が裏返ってしまった。
「目に睫毛入ってる」
「えっ、どこですか」
「ちょっと動かないで」
真面目な顔をした先輩が、少しずつ俺のもとに顔を寄せる。
その瞬間に保健室での出来事がフラッシュバックして、頭の中が真っ白になった。
(あ、だめだこれ、恥ずかしすぎて耐えらんない)
吐息がかかる距離に先輩の顔がある。カチコチに固まってしまった俺は、先輩の指が俺の目元に触れた瞬間に、反射的にその手を強い力で払い落とした。
ぱしんと乾いた音が響く。遅れて手の甲にじんじんと痺れがやってきて、そうしてようやくハッと我に返った。
「……っあ、ごめんなさい。えっと、今のは」
「俺と一緒にいるの、イヤ?」
「え?」
硬くなった声に驚いて、勢いよく顔を上げる。先輩の顔にはもう、さっきまでの笑顔は見えなかった。
「最近琉生の様子がおかしいから、薄々気づいてた。ごめんな、もっと考えるべきだった」
「……何が、ですか」
嫌な予感がする。なにか物凄い誤解を生んでいるような、そんな胸騒ぎがして止まらない。
「俺がこんな感じだし、琉生は優しいから、告白の返事だって言いづらかったよな。でも無理して俺に付き合ってくれなくていいし、我慢することないから」
「いや違うんです。さっきのは嫌とかじゃなくて、」
「気付いてないかもしれないけど、今日ずっと難しい顔してる。溜息だって隠せてないし、好きって言ったときもすごく困った顔してた」
見透かされていたことに驚いて、すぐに弁解をすることができなかった。不審に思われないように気を付けていたはずなのに。
自分の行動が先輩を傷付けていたことに、取り返しがつかなくなって初めて気付く。多分俺の顔ははっきりと青ざめているはずだ。
「自分のこと好きな相手と同部屋とか、気持ち悪いよな。部屋は空きがないと多分変えてもらえないけど」
「先輩、なに言って」
「……とりあえず今日から他の部屋泊まるから、安心して」
先輩はそう言って困ったような顔をして笑うと、流れるように俺の頭の上に手を置こうとした。
触れる寸前に手が止まる。とうとうその手が俺の頭を撫でることはなく、引っ込められてしまった。
「先に帰る。寮には伝えておくから、琉生はゆっくりでいいよ」
「っ、待って、ちがう、そういう意味じゃない……燈士先輩っ」
先を歩き出そうとする先輩を追って、その腕を掴む。しかし俺の手は無言のまま、やんわりと外されてしまった。
「……ごめん。今は一人にして」
その日の夜、橙士先輩は初めて部屋に帰ってこなかった。
そんな俺がルームメイトで一つ年上の橙士先輩を好きになったとはっきり自覚してから、数日が経った。
「琉生〜」
授業を全て終えた教室の中で、ぼんやりと窓の外を眺めていた俺は、自分の名前を呼ぶ橙士先輩の声を聞いた。
……幻聴だろうか。
正直なところ、好きだと自覚してからたまにこういうことがある。目を瞑っていても橙士先輩の顔が浮かぶし、俺の名前を呼ぶ声だとか、好きだと言われたときの響きがいつまでも頭に残って──。
「琉生。聞いてる?」
「えっ……? 本物?」
「逆に俺の偽物とかいるの?」
「いや、そういう意味じゃ……」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。俺の机の前にしゃがみ込んで、俺の顔をじっと見上げるその人は、間違いなく本物の橙士先輩だ。
(……幻聴でも幻覚でもなかった! 嬉しい!)
一瞬で気持ちが明るくなるが、顔に出すわけにはいかない。ゴホンと咳払いを一つした俺は、なんでもない風を装って先輩の目を見つめ返した。
「お疲れ様です。教室まで迎えにきてくれたんですか?」
「うん。はやく琉生に会いたかった」
「えっ」
にこりと微笑む橙士先輩。その台詞と表情をもろに浴びてしまった俺は、情けない声を出したまま固まってしまう。
……いやいや、「えっ」ってなんだよ。もっと良い返しがあるだろ他に!
自分に苛立ちながら頭をフル回転してみるが、残念ながら先輩の微笑みにやられてしまって何にも思いつかない。
なんて情けない。恋をすると人はこんなにも情けなくなってしまうなんて、つい最近まで知る由もなかった。
「行こ。またドーナツ売り切れちゃうし」
「……っそうですよね。行きましょう」
先輩に促されて、俺はいそいそと立ち上がる。引いた椅子を俺が戻すのを確認すると、先輩は当たり前のように俺の手を取った。するすると指が動いて、あっという間に互いの指先が絡まる。
「……っや!」
「……や?」
驚きのあまり反射的に大きな声をあげてしまった。まだ教室に残っていたクラスメイトからのじろじろとした視線を感じる。
(うわ〜〜やらかした。急に恋人繋ぎなんかしてくるから変な声出た……!)
最近の俺には悩みがあった。恋心を自覚したばかりのひよこみたいな俺に、橙士先輩の過度なスキンシップが心臓に悪すぎることだ。
「手、手はちょっと、やめませんか」
「なんで? いつも繋いでるじゃん」
俺はさりげなく繋がれた手を解いた。訝しげに眉根をひそめる先輩を見て、俺の方が困惑してしまう。いくらなんでもそのアプローチの仕方は上級者すぎると思うんだけど。
今まで俺がなんとも思ってなかったからまだよかったものの、今の俺にはちょっと刺激が強すぎる。
「そもそもおかしいですもん。普通は先輩後輩でこういうことしないっていうか。先輩の距離感がバグりすぎなんですって」
「ええー……? 今更? バグっててもいいから繋ごうよ」
どんだけ俺と手を繋ぎたいんだろう。そりゃ俺だって繋ぎたいけど、いま繋いだら手汗で軽く温泉が一つできる気がする。
そんな事態は絶対に防がなければならない。
「嫌です!」
そう堅く決意をして発した言葉は、想像以上に強い口調となって口から出てきた。思っていたよりキツい言い方になってしまった気がして、慌てて先輩の顔を見る。
先輩は案の定ぽかんとした顔をしていた。
「ごめんなさい。……えと、とりあえず行きましょう」
「……うん、おっけー」
なにを言っても言い訳にしかならないから、あえてスルーを選んだ。先輩もなにかを察してくれたのか、それ以上はなにも踏み込んでこなかったし、手を繋いでこようともしなかった。
駅前のドーナツ屋には、俺たちみたいな学校帰りの学生が多く並んでいた。
「今日はあってよかったね、新作ドーナツ」
「はい。もう至福です……めっちゃ楽しみにしてたんで」
混んでいたがなんとか席をとることができた。俺の手には、この間は売り切れていたさつまいものドーナツがある。胸を弾ませながら早速齧りつくと、甘い芋と香ばしい生地の味が口の中にじんわりと広がった。
「……っ! 美味しい。最近で一番かも」
「そんなに?」
「苦めなチョコかと思ったら意外と甘いんで、多分橙士先輩も好きですよこれ。よかったら……」
言いかけた俺は橙士先輩の顔を見て、笑顔のまま一時停止をした。
(…………ってこれって、間接キスになるんじゃ……)
今までも何度かドリンクの回し飲みだってしてきたし、なにを今更って感じだけど、俺からしたら意味合いが全く違う。
俺が口にしたものを先輩が口に入れるとか、それはちょっとだめなんじゃないか。主に俺の心臓が。
しかし先輩はそんな俺の葛藤など知るわけもなく、躊躇いなく身を乗り出すと、俺のドーナツにぱくっと齧り付いた。
「うん、おいしい」
「〜〜っ、よ、よかったです」
先輩の赤い舌が小さく覗いて、自らの唇をぺろっとなぞる。それだけで見てはいけないものを見てしまったような気になって、俺はわなわなと震えながらさりげなく目を逸らした。
(なんでドーナツ食べるだけでそんなに色っぽいんだ……!?)
もはやわざとやってるんじゃないかってぐらい刺激が強い。
橙士先輩ってもとからこんな感じだっけ?
こんなに生きてるだけで色気ダダ漏れな感じだっけ……?
以前までは眠そうだとか気怠げだと思っていた垂れ目すら、妙に胸がざわついて仕方がない。
「……琉生」
悶々と脳内をピンク色で染め上げていた俺は、橙士先輩に声を掛けられていることに直前まで気が付かなかった。
いつのまにか伸ばされていた先輩の手が、俺の唇の端に触れる。
「……っ!」
思わず息を呑む。大袈裟に反応して、その手から逃れるように顔を背けてしまった。表情だってきっと強張っていただろう。
「……チョコついてた」
「あ、ありがとうございます」
先輩の親指には確かにチョコレートが付いている。取ってくれただけなのに変な反応をしてしまったことが申し訳なくなった。
(俺のバカ! さすがに意識しすぎだろ……)
こうして向かい合ってドーナツを食べているだけなのに、無駄にドキドキしてばかりで会話なんて全然頭に入ってこないし、味なんかこれっぽっちもわからない。
とっくに俺の頭の中は、橙士先輩のことだけで埋め尽くされている。無意識に溜息が漏れそうになって、慌てて水を飲んで誤魔化した。
「すごい、イチョウ並木だ」
すっかりお腹を膨らませた俺たちは、散歩がてら少し遠回りをしてから帰寮することにした。
歩道に沿うようにして植えられたイチョウの木は満開で、葉っぱが落ちている地面はまるで檸檬色の絨毯だ。
「暦的にはもう秋なのに、まだ全然蒸し暑くて実感ないな」
「そうですね。こういう季節の風物詩を見かけて、やっと秋を感じるっていう」
「今日も芋とか栗系のドーナツばっかり食べてたよね」
「俺好きなんですよね、秋の味覚。実家にいるときはきのことか南瓜もよく食べたなぁ」
言いながら隣を歩く先輩の顔を盗み見る。なんだかこうして二人で歩いていると、放課後デートをしているみたいだ。
(……やばい。手、繋ぎたくなってきた)
あんなに散々手を繋がれてきたから、隣を歩いているのに手を繋いでいないことに逆に違和感があった。
先輩の手は柔らかそうに見えて意外に硬くて、しなやかそうに見えてゴツゴツしている。自分より大人っぽくて、男らしい先輩の手を思い出して、じわじわと顔が熱くなる。
こんなときになにを考えているんだろう。せっかくの先輩との時間なんだから、もっと集中しないと。
「そ、そういう先輩は珍しくオーソドックスなの頼んでましたね。てっきりいつもみたいにチャレンジするのかと」
「チャレンジするようなメニューなかったもん」
「そういうこと?」
つまりゲテモノメニューにあったらチャレンジしていたということか。さらっと言い切る先輩がおかしくて、自然と笑いがこぼれた。
しばらく歩くと、小さな広場に辿り着いた。噴水の周りに沿うようにベンチが並べられていて、あとは街灯と時計が立っているだけのこじんまりとした場所。
「琉生と同部屋になってもう半年かー」
自販機でドリンクを買って、ベンチに並んで座って飲んだ。先輩は隣で、懐かしむようなそうでないようなよくわからないトーンで言いながら、ボール遊びをしている小学生たちを眺めている。
「どうですか、俺と過ごしてみて」
「えー? 最高だよ。毎日好きな人と過ごせるんだもん」
「……先輩ってほんと、恥ずかしげなく言いますよね」
さらっと吐き出される先輩の言葉に、こんなに心をかき乱されている男が隣にいるというのに。
恨めしい気持ちになってじとりとした目で先輩を見た。
「いや全然。俺だって余裕がないですよ毎日」
「どこが。……っていうか、先輩が好きになった俺って、受験のときの俺ですよね」
「そうだけど、どうかした?」
「実際に俺と接してみて、印象変わったりしました?」
先輩は受験のときに俺と話して、同じ部屋になるように仕組んだと言っていた。だけど実際に俺とルームメイトになって、思ってたのと違うと思われていたら結構悲しい。
自分で聞いておきながら返ってくる言葉がどんなものか不安になって、無駄に視線を泳がせてしまう。しばらく「うーん」と空を見上げていた先輩は、やがて口を開いた。
「結構変わったかも。もっと正直なタイプかと思ったけど、意外と繊細で気遣うだろ、琉生は」
「……俺が?」
「自分に厳しくて自分に課する合格点がすんごく高い。だから多分いろいろ考えすぎて、我慢しちゃうことも多いんじゃないかなって」
じっと見透かすような目が、俺の目を覗き込む。まるで占い師のようだ。俺でも気付かなかった俺のことをあっさりと言い当ててくるので、言われてから「確かにそうだな」と腑に落ちた。
「そういう不器用なところも好きだよ、俺は」
息を吐くように、流れるようにそう告げた先輩は、優しい眼差しをして微笑む。慈しむような柔らかい表情に、息を呑んだ。
堂々と「好きだ」と言える先輩はすごい。俺なんてまだ、先輩の言動と目まぐるしく変わる自分の気持ちに振り回されて、この気持ちを打ち明ける勇気なんか持ち合わせていない。
もしも俺がこの気持ちを伝えたら、俺と先輩は付き合うのかな。以前先輩は、付き合ったら「恥ずかしいこと」もしたいと話してくれた。
(……いやいやいや、控えめに言っても無理。そんなの、耐えられる自信ない。心臓爆発する)
少し想像しただけでこんなに頭が沸騰するんだから、付き合うにはきっとまだ早すぎる。
もう少し俺が橙士先輩に耐性をつけてから、順を追って段階を踏んでから、然るべきときに告白の返事を──。
「琉生」
「はいっ?」
また俺はぐるぐると考え込んでしまっていたらしい。突然声を掛けられて、声が裏返ってしまった。
「目に睫毛入ってる」
「えっ、どこですか」
「ちょっと動かないで」
真面目な顔をした先輩が、少しずつ俺のもとに顔を寄せる。
その瞬間に保健室での出来事がフラッシュバックして、頭の中が真っ白になった。
(あ、だめだこれ、恥ずかしすぎて耐えらんない)
吐息がかかる距離に先輩の顔がある。カチコチに固まってしまった俺は、先輩の指が俺の目元に触れた瞬間に、反射的にその手を強い力で払い落とした。
ぱしんと乾いた音が響く。遅れて手の甲にじんじんと痺れがやってきて、そうしてようやくハッと我に返った。
「……っあ、ごめんなさい。えっと、今のは」
「俺と一緒にいるの、イヤ?」
「え?」
硬くなった声に驚いて、勢いよく顔を上げる。先輩の顔にはもう、さっきまでの笑顔は見えなかった。
「最近琉生の様子がおかしいから、薄々気づいてた。ごめんな、もっと考えるべきだった」
「……何が、ですか」
嫌な予感がする。なにか物凄い誤解を生んでいるような、そんな胸騒ぎがして止まらない。
「俺がこんな感じだし、琉生は優しいから、告白の返事だって言いづらかったよな。でも無理して俺に付き合ってくれなくていいし、我慢することないから」
「いや違うんです。さっきのは嫌とかじゃなくて、」
「気付いてないかもしれないけど、今日ずっと難しい顔してる。溜息だって隠せてないし、好きって言ったときもすごく困った顔してた」
見透かされていたことに驚いて、すぐに弁解をすることができなかった。不審に思われないように気を付けていたはずなのに。
自分の行動が先輩を傷付けていたことに、取り返しがつかなくなって初めて気付く。多分俺の顔ははっきりと青ざめているはずだ。
「自分のこと好きな相手と同部屋とか、気持ち悪いよな。部屋は空きがないと多分変えてもらえないけど」
「先輩、なに言って」
「……とりあえず今日から他の部屋泊まるから、安心して」
先輩はそう言って困ったような顔をして笑うと、流れるように俺の頭の上に手を置こうとした。
触れる寸前に手が止まる。とうとうその手が俺の頭を撫でることはなく、引っ込められてしまった。
「先に帰る。寮には伝えておくから、琉生はゆっくりでいいよ」
「っ、待って、ちがう、そういう意味じゃない……燈士先輩っ」
先を歩き出そうとする先輩を追って、その腕を掴む。しかし俺の手は無言のまま、やんわりと外されてしまった。
「……ごめん。今は一人にして」
その日の夜、橙士先輩は初めて部屋に帰ってこなかった。

