ゆるあまな先輩が俺だけに本気なのは反則です

 本の匂いに包まれた図書室には窓から夕陽が差し込んで、室内はオレンジ色に染まっている。
 勉強スペースの一角で問題集にペンを走らせる俺の隣では、同じように橙士先輩が難しい顔をして手元のプリントを眺めていた。
「先輩、終わりました?」
 タイミングを見計らって声を掛ければ、先輩の視線がゆっくりと俺の方に向けられる。
「あと少し」
「そうですか。俺もあと一問です」
「がんばろ。終わったらドーナツだし」
「はい! 今日からの新作、残ってるといいな」
 今日は図書室で勉強を終えた後に、二人で駅前のドーナツ屋に足を運ぶことになっていた。
 入学してから結構経っているが、橙士先輩と放課後に出かけることは珍しいので、ドーナツ以上に楽しみが大きい。
 早く終わらせなければ。
 そう気合いを入れ直して再び問題集と向き合い直った俺だったが、隣から視線を感じてペンを止めてしまう。
「……あの、先輩」
「ん?」
「あんまり見られると、やりにくいんですけど」
 視線の主はもちろん橙士先輩だ。
 頬杖をついて完全に俺の方に顔を向けている先輩からは、勉強に対するやる気が微塵も感じられない。
「琉生の集中してるとこ、正面から見る機会ないから新鮮なんだよね」
「もう、自分の課題に集中してくださいよ。ドーナツ売り切れちゃうじゃないですか」
「大丈夫。琉生が終わったら俺も終わるから」
「だめです。ちゃんと二人とも終わらせてすっきりした状態で行きましょ」
 俺がそう言えば、先輩はようやく気持ちを切り替えてくれたようだ。渋々といった顔はしているけど。
 とは言いつつも、図書館といういつもとは違う空間で、先輩と放課後の時間を共に過ごすというのもなかなか悪くない。
 こんな穏やかな時間がずっと続けばいいのにな……。
 そんなことを考えながら最後の問題を解き進めている途中、不意に疑問が頭に浮かんだ。
「……そういえば」
 聞くなら今しかないと妙な焦燥感に駆られ、我慢できずに声を掛ける。
「先輩はなんで急に自立しようと思ったんですか」
 ペンを回していた先輩は、途端に気まずそうに顔をしかめた。
 最近の先輩は結構わかりやすい。以前まではポーカーフェイスだと思っていたのに。
 ……もしかして俺が、『先輩マニア』に近付いてきた証拠なのだろうか。
「あー……夏祭りの日に俺が遅れてきたの覚えてる?」
「はい。あのときは補習で一日学校にいたんですよね」
「それなんだよ」
 橙士先輩は急に声を張ると、びしっと長い人差し指を俺の方に突き立てた。
 なんなんだ急に。俺は突然のことに驚いて、おもわず身体を仰け反らせた。
「俺がだらしないせいで、琉生に迷惑かけただろ」
「前にも言いましたけど、俺は別に」
「いいわけない。俺が不甲斐ないせいで、琉生と一緒にいる機会を自ら棒に振ることになったんだよ?」
「いやいや……時間なんてこれからもいくらでも作れますし」
 その日はもともと昼過ぎまでは部屋でゆっくり動画でも観ましょうかみたいなプランだったし、遅れたって言ってもたかだか数分だ。そんなに大袈裟に捉えなくたって……。
 俺的にはそう思うが、先輩からしたら一大事だったらしい。
「とにかくそこからかな。ちゃんとしよって思ったの」
「そうですか……」
「思い返せば琉生に面倒かけてばっかで、そのくせ付き合ってほしいとか調子いいなって猛省した」
 そう言う先輩は大真面目な顔をしていて、俺の知らないところで先輩なりにいろいろ考えてくれたんだなというのが伝わってきた。
「琉生が一生懸命変わろうとしてるのに、俺だけ変わらないなんて許せないから」
 やっぱり橙士先輩は素敵な人だ。
 ただのぐーたらしているだらしない人ならば、俺だってこんなにしつこく世話を焼いたりしない。
 俺は先輩の芯の強いところと、温かくて優しい人柄を買っている。
「……俺はどっちの橙士先輩も受け入れますよ。だって橙士先輩だし」
 だから橙士先輩がこうありたいと選択するのなら、俺はその背中を押してあげられる存在でいたい。
 ……ずっと俺に世話を焼かれててください、っていう本音も心の奥底には隠し持ってるんだけど。
「琉生って魔性だよね」
「はあ? なにをまた意味わかんないことを……」
 言いかけてすぐに口を噤んだ。いつのまにか熱を帯びている先輩の眼差しに気付いたからだ。
 その目からは蜂蜜のようにどろりとした甘さが透けて見える。目尻が下がって、口端が吊り上がって──とろけそうなほど柔らかい笑顔が俺に向けられた。
「好きだよ」
 追い打ちをかけるように、砂糖菓子のように甘ったるい声が鼓膜を震わせる。
 その瞬間にぶわっと全身に熱が駆け巡って、動揺した俺は反射的に咳き込んで誤魔化した。
「……っ、こんなとこで、なに言い出すんですか」
「最近ちゃんと言ってなかったなーって思って」
「だからって!」
 ……危ない。破壊力抜群の攻撃を真正面から食らってしまった。ただでさえ最近は、先輩の言動にいちいち過度に反応してしまうくせがあって、身体がおかしいのに。
 あんな口説き文句、どう考えたってずるいだろ。
「そろそろ返事聞きたいな。まだだめ?」
 眉を下げた先輩に問いかけられて、どきっと心臓が跳ねる。
 先輩の言う『返事』とは、以前からなあなあにしてきた『告白』のことを指すのは明らかだ。
 一度は丁重にお断りを入れたものの、もう一度考えてみてと言われてから、早くも半年が経とうとしている。
 あれから先輩とは幾度となく同じときを刻んできたけど、こんな風に直接返事を促されたのはこれが初めてだった。
「困らせたいわけじゃないから、そんな顔しないでよ。ゆっくりでいいから、俺のこと頭の片隅にでも入れておいて」
 ぽんと頭を撫でられて、不甲斐なくも黙り込んでしまう。
 何を返したらいいか、言葉が見つからなかった。
(片隅どころか、最近は頭のほとんどを先輩が占めてるなんて……そんなこと口が裂けても言えないや……)
 この気持ちは先輩の言う『好き』と同義なのだろうか。なんだか違うような気がする。
 あんなにまっすぐな想いと一緒になんかできない。
 俺の気持ちはまだ糸が絡まったみたいにぐちゃぐちゃの複雑で、どこに向かいたいのかもよくわからない、曖昧なものだった。


「小木曽~はやくしろよ。マツセン一秒でも遅刻したらキレるんだから」
「わかってるって。ちょっと待って……あった!」
 西村に急かされた俺は、慌てて自分のリュックの中に手を突っ込んだ。下の方に埋もれていた体操着を見つけると、急いで教室を飛び出す。出入り口のすぐ近くでは、不機嫌そうな顔をした岡本と西村が俺を待っていた。
「体操着ぐらい取り出しやすい位置に入れときなよ。午後からならまだしも二限だぞ」
「……そうだな」
「うわ珍し。小木曽が正論言われてぐうの音も出なくなってる」
「うるさいな茶化すな!」
 最近は専らこの二人と過ごすことが当たり前になってきていた。
 ……なんてそんなことを橙士先輩に伝えれば、きっとヤキモチを妬くに違いないので、あえて口にはしていない。
(本当にただのクラスメイトでしかないんだけどな、先輩は何を心配してるんだろ)
 俺だって先輩にヤキモチを妬いたことはあるが、あれは明らかに先輩に好意を持っている女性に対してだったし。互いにただのクラスメイトとしか見ていない者同士のやり取りにすら嫉妬するなんて、少し過保護すぎやしないだろうか。
「小木曽おまえ、この期に及んでまーた先輩のこと考えてるだろ」
「えっ……なんでわかんの? こわっ」
「顔に出てるんだよ。いいからさっさとペース上げろ。おまえのせいで遅刻したらただじゃおかねえからな」
 なぜか心の中を見透かされた上に叱られた俺は、「はいはい」と投げやりに答えながら廊下を走る。やっと更衣室が見えてきたと思ったそのときだった。
「だけどさっきのやばかったよなぁ、橙士!」
 すれ違いざまにそんな声が聞こえて、無意識に耳を傾けた。
「大丈夫かな~結構ぶつけ方エグくなかった?」
「あれは絶対痛かったよなぁ。脳震盪とか起こしてないといいけど」
 声の主である彼らは、上履きの色からして二年の先輩だろう。つまり彼らの話している『橙士』は、俺の知っている橙士先輩の可能性が高いわけだ。
 もしも橙士先輩になにかあったんだとしたら──。
 心臓が氷を当てられたみたいにひやりと冷える。俺は思わず足を止めた。
「おい小木曽、なに急に止まって……」
「ごめん、先行ってて」
「はあ?」
 西村たちに告げた後、俺は通り過ぎていった先輩たちを追いかけた。
「……っ、あの、今の話って……」
 俺の声に振り向いた先輩たちは、一瞬虚を突かれたような顔をしていたが、親切に事情を話してくれた。
 ──体育でバスケしてたら壁に激突してさぁ。
 ──いま保健室で休んでるっぽいけど。
 彼らの話していた『橙士』は、やっぱり俺のよく知っている橙士先輩のことだった。
 息を切らして階段を駆け下り、渡り廊下を走って渡る。途中で授業の開始を知らせる鐘が聞こえたが、そんなことは気にしていられなかった。
(橙士先輩……無事でいて……!)
 やっとの思いで保健室に辿り着いた俺は、勢いよく扉を開く。しかし中はがらんとしていて、誰もいないようだった。
 おそるおそる部屋の中に進むと、ベッド付近のカーテンが閉まっている。俺は思い切って声を掛けた。
「橙士先輩?」
「はーい」
 返ってきたのは、拍子抜けするぐらい呑気な声だった。カーテンを開けてみると、ベッドに横たわって紙パックのジュースを飲んでいる先輩がいた。
 ……なんだその寛ぎ様は!
 衝撃のあまり、俺はリアルにひっくり返りそうになった。
「え、琉生」
 先輩は俺の顔を見るなり、幽霊でも見たかのように大きく目を見開いている。驚きたいのはこっちだ。
「どしたの。授業は? もう始まってるんじゃない?」
「はあ~~……? もう、なんなんですかあなたは……」
「なになに、俺がどしたの」
 ずるずるとしゃがみ込んで頭を抱え始める俺の頭上から、先輩の困惑したような声が降ってくる、
「てっきり、重傷なのかと……」
 先輩が怪我をしたと聞いたとき、頭の中が真っ白になって、気が付けば走り出していた。なにかあったらどうしようってそればっかりが頭を巡って、後先なんて考えずにがむしゃらに先輩のところに向かっていた。
 自慢ではないが俺は大真面目だし、授業をサボったことなんて一度もない。それなのに随分と無謀なことをしたなと、冷静になると自分が恥ずかしくなってくる。
 ある程度気持ちを落ち着けた俺は何事もなかったかのように立ち上がった。ベッドのそばに近寄ると、先輩が飲んでいたイチゴミルクの甘い匂いが鼻を掠める。
「怪我したって聞いたんですけど」
「少しぶつけただけ。なんともなさそう。俺って意外と丈夫にできてるんだよね」
「よかった……」
 ほっと胸を撫で下ろしながら言葉を漏らす俺を、先輩がきょとんとした顔で見ている。
「心配してくれたの?」
「……うん」
 心配でどうにかなりそうだった。そんなことを言うのは気が引けたので、言葉は喉の奥にしまいこんだ。
「琉生」
 先輩がいつもみたいに俺を呼ぶ。
「こっちおいで」
 甘い声に導かれるように、自然と足が動いた。先輩のすぐそばまで近づくと腕が伸びてきて、さらりと頭を撫でられる。
「大丈夫。俺はピンピンしてるよ」
「……痛いところは」
「ないない。いま琉生の顔みたら全部吹っ飛んだ」
「アドレナリンが出てるだけで、あとから痛みが出てくるかもしれないじゃないですか」
「本当心配症だよね〜琉生は」
 橙士先輩は優しい顔をしてクスクスと笑う。頭を撫でる手はいつもと同じ体温で、それだけで無性に安心した。
 俺はそっとそのミルクココアみたいな色の髪に、片腕を伸ばした。
「ぶつけたの、この辺ですか?」
「あー……もう少し右かな」
「ここ?」
「うん、そう」
 さらさらの髪を撫で付けるように触れると、橙士先輩はそっと瞼を閉じた。僅かに指先を強張らせると、先輩は目を閉じたままクスッと微笑む。
「続けて?」
「……っ」
 言われるがままに手を動かす。前に先輩の髪を乾かしたときみたいに、爪を立てないように気をつけながら指で髪を梳かすと、先輩は機嫌よさそうに鼻歌を歌い始めた。
 ……変だ。
 先輩の髪に触れているだけなのに、頭が真っ白になって、これ以上なにも考えられない。
 俺の手が止まったことに気付いたのか、橙士先輩が瞼を持ち上げる。至近距離で絡まる視線は、焼け焦げそうなほどに熱かった。
「……だめだよ琉生。こんなに簡単に悪い男に引っ掛かったら」
 先輩の目がすっと細められて、彼の纏う雰囲気が変わる。怖気付いてひくっと喉を鳴らしながら、先輩の頭から手を離そうとした。
 だけどその手を逆に先輩に掴み返されてしまえば、俺はなす術もなく瞳を揺らすばかりだ。
「俺がこわい?」
「こわく、ない」
「ほんとに?」
 先輩がクスクスと笑う。さっきと同じ笑い方なのに、まるで違った風にみえる。
 こわくないと言ったのは本当だ。ただ、どうしたらいいかわからないだけ。脳内は危険だと警鐘を鳴らしているのに、俺はこの場から逃げ出すことができない。
 ……いや違う。逃げ出す気なんてさらさらないんだ。
 怯える一方で、心臓はどくどくと激しく脈を打っている。もうさっきからずっと、触れられたところが熱くてたまらない。
「こら、そんな顔したらだめ」
 咎めるような声が飛んでくる。
「……どんな顔、してますか」
 そう言葉を返せば、飴色の瞳が俺を射抜いた。まるで宝石のように綺麗な瞳は、今は獰猛な色を滲ませている。
 隈なく観察するように俺の顔を凝視していた先輩の唇から、ふっと小さく息がこぼれる。
「俺に食べられたいって顔」
 薄く微笑んだ橙士先輩は、有無を言わさぬ力で掴んだ俺の手首を自分の元へ引き寄せた。その衝動でよろめいて、体勢を崩した俺は先輩の腰の上に片手をついてしまう。
 ぐっと近付いた距離に息を呑む。気付けば目の前に橙士先輩の顔があった。
「と、じ、せんぱ……」
 もう何が何だかわからなかった。ひとつだけわかるのは、橙士先輩が目の前にいて、俺に触れていること。
 いつかのように、ゆっくりと唇が近づく。二度目だからさすがに理解した。
 先輩は俺に、キスをしようとしている。
「橙士~どないや~」
 あと数ミリで唇が触れそうになったそのとき。シャッと勢いよくカーテンが開くと同時に、場違いに明るい声がその場に響いた。
「うわっ! なんや、ルイくん来とったんか」
「……っ!」
 慌てた俺は、ドンッと橙士先輩の肩を押して身体を離した。振り向くとあんぐりと口を開けているガッキーさんが立っている。
「ごめんなぁ、邪魔してもうた?」
「いえ別に……失礼します!」
 動揺した俺はなぜかガッキーさんに向かって敬礼しながら頭を下げると、逃げるように保健室を飛び出した。後ろから「なんで俺に敬礼したん?」と不思議そうな声が聞こえる。
(……さっき、俺はなにを考えた?)
 キスをされそうになった。それは理解していた。でも逃げようとしなかった。拒む気さえなかった。
 いつもよりもギラギラとした先輩の目。あれは完全に俺のことを食ってかかろうとする、狼みたいな目をしていた。
(それでも、いいって、思うなんて)
 違う。さっきのは明確に、『してほしい』って無意識に思っていた。先輩の言う通りだ。俺はあの瞬間に、先輩にキスされることを望んでいた。
 授業が始まってしまった廊下には人の気配はなく、走り続けて息を切らす俺の吐息だけが響き渡っている。その場にしゃがみ込んだ俺は、くしゃっと前髪を掻き乱した。
 おかしいだろ。こんなタイミングで気付くなんて。でもだけど、どうしようもなく想いが溢れて苦しい。
 俺は橙士先輩のことが好きなんだ。