今日も図書室に向かって、勉強用のお堅い本を読んでいるフリをしながら、お楽しみの『アレ』を読む。
そんな変わり映えのない放課後になるはずだったけど、図書室に向かう途中の廊下で、思いがけない場面に出くわした。
「朝倉くん、好きです……! その……、前から、すごくかっこいいと思ってました! あ、あたしと付き合ってください‼」
前に踏み出そうとしていた足が、空気を読んでぴたりと止まる。
わずか数メートル先に、男女二人の姿があった。
一人は、目の前の恋い慕う男子生徒以外なにも視界に入っていませんという風に見える、告白当事者の女子生徒。
そして、もう一人の男子生徒は――
「ありがとう、気持ちはうれしいよ」
――その柔らかな微笑みは、男のオレが遠目に見ても息を吞みそうになるほど、完ぺきに美しい。
シャンプーのCMに出てきそうなサラサラの髪。モデルのように小さな顔。
みんなと同じブレザーの制服を身に着けているはずなのに、そこに立っているだけでもカリスマオーラが半端ない彼は、新入生にして、すでに学校の有名人。噂話には疎いほうのオレでも知っている。
彼の名前は、朝倉悠里。
「でも、ごめん。いま、誰かの特別になるつもりはないんだ」
朝倉の穏やかな微笑みに、女子生徒は、振られたにも関わらずぼうっと見惚れたようになっている。
まるで時間を止める魔法を使われたかのように彼女が固まっているので、朝倉のほうが先に首をかしげた。
「大丈夫?」
「あっ、え、と……。そ、そうですよね! あたし、うれしいです」
「えっと……うれしいの?」
「ご、誤解するような言い方をしてごめんなさいっ。で、でもっ、自分でも矛盾してると思うんですけど、朝倉くんには、誰のものにもならない星のままでいてほしい気持ちもあるんです! あの……、中学では、バスケ部でしたよね?」
「あー……。もう、やめちゃったけど」
「試合で活躍する朝倉くん、すっっっごくかっこよかったです! あっ、もちろん、バスケをしていなくてもかっこいいんですけど!」
怒涛の推し語りをしまくったあと、彼女はハッと我にかえったように口を止めて、顔を赤くした。
「ご、ごめんなしゃいっ! こ、これからも朝倉くんのファンでいますっ」
「そっか、ありがとう」
「は、はいっ! で、ではっ、あたしはこれでっ」
彼女はぽーっと顔を赤くしたまま、オレのいるほうへと体を向けて走ってきた。
あれ。不可抗力とはいえ、オレの立ち位置まずくね? だいぶ様相がおかしかったとはいえ、一応、他人の告白現場をのぞき見ちゃったわけだし……とかいう心配は不必要だったわ、オレの存在ごとスルーして普通に横を通り抜けられたわー。まぁ、あの圧倒的美少年を前にしたあとの、オレの存在感なんて空気に等しいのかもな。
どうすべきか迷って足を止めていたら、なんと、朝倉もオレのほうへ向かってきた。
「邪魔をしてしまって、すみません」
「あっ……、いや」
「図書室に向かう途中だったんじゃないんですか?」
「う、うん。そうだけど」
やばい。
なにがやばいって、顔の良さが半端ない。遠目で見る以上の、現実離れした透明感。
朝倉がオレという存在を個として認識しているはずがない。
でも敬語を使ってくるということは、上履きの色で判断したんだろう。
「先輩って、もしかして……」
「ん?」
「あ、いや……なんでもないです。それはそうと、通行の邪魔をしてしまってすみませんでした」
朝倉が何事もなかったかのように頭を下げたとき、違和感が頭をよぎった。
そう。
朝倉の言っていること自体は間違ってない。
間違ってはないんだけど、なんというか……、
「えーっと……オレが言うことじゃないかもなんだけど、落ちつきすぎじゃない?」
「えっ?」
気がつけば、口から本音がこぼれ出ていた。
でも、そうじゃない?
今の朝倉は、告白現場を、よく知りもしない男子生徒Aに目撃されてしまった立場のはずだ。
そのはずなのに、あまりにも動揺がなさすぎる!
なんなら、オレのほうがテンパってるくらいだし?
のぞき見といっても突然目の前で始まったし、完全に不可抗力ではあったけど、とりあえず謝っておこう。
「そのつもりはなかったけど、告白現場をのぞき見してごめん。誰かに言うつもりはないから。……それじゃ」
そうまくしたてて、朝倉の返答を待たずにその横をすり抜けた。
図書室の中に入っても、いつもより心拍数があがっていた。
人間、あまりにも美しい存在を目の前にすると、勝手に緊張してしまうものらしい。
朝倉悠里。
そのきれいな顔に、常に穏やかな微笑をたたえていることから、ついた第二の名が『人形王子』。
たしかに、人形王子は噂に違わず美しかった。
ただ、あの完璧な微笑は、どこか人に深入りされるのを拒んでいるみたいにも見えた。
オレは、あの笑顔を浮かべざるをえなくなった理由の方が気になる。
いくら人形王子といったって、朝倉も心の宿った人間だろ?
ついさっきまで、好きな漫画の続きが気になってしかたなかったけど、今日はなんだか気が削がれた。
そう。
クラスメイトに、ガリ勉メガネとしか思われていなさそうなオレ――青柳朔のひそかな趣味は少女漫画を読むことである。他人にバレたらからかわれて終わりだから、必死に隠してるけどな。
オレが、朝倉ほどの美少年だったら、男子高校生にしては変わったこの趣味もむしろ萌え要素として好意的に捉えられたのかもしれないけどさ。
『人形王子』か。
金輪際一言も会話しなさそうなくらい、別世界の人間って感じがすごかったな。
その予想は、わずか一週間後、鮮やかにひっくり返ることになる。
✳︎✳︎✳︎
「一年一組の朝倉悠里です。青柳先輩、これからペアとしてよろしくお願いいたします」
えええーっ……! まさかの同じ委員会!?
しかも、図書室を開けておくシフトまでペアになるなんて、高二と高一を組ませるって決まってるとはいえどんな偶然だよ。くじで決まった瞬間、朝倉とペアになりたかったであろう全女子の視線が刃物のように鋭くて痛かったし。
「あー、うん。……これから、よろしくね? えっと、貸出のやりかたは」
貸出と返却の手続きを説明しながらも、なんだか落ちつかない。朝倉はメモまで取ってるしまじめに聞いてるっぽいけど、これって若干きまずくね? 仮にも、告白現場を目撃して以来の再会なわけだし。
それにしても、なんで朝倉は図書委員会に来たんだろう。部活動も謳歌したい系の性格じゃないのか? 委員会の中でも拘束時間が長くて部活動に支障が出るから、一番、不人気なんだけどな……。
そんな、心ここにあらずの状態で、脚立に足をかけたのがまずかった。
「それで、自分の背じゃ届かない上の方の棚に本を返したいときは、この脚立を使って……」
ぐらり。
足が、半分、宙に浮いていた。
そんな状態で、身長百七十五センチ近くの身体のバランスがとれるわけもなく――
「危ないっ!」
――地面に叩きつけられる痛みに目をつむったが、それ以上に、驚くべきことが起こった。
あ、あれ。痛くない?
それどころか、なんだか安心する温もりに包みこまれているような……。
「大丈夫ですか?」
!?
超至近距離から顔をのぞきこまれ、心臓がドキッと高鳴る。
大きな瞳は色素が薄く、まだ高校に入学したてとは思えない不思議な色香がにじんでいて……。なんだか、吸いこまれてしまいそうだ。
「青柳先輩?」
首をかしげられたとたん、魔性の瞳にとらわれかけていた理性が、急に仕事をしはじめた。
えっ?
オレ、朝倉に、お姫さま抱っこされてるじゃん!!??
気がついた瞬間、頬がカッと熱くなった。
「ご、ごめんっっ! お、降ろしてもらえる?」
「もちろんです。怪我はなかったですか?」
なんだよ、その返し。行動も発言もイケメンすぎだろ。
朝倉に降ろしてもらいながら、なんとか平静に会話を試みる。
「大丈夫、ありがとう。それにしても……、朝倉くんって反射神経すごいね」
「えっ。そうですか?」
「うん、明らかに洗練された動きだったでしょ」
「……ありがとうございます」
いま、微妙な間があったな。
たしか……、告白していた女子の情報だと、朝倉は昔にバスケをやっていたんだったっけ?
でも、この反応は、あまり触れられたくないのかもしれないな。現に、高校では継続していないわけだし。
とりあえず、掘り下げないでおこう。
「そっか。……えっと、初日なのに、いきなり迷惑かけてごめん」
「いえ。いろいろ教えていただいて、ありがとうございます」
あー、オレのバカ! 最初からちょっと気まずいのに、より気まずさが増すイベントを自分から起こしてどうすんだよ。朝倉からしたら、地味な上に鈍臭そうな先輩とペアになって、幸先悪いとしか思ってないよなぁ……。
「僕、青柳先輩とペアになってよかったです」
「……は?」
え、なんで。今のところ、説明の途中でいきなり転倒しかけるっていう、ポカしかやらかしてないんだけど?
思考が読めなさすぎて固まったら、朝倉は、穏やかに微笑んだ。
「先輩のこと、もっと知りたいです」
「はあ……? オレのことなんか知っても楽しくはないと思うけど」
「そんなことないです。さっき抱きとめられたときの反応、かわいかったですし」
!?
こ、こいつ……いま、オレに向かって『かわいい』って言った?
正気か? それとも、単に地味な先輩男子をからかってやろうというドS魂胆?
でも、ここで大げさな反応を見せたら、それこそ相手の思う壺に違いない。反応しすぎないに限る。
「冗談でも面白くない」
「さあ。どうでしょうね?」
こぼれ出た悪戯っ子のような笑顔も、憎たらしいほどに魅力的で。不覚にも、心臓が高鳴ってしまう。
朝倉悠里。
こいつはやっぱり、感情を見せない『人形王子』なんかじゃない。
俊敏な動き、細身にも関わらず意外にも鍛えられた身体、知りあったばかりの先輩をからかうような挑発的発言……。
人形ではないことだけ確実だが、そうなると、普段その演技をしている理由のほうも気になってくる。
「先輩? また考え事ですか?」
「ベツに」
朝倉に、そのまま浮かんできた疑問をぶつけるのは、ためらわれた。
気にしてることがバレたら、また、からかわれそうだと思ったから。
その日は、図書委員の仕事を一通り説明していたら、解散の時間となった。
家に帰って夜眠りにつく前、朝倉に抱き止められた瞬間の温もりが身体に蘇って、また顔が熱くなったことはオレだけのひみつだ。
✳︎✳︎✳︎
「はあ……。こんな風に、甘やかされてみたいな」
少女漫画はいいぞ。
なにがいいって、イケメンに甘やかされるという夢のような願望を叶えてくれる。
「……こんなの、誰にも言えるわけがないよな」
少女漫画のヒロインに、自分の姿を重ねて、読んでいるなんて。
興味を持ったのは、中学一年生の頃だったかな。
きっかけは、図書館で何気なく手に取った少女漫画のヒロインが、オレと同じように、シングルマザーのもとで育っていたことだった。
そのヒロイン自体は、父親がいないことを不幸だと思ったことはない。
でも、周囲にはかわいそうだと勝手に決めつけられることにモヤモヤしている子だった。
これには共感しかなかった。
オレも、母しか家にいないからといって、不幸に感じたことはなかったから。
その漫画では、高校生に育ったヒロインが、学園一イケメンの先輩から溺愛されるという展開になるのだけど、オレは、羨ましいと思ってしまった。
母親にはそれなりに愛されてきたし、この家庭環境自体を不幸に感じたことはない。でも、並の同級生よりかは、家事手伝いをたくさんこなしてきた自負はある。母に恩返しをしたくて、国立の大学に行くために、勉強も頑張っている。その結果、先月に行われた高一の期末テストで学年一位にまでのぼりつめたが、その代償にガリ勉メガネというあだ名を得たというわけ。
ヒロインと心情が重なる部分も多かったからだろうか。
今まで頑張ってきたね、ってイケメンの先輩にヒロインが頭を撫でられているシーンに、ものすごくときめいてしまった。
同時に、自分の心の動きにも戸惑った。
オレ、なんでイケメンの仕草に、こんなにときめいてんの……? って。
疑問には思ったけど、他のクラスメイトがハマっている少年漫画を読んでいるとき以上の、不思議な高揚感があった。そのまま沼にハマってしまい、高校二年生にあがった今でも、このひそかな楽しみをやめられなくなっている。
高校で図書委員に入ったのも、難しい小説を読んでいるフリをしながら、少女マンガを読むためだ。
「こんにちは、今日もよろしくお願いします」
「うわっ!?」
「なにをそんなに驚いているんですか?」
朝倉は首をかしげながら、貸出カウンターの中に入ってくる。
そうだ。つい数日前に、オレは朝倉とシフトがペアになったんだった……。
図書室は、テスト前でもなければ、基本的に利用者が少ない。その上、すこし前までペアだった二年の先輩は、よくシフトをさぼって部活に出ていたので、図書室にオレ一人になることもザラだった。
だから、今までと同じノリで、少女漫画の世界に浸ってしまっていた。完全に油断しきってたわ。
「ん? ええと……それ、少女漫画を読んでいたんですか?」
「エッ!!??!!」
驚きすぎて、ヘンな声が出た。
なんで速攻でバレてんの!?
「本のカバーがズレ落ちてます」
「あっ……」
なんで、こんな凡ミスしてんのオレ!? よりにもよって、朝倉の前で……!
ものすごく、いたたまれない。さっき大げさに反応してしまった手前、今さら取り繕うのはムリだ……。オワタ、ドウシヨ。どうせからかわれるに決まってる……!
まともな返答すら思い浮かばず、脳内でお通夜モードが始まったあたりで、朝倉のほうから再び声をかけられた。
「ごめんなさい。もしかして、僕に知られたくなかったですか?」
「……まあ、そりゃ」
「すみません。でも……、僕は、青柳先輩のことを知れてうれしかったです」
はい……?
朝倉の反応が、想定しうる反応のどれとも違ったから、思わず彼のほうへ振り向いてしまった。
朝倉は、思いのほか、やさしい眼差しでオレを見つめていた。
不覚にも、胸がぎゅっと締めつけられたようになる。
な、なんだこれは?
「……なんで? 男が少女漫画を読んでるとか、普通はつっこむところじゃね?」
「うーん。他のひとがどう受け取るかは知りませんが、僕はむしろ、先輩にもっと興味がわきました」
興味がわいた……だって?
「はいはい、笑いのネタにでもすれば?」
どういう意味か聞くのが怖くて、さきに予防線をはってしまう。
『は? お前、少女漫画なんて読んでんの? 地味メガネのくせに、クソうける』
フラッシュバックしかけた中学時代の嫌な記憶を、無理やり頭の片隅に追いやった。
気まずくなって朝倉から視線をそらせば、返ってきたのは、なぜか不満げな声だった。
「なんで他人に言いふらす前提なんですか? そんなもったいないことしませんよ」
「も、もったいない?」
「そうですよ。お堅い本を読んでいるフリをして、実は少女漫画を読んでいるなんて……めっちゃときめくじゃないですか!」
こいつ! 今、こともなげに『ときめく』って言ったか……!? オレの聞き間違い!?
「は……? な、ななな、なに言ってんの……?」
「もっとわかりやすく言いましょうか? 先輩、僕のタイプです」
エッ。
タ、タイプ…………って、へっ!?
新入生で一番の美形と名高い『人形王子』の朝倉悠里が、二年地味男子代表と言っても過言ではないオレが……? さすがに血迷ってない!?
「もしかして、頭でも打ってる? 大丈夫??」
「失礼な、正気ですよ。先輩のことが気になるって、本気で言ってます」
ダメだ。頭、くらくらしてきた。
だって、意味わかんなすぎる。
出会って数日だし。こんな地味な男のことが気になるって、どういう思考回路……?
まさか、いま夢でも見てる途中だった?
「えっ、と……。気のせい、じゃない? じゃないっていうか、絶対そうだって……!」
「先輩は、僕のこと、最初から『人形』だなんて思っていませんでしたよね?」
初対面のときのことか。
「たしかに、落ちつきすぎゃないかとは言ったけど……それだけで?」
「僕にとっては、大きなことでしたよ。多くの人間は、噂どおり、人形みたいに淡白そうな性格だと思いこんで、それ以上は知ろうとしませんから」
隣に座っていた朝倉が、急に身体ごと近づけてきたから、心臓がドキッとした。
「ねえ、青柳先輩。先輩は、僕のことありですか?」
指通りのよさそうな髪からシャンプーの甘い香りがただよってきて、どんどん息が浅くなる。
ドキドキしすぎて言葉につまってしまったら、朝倉はうれしそうに口角をあげた。
「ふふっ。意識してくれているんですか? 先輩、かわいいです」
「ほ、ほんとに、やめろっっ」
「本気で嫌がっているなら、もうしません。でも、それなら、先輩が少女漫画を読んでいたのはどうして?」
「……そ、れは」
「なんだかいじめているみたいになって、ごめんなさい。……でも、先輩って僕のタイプなんです」
なんとかモゴモゴと返事をしたけど、自分でなにを言っているのかもわからなくなった。
まるで、朝倉の言葉は甘い毒のようだ。
心をチョコレートみたいにドロドロに溶かして、別のなにかに変えてしまうような毒。
本気で信じたら最後、戻れなくなりそうで怖い。
このさき、こんなに危険な後輩と、この狭いカウンターの中に二人きりでいつづけられるのか……?
今日は、読みかけの少女マンガ以上に、隣の朝倉の存在を意識してしまった。
✳︎✳︎✳︎
やばい。
なにがやばいって、問題集の文が、何度読んでもぜんっぜん頭に入って来ない。目が滑る。
昨日、寝不足だったせいか?
今日は、一週間ぶりの図書委員。
つまり、朝倉と一週間ぶりに、あの狭いカウンター内に二人きりなわけで……。
「先輩?」
「ひっ!?」
「毎回お化けでも見たかのようなその反応、ひどくないですか?」
朝倉はすねているような口調とはうらはらに、くすくすと笑っている。
でも、すぐに、あれ……? といぶかしむように目を細めた。
「ん……? 先輩、なんかちょっと眠そうじゃないですか?」
「えっ。あー……ちょっと、寝不足なのかも」
寝不足なのは、お前のせいだよ。
なんか、やたらとオレのことを勘違いさせるような台詞を言ってくるし。でも、オレの少女マンガ趣味を他人に言いふらしたりはしていなさそうなんだよな。もし朝倉が言いふらしていたら、確実になんかしらの影響はありそうだし……。
お前、ほんとになに考えてんの?
そうぶちまけてしまいたい気持ちを、ぐっとこらえる。
「寝不足? なんか、顔が赤いような気もしますけど……」
「えっ!? そ、そんなわけっ」
は!?
オレが、お前にドキドキしてるって言いたいの? そんなわけねーだろ!!
と、脳内が一段とさわがしくなった、その瞬間。
朝倉のきれいな顔が急に間近に迫って。思わず、目をぎゅっとつむった。
「いや、気のせいじゃないです。熱いです。たぶん、熱がありますよ」
額のあたりに、ひんやりとした心地よい感触がする。
恐る恐る目をあけたら、朝倉が、オレの額に手を載せていた。
うわぁ。距離、近……。やばい。また、心臓がどくどくと主張しはじめる。
「先輩、聞いてますか? 体調悪いんじゃないですか?」
「え? あ、いや。たしかに、寝起きからちょっとだるかったけど、熱はなかったし平気かなって」
「ってことは、今朝から自覚あったんですよね? 休めばよかったのに……」
「でも……。今日は、図書委員があるし」
「はあ? そんなの僕一人でもどうにかなります。体調優先に決まってるでしょ」
「んー……。でも、オレが体調悪いなんて言ったら、ダメなんだよ……」
あー、でも……。やっぱり調子は悪いかも。
そう自覚した瞬間に、ずきりと頭が痛んだ。
「ダメって、どうしてですか。人間なんだから、誰でも体調が悪いときくらいありますよ」
「そんなの、わかってるよ……」
なんで、朝倉に、そんなに心配されなきゃいけないわけ?
それだけ、オレが病人っぽく見えてるってこと?
ダメだ。なんか、うまく思考がまとまんない。
「……ごめん。やっぱ、今日はほんとにダメな日かも」
ふらふらとしてきた身体を支えきれず、目の前の朝倉に寄りかかってしまった。
あー……。なんでオレ、こいつの前だと、みっともないとこばっかり見られてんの?
「先輩。保健室にいきましょ」
逆らう気力は、もうすでになかった。
「相当しんどそうです。僕に身体をあずけて大丈夫ですよ」
朝倉の肩に腕をまわしながら、フラフラと立ち上がる。
こんなときだっていうのに、彼の温もりを意識してしまって、そんな自分が嫌になる。
ほぼ連行のような形で、強制的に保健室まで連れていかれてしまう。
朝倉のノックに、返事が返ってこない。
「誰もいなさそうですね。保健の先生、どこかに行ってるのかな」
彼は、無人の保健室に遠慮なく立ち入ると、迷うことなくオレを白いベッドの上に座らせた。薬品の独特な匂いが鼻をくすぐってくる。
「座るだけじゃなくて、寝ていてください。体温計や氷枕がないか、探してみますから」
ベッドに横たわりながら、情けない声が漏れ出た。
「……迷惑かけて、ごめん。ちゃんとできなくて、ごめん……」
「先輩?」
熱のせいか、脳みそがとろけたようになって、今が夢なのか現実なのかもあいまいだ。
意識と無意識の境界線が、薄くなる。
あー……。情けない、しっかりしなきゃなのにな。
ごめん、母さん。
オレがこんな風にへばってたら、会社、行きづらくなっちゃうのに……。
「……心配、かけたくなかったのに」
「どうして?」
問いかけてくる声が、なんだか泣きそうなほどやさしくて。
普段、お腹の底に沈めている本音が、泡のように浮かびあがって口から飛び出る。
「オレが、ちゃんとしてないと……母さん、会社で頑張れないでしょ……。料理も、作って待ってたいし」
そう。
こんな泣き言は、言ってられないんだ。
「料理……? 先輩が毎日、作っているんですか?」
夢の中の母さんらしき誰かが、なぜか動揺している。
「いまさら、なにいってんの……? いつも、そーじゃん。ねー……。今日は、なにがいい?」
すこしの沈黙のあと。
母さんの声色が低くなった。
「……なるほど。先輩は、理由もなく頑張ってたわけじゃなくて、甘えてられない環境にいるひとだったんですね」
あれ……?
オレ……いま、だれと話してるんだっけ?
「ねえ、どうしよう。いま、やばいくらい、先輩を甘やかしたいんですけど」
うとうとしかけている頭でも、その色っぽい声は、妙にオレの心臓を騒がせた。
「先輩。先輩を甘やかしてもいいですか?」
気がつけば、美しい顔がものすごく間近に迫っていた。
鼻先が触れそうなほどの距離に、否が応でも心拍数を上げさせられる。
えっ!
待て待て待て待て。
やっべ。今までの全部、母さんじゃなくて、朝倉に向かって話してた?
それは、かんっっっぜんにやらかしてる!
「あ……。いや、その……」
「僕……、いや、俺って、頑張っている健気なひとがタイプなんです。さらに言うなら、実は甘やかされたい願望があるけど、内気な心が邪魔をしてそれを言えずにいるようならもっと最高」
ダメだ。
そのさきの言葉を聞いちゃいけない。
そう思うのに、熱のせいなのか、頭がぼうっとして囚われたように見入ってしまう。
少女漫画のヒーローのように整ったその顔に。
「先輩、俺に落ちてきてください。先輩が望むなら、いくらでも甘やかします」
「……ほんと?」
朝倉が、幼子を相手にするように、オレの手のひらをやさしく握ってくる。
あったかい。これ、安心するなぁ。ずっと、こんな風に、誰かに甘やかされたかったような気がする。
「きもちいい……」
あまりの心地よさに目を細めたら、なぜか、朝倉は白い頬を赤く染めた。
「もお……。そんな無防備なところ、俺以外に見せちゃダメですよ」
次に目覚めたときには、あらゆることを死ぬほど後悔する気がする。
そんな予感はあったけど、それでも朝倉に手を握っていてほしかった。
その手から伝わる熱が、あまりにも欲していた温度だったから。
✳︎✳︎✳︎
「ん……」
白いカーテンから漏れる、橙色のやさしい光。
まどろんでいた意識がすこしずつクリアになって、見慣れない薄クリーム色の天井が目に入った瞬間、バッと身を起こした。
あれ。オレ、なんでこんなところで寝てるんだ……?
「優等生くん、起きた?」
「えっ!」
振り向けば、白衣をまとった保健の先生がオレを見ていた。
「調子悪そうだったから、起こさないでいたのよ。体調はどう?」
「あ、はい……」
うわ、完全にやらかした……!
慌てるな。落ちついて、記憶をさかのぼれ。
今日は、図書委員の日だったから、図書室に向かった。カウンターで受付をしながら宿題をしていたんだけど、途中で体調が悪いことを朝倉から指摘されて、それから……。
『先輩。先輩を甘やかしてもいいですか?』
脳髄をとろかすような甘い声まで思い出してしまったのが、運の尽き。
「ごほっごほっ」
「大丈夫!?」
だ、だめだ。あれは思い出しちゃいけないやつ!
とりあえず……、オレがあいつに図書委員のシフトを任せっぱなしにしてしまったことにはかわりない。
顔はあわせづらいけど、お礼にはいかないと。体調悪そうなことに気がついて、保健室まで連れてきてくれたのも、朝倉なんだし……。
「たぶん、そろそろ朝倉くんが迎えにきてくれると思うんだけど」
「えっ……?」
「図書室をしめる時間になったら、ここにまた来るって言ってたわ。ねえ。あなたと朝倉くんって、もしかして素敵な関係なの?」
っ!!??
「先生なのに、野暮なことを聞いてごめんなさいね。誰にも言いふらしたりはしないから」
「んなっ、べ、べつにっ、あいつとは、なんにもっ! ただの、後輩で……っ!!」
「あら、そうなの? でも、寝ているあなたを見つめる朝倉くんの表情、とてもやさしかったわ。朝倉くんって本物のお人形みたいに澄ました子だと思っていたけど、あんな顔もするのね」
「……それって、どんな顔ですか?」
つい尋ねてしまったことを早速後悔しはじめたら、先生はそんなオレをからかうようにニコッとした。
「愛おしそうな顔?」
「ごほっごほっ」
オレが咳き込んだのと同時に、保健室の扉が勢いよくバンッと開かれた。
「先輩!? まだ調子悪いんですか?」
「あら。愛しの朝倉くんのお迎えじゃないの」
「先生さっきからなに言ってんですか!?」
「冗談よ、冗談。そんなに取り乱してたら、それこそ本気っぽいけど?」
くすくすとオレにだけ聞こえる程度の声量で言ってくる先生が憎たらしい。恥ずかしすぎて穴に埋まりたい。
「体調はもう大丈夫なんですか?」
「うん。さっきより、だいぶ気分が落ち着いた」
「それはよかった」
本当に安堵したかのように微笑まれて、なんだか胸がむずがゆくなる。
とりあえず、お礼は言わなきゃ。
「その……、保健室まで連れてきてくれて、ありがと」
なんとなくそっぽを向いて言ったら、先生が横槍をいれてきた。
「あ〜〜〜。ねえ、きみたち、先生もこの場にいることを忘れてない?」
「えっ?」
「先生には付き合う直前の二人がラブコメしているようにしか見えないのだけど」
「っっ〜〜!」
突然の教師らしからぬ爆弾発言に動転したオレとは対照的に、朝倉はなぜか落ちついている。どことなくうれしそうな気さえするのはなぜだ。なぜなんだ。
「先生。先輩は、僕が家までお見送りしますから、安心してください」
「は? そこまでしてもらわなくても、大丈夫だって」
「さっきまで倒れてたんだから、おとなしく朝倉くんに付き添ってもらいなさい」
「うっ……。はい、わかりました」
「よろしい」
先生、いい笑顔だなぁ。さっきからニヤニヤしてるし、この状況を楽しんでるような気がしてならない。
結局、朝倉は宣言通り、電車にまで揺られてオレのうちの前までついてきた。
そこまでしなくても大丈夫だって言ってるのに、『先輩は、ひとに素直に甘えられないひとっぽいので』の一点張りだ。
「ふーん。先輩は、このマンションに住んでるんですね~。つまりこれからは、朝から先輩を待ち伏せもし放題だ」
「絶対にやめろ、ストーカー」
「やだなぁ、冗談ですよ」
夕陽を浴びながら笑う朝倉は、素で笑っているという感じがして。
作り物じゃないと感じられる自然体の笑顔は、これまた破壊力が高いんだ。
なんかさ、具合が悪くなった末にうちまで見送ってもらうなんて、少女漫画のワンシーンっぽくね?
朝倉って、ほんとに少女漫画に出てくるヒーローっぽいんだよな。
ほんとに同じ男子かよってくらい美しい顔立ちで、胸がドキドキするようなからかい方をよくしてきて、本音ではなに考えてんのかよくわかんないその感じ。
どういうつもりなんだ?
それ全部、もしかして本音?
オレのこと、本気でそういう相手として……。
「朝倉くん……?」
知らない女子が、朝倉に話しかけてきた瞬間、頭から冷や水を浴びせかけられたようだった。
見覚えのない制服だけど、たぶん同年代くらい。薄く化粧をしていて、見るからに陽キャな感じの女子。
「やっぱりそうだー! 久しぶり!! やだー、相変わらずかっこよすぎなんだけどっ」
彼女から漂うふんわりと甘い匂いが鼻につく。
女子の視線と意識は、完全に、朝倉だけに向けられていて。
瞬時に、オレは蚊帳の外だ。
透明人間になったら、きっとこんな感じだろう。
「ねえ。バスケ、もう完全にやめちゃったの? てか、なんでやめちゃったの~? めちゃくちゃかっこよかったのに、もったいないなぁって思ってたんだよね」
「……えっと。今は、先輩と話していたんですが」
「誰……?」
朝倉の発言を受けて、彼女の意識が、初めてオレに向けられる。
「まじめそー。朝倉くん、高校では、こういうタイプのひととつるんでるの?」
彼女にとっては、ささいな一言だったんだろう。
でも、その言葉は、紛れもなくオレの心臓を切り裂いた。
とたんに、ついさきほどまで、朝倉に少女漫画のヒーローを重ねていた自分がとてつもなく恥ずかしくなった。
なにお花畑もいいところのバカげきったことを考えてるんだよ、オレは。
ガリ勉なら、それらしくちゃんと頭使えって。
最初からわかりきっていたじゃないか。
大前提として、オレと朝倉が、つりあうわけがないってこと。
つりあわないどころか、仲良くしていたら恥ずかしい思いをさせるレベルってことだよ。
この女子の反応を見れば、一目瞭然だ。
「……朝倉、オレは、もう大丈夫だから。ありがと」
「先輩、まってっ!」
朝倉の制止を待たずに、急いでうちの中に逃げ帰った。
あいつは、オレと一緒にいすぎないほうがいい。
そう教えてくれたあの女子に、感謝すべきくらいだ。
胸が苦しくて、気を抜いたら涙が出そうだなんて思ってることも、全部全部、気のせいにしてしまえ。
✳︎✳︎✳︎
朝倉と徹底的に距離を取りはじめて、二週間が経った。
どうやったかというと、図書委員のシフトで朝倉とかぶっている日を全て他の誰かに代わってもらった。それ自体は至極簡単だ。麗しの『人形王子』とシフトを共にできることは、大抵の女子にとってご褒美イベントなんだから。
唯一の懸念は、あいつがオレの家の前まで押しかけてくるんじゃないかということだったけど、杞憂だったようだ。
それもそのはず。
あいつにとっては、オレなんて、ちょっとからかうと面白い存在。
その程度だったんだろうから。
「……オレなんかのこと、本気で好きなわけないじゃん」
一人きりの図書室に、情けない独り言が落ちる。
朝倉以外の誰かとシフトを組むと、すっぽかされることが多い。
どうせ、あの『ガリ勉メガネ』がうまいことやっといてくれるから。
みんなからそういう存在だと思われていることを、最悪な形で痛感する羽目になった。
オレの都合で代わってもらったんだし、一人でも回る程度の仕事だから、オレが頑張ればいいんだけどさ。
施錠前の、図書室の点検作業を一人でしながら、なんだかやけに虚しくなってきた。
「……好きだったなぁ」
朝倉と過ごす時間が。
からかわれてドキドキするのも、今思えば、嫌じゃなかった。
朝倉のことが、好きだ。多分これは、後輩としてとかじゃない。もっと特別な意味合いで。
自分からぜんぶ手放しておいて、なに女々しいこと考えてんだよって感じだけど。
ほんと。
あいつとの記憶は、きれいさっぱり忘れ去ったほうが、精神に良い。
「先輩。さっきの発言は、どういう意味ですか?」
っ……!?
え、なに。あいつの声がするんだけど。
幻聴にしてはやけにリアルなその声に、恐る恐る振り向けば、
「聞き捨てなりません。先輩、さっき好きって言ってましたよね?」
「な、なななな、なんの話っ!?」
朝倉が、前々からそこに立っていたかのような自然なそぶりで、目の前にいた。図書室の本棚の前に立っている。
部屋に入ってきてたこと、全然気づかなかった……!
二週間ぶりに見ても、漫画の中から抜け出てきた、学園の王子さまって感じの見てくれだ。
ほんと、いつ見ても、嫌になるくらいかっこいいんだよ。
「先輩、僕のこと、避けてましたよね?」
一歩、オレに向かって、距離をつめられて。
後ずさろうとしたけど、背後の棚に背中がぶつかってしまう。
「ち、違う。たまたま、シフトの日が用事と重なってて、代わってもらっただけで……」
「見え見えの嘘、つかないでください。そう何日も偶然が続くとは思えません」
「……ごめん」
どっちが後輩だよってくらい、あっけなく論破されてしまう。
顔が整っているだけに、真顔に迫力がある。
ひとに本音を言うのって、身体が震えそうなほど怖いんだな。
怖い、けど。
こうなった以上、誤魔化すことはできない。
「……なんかさ、あんまり朝倉と一緒にいないほうがいいんじゃないかって、急に思ったんだよ」
「どうしてですか?」
「わかるだろ。オレは、見てのとおり、ただの地味メガネだから」
「だから……、なんだっていうんですか?」
イラつきが混じったようなその声に、朝倉の表情を見ていられなくなって、視線を床に落とした。
「オレと一緒にいすぎたら、そのうち、朝倉がヘンに思われる。オレはいいけど、お前が悪く言われるのは嫌なんだ!」
自分で発した言葉が棘となって、自分の胸をぷすりと突き刺した。
嫌だな。こんなみっともないこと、面と向かって言いたくなかった。
情けなくなって目をつむったら、次の瞬間、身体があたたかい何かに包まれていた。
へ……?
「そっかぁ……。先輩が離れたのは、俺のためだったんですね」
朝倉に、抱きしめられてる。
そう理解した瞬間、顔が火をふきそうなほど一気に熱くなった。
な、なななななっ、なななななっ!?
「ヘンに悪目立ちする俺のことがウザくなって、距離を置いたわけじゃなかったんだ」
朝倉は、オレが自分のことを嫌いになったと思っていた……?
驚きすぎて固まることしかできずにいたら、朝倉は、ぎゅうっとオレを抱きしめる腕に力をこめてきた。柑橘系の爽やかな匂いが鼻先にふわりと香る。ドキドキしすぎて、息苦しい。
「やっぱり、俺、先輩のことが好きです」
「なぁ、さっきオレが言ったこと聞いてた!?」
「先輩の第一印象は、学年主席でした」
「は?」
戸惑うオレを無視して、朝倉は楽しそうに続ける。
「高校に入学してすぐに、廊下で張り紙に出されているのを見かけたんですよ。ある程度の学力を持った生徒が集まる高校で主席をとったひと。きっと、すごい努力家なんだろうなと思いました」
「もしかして……、オレのこと前から知ってたの?」
「はい。気になったので、どんなひとか探ったら、図書委員に属しているらしい情報を得ました。図書委員会を志望したのも、先輩に会えると思ったからです」
「なんで、そこまで……!」
「シンプルに、二年の学年主席はどんなひとなのか気になったからです。それに、図書委員会に所属すれば、悪目立ちする懸念もそれほどないと思ったから」
悪目立ち、という言葉に、朝倉の背負っている陰が見え隠れした。
なんだか複雑な気分になっていたら、朝倉はそんなオレの顔を見つめて、口角をあげた。
「まさか、学年主席の先輩が、勉強しているように見せかけて実は少女漫画を読んでいたことまでは知りませんでしたけどね。……あれは、反則です。かわいすぎますもん」
「お前のツボ、よくわかんなすぎ」
「ふふっ。顔、真っ赤ですよ? 照れ隠しにツンケンするのに、わかりやすい反応をするところも好きです」
散々なことを言われているのに、ニコニコとうれしそうにされるだけで、胸が高鳴ってしまう。
ダメだ。本気でこいつに脳みそを溶かされかけているかもしれない。
「俺ね、こう見えて、好きなひとにはめちゃくちゃ重たいタイプなんですよ」
「こう見えてっていうか……、ちょっと想像つくわ」
「あれ、そうですか? じゃあ、過去の話をしても引かないでくださいね」
過去と聞いて、瞬時に、先日の朝倉の知り合いらしき女子の言葉が耳に蘇る。
『ねえ。バスケ、もう完全にやめちゃったの? てか、なんでやめちゃったの~? めちゃくちゃかっこよかったのに、もったいないなぁって思ってたんだよね』
体育館で、華麗にシュートを決める朝倉は、さぞかっこよかっただろう。図書室で一緒に過ごしただけでも、運動神経の良さは充分に伝わってきていたし。
でも……、朝倉は、高校で部活に入る気はなかったと言っていた。
「それってバスケの話……?」
「そうです。バスケはね、元々は、気になる男に近づきたくて始めたんですよ」
「不純な理由じゃん」
「さっき言ったでしょ? 俺、重いんですよ。気になるひとの好きなものを、自分も好きになりたい。一緒に楽しめるようになりたいって気持ちが強かったんです」
動機はともかく、バスケ自体もちゃんと好きになって、結構まじめにやっていたのだという。
どうせやるなら、適当にやるよりも、本気で打ち込んだ方が楽しいから。
朝倉の努力は功を奏して、試合でも活躍できるようになっていったみたいだ。
話を聞いているうちに、ふと考えた。
朝倉が、頑張るひとに惹かれるのは、自分自身がそれ以上にストイックだからなんじゃないかって。
「俺が頑張れば頑張るほど、試合に、女子の観客と黄色い歓声が増えていった。でも、俺にとっては、好きなひととバスケを一緒にできることが全てだったから、さほど気にしていなかった。それが、仇となったんです」
「仇って……」
「ある日、好きなひとから、苦い顔でこう言われました。『お前がバスケ部に来てから、試合に来てる全員、お前のプレイしか見なくなった。お前のせいで、バスケ部がおかしくなってる』って」
そんな……!
仮にも、気になっていたひとから、そんな言葉のナイフをかざされた朝倉はどれほど心を痛めただろうか。
心臓をめった刺しにされたように苦しかっただろう。
「……俺、他のやつらにどんなに陰口を叩かれても、平気だったんです。彼だけは、俺がバスケ部に来たことを喜んでくれてるって信じてたから。……でも、とんだ勘違いだったんです。俺は、ただ目障りなだけの存在だった。なんだか全部バカらしくなって、バスケ部を辞めたんです」
淡々と語るその様子が、逆に、痛々しくて。
「俺の好きは、重い。好きになったひとを、傷つけるかもしれないくらいに」
すこし震えている身体から、深い悲しみが、直接心になだれこんでくるみたいだ。
できることなら、当時、ボロボロに傷つけられて深く落ちこんでいたはずの朝倉に伝えてあげたい。
きみは悪くない。
なんにも悪くなかったよって。
「もしかして、朝倉が『人形王子』になったのは……、ひとを好きにならないようにするため?」
深入りする前に壁を張る。そうすれば、二度と同じように傷つけられることはないから。
「そのとおり。でもね……、先輩のこと、好きになっちゃいました」
熱を帯びた瞳が、オレだけを見つめてる。
「先輩は最初から、俺が人形を演じてることに違和感を抱いてた。それだけじゃない。勉強も、うちのことも、ものすごく頑張り屋さんで。甘え下手だけど、少女漫画に憧れてる。そんな先輩のことが、好きなんです」
さすがに、これは認めざるをえない。
これは、紛れもない本心から放たれている言葉だって。
「ねえ、先輩。先輩は、俺の重さを受け止めてくれますか? それとも……、迷惑?」
声が震えていて、余裕の欠片もない。
また傷つけられることを恐れている目の前の朝倉のことが、とたんに、愛おしくて仕方なくなった。
このハレツしそうな気持ちを、言葉ではどうやってもうまく伝えられない気がしない。
だから、こうする。
「迷惑じゃない。むしろ……、オレは、ずっと、朝倉に甘やかされてみたかった」
少女漫画のヒーローのそのものみたいなお前から。
この想いが伝わるように、そのさくらんぼの唇にそっと触れてみた。
自分の唇で。
本当に軽く触れるだけの、羽根のようなキス。
オレにとってはもちろん初めてのチューだったけど……、朝倉も、こっちがビックリするほど顔を赤くしていた。
「……不意打ち、ズルいです。あと、先輩、俺のファーストキスを許可なく奪いましたね」
「えっ。朝倉も初めてだったの?」
「なに驚いてるんですか、そーですよ。でも……、死ぬほどうれしかった。先輩のそれ、付き合おうって意味以外にありえないですもんね?」
それから先のことは、ドキドキしすぎてあまりよく覚えていない。
二人して時間という概念がすっかり抜けていて、完全下校時刻を過ぎてしまった。
***
この日以降、図書委員のシフトは元通りとなり、朝倉と二人きりの時間が戻ってきた。
正確には、図書委員以外の時間も、朝倉は隙あらばオレと一緒に過ごそうとする。
たとえば、お昼休みの時間も。
朝倉が前々から一人でお昼ご飯を食べたいときによく使っていたという、屋上前の階段の踊り場で一緒に昼飯を食べている。
「朔先輩、それちょーだい」
「ちょ、許可してないのに勝手に取っていくなって!」
「ん~~っ! 先輩お手製の卵焼き、めちゃうま。先輩は、最高の結婚相手になりそうです」
「け、結婚……」
悠里が自然と口にする言葉は、大体、火力が高い。
オレの作った弁当のおかずを、最高の笑顔で『美味しい』って食べてくれるのも、ドキドキする。
意識しない方が難しくて黙ってしまったら、悠里はニヤリときれいな唇の端をつりあげた。
「ふふっ。俺と結婚してる未来を想像して赤くなったの?」
今までのオレだったら、反射ですぐに、「からかうな!」って言ってただろう。
でも……。
悠里はオレのことを本気で好きなんだって、今はちゃんとわかってるから。
悠里が好きな相手を――自分を、必要以上に卑下するのはやめようって、今は思ってる。
「……うん、ちょっと想像した。悠里は、きっとたくさん甘やかしてくれるんだろうなって」
素直な気持ちを告げれば、悠里は意外そうに、瞳をまたたいた。
それから、とびきり甘い笑顔を浮かべた。
「そうだよ。先輩が、望むならいくらでも」
悠里と付き合うようになってから、少女漫画はあまり読まなくなった。
理由は単純で、少女漫画では、物足りなくなってしまったから。
現実世界で、悠里に甘やかされる方がずっとドキドキするし、なによりも満たされる。
……本人に言ったらものすごく調子に乗りそうだから、これはオレだけのひみつだけど。
【完】
そんな変わり映えのない放課後になるはずだったけど、図書室に向かう途中の廊下で、思いがけない場面に出くわした。
「朝倉くん、好きです……! その……、前から、すごくかっこいいと思ってました! あ、あたしと付き合ってください‼」
前に踏み出そうとしていた足が、空気を読んでぴたりと止まる。
わずか数メートル先に、男女二人の姿があった。
一人は、目の前の恋い慕う男子生徒以外なにも視界に入っていませんという風に見える、告白当事者の女子生徒。
そして、もう一人の男子生徒は――
「ありがとう、気持ちはうれしいよ」
――その柔らかな微笑みは、男のオレが遠目に見ても息を吞みそうになるほど、完ぺきに美しい。
シャンプーのCMに出てきそうなサラサラの髪。モデルのように小さな顔。
みんなと同じブレザーの制服を身に着けているはずなのに、そこに立っているだけでもカリスマオーラが半端ない彼は、新入生にして、すでに学校の有名人。噂話には疎いほうのオレでも知っている。
彼の名前は、朝倉悠里。
「でも、ごめん。いま、誰かの特別になるつもりはないんだ」
朝倉の穏やかな微笑みに、女子生徒は、振られたにも関わらずぼうっと見惚れたようになっている。
まるで時間を止める魔法を使われたかのように彼女が固まっているので、朝倉のほうが先に首をかしげた。
「大丈夫?」
「あっ、え、と……。そ、そうですよね! あたし、うれしいです」
「えっと……うれしいの?」
「ご、誤解するような言い方をしてごめんなさいっ。で、でもっ、自分でも矛盾してると思うんですけど、朝倉くんには、誰のものにもならない星のままでいてほしい気持ちもあるんです! あの……、中学では、バスケ部でしたよね?」
「あー……。もう、やめちゃったけど」
「試合で活躍する朝倉くん、すっっっごくかっこよかったです! あっ、もちろん、バスケをしていなくてもかっこいいんですけど!」
怒涛の推し語りをしまくったあと、彼女はハッと我にかえったように口を止めて、顔を赤くした。
「ご、ごめんなしゃいっ! こ、これからも朝倉くんのファンでいますっ」
「そっか、ありがとう」
「は、はいっ! で、ではっ、あたしはこれでっ」
彼女はぽーっと顔を赤くしたまま、オレのいるほうへと体を向けて走ってきた。
あれ。不可抗力とはいえ、オレの立ち位置まずくね? だいぶ様相がおかしかったとはいえ、一応、他人の告白現場をのぞき見ちゃったわけだし……とかいう心配は不必要だったわ、オレの存在ごとスルーして普通に横を通り抜けられたわー。まぁ、あの圧倒的美少年を前にしたあとの、オレの存在感なんて空気に等しいのかもな。
どうすべきか迷って足を止めていたら、なんと、朝倉もオレのほうへ向かってきた。
「邪魔をしてしまって、すみません」
「あっ……、いや」
「図書室に向かう途中だったんじゃないんですか?」
「う、うん。そうだけど」
やばい。
なにがやばいって、顔の良さが半端ない。遠目で見る以上の、現実離れした透明感。
朝倉がオレという存在を個として認識しているはずがない。
でも敬語を使ってくるということは、上履きの色で判断したんだろう。
「先輩って、もしかして……」
「ん?」
「あ、いや……なんでもないです。それはそうと、通行の邪魔をしてしまってすみませんでした」
朝倉が何事もなかったかのように頭を下げたとき、違和感が頭をよぎった。
そう。
朝倉の言っていること自体は間違ってない。
間違ってはないんだけど、なんというか……、
「えーっと……オレが言うことじゃないかもなんだけど、落ちつきすぎじゃない?」
「えっ?」
気がつけば、口から本音がこぼれ出ていた。
でも、そうじゃない?
今の朝倉は、告白現場を、よく知りもしない男子生徒Aに目撃されてしまった立場のはずだ。
そのはずなのに、あまりにも動揺がなさすぎる!
なんなら、オレのほうがテンパってるくらいだし?
のぞき見といっても突然目の前で始まったし、完全に不可抗力ではあったけど、とりあえず謝っておこう。
「そのつもりはなかったけど、告白現場をのぞき見してごめん。誰かに言うつもりはないから。……それじゃ」
そうまくしたてて、朝倉の返答を待たずにその横をすり抜けた。
図書室の中に入っても、いつもより心拍数があがっていた。
人間、あまりにも美しい存在を目の前にすると、勝手に緊張してしまうものらしい。
朝倉悠里。
そのきれいな顔に、常に穏やかな微笑をたたえていることから、ついた第二の名が『人形王子』。
たしかに、人形王子は噂に違わず美しかった。
ただ、あの完璧な微笑は、どこか人に深入りされるのを拒んでいるみたいにも見えた。
オレは、あの笑顔を浮かべざるをえなくなった理由の方が気になる。
いくら人形王子といったって、朝倉も心の宿った人間だろ?
ついさっきまで、好きな漫画の続きが気になってしかたなかったけど、今日はなんだか気が削がれた。
そう。
クラスメイトに、ガリ勉メガネとしか思われていなさそうなオレ――青柳朔のひそかな趣味は少女漫画を読むことである。他人にバレたらからかわれて終わりだから、必死に隠してるけどな。
オレが、朝倉ほどの美少年だったら、男子高校生にしては変わったこの趣味もむしろ萌え要素として好意的に捉えられたのかもしれないけどさ。
『人形王子』か。
金輪際一言も会話しなさそうなくらい、別世界の人間って感じがすごかったな。
その予想は、わずか一週間後、鮮やかにひっくり返ることになる。
✳︎✳︎✳︎
「一年一組の朝倉悠里です。青柳先輩、これからペアとしてよろしくお願いいたします」
えええーっ……! まさかの同じ委員会!?
しかも、図書室を開けておくシフトまでペアになるなんて、高二と高一を組ませるって決まってるとはいえどんな偶然だよ。くじで決まった瞬間、朝倉とペアになりたかったであろう全女子の視線が刃物のように鋭くて痛かったし。
「あー、うん。……これから、よろしくね? えっと、貸出のやりかたは」
貸出と返却の手続きを説明しながらも、なんだか落ちつかない。朝倉はメモまで取ってるしまじめに聞いてるっぽいけど、これって若干きまずくね? 仮にも、告白現場を目撃して以来の再会なわけだし。
それにしても、なんで朝倉は図書委員会に来たんだろう。部活動も謳歌したい系の性格じゃないのか? 委員会の中でも拘束時間が長くて部活動に支障が出るから、一番、不人気なんだけどな……。
そんな、心ここにあらずの状態で、脚立に足をかけたのがまずかった。
「それで、自分の背じゃ届かない上の方の棚に本を返したいときは、この脚立を使って……」
ぐらり。
足が、半分、宙に浮いていた。
そんな状態で、身長百七十五センチ近くの身体のバランスがとれるわけもなく――
「危ないっ!」
――地面に叩きつけられる痛みに目をつむったが、それ以上に、驚くべきことが起こった。
あ、あれ。痛くない?
それどころか、なんだか安心する温もりに包みこまれているような……。
「大丈夫ですか?」
!?
超至近距離から顔をのぞきこまれ、心臓がドキッと高鳴る。
大きな瞳は色素が薄く、まだ高校に入学したてとは思えない不思議な色香がにじんでいて……。なんだか、吸いこまれてしまいそうだ。
「青柳先輩?」
首をかしげられたとたん、魔性の瞳にとらわれかけていた理性が、急に仕事をしはじめた。
えっ?
オレ、朝倉に、お姫さま抱っこされてるじゃん!!??
気がついた瞬間、頬がカッと熱くなった。
「ご、ごめんっっ! お、降ろしてもらえる?」
「もちろんです。怪我はなかったですか?」
なんだよ、その返し。行動も発言もイケメンすぎだろ。
朝倉に降ろしてもらいながら、なんとか平静に会話を試みる。
「大丈夫、ありがとう。それにしても……、朝倉くんって反射神経すごいね」
「えっ。そうですか?」
「うん、明らかに洗練された動きだったでしょ」
「……ありがとうございます」
いま、微妙な間があったな。
たしか……、告白していた女子の情報だと、朝倉は昔にバスケをやっていたんだったっけ?
でも、この反応は、あまり触れられたくないのかもしれないな。現に、高校では継続していないわけだし。
とりあえず、掘り下げないでおこう。
「そっか。……えっと、初日なのに、いきなり迷惑かけてごめん」
「いえ。いろいろ教えていただいて、ありがとうございます」
あー、オレのバカ! 最初からちょっと気まずいのに、より気まずさが増すイベントを自分から起こしてどうすんだよ。朝倉からしたら、地味な上に鈍臭そうな先輩とペアになって、幸先悪いとしか思ってないよなぁ……。
「僕、青柳先輩とペアになってよかったです」
「……は?」
え、なんで。今のところ、説明の途中でいきなり転倒しかけるっていう、ポカしかやらかしてないんだけど?
思考が読めなさすぎて固まったら、朝倉は、穏やかに微笑んだ。
「先輩のこと、もっと知りたいです」
「はあ……? オレのことなんか知っても楽しくはないと思うけど」
「そんなことないです。さっき抱きとめられたときの反応、かわいかったですし」
!?
こ、こいつ……いま、オレに向かって『かわいい』って言った?
正気か? それとも、単に地味な先輩男子をからかってやろうというドS魂胆?
でも、ここで大げさな反応を見せたら、それこそ相手の思う壺に違いない。反応しすぎないに限る。
「冗談でも面白くない」
「さあ。どうでしょうね?」
こぼれ出た悪戯っ子のような笑顔も、憎たらしいほどに魅力的で。不覚にも、心臓が高鳴ってしまう。
朝倉悠里。
こいつはやっぱり、感情を見せない『人形王子』なんかじゃない。
俊敏な動き、細身にも関わらず意外にも鍛えられた身体、知りあったばかりの先輩をからかうような挑発的発言……。
人形ではないことだけ確実だが、そうなると、普段その演技をしている理由のほうも気になってくる。
「先輩? また考え事ですか?」
「ベツに」
朝倉に、そのまま浮かんできた疑問をぶつけるのは、ためらわれた。
気にしてることがバレたら、また、からかわれそうだと思ったから。
その日は、図書委員の仕事を一通り説明していたら、解散の時間となった。
家に帰って夜眠りにつく前、朝倉に抱き止められた瞬間の温もりが身体に蘇って、また顔が熱くなったことはオレだけのひみつだ。
✳︎✳︎✳︎
「はあ……。こんな風に、甘やかされてみたいな」
少女漫画はいいぞ。
なにがいいって、イケメンに甘やかされるという夢のような願望を叶えてくれる。
「……こんなの、誰にも言えるわけがないよな」
少女漫画のヒロインに、自分の姿を重ねて、読んでいるなんて。
興味を持ったのは、中学一年生の頃だったかな。
きっかけは、図書館で何気なく手に取った少女漫画のヒロインが、オレと同じように、シングルマザーのもとで育っていたことだった。
そのヒロイン自体は、父親がいないことを不幸だと思ったことはない。
でも、周囲にはかわいそうだと勝手に決めつけられることにモヤモヤしている子だった。
これには共感しかなかった。
オレも、母しか家にいないからといって、不幸に感じたことはなかったから。
その漫画では、高校生に育ったヒロインが、学園一イケメンの先輩から溺愛されるという展開になるのだけど、オレは、羨ましいと思ってしまった。
母親にはそれなりに愛されてきたし、この家庭環境自体を不幸に感じたことはない。でも、並の同級生よりかは、家事手伝いをたくさんこなしてきた自負はある。母に恩返しをしたくて、国立の大学に行くために、勉強も頑張っている。その結果、先月に行われた高一の期末テストで学年一位にまでのぼりつめたが、その代償にガリ勉メガネというあだ名を得たというわけ。
ヒロインと心情が重なる部分も多かったからだろうか。
今まで頑張ってきたね、ってイケメンの先輩にヒロインが頭を撫でられているシーンに、ものすごくときめいてしまった。
同時に、自分の心の動きにも戸惑った。
オレ、なんでイケメンの仕草に、こんなにときめいてんの……? って。
疑問には思ったけど、他のクラスメイトがハマっている少年漫画を読んでいるとき以上の、不思議な高揚感があった。そのまま沼にハマってしまい、高校二年生にあがった今でも、このひそかな楽しみをやめられなくなっている。
高校で図書委員に入ったのも、難しい小説を読んでいるフリをしながら、少女マンガを読むためだ。
「こんにちは、今日もよろしくお願いします」
「うわっ!?」
「なにをそんなに驚いているんですか?」
朝倉は首をかしげながら、貸出カウンターの中に入ってくる。
そうだ。つい数日前に、オレは朝倉とシフトがペアになったんだった……。
図書室は、テスト前でもなければ、基本的に利用者が少ない。その上、すこし前までペアだった二年の先輩は、よくシフトをさぼって部活に出ていたので、図書室にオレ一人になることもザラだった。
だから、今までと同じノリで、少女漫画の世界に浸ってしまっていた。完全に油断しきってたわ。
「ん? ええと……それ、少女漫画を読んでいたんですか?」
「エッ!!??!!」
驚きすぎて、ヘンな声が出た。
なんで速攻でバレてんの!?
「本のカバーがズレ落ちてます」
「あっ……」
なんで、こんな凡ミスしてんのオレ!? よりにもよって、朝倉の前で……!
ものすごく、いたたまれない。さっき大げさに反応してしまった手前、今さら取り繕うのはムリだ……。オワタ、ドウシヨ。どうせからかわれるに決まってる……!
まともな返答すら思い浮かばず、脳内でお通夜モードが始まったあたりで、朝倉のほうから再び声をかけられた。
「ごめんなさい。もしかして、僕に知られたくなかったですか?」
「……まあ、そりゃ」
「すみません。でも……、僕は、青柳先輩のことを知れてうれしかったです」
はい……?
朝倉の反応が、想定しうる反応のどれとも違ったから、思わず彼のほうへ振り向いてしまった。
朝倉は、思いのほか、やさしい眼差しでオレを見つめていた。
不覚にも、胸がぎゅっと締めつけられたようになる。
な、なんだこれは?
「……なんで? 男が少女漫画を読んでるとか、普通はつっこむところじゃね?」
「うーん。他のひとがどう受け取るかは知りませんが、僕はむしろ、先輩にもっと興味がわきました」
興味がわいた……だって?
「はいはい、笑いのネタにでもすれば?」
どういう意味か聞くのが怖くて、さきに予防線をはってしまう。
『は? お前、少女漫画なんて読んでんの? 地味メガネのくせに、クソうける』
フラッシュバックしかけた中学時代の嫌な記憶を、無理やり頭の片隅に追いやった。
気まずくなって朝倉から視線をそらせば、返ってきたのは、なぜか不満げな声だった。
「なんで他人に言いふらす前提なんですか? そんなもったいないことしませんよ」
「も、もったいない?」
「そうですよ。お堅い本を読んでいるフリをして、実は少女漫画を読んでいるなんて……めっちゃときめくじゃないですか!」
こいつ! 今、こともなげに『ときめく』って言ったか……!? オレの聞き間違い!?
「は……? な、ななな、なに言ってんの……?」
「もっとわかりやすく言いましょうか? 先輩、僕のタイプです」
エッ。
タ、タイプ…………って、へっ!?
新入生で一番の美形と名高い『人形王子』の朝倉悠里が、二年地味男子代表と言っても過言ではないオレが……? さすがに血迷ってない!?
「もしかして、頭でも打ってる? 大丈夫??」
「失礼な、正気ですよ。先輩のことが気になるって、本気で言ってます」
ダメだ。頭、くらくらしてきた。
だって、意味わかんなすぎる。
出会って数日だし。こんな地味な男のことが気になるって、どういう思考回路……?
まさか、いま夢でも見てる途中だった?
「えっ、と……。気のせい、じゃない? じゃないっていうか、絶対そうだって……!」
「先輩は、僕のこと、最初から『人形』だなんて思っていませんでしたよね?」
初対面のときのことか。
「たしかに、落ちつきすぎゃないかとは言ったけど……それだけで?」
「僕にとっては、大きなことでしたよ。多くの人間は、噂どおり、人形みたいに淡白そうな性格だと思いこんで、それ以上は知ろうとしませんから」
隣に座っていた朝倉が、急に身体ごと近づけてきたから、心臓がドキッとした。
「ねえ、青柳先輩。先輩は、僕のことありですか?」
指通りのよさそうな髪からシャンプーの甘い香りがただよってきて、どんどん息が浅くなる。
ドキドキしすぎて言葉につまってしまったら、朝倉はうれしそうに口角をあげた。
「ふふっ。意識してくれているんですか? 先輩、かわいいです」
「ほ、ほんとに、やめろっっ」
「本気で嫌がっているなら、もうしません。でも、それなら、先輩が少女漫画を読んでいたのはどうして?」
「……そ、れは」
「なんだかいじめているみたいになって、ごめんなさい。……でも、先輩って僕のタイプなんです」
なんとかモゴモゴと返事をしたけど、自分でなにを言っているのかもわからなくなった。
まるで、朝倉の言葉は甘い毒のようだ。
心をチョコレートみたいにドロドロに溶かして、別のなにかに変えてしまうような毒。
本気で信じたら最後、戻れなくなりそうで怖い。
このさき、こんなに危険な後輩と、この狭いカウンターの中に二人きりでいつづけられるのか……?
今日は、読みかけの少女マンガ以上に、隣の朝倉の存在を意識してしまった。
✳︎✳︎✳︎
やばい。
なにがやばいって、問題集の文が、何度読んでもぜんっぜん頭に入って来ない。目が滑る。
昨日、寝不足だったせいか?
今日は、一週間ぶりの図書委員。
つまり、朝倉と一週間ぶりに、あの狭いカウンター内に二人きりなわけで……。
「先輩?」
「ひっ!?」
「毎回お化けでも見たかのようなその反応、ひどくないですか?」
朝倉はすねているような口調とはうらはらに、くすくすと笑っている。
でも、すぐに、あれ……? といぶかしむように目を細めた。
「ん……? 先輩、なんかちょっと眠そうじゃないですか?」
「えっ。あー……ちょっと、寝不足なのかも」
寝不足なのは、お前のせいだよ。
なんか、やたらとオレのことを勘違いさせるような台詞を言ってくるし。でも、オレの少女マンガ趣味を他人に言いふらしたりはしていなさそうなんだよな。もし朝倉が言いふらしていたら、確実になんかしらの影響はありそうだし……。
お前、ほんとになに考えてんの?
そうぶちまけてしまいたい気持ちを、ぐっとこらえる。
「寝不足? なんか、顔が赤いような気もしますけど……」
「えっ!? そ、そんなわけっ」
は!?
オレが、お前にドキドキしてるって言いたいの? そんなわけねーだろ!!
と、脳内が一段とさわがしくなった、その瞬間。
朝倉のきれいな顔が急に間近に迫って。思わず、目をぎゅっとつむった。
「いや、気のせいじゃないです。熱いです。たぶん、熱がありますよ」
額のあたりに、ひんやりとした心地よい感触がする。
恐る恐る目をあけたら、朝倉が、オレの額に手を載せていた。
うわぁ。距離、近……。やばい。また、心臓がどくどくと主張しはじめる。
「先輩、聞いてますか? 体調悪いんじゃないですか?」
「え? あ、いや。たしかに、寝起きからちょっとだるかったけど、熱はなかったし平気かなって」
「ってことは、今朝から自覚あったんですよね? 休めばよかったのに……」
「でも……。今日は、図書委員があるし」
「はあ? そんなの僕一人でもどうにかなります。体調優先に決まってるでしょ」
「んー……。でも、オレが体調悪いなんて言ったら、ダメなんだよ……」
あー、でも……。やっぱり調子は悪いかも。
そう自覚した瞬間に、ずきりと頭が痛んだ。
「ダメって、どうしてですか。人間なんだから、誰でも体調が悪いときくらいありますよ」
「そんなの、わかってるよ……」
なんで、朝倉に、そんなに心配されなきゃいけないわけ?
それだけ、オレが病人っぽく見えてるってこと?
ダメだ。なんか、うまく思考がまとまんない。
「……ごめん。やっぱ、今日はほんとにダメな日かも」
ふらふらとしてきた身体を支えきれず、目の前の朝倉に寄りかかってしまった。
あー……。なんでオレ、こいつの前だと、みっともないとこばっかり見られてんの?
「先輩。保健室にいきましょ」
逆らう気力は、もうすでになかった。
「相当しんどそうです。僕に身体をあずけて大丈夫ですよ」
朝倉の肩に腕をまわしながら、フラフラと立ち上がる。
こんなときだっていうのに、彼の温もりを意識してしまって、そんな自分が嫌になる。
ほぼ連行のような形で、強制的に保健室まで連れていかれてしまう。
朝倉のノックに、返事が返ってこない。
「誰もいなさそうですね。保健の先生、どこかに行ってるのかな」
彼は、無人の保健室に遠慮なく立ち入ると、迷うことなくオレを白いベッドの上に座らせた。薬品の独特な匂いが鼻をくすぐってくる。
「座るだけじゃなくて、寝ていてください。体温計や氷枕がないか、探してみますから」
ベッドに横たわりながら、情けない声が漏れ出た。
「……迷惑かけて、ごめん。ちゃんとできなくて、ごめん……」
「先輩?」
熱のせいか、脳みそがとろけたようになって、今が夢なのか現実なのかもあいまいだ。
意識と無意識の境界線が、薄くなる。
あー……。情けない、しっかりしなきゃなのにな。
ごめん、母さん。
オレがこんな風にへばってたら、会社、行きづらくなっちゃうのに……。
「……心配、かけたくなかったのに」
「どうして?」
問いかけてくる声が、なんだか泣きそうなほどやさしくて。
普段、お腹の底に沈めている本音が、泡のように浮かびあがって口から飛び出る。
「オレが、ちゃんとしてないと……母さん、会社で頑張れないでしょ……。料理も、作って待ってたいし」
そう。
こんな泣き言は、言ってられないんだ。
「料理……? 先輩が毎日、作っているんですか?」
夢の中の母さんらしき誰かが、なぜか動揺している。
「いまさら、なにいってんの……? いつも、そーじゃん。ねー……。今日は、なにがいい?」
すこしの沈黙のあと。
母さんの声色が低くなった。
「……なるほど。先輩は、理由もなく頑張ってたわけじゃなくて、甘えてられない環境にいるひとだったんですね」
あれ……?
オレ……いま、だれと話してるんだっけ?
「ねえ、どうしよう。いま、やばいくらい、先輩を甘やかしたいんですけど」
うとうとしかけている頭でも、その色っぽい声は、妙にオレの心臓を騒がせた。
「先輩。先輩を甘やかしてもいいですか?」
気がつけば、美しい顔がものすごく間近に迫っていた。
鼻先が触れそうなほどの距離に、否が応でも心拍数を上げさせられる。
えっ!
待て待て待て待て。
やっべ。今までの全部、母さんじゃなくて、朝倉に向かって話してた?
それは、かんっっっぜんにやらかしてる!
「あ……。いや、その……」
「僕……、いや、俺って、頑張っている健気なひとがタイプなんです。さらに言うなら、実は甘やかされたい願望があるけど、内気な心が邪魔をしてそれを言えずにいるようならもっと最高」
ダメだ。
そのさきの言葉を聞いちゃいけない。
そう思うのに、熱のせいなのか、頭がぼうっとして囚われたように見入ってしまう。
少女漫画のヒーローのように整ったその顔に。
「先輩、俺に落ちてきてください。先輩が望むなら、いくらでも甘やかします」
「……ほんと?」
朝倉が、幼子を相手にするように、オレの手のひらをやさしく握ってくる。
あったかい。これ、安心するなぁ。ずっと、こんな風に、誰かに甘やかされたかったような気がする。
「きもちいい……」
あまりの心地よさに目を細めたら、なぜか、朝倉は白い頬を赤く染めた。
「もお……。そんな無防備なところ、俺以外に見せちゃダメですよ」
次に目覚めたときには、あらゆることを死ぬほど後悔する気がする。
そんな予感はあったけど、それでも朝倉に手を握っていてほしかった。
その手から伝わる熱が、あまりにも欲していた温度だったから。
✳︎✳︎✳︎
「ん……」
白いカーテンから漏れる、橙色のやさしい光。
まどろんでいた意識がすこしずつクリアになって、見慣れない薄クリーム色の天井が目に入った瞬間、バッと身を起こした。
あれ。オレ、なんでこんなところで寝てるんだ……?
「優等生くん、起きた?」
「えっ!」
振り向けば、白衣をまとった保健の先生がオレを見ていた。
「調子悪そうだったから、起こさないでいたのよ。体調はどう?」
「あ、はい……」
うわ、完全にやらかした……!
慌てるな。落ちついて、記憶をさかのぼれ。
今日は、図書委員の日だったから、図書室に向かった。カウンターで受付をしながら宿題をしていたんだけど、途中で体調が悪いことを朝倉から指摘されて、それから……。
『先輩。先輩を甘やかしてもいいですか?』
脳髄をとろかすような甘い声まで思い出してしまったのが、運の尽き。
「ごほっごほっ」
「大丈夫!?」
だ、だめだ。あれは思い出しちゃいけないやつ!
とりあえず……、オレがあいつに図書委員のシフトを任せっぱなしにしてしまったことにはかわりない。
顔はあわせづらいけど、お礼にはいかないと。体調悪そうなことに気がついて、保健室まで連れてきてくれたのも、朝倉なんだし……。
「たぶん、そろそろ朝倉くんが迎えにきてくれると思うんだけど」
「えっ……?」
「図書室をしめる時間になったら、ここにまた来るって言ってたわ。ねえ。あなたと朝倉くんって、もしかして素敵な関係なの?」
っ!!??
「先生なのに、野暮なことを聞いてごめんなさいね。誰にも言いふらしたりはしないから」
「んなっ、べ、べつにっ、あいつとは、なんにもっ! ただの、後輩で……っ!!」
「あら、そうなの? でも、寝ているあなたを見つめる朝倉くんの表情、とてもやさしかったわ。朝倉くんって本物のお人形みたいに澄ました子だと思っていたけど、あんな顔もするのね」
「……それって、どんな顔ですか?」
つい尋ねてしまったことを早速後悔しはじめたら、先生はそんなオレをからかうようにニコッとした。
「愛おしそうな顔?」
「ごほっごほっ」
オレが咳き込んだのと同時に、保健室の扉が勢いよくバンッと開かれた。
「先輩!? まだ調子悪いんですか?」
「あら。愛しの朝倉くんのお迎えじゃないの」
「先生さっきからなに言ってんですか!?」
「冗談よ、冗談。そんなに取り乱してたら、それこそ本気っぽいけど?」
くすくすとオレにだけ聞こえる程度の声量で言ってくる先生が憎たらしい。恥ずかしすぎて穴に埋まりたい。
「体調はもう大丈夫なんですか?」
「うん。さっきより、だいぶ気分が落ち着いた」
「それはよかった」
本当に安堵したかのように微笑まれて、なんだか胸がむずがゆくなる。
とりあえず、お礼は言わなきゃ。
「その……、保健室まで連れてきてくれて、ありがと」
なんとなくそっぽを向いて言ったら、先生が横槍をいれてきた。
「あ〜〜〜。ねえ、きみたち、先生もこの場にいることを忘れてない?」
「えっ?」
「先生には付き合う直前の二人がラブコメしているようにしか見えないのだけど」
「っっ〜〜!」
突然の教師らしからぬ爆弾発言に動転したオレとは対照的に、朝倉はなぜか落ちついている。どことなくうれしそうな気さえするのはなぜだ。なぜなんだ。
「先生。先輩は、僕が家までお見送りしますから、安心してください」
「は? そこまでしてもらわなくても、大丈夫だって」
「さっきまで倒れてたんだから、おとなしく朝倉くんに付き添ってもらいなさい」
「うっ……。はい、わかりました」
「よろしい」
先生、いい笑顔だなぁ。さっきからニヤニヤしてるし、この状況を楽しんでるような気がしてならない。
結局、朝倉は宣言通り、電車にまで揺られてオレのうちの前までついてきた。
そこまでしなくても大丈夫だって言ってるのに、『先輩は、ひとに素直に甘えられないひとっぽいので』の一点張りだ。
「ふーん。先輩は、このマンションに住んでるんですね~。つまりこれからは、朝から先輩を待ち伏せもし放題だ」
「絶対にやめろ、ストーカー」
「やだなぁ、冗談ですよ」
夕陽を浴びながら笑う朝倉は、素で笑っているという感じがして。
作り物じゃないと感じられる自然体の笑顔は、これまた破壊力が高いんだ。
なんかさ、具合が悪くなった末にうちまで見送ってもらうなんて、少女漫画のワンシーンっぽくね?
朝倉って、ほんとに少女漫画に出てくるヒーローっぽいんだよな。
ほんとに同じ男子かよってくらい美しい顔立ちで、胸がドキドキするようなからかい方をよくしてきて、本音ではなに考えてんのかよくわかんないその感じ。
どういうつもりなんだ?
それ全部、もしかして本音?
オレのこと、本気でそういう相手として……。
「朝倉くん……?」
知らない女子が、朝倉に話しかけてきた瞬間、頭から冷や水を浴びせかけられたようだった。
見覚えのない制服だけど、たぶん同年代くらい。薄く化粧をしていて、見るからに陽キャな感じの女子。
「やっぱりそうだー! 久しぶり!! やだー、相変わらずかっこよすぎなんだけどっ」
彼女から漂うふんわりと甘い匂いが鼻につく。
女子の視線と意識は、完全に、朝倉だけに向けられていて。
瞬時に、オレは蚊帳の外だ。
透明人間になったら、きっとこんな感じだろう。
「ねえ。バスケ、もう完全にやめちゃったの? てか、なんでやめちゃったの~? めちゃくちゃかっこよかったのに、もったいないなぁって思ってたんだよね」
「……えっと。今は、先輩と話していたんですが」
「誰……?」
朝倉の発言を受けて、彼女の意識が、初めてオレに向けられる。
「まじめそー。朝倉くん、高校では、こういうタイプのひととつるんでるの?」
彼女にとっては、ささいな一言だったんだろう。
でも、その言葉は、紛れもなくオレの心臓を切り裂いた。
とたんに、ついさきほどまで、朝倉に少女漫画のヒーローを重ねていた自分がとてつもなく恥ずかしくなった。
なにお花畑もいいところのバカげきったことを考えてるんだよ、オレは。
ガリ勉なら、それらしくちゃんと頭使えって。
最初からわかりきっていたじゃないか。
大前提として、オレと朝倉が、つりあうわけがないってこと。
つりあわないどころか、仲良くしていたら恥ずかしい思いをさせるレベルってことだよ。
この女子の反応を見れば、一目瞭然だ。
「……朝倉、オレは、もう大丈夫だから。ありがと」
「先輩、まってっ!」
朝倉の制止を待たずに、急いでうちの中に逃げ帰った。
あいつは、オレと一緒にいすぎないほうがいい。
そう教えてくれたあの女子に、感謝すべきくらいだ。
胸が苦しくて、気を抜いたら涙が出そうだなんて思ってることも、全部全部、気のせいにしてしまえ。
✳︎✳︎✳︎
朝倉と徹底的に距離を取りはじめて、二週間が経った。
どうやったかというと、図書委員のシフトで朝倉とかぶっている日を全て他の誰かに代わってもらった。それ自体は至極簡単だ。麗しの『人形王子』とシフトを共にできることは、大抵の女子にとってご褒美イベントなんだから。
唯一の懸念は、あいつがオレの家の前まで押しかけてくるんじゃないかということだったけど、杞憂だったようだ。
それもそのはず。
あいつにとっては、オレなんて、ちょっとからかうと面白い存在。
その程度だったんだろうから。
「……オレなんかのこと、本気で好きなわけないじゃん」
一人きりの図書室に、情けない独り言が落ちる。
朝倉以外の誰かとシフトを組むと、すっぽかされることが多い。
どうせ、あの『ガリ勉メガネ』がうまいことやっといてくれるから。
みんなからそういう存在だと思われていることを、最悪な形で痛感する羽目になった。
オレの都合で代わってもらったんだし、一人でも回る程度の仕事だから、オレが頑張ればいいんだけどさ。
施錠前の、図書室の点検作業を一人でしながら、なんだかやけに虚しくなってきた。
「……好きだったなぁ」
朝倉と過ごす時間が。
からかわれてドキドキするのも、今思えば、嫌じゃなかった。
朝倉のことが、好きだ。多分これは、後輩としてとかじゃない。もっと特別な意味合いで。
自分からぜんぶ手放しておいて、なに女々しいこと考えてんだよって感じだけど。
ほんと。
あいつとの記憶は、きれいさっぱり忘れ去ったほうが、精神に良い。
「先輩。さっきの発言は、どういう意味ですか?」
っ……!?
え、なに。あいつの声がするんだけど。
幻聴にしてはやけにリアルなその声に、恐る恐る振り向けば、
「聞き捨てなりません。先輩、さっき好きって言ってましたよね?」
「な、なななな、なんの話っ!?」
朝倉が、前々からそこに立っていたかのような自然なそぶりで、目の前にいた。図書室の本棚の前に立っている。
部屋に入ってきてたこと、全然気づかなかった……!
二週間ぶりに見ても、漫画の中から抜け出てきた、学園の王子さまって感じの見てくれだ。
ほんと、いつ見ても、嫌になるくらいかっこいいんだよ。
「先輩、僕のこと、避けてましたよね?」
一歩、オレに向かって、距離をつめられて。
後ずさろうとしたけど、背後の棚に背中がぶつかってしまう。
「ち、違う。たまたま、シフトの日が用事と重なってて、代わってもらっただけで……」
「見え見えの嘘、つかないでください。そう何日も偶然が続くとは思えません」
「……ごめん」
どっちが後輩だよってくらい、あっけなく論破されてしまう。
顔が整っているだけに、真顔に迫力がある。
ひとに本音を言うのって、身体が震えそうなほど怖いんだな。
怖い、けど。
こうなった以上、誤魔化すことはできない。
「……なんかさ、あんまり朝倉と一緒にいないほうがいいんじゃないかって、急に思ったんだよ」
「どうしてですか?」
「わかるだろ。オレは、見てのとおり、ただの地味メガネだから」
「だから……、なんだっていうんですか?」
イラつきが混じったようなその声に、朝倉の表情を見ていられなくなって、視線を床に落とした。
「オレと一緒にいすぎたら、そのうち、朝倉がヘンに思われる。オレはいいけど、お前が悪く言われるのは嫌なんだ!」
自分で発した言葉が棘となって、自分の胸をぷすりと突き刺した。
嫌だな。こんなみっともないこと、面と向かって言いたくなかった。
情けなくなって目をつむったら、次の瞬間、身体があたたかい何かに包まれていた。
へ……?
「そっかぁ……。先輩が離れたのは、俺のためだったんですね」
朝倉に、抱きしめられてる。
そう理解した瞬間、顔が火をふきそうなほど一気に熱くなった。
な、なななななっ、なななななっ!?
「ヘンに悪目立ちする俺のことがウザくなって、距離を置いたわけじゃなかったんだ」
朝倉は、オレが自分のことを嫌いになったと思っていた……?
驚きすぎて固まることしかできずにいたら、朝倉は、ぎゅうっとオレを抱きしめる腕に力をこめてきた。柑橘系の爽やかな匂いが鼻先にふわりと香る。ドキドキしすぎて、息苦しい。
「やっぱり、俺、先輩のことが好きです」
「なぁ、さっきオレが言ったこと聞いてた!?」
「先輩の第一印象は、学年主席でした」
「は?」
戸惑うオレを無視して、朝倉は楽しそうに続ける。
「高校に入学してすぐに、廊下で張り紙に出されているのを見かけたんですよ。ある程度の学力を持った生徒が集まる高校で主席をとったひと。きっと、すごい努力家なんだろうなと思いました」
「もしかして……、オレのこと前から知ってたの?」
「はい。気になったので、どんなひとか探ったら、図書委員に属しているらしい情報を得ました。図書委員会を志望したのも、先輩に会えると思ったからです」
「なんで、そこまで……!」
「シンプルに、二年の学年主席はどんなひとなのか気になったからです。それに、図書委員会に所属すれば、悪目立ちする懸念もそれほどないと思ったから」
悪目立ち、という言葉に、朝倉の背負っている陰が見え隠れした。
なんだか複雑な気分になっていたら、朝倉はそんなオレの顔を見つめて、口角をあげた。
「まさか、学年主席の先輩が、勉強しているように見せかけて実は少女漫画を読んでいたことまでは知りませんでしたけどね。……あれは、反則です。かわいすぎますもん」
「お前のツボ、よくわかんなすぎ」
「ふふっ。顔、真っ赤ですよ? 照れ隠しにツンケンするのに、わかりやすい反応をするところも好きです」
散々なことを言われているのに、ニコニコとうれしそうにされるだけで、胸が高鳴ってしまう。
ダメだ。本気でこいつに脳みそを溶かされかけているかもしれない。
「俺ね、こう見えて、好きなひとにはめちゃくちゃ重たいタイプなんですよ」
「こう見えてっていうか……、ちょっと想像つくわ」
「あれ、そうですか? じゃあ、過去の話をしても引かないでくださいね」
過去と聞いて、瞬時に、先日の朝倉の知り合いらしき女子の言葉が耳に蘇る。
『ねえ。バスケ、もう完全にやめちゃったの? てか、なんでやめちゃったの~? めちゃくちゃかっこよかったのに、もったいないなぁって思ってたんだよね』
体育館で、華麗にシュートを決める朝倉は、さぞかっこよかっただろう。図書室で一緒に過ごしただけでも、運動神経の良さは充分に伝わってきていたし。
でも……、朝倉は、高校で部活に入る気はなかったと言っていた。
「それってバスケの話……?」
「そうです。バスケはね、元々は、気になる男に近づきたくて始めたんですよ」
「不純な理由じゃん」
「さっき言ったでしょ? 俺、重いんですよ。気になるひとの好きなものを、自分も好きになりたい。一緒に楽しめるようになりたいって気持ちが強かったんです」
動機はともかく、バスケ自体もちゃんと好きになって、結構まじめにやっていたのだという。
どうせやるなら、適当にやるよりも、本気で打ち込んだ方が楽しいから。
朝倉の努力は功を奏して、試合でも活躍できるようになっていったみたいだ。
話を聞いているうちに、ふと考えた。
朝倉が、頑張るひとに惹かれるのは、自分自身がそれ以上にストイックだからなんじゃないかって。
「俺が頑張れば頑張るほど、試合に、女子の観客と黄色い歓声が増えていった。でも、俺にとっては、好きなひととバスケを一緒にできることが全てだったから、さほど気にしていなかった。それが、仇となったんです」
「仇って……」
「ある日、好きなひとから、苦い顔でこう言われました。『お前がバスケ部に来てから、試合に来てる全員、お前のプレイしか見なくなった。お前のせいで、バスケ部がおかしくなってる』って」
そんな……!
仮にも、気になっていたひとから、そんな言葉のナイフをかざされた朝倉はどれほど心を痛めただろうか。
心臓をめった刺しにされたように苦しかっただろう。
「……俺、他のやつらにどんなに陰口を叩かれても、平気だったんです。彼だけは、俺がバスケ部に来たことを喜んでくれてるって信じてたから。……でも、とんだ勘違いだったんです。俺は、ただ目障りなだけの存在だった。なんだか全部バカらしくなって、バスケ部を辞めたんです」
淡々と語るその様子が、逆に、痛々しくて。
「俺の好きは、重い。好きになったひとを、傷つけるかもしれないくらいに」
すこし震えている身体から、深い悲しみが、直接心になだれこんでくるみたいだ。
できることなら、当時、ボロボロに傷つけられて深く落ちこんでいたはずの朝倉に伝えてあげたい。
きみは悪くない。
なんにも悪くなかったよって。
「もしかして、朝倉が『人形王子』になったのは……、ひとを好きにならないようにするため?」
深入りする前に壁を張る。そうすれば、二度と同じように傷つけられることはないから。
「そのとおり。でもね……、先輩のこと、好きになっちゃいました」
熱を帯びた瞳が、オレだけを見つめてる。
「先輩は最初から、俺が人形を演じてることに違和感を抱いてた。それだけじゃない。勉強も、うちのことも、ものすごく頑張り屋さんで。甘え下手だけど、少女漫画に憧れてる。そんな先輩のことが、好きなんです」
さすがに、これは認めざるをえない。
これは、紛れもない本心から放たれている言葉だって。
「ねえ、先輩。先輩は、俺の重さを受け止めてくれますか? それとも……、迷惑?」
声が震えていて、余裕の欠片もない。
また傷つけられることを恐れている目の前の朝倉のことが、とたんに、愛おしくて仕方なくなった。
このハレツしそうな気持ちを、言葉ではどうやってもうまく伝えられない気がしない。
だから、こうする。
「迷惑じゃない。むしろ……、オレは、ずっと、朝倉に甘やかされてみたかった」
少女漫画のヒーローのそのものみたいなお前から。
この想いが伝わるように、そのさくらんぼの唇にそっと触れてみた。
自分の唇で。
本当に軽く触れるだけの、羽根のようなキス。
オレにとってはもちろん初めてのチューだったけど……、朝倉も、こっちがビックリするほど顔を赤くしていた。
「……不意打ち、ズルいです。あと、先輩、俺のファーストキスを許可なく奪いましたね」
「えっ。朝倉も初めてだったの?」
「なに驚いてるんですか、そーですよ。でも……、死ぬほどうれしかった。先輩のそれ、付き合おうって意味以外にありえないですもんね?」
それから先のことは、ドキドキしすぎてあまりよく覚えていない。
二人して時間という概念がすっかり抜けていて、完全下校時刻を過ぎてしまった。
***
この日以降、図書委員のシフトは元通りとなり、朝倉と二人きりの時間が戻ってきた。
正確には、図書委員以外の時間も、朝倉は隙あらばオレと一緒に過ごそうとする。
たとえば、お昼休みの時間も。
朝倉が前々から一人でお昼ご飯を食べたいときによく使っていたという、屋上前の階段の踊り場で一緒に昼飯を食べている。
「朔先輩、それちょーだい」
「ちょ、許可してないのに勝手に取っていくなって!」
「ん~~っ! 先輩お手製の卵焼き、めちゃうま。先輩は、最高の結婚相手になりそうです」
「け、結婚……」
悠里が自然と口にする言葉は、大体、火力が高い。
オレの作った弁当のおかずを、最高の笑顔で『美味しい』って食べてくれるのも、ドキドキする。
意識しない方が難しくて黙ってしまったら、悠里はニヤリときれいな唇の端をつりあげた。
「ふふっ。俺と結婚してる未来を想像して赤くなったの?」
今までのオレだったら、反射ですぐに、「からかうな!」って言ってただろう。
でも……。
悠里はオレのことを本気で好きなんだって、今はちゃんとわかってるから。
悠里が好きな相手を――自分を、必要以上に卑下するのはやめようって、今は思ってる。
「……うん、ちょっと想像した。悠里は、きっとたくさん甘やかしてくれるんだろうなって」
素直な気持ちを告げれば、悠里は意外そうに、瞳をまたたいた。
それから、とびきり甘い笑顔を浮かべた。
「そうだよ。先輩が、望むならいくらでも」
悠里と付き合うようになってから、少女漫画はあまり読まなくなった。
理由は単純で、少女漫画では、物足りなくなってしまったから。
現実世界で、悠里に甘やかされる方がずっとドキドキするし、なによりも満たされる。
……本人に言ったらものすごく調子に乗りそうだから、これはオレだけのひみつだけど。
【完】



