泣いていたのは、きみの影。


 翌朝。
 教室までの廊下が、いつもより少しざわついていた。
 窓から差し込む光は淡い白で、夜の濃紺色はすっかり消えている。
 教室に入ろうとした瞬間、うしろから同級生たちの声が聞こえた。

「ねえ、志乃原って今日まだ来てない?」
「見てないけど、何? どうかした?」
「なんか昨日の帰り、駅のほうで倒れそうになってたって話……」

 ──え?
 俺は無意識に振り向いていた。
 人違いかもしれない。だけど、昨日の志乃原を……正しくは志乃原の影を思い出すと、彼女で間違いないのではと感じた。

「あ、やべ」

 噂していた男子生徒のひとりが奥を見る。
 向こうから歩いてきたのは、 志乃原だった。
 今の会話が聞こえてないわけじゃないだろうに、涼しい顔をして。
 廊下の窓から差し込む朝の光の中、少し眠そうで、少し疲れていそうな、『いつもの志乃原』だった。
 だけど──
 俺は見てしまった。
 彼女の足元に落ちた影がわずかに遅れ、まるで肩をすくめるかのように揺れたのを。
 影はやはり、昨日と同じく志乃原とは別に息づいているように見えた。

「……上野くん。おはよう」

 視線が合った彼女は小さく微笑む。
 だけど影は縮んでいる。怯えているように、小さくなって。

「あ……おはよう。大丈夫?」

 しまった、とは少し思ったけど、今の今噂されていたことは彼女自身がわかってるだろう。
 昨日話したこともあり、心配の声をかけても不自然さはないはずだ。
 志乃原は少しだけ意外そうに目を丸くしたあと、もう一度微笑んで「大丈夫」と笑う。
 すると、影がぴたりと止まった。おかしなくらい。硬直といってもいいほどに。
 そうか。
 志乃原の「大丈夫」は、ちっとも大丈夫じゃない。
 影は、嘘をつけない。
 昨日の志乃原との会話を思い出して、改めて確信を抱いた。

「上野くん、今日も美術室、行ってもいい?」

 志乃原は小さく、俺だけが聞こえるくらいの声で言う。

「もちろん」
「よかった。……じゃ、放課後に」

 そうして、隣の教室に入って行った。
 まわりの視線が気にならなかったといえば嘘になるけど、俺たちはみんなが期待するような感じじゃない。
 だって、志乃原はきっとずっと嘘をついていて、俺はそれに気が付いただけ。
 しかもきっかけは「影」なんて、他の人に言っても絶対信じてもらえないだろう。
 それでも、志乃原に一体何が起きているのか、俺はもう知らないままじゃいられなくなっている。
 気づいたからには放っておけない。ただそれだけの理由で。
 そしてこれが『すべてのはじまり』だということを、この時の俺はまだ知るよしもなかった。