あっという間に放課後だ。
 俺はどきどきする胸を落ち着かせようと、水筒のお茶をひとくち飲んだ。
「あのー、清水君……」
「ん?」
 俺は視線を上げる。
 目の前には、クラスの女子が四人居た。その中で、一番派手目な子が俺に言う。
「清水君って、航君と仲が良いの?」
「え? なんで?」
「なんでって……」
 モジモジとその子が言う。
「授業の前と昼休みに、一緒に居たじゃないの……」
「ああ……」
 なんとなく、俺は察した。
 この子は、きっと航と親しくなりたいんだな。そうでもなきゃ、俺なんかに声を掛けたりしないもんな……。
「仲は、良かったよ」
 俺は水筒をカバンにしまいながら言う。
「けど、最近は学年も違うし、あんまり喋ってない」
「えぇーっ! そうなんだ……」
「だから、俺は航との間には入れないと思うよ?」
「えっ。や、やだぁ! そんな下心は無いってばぁ!」
 バシバシとその子は俺の肩を叩く。香水だろうか、甘ったるい香りが俺にまとわりつく。不快だ。
「それじゃ、バイバイ」
 俺は通学カバンを肩に掛けて教室を出た。
 航は……校門で待ってるって言ってたよな。俺は駆け足でそこに向かう。一緒に帰るのって、いつぶりだろう……。
 どきどき、どきどき。
 何故だか緊張してきた。俺は深呼吸をする。何を意識しているんだ。ただの「幼馴染」と一緒に帰るだけだろ! しっかりしろ自分!
 そんなことを考えて足を動かしていると、校門にたどり着いた。そこに、ひときわ目立つ存在が居た。航だ。航は、スマートフォンをいじることもせずに、ピンとした姿勢で前を向いている。
「……航」
 俺の声に、航がゆっくりと振り返る。
「……先輩」
 センパイ。
 なんだろう。
 どうして、モヤモヤするんだろう。
 その理由が分からないまま、取りあえず俺たちは家の方向に向かって歩き出した。
「……」
「……」
 お互いに、無言のまま。
 気まずい空気が流れる。
 さて、ここは「先輩」として俺がどうにかしないと……と思っていたら、この空気を打破してくれたのは航だった。
「……相談って、何、ですか?」
「あ……」
 相談なんて、無い。
 あの時は咄嗟に航と話がしたくて「相談」って言葉が口から出たのだ。
 言ったからには、何か相談しないと……。
 俺は必死に「相談」の内容を探した。
「えっと……今度の小テストの対策とか?」
 俺の言葉に、航はぷっと吹き出した。
「……それ、オレじゃどうにもならないじゃん」
「え?」
「学年、違うし。そっちの方がいっこ上なんだし」
「あ、そうか……」
「くくっ……!」
 あ、航だ。
 これが、俺の知っている航。
 クール王子なんかじゃない。すぐに笑顔を見せてくれる、優しい笑顔の航だ。
 俺は、ずっと思っていたことを口にした。
「あのさ、航……お前、なんで変わってしまったんだ?」
「え?」
 航は目を丸くする。それから、どこか気まずそうに言った。
「別に、変わってない、です」
「ほら、それ!」
 俺はビシッと指を立てる。
「前は、敬語なんて使わなかったじゃん!」「それは……」
 航は自分の髪に触れながら言う。
「……高校って、先輩と後輩の立場が厳しいから……縦社会みたいな」
「そんなの、気にしなくて良い!」
 俺は力強く言った。
「俺たち、幼馴染で友達で、ずっと仲良かったじゃんか! それなのに、航は高校に入学してから態度変えちゃうし……そんなのは、寂しいよ……」
「っ……そんな、寂しがらせるつもりは無くて……」
 困ったように航は眉を下げる。
「……今までが、近すぎたんだよ」
「近すぎた?」
「……そう」
 航が立ち止まったので、俺も足を止めた。
「それって、どういう意味?」
「……そのままの意味」
 航は、なんだか泣き出しそうな表情で俺に言う。
「オレは、先輩のこと、ずっと幼馴染とか友達とか、それ以上の存在だって思ってる」
「え……?」
 それって……。
 黙った俺に、航が目を逸らしながら言う。
「……引いた、でしょ?」
「航、お前……」
 俺は息を呑む。
「それって、兄さんみたいに思ってるってことか……?」
 俺の言葉を聞いた航は、ポカンと口を開けたまましばらく動かなくなった。
 そして——。
「鈍っ! 馬鹿な洋平!」
 ああ、久しぶりに「洋平」って呼ばれたな……。けど、俺は馬鹿ではないぞ! 賢くもないけど!
「馬鹿って言うな!」
「馬鹿だもん! ああ、もう……洋平が卒業するまで我慢しようと思っていたのに……」
 航は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
 俺は「大丈夫か?」と航の顔を覗き込む。その顔は、ほんのりと赤かった。
「航?」
「……兄さんだなんて、思ってるわけないじゃん!」
 キッと航は俺を睨み付ける。
「幼馴染以上、友達以上! その意味分からないわけ?」
「え、分からん……」
 俺が正直にそういうと、航はがっくしと項垂れた。
 そして、小さい、とても小さい声で俺に言った。
「……好きだって言ってんの」
「……へっ? す、好き!?」
 思いがけない告白に、俺は驚いて航の肩を掴んだ。
「航、俺のことが好きなん!?」
「だから、そう言ってるじゃん!」
 航は「あーあ」と自分の頭を押さえる。
「……受験の邪魔しちゃいけないと思ってたから、時期が来るまで告らないって決めてたのに……台無しだよ」
「な……じゃ、じゃあ、そっけなかったのは、その作戦のため?」
「そうだよ!」
「なんで!? 話すくらい別に……」
「……だって」
 航は、すっと目を細めて俺の顎に指で触れる。
「……我慢、出来なくなっちゃうもん」
「我慢……」
「オレは、洋平と恋人がするような、いろんなことをしたいんだよ?」
 ……こんな至近距離で、こんなことを言われてしまったら、もうどうにかなってしまいそうだ。
 ちょっと前まで、中学生だった奴が使うセリフとは思えない。
「ねぇ、洋平」
 首を傾げながら、航が俺に言う。
「洋平は、オレのことどう思ってる?」
「ど、どうって……」
「嫌い?」
「いや、嫌いじゃない」
「じゃあ、好き?」
「す……」
 頭がくらくらする。
 こんな、甘えた声でそんなことを言うなんて!
 みんな、お前のこと「クール王子」って呼んでるんだぞ!
 クール王子はこんなこと言わないだろ!?
 ……知らんけど。
 そう、知らない。
 こんな航、知らない。
 俺の知らない間に、航はとっても大人になっていたようだ……。
「ねぇ、洋平……」
「す、好きっていうか……俺のどこが良いの? 俺みたいなどこにでも居るような人間の……」
「全部」
 航が即答する。
「全部、ずっと好きだった」
「そ、そう……」
「洋平、急がないから……オレのこと、好きになって? 今までの関係以上の好きになって欲しい」
「……うっ」
 そんな、チワワみたいなうるうるした目で見つめるなんて反則だ!
 俺は……航との「普通」の会話に心地良さを感じていた。「先輩」じゃない「洋平」の呼び方。それが、心に溶けるようで気持ち良い。
 もし、航と、その……恋人になったら、どうなってしまうんだろう。
 もっと、柔らかな航に包まれるんだろうか……?
「……お友達から、始めましょう」
 考えに考えた俺の言葉を聞いて、航はまたぷっと吹き出した。
「もう友達は、クリアしてる」
「ああ、まぁ、それは……」
「さて」
 航はすっと立ち上がった。
「帰ろう。洋平」
「あ……」
 航が俺に手を差し出してきたので、俺はそれを掴んで立ち上がる。その途端——。
「え?」
 するり。
 指と指が絡んで、恋人繋ぎ。
 待って!
 展開が早すぎる!
「航! 手を離しなさい!」
「照れなくても良いよ。昔は手を繋いで一緒に帰っていたじゃない」
「それって、いつの話……!」
 ぎゅう、と手を繋いだままで俺たちは歩き出した。
 恥ずかしい。
 けど、嫌じゃない……。
 航とまた近付けて、その喜びの方が大きかった。
「……あのさ、航」
「うん?」
 どこか嬉しそうな航に、俺は言った。
「……もう、先輩だなんて呼ぶなよ?」
「なんで?」
「だって……」
 俺は、きっと赤い頬を隠すように俯きながら言った。
「心の距離をめちゃくちゃ感じるから……」
 俺の言葉を聞いた航は、ふっと笑って言う。
「……分かった。もう先輩って呼ばない。何度でも、洋平って呼ぶ」
 そう言って微笑む航の顔は、とても穏やかで、格好良くて、それでもどこか可愛くて。
 ああ、航になら、全部を預けても良いかもしれないと思った。
「今度、デートしよ?」
 積極的な航の言葉。
 もう、俺たちの間に壁は無い。
 俺は、航の言葉の返事の代わりに、絡めた指に力を入れた。
 冬の寒さなんて吹き飛ばすくらい、熱い航の体温を感じながら、俺は今までの憂いが消え去ったことが嬉しくて、こっそりと頬を緩めるのだった。

(了)