社会人六年目。ブラック寄りな会社で社畜として働く俺――馬渕 学(まぶち まなぶ)はようやく、家に帰ってきた。
 
「ただいま…」

靴を脱ぐのも億劫に感じる。
扉を開けると、料理のいい匂いが漂っていた。
その匂いに釣られるように、リビングへと向かう。

「おかえりー」

鈴を転がしたような心地よい声。
台所には、寝癖をつけたまま、フライパンを振るう男の姿。
鹿嶋 樹(かしま いつき)
面のいいヒモである。
何度も追い出そうかと考えたこともある。
樹は俺に気づくと、ニコッと笑って近づき、そのままぎゅーと抱きしめてきた。

「⋯⋯寂しかった」

か細く、泣きそうな声だった。
目尻を赤くして、俺の頬に擦り寄ってきた。
手の置き所を迷っていた手をゆっくりと樹の背に回す。
――これだ。これがあるから、追い出せない。

「ごめん」

一言、そう言ってしまう。

「うん⋯あ、ご飯できたよ?座って!」

抱きしめるのをやめ、ニコニコという擬音が似合いそうな顔をした。
俺はネクタイを緩めながら、机に座る。
座った瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。

「今日はね、オムライス!卵巻くの失敗したのは俺のね」

トンッと皿を机の上に乗せる。
半熟の卵の上にケチャップが彩られている。
樹の方は俺のと比べると、卵にところどころ穴があいてて不格好だ。

「あとね、コンソメスープとサラダもあるよ!ドレッシングは俺特製ドレッシング!美味しいと思う!食べて食べて!!」

ニコニコと楽しそうに解説する樹をぼんやりと見てしまう。

――こんなに家事できるのに、ヒモなんだよなぁ

そんなことを考えながら、スプーンを握り、オムライスを口にする。

「美味い⋯」

そう呟き、黙々と食べる。

「わーい!良かった!俺、こんなことぐらいしかできないから褒められて嬉しい!!」

――嗚呼、やっぱり追い出せないな。

樹は、家事全般が得意な甘え上手なやつだ。
けど、壊滅的に社会人としてのスキルが足りない。
簡単な計算もできない、漢字の読み書きも怪しい、敬語は使えない――終わってる。

「ねぇ、今日は仕事どうだった?また上司にこき使われた?」

優しい声だ。思わず、すがってしまいたくなる。

「⋯うん。クソ上司に仕事押し付けられた。まじクソ」

「えー!ひどい!!まーくんはこんなに頑張ってるのに!」

――まーくん。
学だからまーくんね、と出会った時から呼ばれているあだ名だ。
子どものような呼び方で照れてしまう。

「俺ね、まーくんのことすごいと思ってる。毎朝同じ時間に起きて、会社行って、上司の理不尽に耐えながら仕事してるんだもん」

「いや、誰だって⋯そうだろ」

褒められて、ついドギマギしてしまう。

「だからね!俺が癒してあげる!ご飯食べたら、お風呂一緒に入ってー、まーくんの髪乾かしてー、寝る時はぎゅーって抱きしめて寝てあげるね!」

とろりと溶けるような甘い声だ。
――俺は、多分すごく疲れてたんだと思う。

「⋯⋯お願いする」

考え無しにそう言っていた。