それから二週間経って俺が向かったのは、市内の総合病院だった。
「尾上! 大丈夫か?」
病室の引き戸を開けるなりそう言った。
「先輩、こっちこっち」
仕切りのカーテン越しに、ささやき声が聞こえる。尾上だ。尾上の声だ。尾上はカーテンを開けて顔を出すと、恥ずかしそうに微笑んだ。
「尾上!」
マスクを外して尾上を呼んだ。よかった。無事だったんだ。
「すみませんけど」
ジャッと手前のカーテンを開けて、看護師が出てきた。名札には「師長」と書いてある。
「病院内はお静かにお願いします。あと、マスク」
「あ、すみません」
慌ててマスクを上に上げた。
「こんなご時世なので、マスクは絶対に外さないでください。後、ここは体育館じゃないのでお静かに。ここは病院なんです。じゃないとこっちも許可が出せませんのでね」
「すみません……」
愛想笑いをしながら片手で「ちょっと失礼」のポーズを取りゆっくりと看護師の前を通り過ぎる。
「ふふっ」
尾上がくすくす笑っていた。いつもの尾上だった。
「そこ、カーテン閉めて」
「おう」
尾上は元気そうだった。いやむしろ、ちょっと太ったんじゃないだろうか。
「そんな大事故じゃなかったんだけど、『大事を取って』ってお医者さんに言われて……」
「いや、俺も全然来れなくてごめんな。感染症対策で家族以外は面会禁止とかなんとかって病院の人がうるさくてさ」
勧められていないが、近くにあったパイプ椅子を引いて座る。
「ううん、全然」
そう言って尾上は笑った。治療中だからかいつものような元気はなく控えめで、なんだかいつもよりかわいく見えた。いつもの意地悪さというか生意気さがなくなっている。こいつ、そう言われれば肌は白いし目はまん丸だし、女の子みたいな見た目してるよな、なんてちょっと思ったりもした。いやいや、おかしいのかな俺。
「これ、持ってきたから。そこの売店で買ったやつだけど。雑誌と、あと、こんなん好きか?甘いのとか。好み分かんなくてさ」
自分の胸が高鳴るのをごまかすように、話を継ぎ足した。不自然だっただろうか。
「ううん、ありがと」
冷蔵庫を勝手に開けてどかどかとお見舞い品を入れる。冷蔵庫には、果物やゼリーが既に入っていた。
「おばあちゃん来たばっかだったかな。ごめんな」
「ううん、父さんがさっき来てくれて」
「父さん?」
「何かあった時だけ、ふらっと来てくれるの。優しいでしょ」
「ああ、そうだな……」
家のことについては詳しくは触れない。まだこいつのことで知らないことは、いっぱいあるから。
「体調は、どう? もう痛くないか?」
「うん、ギブスも取れたし、お医者さんも来週には退院できるって」
「そっか。よかった」
「部活の人たちはどう?」
「おう、みんな心配してたよ。今回、部代表として俺が病院に電話したら「お一人なら構いません」ってことで病院の許可出たんだけど、みんな行きたがってた」
「そっか。早く学校行きたいな」
「また一緒に帰ろうな」
「うん」
「それで……、僕も作ってみたんだよね」
照れくさそうに尾上は言った。
「その……、短歌……」
「へえ、すごいじゃん。見せてよ」
「これ……」
そう言って、尾上はテレビの下の引き出しからキャラクターのノートを取り出し手渡した。
「なんだ、案外かわいい趣味してんのな」
「意地悪言わないでください」
「今は俺の方が権力あるからな。はっは」
「もう」
好きな人の意外なところが見えると、人はより人を好きになる。でも「好き」にはいろいろあるから、これがどの「好き」なのかは今はまだ分からないけれど。

「『水を飲んだら汗が出るのに蒸気機関車ほど役に立ってない』」
「そう」
「これ、短歌か?」
「自由律短歌ってのがあって、五七五七五じゃなくてもいいんだって」
「へー。面白いな」
「でしょ」
尾上のいない学校は、温度がなかった。今までは温度なんてなかったのに、あの日、あの日尾上に原稿用紙を見られた日から日常に温度が生まれた。俺の顔に血が流れた。一度そのぬくもりを知ってしまったからか、いざなくなってしまうとその寂しさに呆然とした。
「今日、何日か分かる?」
「分かんない。病院にいると、日にちの感覚がなくなっちゃって」
「今日は30日。今月の、最後の日」
「ああ、もうそんな経ってたんだ」
「だから、宿題、出しに来た」
「どれどれ、見てしんぜよう」
尾上は腕を組みながら胸を張り眉毛をくいっと締めて偉そうにした。
「これ」
俺は、没にしたのがいくつも並んでいるルーズリーフを手渡した。
「何これ」
そう言って尾上は笑った。
「ばかじゃないの」
「まあ、そうかもな」
尾上はひとしきり笑った後急になぜか涙を流し始めて、目元を病院のパジャマの袖口で拭っていた。
「おい、大丈夫か! ナースコール押すか? それとも腹減った――」
ほんの一瞬の出来事だった。尾上の唇が、俺の頬に触れた。急なことすぎて、言葉が出なかった。
「ありがと。また一緒に、帰ろうね」
そう言って、尾上は今までで一番かわいく笑った。
「お、おう……」
その後のことはあんまり良く覚えていないけど、高校生だから許してほしい。なんて。



おわり。