「何しに来たんだよ。昨日のことでもからかいに来たのか」
「いや。誰にも言ってないですよ」
「本当に?」
「ほんとに。誰にも」
俺はじっと尾上の顔を見つめたが、きょとんとした顔をしている。目もまっすぐだ。これは嘘をついていない。
「それより先輩、今日一緒に帰りましょうよ」
部活の奴らしか友だちがいないので、こういう誘いはよく来る。
「ああ、いいよ。田中と小山もいるけどいい?」
「よくないです」
「なんで」
「二人で、帰りましょう!」
なぜか、尾上は少し照れていた。天然すぎる。
「男二人で帰って何話すんだよ」
「え? 何考えてるんすか?」
にやにや笑って、またこいつは俺の顔を赤らめた。
「このこのー」
人差し指で脇腹をつついてくる。ギャグセンスが古い。
「先輩、敏感なんすね」
「気持ち悪いことを言うなっ」
回れ右してベッド兼机に戻った。
「放課後、駐輪場で待ってますからね」
入り口の端から顔を出してにやにやしながらこっちを見ている。
「帰れ!」
机に転がった消しゴムを投げてやったが、すっとよけて綺麗に尾上はフェードアウトしていった。憎たらしい顔を残像として残して。
「芝崎、なんか顔赤くない? インフルじゃないよな」
「なわけあるか」
廊下へ出て水道で顔を洗った。どうやら顔が赤くなるのが癖になってしまったらしい。恐ろしいことだ。何かの病気かもしれない。
午後の授業も、いつも通り過ぎていった。放課後駐輪場に入った途中で初めて、今日は自主練の日になっていたはずだと気付いた。
「先輩、チコクっすよ、チコク」
尾上は自転車の前かごにもたれかかって、付けてもいない腕時計を指さしながらブーブー言った。
「チコクも何もサボリだろ、俺らは」
「じゃあ今から恋の自主練習、しちゃいますうー?」
腰をくねらせながら昔のハワイアンみたいなお色気ポーズを取ったので見てるこっちが恥ずかしかった。
「やめろ。行くぞ」
こいつ、こんなやつだっけ。
「はーい」
自転車に乗ろうとすると、尾上がいきなり俺の自転車のサドルを押さえた。
「あー、だめっすよお」
「何が」
「今日は自転車押して帰りましょ。ねっ」
「何でお前なんかと……」
「嫌なんですか?」
不思議そうな顔をして首をかしげた。
「いや、別に。てかお前そんなキャラだっけ」
「先輩だってこんなキャラじゃないくせに」
尾上は自分のバッグに手を入れると、中から昨日書いた俺の作文用紙を取り出した。
「げんかんのお~」
「やめろ!返せ!」
「やだよーん」
何でこいつが? 顧問が回収したはずだ。
「何でお前そんなの持ってんだよ」
「だってこんなの先生に見せたら、それこそ先輩のガラスのハートが粉々になっちゃうじゃないですか。思春期男子は繊細なんですから」
「キリッとした顔で言うなよ」
「だから、これは僕が預かっておきます」
「そんなの顧問が困るだろうが」
「いや、それはないっすよ。ろくに見ずにシュレッダーにかける用の箱に入れてたんで」
「はあ?」
本当にうちの顧問は顧問としてどうかしている。まあ、部員も部員なんだが。
「じゃ、行きますか」
「ああ、おう」
そう言って俺らは歩みを進めた。
「それで、げんかんのアレってどういう意味なんすか」
「『げんかんのアレ』って言うなよ」
勝手に落書きの呼称が決まってしまった。
「こないだ、現代文で短歌作らされたんだよ。それが割と面白かったからちょっと書いてみただけ」
「先輩、だめっすよ。質問に答えなきゃ。」
「はあ?」
「『どういう意味ですか』って聞かれたんだから『こういう意味です』って答えないと。だから夏休みの補習なんかに呼ばれるんじゃないですか?」
「何でそんなことお前が知ってんだよ」
「そんなんじゃ0点ですよ。0点」
「お前こそ俺の質問に答えろよ。はい、『あなたはどうして私が補習に行ったことを知ってるんですかあ』?」
「内緒の話はあのねのねー♪っと」
「なんだそれ」
「うちじいちゃんとばあちゃんしかいないんで、よくいろいろ吹き込まれるんすよねー」
ああ、そうか。こいつの家はちょっと複雑だったか。ちょっと変な空気になってしまった。なんか悪いこと聞いちゃったみたいになって、でも謝るのはそれはそれで違う気がする。
「先輩、僕の話聞いてます?」
尾上は下から俺の顔を見上げてきた。そうか、身長差30センチくらいあんのか。ちょっとどきっとした。こんな生意気な性格でも顔はちょっと女の子みたいな顔してるから、時々変な感覚になる。
「そんな先輩にはー、お仕置きです」
「なんだよそれ」
唐突に変な言葉を言うので声が裏返ってしまった。
「僕の話ちゃんと聞いてなかった罰として、今月末までに恋の短歌書いてきてください。もちろん、モデルは僕で」
「はあ?」
なんか、今まで見てきた尾上とは、みんなの中にいる時の尾上とはずいぶん違う。それに、恋の歌をこいつに宛てて、って。
「何でお前なんかへ恋の歌書かないといけないんだよ」
「だってこのくらい恥ずかしくないと、罰にならないじゃないですか。ほら、お仕置きとか言った瞬間からずっと顔赤くしてるし」
頬に手を当てなくても分かる。熱い。顔がパンパンになっている感じがする。
「先輩、ヘンタイなんじゃないですか?」
「うるさい!」
「ふふっ」
死ぬほど恥ずかしいが、やっぱりこいつの笑顔はいいなと思う。いつまでも笑っていてほしいな、って。
「あの短歌さ」
「はい」
「実際に起きたことじゃないんだけど、なんとなく浮かんだんだよね。会社から帰って、奥さんの前で泣き出しちゃう旦那さんっていうか」
「自分を投影してんじゃないですか」
「うるさい」
「乙女なんだからあ。ヒューヒュー」
口笛を鳴らしながら自転車のベルを鳴らして尾上が茶化す。
「まあ、そういう女々しいとこあんのかもな。男なのにかっこ悪いよな」
「別にいいんじゃないっすか」
意外な答えが返ってきて、俺は尾上の方を見た。
「芸術家って大体繊細な人が多いし、男とか女とか、今はもうそんな時代じゃないっていうか」
「そうかな……」
「そうっすよ。それに、家に帰って好きな人を見た瞬間泣いちゃうなんて、すごくかわいいじゃないですか。『袖口を濡らす』っていうのも『泣く』とかじゃないから余白があっていいし、『やだよね』って話し言葉になってるのがすごい家庭的な人なんだなってのが伝わってくるし」
「……尾上って、短歌好きなの?」
「別に。万年補習の先輩より頭がいいだけです」
「お前な」
「へへ」
「でも、そう思ってもらえるのは素直に嬉しい」
「うん。僕はそう思いましたよ」
「ありがと」
「はい」
そんな話をしていたら、もうこんな所まで来てしまった。行く先を気にせず歩いたのは久しぶりだ。
「あ、先輩家遠くないすか。大丈夫ですか」
「ああ、俺はいいけど……。おまえんちって、あっちの方じゃなかったっけ。大分遠いぞ。辺りも暗いし……」
「ああ、全然。いい筋トレっすよ。これを自主練って言い張ってもいいくらい」
「お前な」
呆れていると、照れくさそうに尾上は笑った。
「じゃあ、また明日」
「おう、気をつけてな」
そう言って、尾上は暗闇の中に消えていった。
そして、尾上はその日から学校に来ることはなくなった。
「いや。誰にも言ってないですよ」
「本当に?」
「ほんとに。誰にも」
俺はじっと尾上の顔を見つめたが、きょとんとした顔をしている。目もまっすぐだ。これは嘘をついていない。
「それより先輩、今日一緒に帰りましょうよ」
部活の奴らしか友だちがいないので、こういう誘いはよく来る。
「ああ、いいよ。田中と小山もいるけどいい?」
「よくないです」
「なんで」
「二人で、帰りましょう!」
なぜか、尾上は少し照れていた。天然すぎる。
「男二人で帰って何話すんだよ」
「え? 何考えてるんすか?」
にやにや笑って、またこいつは俺の顔を赤らめた。
「このこのー」
人差し指で脇腹をつついてくる。ギャグセンスが古い。
「先輩、敏感なんすね」
「気持ち悪いことを言うなっ」
回れ右してベッド兼机に戻った。
「放課後、駐輪場で待ってますからね」
入り口の端から顔を出してにやにやしながらこっちを見ている。
「帰れ!」
机に転がった消しゴムを投げてやったが、すっとよけて綺麗に尾上はフェードアウトしていった。憎たらしい顔を残像として残して。
「芝崎、なんか顔赤くない? インフルじゃないよな」
「なわけあるか」
廊下へ出て水道で顔を洗った。どうやら顔が赤くなるのが癖になってしまったらしい。恐ろしいことだ。何かの病気かもしれない。
午後の授業も、いつも通り過ぎていった。放課後駐輪場に入った途中で初めて、今日は自主練の日になっていたはずだと気付いた。
「先輩、チコクっすよ、チコク」
尾上は自転車の前かごにもたれかかって、付けてもいない腕時計を指さしながらブーブー言った。
「チコクも何もサボリだろ、俺らは」
「じゃあ今から恋の自主練習、しちゃいますうー?」
腰をくねらせながら昔のハワイアンみたいなお色気ポーズを取ったので見てるこっちが恥ずかしかった。
「やめろ。行くぞ」
こいつ、こんなやつだっけ。
「はーい」
自転車に乗ろうとすると、尾上がいきなり俺の自転車のサドルを押さえた。
「あー、だめっすよお」
「何が」
「今日は自転車押して帰りましょ。ねっ」
「何でお前なんかと……」
「嫌なんですか?」
不思議そうな顔をして首をかしげた。
「いや、別に。てかお前そんなキャラだっけ」
「先輩だってこんなキャラじゃないくせに」
尾上は自分のバッグに手を入れると、中から昨日書いた俺の作文用紙を取り出した。
「げんかんのお~」
「やめろ!返せ!」
「やだよーん」
何でこいつが? 顧問が回収したはずだ。
「何でお前そんなの持ってんだよ」
「だってこんなの先生に見せたら、それこそ先輩のガラスのハートが粉々になっちゃうじゃないですか。思春期男子は繊細なんですから」
「キリッとした顔で言うなよ」
「だから、これは僕が預かっておきます」
「そんなの顧問が困るだろうが」
「いや、それはないっすよ。ろくに見ずにシュレッダーにかける用の箱に入れてたんで」
「はあ?」
本当にうちの顧問は顧問としてどうかしている。まあ、部員も部員なんだが。
「じゃ、行きますか」
「ああ、おう」
そう言って俺らは歩みを進めた。
「それで、げんかんのアレってどういう意味なんすか」
「『げんかんのアレ』って言うなよ」
勝手に落書きの呼称が決まってしまった。
「こないだ、現代文で短歌作らされたんだよ。それが割と面白かったからちょっと書いてみただけ」
「先輩、だめっすよ。質問に答えなきゃ。」
「はあ?」
「『どういう意味ですか』って聞かれたんだから『こういう意味です』って答えないと。だから夏休みの補習なんかに呼ばれるんじゃないですか?」
「何でそんなことお前が知ってんだよ」
「そんなんじゃ0点ですよ。0点」
「お前こそ俺の質問に答えろよ。はい、『あなたはどうして私が補習に行ったことを知ってるんですかあ』?」
「内緒の話はあのねのねー♪っと」
「なんだそれ」
「うちじいちゃんとばあちゃんしかいないんで、よくいろいろ吹き込まれるんすよねー」
ああ、そうか。こいつの家はちょっと複雑だったか。ちょっと変な空気になってしまった。なんか悪いこと聞いちゃったみたいになって、でも謝るのはそれはそれで違う気がする。
「先輩、僕の話聞いてます?」
尾上は下から俺の顔を見上げてきた。そうか、身長差30センチくらいあんのか。ちょっとどきっとした。こんな生意気な性格でも顔はちょっと女の子みたいな顔してるから、時々変な感覚になる。
「そんな先輩にはー、お仕置きです」
「なんだよそれ」
唐突に変な言葉を言うので声が裏返ってしまった。
「僕の話ちゃんと聞いてなかった罰として、今月末までに恋の短歌書いてきてください。もちろん、モデルは僕で」
「はあ?」
なんか、今まで見てきた尾上とは、みんなの中にいる時の尾上とはずいぶん違う。それに、恋の歌をこいつに宛てて、って。
「何でお前なんかへ恋の歌書かないといけないんだよ」
「だってこのくらい恥ずかしくないと、罰にならないじゃないですか。ほら、お仕置きとか言った瞬間からずっと顔赤くしてるし」
頬に手を当てなくても分かる。熱い。顔がパンパンになっている感じがする。
「先輩、ヘンタイなんじゃないですか?」
「うるさい!」
「ふふっ」
死ぬほど恥ずかしいが、やっぱりこいつの笑顔はいいなと思う。いつまでも笑っていてほしいな、って。
「あの短歌さ」
「はい」
「実際に起きたことじゃないんだけど、なんとなく浮かんだんだよね。会社から帰って、奥さんの前で泣き出しちゃう旦那さんっていうか」
「自分を投影してんじゃないですか」
「うるさい」
「乙女なんだからあ。ヒューヒュー」
口笛を鳴らしながら自転車のベルを鳴らして尾上が茶化す。
「まあ、そういう女々しいとこあんのかもな。男なのにかっこ悪いよな」
「別にいいんじゃないっすか」
意外な答えが返ってきて、俺は尾上の方を見た。
「芸術家って大体繊細な人が多いし、男とか女とか、今はもうそんな時代じゃないっていうか」
「そうかな……」
「そうっすよ。それに、家に帰って好きな人を見た瞬間泣いちゃうなんて、すごくかわいいじゃないですか。『袖口を濡らす』っていうのも『泣く』とかじゃないから余白があっていいし、『やだよね』って話し言葉になってるのがすごい家庭的な人なんだなってのが伝わってくるし」
「……尾上って、短歌好きなの?」
「別に。万年補習の先輩より頭がいいだけです」
「お前な」
「へへ」
「でも、そう思ってもらえるのは素直に嬉しい」
「うん。僕はそう思いましたよ」
「ありがと」
「はい」
そんな話をしていたら、もうこんな所まで来てしまった。行く先を気にせず歩いたのは久しぶりだ。
「あ、先輩家遠くないすか。大丈夫ですか」
「ああ、俺はいいけど……。おまえんちって、あっちの方じゃなかったっけ。大分遠いぞ。辺りも暗いし……」
「ああ、全然。いい筋トレっすよ。これを自主練って言い張ってもいいくらい」
「お前な」
呆れていると、照れくさそうに尾上は笑った。
「じゃあ、また明日」
「おう、気をつけてな」
そう言って、尾上は暗闇の中に消えていった。
そして、尾上はその日から学校に来ることはなくなった。
