――じゃあ、さ。俺んち、来る?

 天川くんの差し出した手を握り返して、引かれるまま僕は彼の後ろを歩いていく。幸い、僕のスクールバッグには折りたたみ傘が入っており、二人で縮まりながらなるべく濡れないように帰路を歩いた。結局、僕たちの肩は濡れてしまった。

 天川くんに引かれて連れてこられた場所は少し高そうな、オートロック式のマンション。堂々としながら入って行く彼に、僕はおどおどしながら付いて行く。

(天川くんって……お金持ちの子だったりするのかな……?)

 なんて、余計なことを考えながら歩いていく。天川くんは僕の手を引きながら何を考えているんだろう。気にしたところで心の声が聞こえることは無い。


「どうぞ」

 彼に促されて着いた部屋は五階の一番右隅に在った。ピピッ、と鍵の開く音が聞こえて先に天川くんが入室する。彼はドアを開けたまま僕に入室を促した。僕は「ありがとう」とお礼を言いながら恐る恐る入室する。
 入ってみると、大人な雰囲気の部屋が現れる。天川くんの趣味だろうか? にしては落ち着き過ぎている気がする。
 それに、ご両親がここに住んでいるような気配は無い。かと言って一人暮らしをしているような感じでもない。僕は思考を巡らせながらリビングの入り口で立往生していた。

「……? どうした、そんなとこで立ったりして」
「え、いや、なんでもない」
「ふはっ。なんだそれ」

 いつの間にかいなくなっていた天川くんが背後から姿を現したので、少しだけビクついてしまった。多分お風呂場に寄っていたのだろう、天川くんの手には二枚タオルが持たれていた。
 天川くんは自分よりも先に僕にタオルを被せて、頭を拭き始める。ガシガシとしっかり目に僕の髪の毛に付いた水分を拭き取っていく。僕は下を向いたまま、なされるがままになっていた。

「結構しっかり濡れちゃったな。シャワーでごめんだけど、先に温まってきな?」
「え……? いいよ、僕は。天川くんが先に入りなよ」
「駄目だ。ほら、こんなにも冷え切ってるじゃないか」

 僕は天川くんに背中を押されながら半ば無理矢理お風呂場に連れて行かれた。
 タオル、シャンプー、リンス、ボディーソープなどのレクチャーを受けて「それじゃ、ごゆっくり!」と脱衣場のドアを閉められた。
 僕は渋々制服を脱ぎ、天川くんに言われるがままシャワーを借りることにした。

 時間にして十分ほどだろうか。他人の部屋でゆっくりするのは申し訳ないから、僕は早めにシャワーを切り上げる。
 脱衣場に出ると、目の前には見知らぬ服が置いてあった。制服はどこへ行ってしまったのだろうか。他に着るものが無いので、僕はその目の前にある服を着る。少しだけぶかぶかしていたので、きっと天川くんのものだろう。
 くそぅ……。僕は劣等感で胸がいっぱいになった。

「お、ちょっとぶかかったか? ごめん、服が無くて」

 リビングに向かうと天川くんが僕の制服を手持ちドライヤーで乾かしていた。そんな彼も部屋着だろう、私服に身を包んでいる。首元が(あら)わになっていて、目に毒だ。僕は思わず目を逸らした。

「……服、ありがとう。シャワーも……」
「ん。……そういえば、家のひとに遅くなるって連絡したか?」
「……え」
「帰りたくなくてもさ、一応はひとことでもいいから連絡しておけよ?」
「……大丈夫だよ……しなくたって」
「……そっか。……まあ、した方がいいとは思うけどな~」

 僕はなんだか叱られた気分になった。
 君は僕の何を知っているの? と、叫びたくなった。抑えられない気持ちを無理矢理心の中に押し込む。

 天川くんの動きが止まる。制服が乾き切ったのだろう。ハンガーに羽織らせて、そのままカーテンにあるハンガー掛けに掛ける。そして何かを思い出したのか僕に顔を向けた。僕は彼の顔を見る。

「あ、そうだ。今日兄貴帰ってくるの遅くなるらしいから、夕飯、冷蔵庫にあるもの勝手に食べてていいって。何かリクエストとかあったりする?」
「……特には」
「そっか! じゃあ何にしようかな~」

 天川くんは冷蔵庫の中身を確認している。
 そこで僕は合点がいった。そうか、ここは彼のお兄さんの家なんだ、と。

(仲、良いんだな……)

 正直、羨ましいと思った。兄弟でシェアハウスをしているなんて。家族仲が良いことが天川くんの話し方から感じられた。
 天川くんは悩んだ末、冷凍食品を持ってきて僕に見せた。

「これとこれだったら、奥村はどっちが食べたい?」

 天川くんが提示したのは野菜のたっぷり入った冷凍パスタと、香ばしさが自慢と書かれた冷凍チャーハンだった。僕は食べる気などなかったけれど、天川くんの『食べていくんだよね?』みたいな期待の眼差しに負けて「パスタ」と答える。天川くんは「りょーかい!」と笑顔になるとすぐに用意を始めた。
 手伝った方がいいんだろうけれど、優しくされることに慣れていない僕は、その場で動けずにいた。多分、優しくされることが恐いんだ。そう思うのは小さい頃の記憶の所為だろうか。彼の笑顔を見る度に胸が苦しくなる。
 ピロリン。不意に僕の携帯が鳴る。送り主は――母からだった。

〈どこにいますか〉

 たった、ひとこと書いてあるだけだった。

 僕は、どう答えればいいのか分からなかった。「今友達の家にいます」と答えればいいのか、「すぐに帰ります」と答えればいいのか。今の天川くんを見ているとどう答えればいいのか分からない。そもそも僕と彼は友達なのか? というネガティブな思考が頭の中をぐるぐると回る。喉が引き()る音がどこかで聞こえた。
 そこに「ごはんできたよ~」とタイミング悪く(・・・・・・・)天川くんが僕の目の前に頼んだパスタをテーブルに置きに来た。
 僕は今どんな表情をしていただろう。きっと、歪んでいたに違いない。だって――。

「……どうした、奥村?」

 天川くんが心配そうな顔をして僕を呼んだから。

「……っ」

 僕はどうしたらいいのか分からなくなって、思考がまとまらず焦ったまま母に〈すぐに帰ります〉とメールを打ち返し、そして干してある制服を勢いよくハンガーから取り外し玄関へと走った。「奥村⁉」と天川くんが僕のことを呼ぶ。僕は振り返らずに部屋のドアを開け外に出た。
 出た瞬間、誰かとぶつかったが今はそんなことを考えている余裕などなかった。僕は彼の服を返すことを忘れて、制服片手に(いま)だ止まない雨の道を、傘を差さずにひたすらに走った。
 雨は僕の頬を、ひと筋だけ濡らした。