君に伝えたい三つのこと

 とりあえず僕は、彼が落ち着いてゆっくりできる場所まで水族館の順路を進んでいく。
 少しして、【世界の水の中に暮らす生き物を見てみよう!】という特設会場の看板が見えた。その会場の入り口に丁度休めそうな休憩用の簡易ベンチを見つける。
 僕はそこまで天川くんを誘導して、ゆっくりと座らせる。彼の顔色は青かった。

(……貧血かな?)

 昼間は元気そうに見えたけれど、かといって、この間まで入院していたのだから、あんなにはしゃいでいたら体調を崩してしまっても不思議はないかもしれない。天川くんは口元に左手の甲を押し当てて意識するように息をしていた。

「……何か、発作とかじゃない?」

 僕がそう聞くと、天川くんはふるふると首を横に振った。それを聞いて少しだけ安心する。もしも発作だったなら、僕の手に負えないから。
 とにかく、今は飲み物を買ってこよう。「飲み物買ってくる」と天川くんに伝えると天川くんは小さく「ごめん」と言った。
 この時、僕は少し嬉しくなった。いつも大人びて余裕な彼に頼られて、勝った気がして。僕は小走りで、先ほどこのベンチに辿り着くまでに見つけた自販機の場所まで走った。
 自販機の種類を確認する。夏の所為もあって冷たいものしか入っていなかった。体調の悪いひとに冷たい飲み物はいいのだろうか……。どうしようか、と考えるより先に横に売店があるのを見つけたので、そこに常温の飲み物が無いかを尋ねてみる。店員さんは「ありますよ」と言ってくれたので、常温のお茶を買うことに成功した。


 なるべく急いでベンチに戻ると、天川くんは横になっていた。

(相当辛かったのかな)

 起こすのも悪いからと少し隙間が空いていた天川くんの頭上部分に腰を下ろす。座った瞬間、彼の肩がびくっと動いて勢いよく起き上がった。

「えっ」
「あ、奥村……。おかえり……」

 僕のことを認識すると、僕よりも当の本人が一番驚いたような表情をしていた。ひとつ欠伸(あくび)をすると固まった体を伸ばした。その顔色は先ほどよりも幾分かは良くなっていたのでほっとする。

「これ、常温だから」

 僕は買って来たお茶を天川くんに渡す。天川くんは少しだけ申し訳なさそうにしていた。

「ありがとう。あー、久々にきついの来たなぁ……。ごめん、不安にさせただろ」
「まあ……。でも発作とかじゃなくて安心した」
「それは俺も思った。発作だったら、どうしたらいいか分からないもんな」

 はは、と天川くんがいつもの顔で笑う。お茶を飲んだ彼を見て、先ほどまで感じていた不安は静かに無くなっていった。

「……本当はさ、克服しに来たんだ」
「……何の……?」
「水族館の」

 いったい、どういうことだろう。
 確かに、あの巨大な中央の水槽を見てから天川くんの具合は悪くなった。水族館の克服と聞いてパッと思い浮かんだのは、前に何かのテレビ番組で見た『海洋恐怖症』という言葉。海の中に吸い込まれてしまいそうになる感覚や溺れたことのトラウマなど、そういった海に関連するものに恐怖を感じるというものらしい。けれど、天川くんのそれはそういう感じでもなさそうだった。

「……水槽の中の魚を見てると、自分が手術台にいる時の感覚になって、苦手なんだ。海の生き物は好きなはずなのにな、どうしてか、水槽が見れないんだ」

 手術台(・・・)――その言葉を聞いて、僕の胸がきゅっと痛む。やっぱりそうだったんだ、と僕の中で痛みと共に腑に落ちた。
 きっと彼は重い病気を患っているんだ。それを誤魔化(ごまか)すように、いつも笑顔でいるのか。
 僕は思わず涙腺が緩んで、泣いてしまいそうになった。

「手術なんてもう十年以上も前のことなのにな。まだ慣れないんだよなぁ」
「そう、だったんだ」
「そ! はあ……。かっこ悪いなあ、俺! ……本当に奥村がいてくれて、よかった……」

 急に、天川くんの声が小さくなる。僕は少し心配になって彼の方を向くと、ふらりと体が傾いた。僕は思わず驚いたけれど咄嗟(とっさ)に彼の体を支えた。
 天川くんは――眠っていた。
 僕はとりあえず彼が起きるまで右肩で彼の頭を支えた。閉館間近まで眠りこけた彼は、案の定首を痛めたのだった。


「あーいてて……」
「あんな変な姿勢で寝こけるからだよ。しかも閉館時間ぎりぎりまで」
「いや~、ごめん! まさかあんなに疲れてるとは思わなくて!」

 天川くんは「あはは」と誤魔化しながら笑っていた。
 気づけば外は暗くなっており、辺りは街灯が灯り始めていた。

「遅くなっちゃったな。送るよ」
「大丈夫だよ。そこまで子供じゃないし。遅くなりそうかも、とは伝えてあるから」
「ん、そっか」

 最寄り駅に向かいながら、僕らは会話を続けた。
 今回のテストの出来はどうだったか。健は元気か。そんな他愛のない話を続けていく。
 終わりたくない、帰りたくない。そう思ってしまうほど、この時間が酷く愛おしいと感じた。

 ついに最寄り駅に着いてしまった。僕たちの家はそれぞれ反対の路線になるので、必然的に改札口で別れることになる。
 名残惜しい気持ちに蓋をして、僕は天川くんに振り返る。

「……じゃあ、また、学校で」
「うん。今日はありがとう、楽しかったよ」
「僕も……楽しかった」
「そっか! それはよかった!」

 気をつけて帰れよ~、と天川くんが反対側のホームに向かって行く。
 天川くんの力に少しでもなれた今日。ああ、案外こういう日も悪くないのかもと、彼の背中を視線で追いかけた。