魔物は真夜中にやって来る。
夜にその身を溶かし、大きな口を開けて、ぱっくりとその部屋ごと呑み込んでしまうのだ。
魔物は寂しくて寂しくて仕方ないから。
誰かに側にいてほしいから。
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「私の前にも現れてくれないかな、真夜中の魔物…」
時緖はぽつりと呟いて、側にいた猫のアトムに手を伸ばすも、ふいっとそっぽを向かれてしまう。だが、つれなく顔を逸らしながらも灰色のふわふわした尻尾で手の平を擽っていくものだから、そのツンデレ具合がなんとも愛らしく、沈んでいた気持ちも、ほっと和らぐようだった。
ここは、時緒がひとり暮らすアパートの一室。猫のアトムは、時緒が親しくしているアパートのお隣さん、アズという女性の飼い猫で、時折こうして時緒が預かっている。
どんな理由かは詳しく聞いていないが、アズも親戚から急遽アトムを引き取ったらしく、その為か、アズにはあまり懐いていないという。それでも時緒には随分懐いてくれているようで、ツンデレの性格故に分かりにくいところもあるが、初対面の時から自ら足にすり寄ってくれたりもして、猫好きの時緒には堪らない。
「ふふ、アトムは可愛いなぁ」
そう顔を綻ばせる時緒だが、アトムがもたらしてくれる心安らかな時間も束の間、その心はまたもや重暗い海に沈んでしまう。アトムが悪いのではない、どんなに愛らしいアトムの魅力があっても、背中から覆うようにぴたりと貼りついた記憶や感情は、簡単には剥がれてはくれない。飲み込まれた海の中は、いくらもがいてもその重たさが邪魔をして、ずるずると誰の手にも届かない場所へと時緒を引きずり込んでいく。
時緒には、寂しくて会いたくて、会いたいのに会いたくない人がいる。
こんな風に心を苦しめているのも、全ては彼のせい、憧れの、今は少し憎らしくもある恋しいあの人のせい。
勇気を出したばかりに現実を無視して夢を見た、バカな自分のせいだ。
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休日のこの日、時緒はちょっと勇気を出して、いや、頑張って勇気を出して、憧れの彼に会いに行こうと思い立った。
向かうは、近所にある渋い髭のマスターが営む“きこり”という名前の喫茶店、彼はその店に勤める店員で、月那という。
さらりとした灰色の髪、長めの前髪から覗く瞳は穏やかで、白いシャツに黒のズボンというシンプルな出で立ちが様になっている。
月那とは、店員と客としての何てことない世間話をする程度の関係だが、その会話の中で、定休日以外はほぼ店に出ていると聞いた事がある。因みに、店の定休日は水曜日だ。
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月那と出会ったきっかけは、仕事に向かう途中、店の前を通りかかった時のこと。着信を伝えるスマホを鞄の中から取り出す際、鞄の中身を道にばらまいた事があった。
その日は、いつもより遅く起きてしまい、時緒は身支度もそこそこに、慌てて家を飛び出した。そんな風に急いでいたせいで、出掛けに書類を挟んだファイルを適当に鞄へ突っ込んだのがいけなかったのだろう、鞄の中に手を入れて掴んでいたのはスマホだけなのに、その手に引っ掛かったファイルが財布やイヤホンまで引き連れ、鞄の外に落としてしまった。それを慌てて拾おうとすれば、更に鞄の中から手帳やポーチやらが落下し、そのポーチもチャックをしてなかったせいでメイク道具も散乱するという始末。しかも、着信を告げたスマホを見れば大事な要件などではなく、単なるショップからのお知らせだった。とことん、ついてない。それに朝の通勤時という人通りの多い時間帯、人目が気になって恥ずかしくて顔を上げられない中、とにかく急いで散乱した持ち物をかき集めていれば、「大丈夫ですか?」と、穏やかな低音が耳に届いた。
「す、すみません、」
そう顔を赤くしながら時緒が顔を上げれば、そこにいたのが、月那だった。
さらりとした灰色の髪が朝日に照らされて、きらきらと揺れている。前髪から覗く伏せられた瞳はどこか色っぽく、その整った容姿を持った青年に、時緒はまるでどこかの物語に入り込んでしまったのかと思った。
彼が異国の人に思えたからだろうか、流暢な日本語を聞いたばかりだというのに、なんだか自分とは違う世界の人のような気がしてしまう。
そんな風に思わず見惚れてしまえば、伏せられた瞳がぱっとこちらを見つめ、時緒はどきりと胸を跳ねさせた。

