「ちょっと……遅かったんだよね」
「……それって」
「僕が猫又修行に入ってから十日目かな。交通事故だったって。昔馴染みの野良猫が教えてくれたんだ」
「……そんな」
「僕もすぐには信じられなくて、僕たちの家へいってみたよ。でもそこにはもう、別の人が住んでいた。それでも信じたくなくて、事故現場へいってみたんだ。仲間の言葉が嘘で、本当はただ引っ越しただけかもとか思ってさ」
緩い上り坂の片側一車線の交差点だ。
事故があったのは吹雪の日だったという。ホワイトアウトで視界を失った乗用車が日向に気づけず轢き殺すのも大いにありうる環境だった。そして電柱の脇には色あせた花束も添えてあった。
なにより──日向の気配が残っていた。
そうか……そうなんだ──『日向は本当に交通事故に遭って死んじゃった』んだ。
僕は──なんのためにあんなに頑張ったんだろう。
すべては──日向に会うため。
日向の笑顔を見て、日向のそばにいて、日向と一緒にいるためだったのに。
日向と一緒に聞いた音楽、日向の膝の上の匂い、日向の柔らかい吐息。日向になぞられた背中の感覚。いまだって、いつだって、目に浮かぶのに。
それなのに──。
心春はギュッと猫店長を抱きしめる。
悔しくてこらえきれずに大粒の涙が猫店長の背中へ落ちた。
「……どうして泣くの?」
「だ、だって、猫店長がどんなに頑張ったのかって思ったら。それなのに間に合わなかったなんて。きっと──きっときっときっと、日向さんも残念だったよ」
猫店長は驚いたような顔をする。
「日向は幽霊の僕に気づけなかったんだよ。残念がるわけないよ」
「もう少し生きていれば猫又になった猫店長に会えた。それができなくて、『もしかしたら生きていたかもしれない』日向さんが残念がるのよ」
「心春、めちゃくちゃな理論だよ」と猫店長は笑った。でも、と声を落とす。
「……そうかな。日向は残念がってくれたかな」
「絶対に残念がってる」
そうかな、そうだよ、と繰り返し、「だったらいいな」と猫店長はくしゃりとヒゲをたらした。その姿にたまらず心春はカウンターテーブルから猫店長を抱きあげた。そのままギュッと抱きしめて、そして自分の膝の上へのせる。
「相変わらず心春は強引だなあ」
いいつつも猫店長はゴロゴロと喉を鳴らした。心春はそっと猫店長の背中を撫でる。柔らかい毛並の感触。心地よさだけでなく、話を聞いたあとは切なさと愛しさがこみあげる。
猫又修行がどんなものかはわからない。それでもきっとそりゃあもうがむしゃらにやって来たに違いない。自慢なんてほどんどしない猫店長が、胸を張って『頑張った』っていうくらいに──。
どれくらいそうしていただろう。
猫店長がスヤスヤと心春の膝で寝入った頃だった。
不意に声が聞こえた。
「北国で野良猫が暮らすのって大変なんですよ」
ギョッとして振り返る。店玄関扉そばで、茶トラ猫が心春へ顔を向けていた。とっさに他へも視線を向けたけれど、誰もいないし音が出るものも見当たらない。とすると?
「……あなたも話せるの?」
「おいらも猫又ですから」
ほら、と茶トラ猫は心春へしっぽを見せた。二つに分かれている。
「本当だ。あなたも猫又修行を頑張ったのね」
「……驚かないんですね。おいらのことも、兄ィのことも」
「本当よね。驚きすぎて感覚が麻痺しているのかも。それに世の中ってわかんないことだらけだもの。仕事のことだって、本当にわかんないことだらけだし。だから猫又が人間と共存していても、わたしが知らなかっただけで、そういうものだったのかもしれないし」
ははっ、と茶トラ猫が薄く笑った。
「……なるほど。さすがですね」
「なにが?」
「兄ィが執着するだけはあるなって」
「どういう意味?」
「そういうことは食いつくんですね」
冷ややかに告げられて心春は続けようとした言葉を飲み込む。
「……あらためて、おいらは又治っていいます。兄ィとは生前からよくしてもらっています」
「ひょっとして猫店長がいっていた『昔馴染みの野良猫』さん?」
ええまあ、と又治は言葉を濁す。猫店長が『昔馴染みの野良猫』とよそよそしいいいかたをしたのが気に食わなかったらしい。
「……あなたもこの街で生まれ育ったのなら、雪の多いこの北国で野良猫が生きていくのってすっごく大変なのを知っていますよね。民家の軒下にいたらどっかり雪が降って外に出られなくなったり、キタキツネとの縄張りバトルもあるし、除雪車に巻き込まれるなんてこともザラです」
想像をして心春は、ヒッと身を縮める。
「当時はまだ子猫だったおいらは、兄ィに助けられてなんとか生きていました。兄ィは日向さんと暮らしはじめてからも、ときどきはこっそり外へ出てきておいらたちの面倒を見てくれていたんです。兄ィが猫又になって戻ってきて、おいらもそれに習って猫又になろうって思った。兄ィみたいになりたかったから」
だけど、と又治は声のトーンを落とす。
「………猫又修行って、想像をはるかに超えて大変だった。途中でリタイアする奴は続出だし、中には闇落ちして化け猫になって、仲間に退治されるやつもいた。その中、兄ィは半分の期間で修了してのけたんですよ。バケモノですよ。ありえない。ただひたすらに日向さんに会うために」
又治はしっかりと心春の目をみて強調する。
「馬鹿なくらいに一途なんです。わかってますか?」
「そ、そうなんだね」
相槌を打ちながら、なんだかムッとする。どうしてわたしに念押しをするんだろう。
猫店長が大事なのは日向さん。お前じゃない──そういいたいのかな。そんなこと……猫店長の話を聞いたときにわかったのに。
「……それで猫店長はどうして変身できなくなっちゃったのかな。又治さん、同じ猫又なら病気かどうか、わかるでしょう? どうしたらいいと思う?」
又治は、はあああ、と盛大なため息をつく。話を変えた心春が気に入らなかったらしい。それでも又治はボソリと続けた。
「『変身』ってすごく猫妖力を使うんです。おいらはそんなことに力を使いたくないから猫スタイルです」
「じゃあ、猫店長は猫妖力が落ちているってこと? 変身できなくても、もうちょっと元気にはなって欲しいなあ。どうしたら力は回復するの?」
「そうですね。兄ィの努力が報われるとか? ほら、どんなに頑張っても報われなければ心は削られますし」
「そっか。そうだよね。猫店長はここでどんな努力をしていたのかなあ。わたしにできることはないかな」
「……どうでしょうね」
「そういえば、わたし以外に客はいない、って猫店長はいっていたわ。それって経営の危機でしょ。ビラ配りとかどうかな。それならわたしにもできるし──」
ぷはっ、と又治が笑い出した。
「な、なに? なにか変なことをいったかな?」
「いっそあなたがとんでもない悪女だったならなあ。そうしたらおいらも執着せずに、兄ィも救われるのに」
……なにそれ。どういうこと? 心春は大きく首をかしげる。又治はそれっきり口を閉ざした。まるでしゃべっていたのが嘘みたいに普通の猫のように目を閉じて丸くうずくまる。
謎はますます深まるばかりだった。
「……それって」
「僕が猫又修行に入ってから十日目かな。交通事故だったって。昔馴染みの野良猫が教えてくれたんだ」
「……そんな」
「僕もすぐには信じられなくて、僕たちの家へいってみたよ。でもそこにはもう、別の人が住んでいた。それでも信じたくなくて、事故現場へいってみたんだ。仲間の言葉が嘘で、本当はただ引っ越しただけかもとか思ってさ」
緩い上り坂の片側一車線の交差点だ。
事故があったのは吹雪の日だったという。ホワイトアウトで視界を失った乗用車が日向に気づけず轢き殺すのも大いにありうる環境だった。そして電柱の脇には色あせた花束も添えてあった。
なにより──日向の気配が残っていた。
そうか……そうなんだ──『日向は本当に交通事故に遭って死んじゃった』んだ。
僕は──なんのためにあんなに頑張ったんだろう。
すべては──日向に会うため。
日向の笑顔を見て、日向のそばにいて、日向と一緒にいるためだったのに。
日向と一緒に聞いた音楽、日向の膝の上の匂い、日向の柔らかい吐息。日向になぞられた背中の感覚。いまだって、いつだって、目に浮かぶのに。
それなのに──。
心春はギュッと猫店長を抱きしめる。
悔しくてこらえきれずに大粒の涙が猫店長の背中へ落ちた。
「……どうして泣くの?」
「だ、だって、猫店長がどんなに頑張ったのかって思ったら。それなのに間に合わなかったなんて。きっと──きっときっときっと、日向さんも残念だったよ」
猫店長は驚いたような顔をする。
「日向は幽霊の僕に気づけなかったんだよ。残念がるわけないよ」
「もう少し生きていれば猫又になった猫店長に会えた。それができなくて、『もしかしたら生きていたかもしれない』日向さんが残念がるのよ」
「心春、めちゃくちゃな理論だよ」と猫店長は笑った。でも、と声を落とす。
「……そうかな。日向は残念がってくれたかな」
「絶対に残念がってる」
そうかな、そうだよ、と繰り返し、「だったらいいな」と猫店長はくしゃりとヒゲをたらした。その姿にたまらず心春はカウンターテーブルから猫店長を抱きあげた。そのままギュッと抱きしめて、そして自分の膝の上へのせる。
「相変わらず心春は強引だなあ」
いいつつも猫店長はゴロゴロと喉を鳴らした。心春はそっと猫店長の背中を撫でる。柔らかい毛並の感触。心地よさだけでなく、話を聞いたあとは切なさと愛しさがこみあげる。
猫又修行がどんなものかはわからない。それでもきっとそりゃあもうがむしゃらにやって来たに違いない。自慢なんてほどんどしない猫店長が、胸を張って『頑張った』っていうくらいに──。
どれくらいそうしていただろう。
猫店長がスヤスヤと心春の膝で寝入った頃だった。
不意に声が聞こえた。
「北国で野良猫が暮らすのって大変なんですよ」
ギョッとして振り返る。店玄関扉そばで、茶トラ猫が心春へ顔を向けていた。とっさに他へも視線を向けたけれど、誰もいないし音が出るものも見当たらない。とすると?
「……あなたも話せるの?」
「おいらも猫又ですから」
ほら、と茶トラ猫は心春へしっぽを見せた。二つに分かれている。
「本当だ。あなたも猫又修行を頑張ったのね」
「……驚かないんですね。おいらのことも、兄ィのことも」
「本当よね。驚きすぎて感覚が麻痺しているのかも。それに世の中ってわかんないことだらけだもの。仕事のことだって、本当にわかんないことだらけだし。だから猫又が人間と共存していても、わたしが知らなかっただけで、そういうものだったのかもしれないし」
ははっ、と茶トラ猫が薄く笑った。
「……なるほど。さすがですね」
「なにが?」
「兄ィが執着するだけはあるなって」
「どういう意味?」
「そういうことは食いつくんですね」
冷ややかに告げられて心春は続けようとした言葉を飲み込む。
「……あらためて、おいらは又治っていいます。兄ィとは生前からよくしてもらっています」
「ひょっとして猫店長がいっていた『昔馴染みの野良猫』さん?」
ええまあ、と又治は言葉を濁す。猫店長が『昔馴染みの野良猫』とよそよそしいいいかたをしたのが気に食わなかったらしい。
「……あなたもこの街で生まれ育ったのなら、雪の多いこの北国で野良猫が生きていくのってすっごく大変なのを知っていますよね。民家の軒下にいたらどっかり雪が降って外に出られなくなったり、キタキツネとの縄張りバトルもあるし、除雪車に巻き込まれるなんてこともザラです」
想像をして心春は、ヒッと身を縮める。
「当時はまだ子猫だったおいらは、兄ィに助けられてなんとか生きていました。兄ィは日向さんと暮らしはじめてからも、ときどきはこっそり外へ出てきておいらたちの面倒を見てくれていたんです。兄ィが猫又になって戻ってきて、おいらもそれに習って猫又になろうって思った。兄ィみたいになりたかったから」
だけど、と又治は声のトーンを落とす。
「………猫又修行って、想像をはるかに超えて大変だった。途中でリタイアする奴は続出だし、中には闇落ちして化け猫になって、仲間に退治されるやつもいた。その中、兄ィは半分の期間で修了してのけたんですよ。バケモノですよ。ありえない。ただひたすらに日向さんに会うために」
又治はしっかりと心春の目をみて強調する。
「馬鹿なくらいに一途なんです。わかってますか?」
「そ、そうなんだね」
相槌を打ちながら、なんだかムッとする。どうしてわたしに念押しをするんだろう。
猫店長が大事なのは日向さん。お前じゃない──そういいたいのかな。そんなこと……猫店長の話を聞いたときにわかったのに。
「……それで猫店長はどうして変身できなくなっちゃったのかな。又治さん、同じ猫又なら病気かどうか、わかるでしょう? どうしたらいいと思う?」
又治は、はあああ、と盛大なため息をつく。話を変えた心春が気に入らなかったらしい。それでも又治はボソリと続けた。
「『変身』ってすごく猫妖力を使うんです。おいらはそんなことに力を使いたくないから猫スタイルです」
「じゃあ、猫店長は猫妖力が落ちているってこと? 変身できなくても、もうちょっと元気にはなって欲しいなあ。どうしたら力は回復するの?」
「そうですね。兄ィの努力が報われるとか? ほら、どんなに頑張っても報われなければ心は削られますし」
「そっか。そうだよね。猫店長はここでどんな努力をしていたのかなあ。わたしにできることはないかな」
「……どうでしょうね」
「そういえば、わたし以外に客はいない、って猫店長はいっていたわ。それって経営の危機でしょ。ビラ配りとかどうかな。それならわたしにもできるし──」
ぷはっ、と又治が笑い出した。
「な、なに? なにか変なことをいったかな?」
「いっそあなたがとんでもない悪女だったならなあ。そうしたらおいらも執着せずに、兄ィも救われるのに」
……なにそれ。どういうこと? 心春は大きく首をかしげる。又治はそれっきり口を閉ざした。まるでしゃべっていたのが嘘みたいに普通の猫のように目を閉じて丸くうずくまる。
謎はますます深まるばかりだった。

