猫店長が変身できなくなって、何日もたった。

 どうしよう。どうしたらいいんだろう。
 やっぱりどこか具合が悪いんだよね。なにか薬とかないかな。猫に効く薬ってどんなのだろう。あ、でも普通の猫のでいいのかな? それに『変身できない』症状に効く薬ってなんだろう。……普通に考えて、そんなものないよね?

「待って待って枝幸さん、それシュレッダーにかけちゃ駄目なやつっ」

 紋別の声に、心春は我に返った。
 いままさに、部局事務へ提出しようとしていた科研費補助金年度明け立替申請書類だった。「うひゃあ」と心春は思わず、シュレッダーから飛びのいた。
 ……あぶない。わたし、なんてことを。心臓がバクバクして、手まで震える。
 その心春に「枝幸さーん」と斜里が声を飛ばした。

「このポット、なんだか変な音を立てていますけど、枝幸さん、なにかしましたか?」

 ハッと顔をあげる。しまった。お湯が少なくなってきたからつぎ足そうとしていてそのままだった。
 あわててポットの注ぎ口を開けようとして「あちっ」と手を引っ込める。見ていた斜里が「危ないです」とポットから電源コードをはずす。

「火傷していませんか? 大丈夫ですか?」
「冷やした方がいいな。斜里くん、そこの布巾を流しで濡らしてきて」

 斜里に加えて紋別まで血相を変えた。「あ、いえ大丈夫ですから」と恐縮するけれど、あつあつの湯気をもろにかぶった右手がジンジンと痛む。
 意外なほどに紋別と斜里が「十分はこれで冷やした方がいいです」、「ほら、こっちの椅子に座って」と世話を焼いてくれる。

「どうしたんですか? なんだか最近ぼんやりしていますよね。なにかあったんですか?」
「昨日も自販機の前でぼんやりしていましたよね。ウチの自販機ってそんなに悩むほど種類はないですよ? どうしたんですか?」

 わたし、そんなことをしていた? まったく身に覚えがない。そしてそれをずっと見られていたんだ。うわ……いたたまれない。
 はああ、と大きく息をはいて、「実は」といいかけ、ハタととどまる。
 二人になんていうつもり? 猫店長のことが心配で仕事が手につかない? そうしたらきっとなにが心配なのかって返されるわよね。わたしはそれに「変身できなくなったんです」って返すの? それをいっても大丈夫? 
 心春はそっと二人を見る。二人は黙り込んだ心春を心配そうな顔つきで見ていた。

「えっとその……仲良くしている猫がいるんですけど。その猫の調子が悪くて。心配で。なにかできるかなって」
「枝幸さん、猫を飼っているんですか?」
「あ、いえ、ウチの猫じゃなくて」
「野良猫?」
「野良、ではないです」
「お友だちの猫?」
「……カフェの猫です」
「だったらカフェの人が病院へ連れていきますよ」
 
 ──そのカフェの人、当人なんです、とはいえない。
 
「それとももう連れていったんですか?」
「病院へいっても具合が悪そうなんですか?」

 口々に続けられて。あ、えっと、とうろたえる。そうか、そうだよね、そうなるよね。

「評判のいい動物病院とか、詳しい人に聞いてみましょうか」
「あ、いえ、そこまでは」

 言葉を交わすほどに思い知らされる。
 猫店長は──普通じゃない。
 変身ができて、人間の言葉を話す。
 そんな猫は見たことがない。

 そんな猫店長のことを赤の他人に話すのは──やっぱりマズい。
 
「あ、あの、ありがとうございました。お話を聞いてくださって嬉しかったです」

 では、と心春は強引に話を切り上げ、自分の椅子へと駆け戻った。
 眉がさがる。
 胸がバクバクしていた。いまさらながらに自分がいかに奇妙なことをしているのかに思い至った。
 どうしてわたしはこんなに『普通じゃない』猫店長をすんなり受け入れられたんだろう。